中学校時代

 

 

天文好きが高じて中学生になると雑誌「子供の科学」や誠文堂新光社刊、野尻抱影氏の「ギリシャ神話」などを読むほどのめり込み、ロケット工学者になるのも悪くないとも思いはじめた。アルミ製の鉛筆キャップにセルロイドの下敷きをナイフで削って入れて潰し、ダルマ・ストーブの上に置くとしばらくするとシューと飛ぶ。ロケットと同じ原理だ。何回かトライしたが、セルロイドを入れすぎてもうまく飛ばない。キャップに残る空気との絶妙なバランスが必要ということはわかった。

後年、前間氏の著書で、「子供の科学」は戦時中川西航空機(後の新明和)で「紫電改」や「二式大艇」の設計主任をした菊原静雄氏が同僚と印刷所を経営して月5万部発行していたものだと知る。よい雑誌であった。また野尻抱影氏は実は大仏次郎氏の兄だと知ることになる。

黒色火薬を作ろうとおもったが、木炭はあっても硝石や硫黄が無い。そこでマッチ棒の先をほぐして粉とし、マッチ箱のスリ面から粉を削り取ってまぶして紙に包み、金床に載せハンマーで叩いたところ凄い衝撃でハンマーがも少しで手から離れて飛ぶところであった。以後、黒色火薬作りに挑戦はしまいとひそかに心に誓った。こんなものでロケットは飛ぶはずもない。たちまち爆発してしまうだろう。

中学の理科の松木先生が理科の授業で火炎瓶を作ろうと提案したことがある。先生が着火材に使うのだといって硝石と砂糖を乳鉢に入れて教壇の上で、ゴリゴリと乳棒で磨り潰しはじめた。と突然、乳鉢から火炎が天井に向かって激しくジェット噴射した 。先生も生徒もビックリ。呆然とこの火炎をみつめること数秒、幸い量が多くなかったので数秒間で燃え尽きた。火炎は間違いなく天井を舐めたにもかかわらず、天井に燃え移ることはなく、ススの跡さえつかなかった。砂糖が完全燃焼したためであろう。硝石、硫黄、木炭を混ぜれば黒色火薬になるのだから無理もない。硝石は硝酸カリであるからこれら分解してできた酸素で砂糖が激しく燃えたわけである。

先生は硝石と砂糖はやさしく混ぜるだけにして試験管にそっといれて,コルクで栓をした。サイダー瓶に少量の硫酸をそそぎ込み、残りの空間にガソリンを8割方詰め た。試験管を浮かべて火炎瓶数本が完成した。皆で校庭の隅に掘った大きなゴミ捨て場に移動し、この火炎瓶を底にあった石に向け投げつけると瓶と試験管が割れ、 硝石と砂糖と硫酸とガソリンが混ざって見事に発火し、ゴミにも燃え移って、よく燃えた。今から考えると想像もつかないのびのびとした教育をうけたものだ。

ある日の午後、理科室でこの先生に呼び止められ「君は頭もよいし、将来伸びると思うので、がんばれよ」と励まされた。この先生の言葉が自分の才能に自信を持つ契機となったわけで感謝している。成績も全校2番になった。いつも1番は別のクラスの金子昌代という 毛糸屋の女の子であった。後に奈良女子大を卒業してLH-RHというペプチドホルモンの研究者の妻になっていると聞いている。いまだに女性にかなわないとおもうのはこの後遺症だろうか?

同じ村の小学校から矢沢君と行きも帰りも一緒であった。雪の積った田んぼの真中を通る道で雪のボールを投げ合ったり、帰りはチョーク1本で何メートル直線が描けるか、塀や土蔵の壁に白線を引いて帰ったりした。この矢沢君に最近、45名のクラスのうち、男子9名が進学校の北高、女子8名が西高に進学し、他クラスを圧倒したと指摘された。クラス担任の故北村淳夫先生はクリスチャンで生徒に質問を浴びせ、興味や疑問を持つように誘導し、自ら調べ、学ばせるという理想的な教育をして下さった。多分その成果だとおもわれる。

北村淳夫先生が徴兵で支那に出征し、一日行軍して疲れたとき地元の支那人の主婦から腹がすいただろうと饅頭をもらった。中身は野菜のようだった。しかし塩味がほとんどしない。そこで初めて海から遠い大陸内部では塩は貴重品で少ししか使えないのだと悟った話をしてくれた。いまでも忘れられない。

Mとスーチンは互いに親友であった。スーチンはMの兄が買いためた「子供の科学」を読みたくてMの家にきては読破していたそうだ。Mは文系のためそんなものには興味がない。お互い一言も交わさず一日が過ぎたそうである。Mは1回だけスーチンの家に訪ねた。巨大な長屋門の外から声をかけると借家人がでてきて玄関までゆかなければ聞こえないよといわれたそうである。スーチンの家は不動産業を営んでいたため裕福で大邸宅を構えていたのだ。二人は宿題の夏休みの日記を書かずに、ということは日記を持たずに登校した。そして北村敦夫先生に家に忘れてきましたと嘘を言った。先生は忘れたのなら家に戻ってもってきなさいと言われた。やむをえず二人そろってMの家に戻り、二人で半日かけて書き上げて学校に戻ると先生は黙って受け取ったという。早退してきた子を見て親はビックリするし、学校に戻ると3つの授業が終わっていたそうである。

