高校時代

 

 

そうこうしているうちにめでたく地元の名門高校に入ることができた。この高校は旧制中学時代から通算すれば親子3代がかよったことになる。声が通るからと従兄弟に放送部にスカウトされ、アナウンサーをしていたが、これも時間に拘束されるし、あまり面白くないのでやめてしまった。

伯父が海軍のパイロットだったこともあり、航空機のパイロットになりたいという思いがあったが、近視になって諦めた。 そもそも伯父が海軍兵学