北村淳夫先生や松木先生は恩師と思っていたが、一年の時のクラス担当だった「ウス」は教師の風上にも置けぬ人だったと最近、Mから聞いた。習字担当で顔が臼ソックリだったからこういうあだ名がついたそうだ。彼のいやな思い出の一つはクラスで好きな人と嫌いな人の名を書いて先生に提出せよといわれたこと。嫌いな人としては誰も書かず提出したところ、「クラスにいた在日のKは嫌いではないのか」と聞かれたという。これでこの先生はおかしな人だと思ったそうだ。もう一つの逸話はMが急に私に振り向いたとき、そばにいた私がおどろいて身を捩ったため、ひじが窓ガラスに当たりガラス1枚にヒビをいれてしまった。二人そろって先生のところに行き正直にあやまったところ、悪ふざけをしたんだろうと大変しかられたそうである。事情を説明しても納得してくれなかったという。私には記憶がないが、幾ら説明しても理解してもらえないという悪夢をみることがある。もしかしたらこのときのトラウマが残っているのかもしれない。

在日のKがふざけて廊下で組み付いてきたとき、とっさに本で見知っていた柔道の体落としをかけてみた。ところが見事に空を描いてKが廊下に大の字に 伸びてビックリして見上げている。以後私はKの親分ということになった。彼がバイクで砂利道をぶっ飛ばす時に付き合わなければならないのがその代償であった。そのKが成人に達するころ、彼はよきパートナーを得て社交ダンスでは一流になったという。北朝鮮の宣伝に惑わされて新潟港から北朝鮮に渡ったという。同級生が駅に見送ったが社交ダンスのパートナーが泣きながら見送ったのが忘れられないという。そのKは向こうで病死した。

Mと知子は中央通りを挟んで向きあうところに住み、おさななじみだ。知子は面食いで全ての縁談を断り続けた。母親は今度も確実に断るだろうと思っていたそうだが、知子はフロックコートを着た相手の足元をみたときかっこいいと魅力を感じたそうである。この勘は当たっていてその後、夫は流通業で成功し、財を築いた。

Mは関西の大学に進学したときに野尻抱影氏の講演を聴きに芦屋まで出かけたことがあるという。子供のころは天文学者になりたいと思ったこともあたっためだろうと述懐している。

後年、NHKの技師になった4つ年上の従兄弟が無線に強く、自分で無線機をくみたててアマ無線を楽しんでいた。彼に影響されて鉱石ラジオから本式の電蓄まで一通り組み立ててみた。鉱石ラジオは鉱石の場所によって感度が変わるので面白かった。ちょうどこの頃、鉱石より優れているダイオードというものが売り出され、買った覚えがある。断面が正六角形、太さ4mm、長さ4cm位のプラスティックの筒の両端からリード線が出ているものだ。筒の表面に東通工と印字されていた。ソニーの前身の会社である。

電蓄はスーパーヘテロダインの中間周波増幅部をもち、2A3という大型の3極菅を2本使うプッシュプル回路による低周波増幅部を持つものを組み立てた。当時はまだモノラルの時代だが、入力と出力トランスを従えた堂々たる仕組みだった。トランジスタ時代になって真空管は消えてしまったが、マニアは今でも中国やロシアで製造される2A3を使ってアンプを作るなどしているらしい。わたしの組み立てたものはスピーカーがたいしたものでなかったのか、音はいまいちだった。真空管を使う本格的ラジオは配線図通りにハンダ付けするだけだから面白くない。すぐ飽きてしまった。

物理学者ファインマンの自伝「ご冗談でしょう、ファインマンさん」を紐解くとラジオをいじくりまわす少年時代がでてくるが、おなじようなことをしていたのだとうれしくなる。

ところである夏の昼下がり昼寝しながら自作の鉱石ラジオでNHKの討論番組をなにげなく聞いていたときある論者が「人間の男と女も他の動物と同じことをして子孫を残す」というのを聞き忽然となぞだったことをさとって興奮したことがある。犬や猫の公然たる行動、飼っていたヤギに子をもうけさせてミルクを横取りするためにはまずかけ合せなければならないこと、となりの「さっちゃん」と遊んでいて体の構造がちがうことは知っていたが。自らのことととして認識していなかったのだ。親も学校も読んできた本もそういうことは教えてはくれなかった。 後年息子がサンタクロースの存在を素直に信じているのを発見して驚いたことがあるが、人間の認識なんてそんなものだ。

高学年になるとカメラに興味をもった、父の蛇腹、乾板式カメラで写真を撮影し、暗室で乾板の現像、定着。同じカメラを使った自作引き伸ばし器での印画紙へのポジ画像の焼付け、現像、定着などすべて自前で楽しんだ。

川端中学は学区整理で 南部中学との合併により櫻ヶ岡中学校になってしまったが、同じ場所にある。クラスメートで一緒に北高に進学した在京の仲間であるマー、コンチャン、クリサンの三君とWakwak山歩会を結成して毎月登山を楽しんでいる。

December 21, 2004

Rev. March 13, 2010

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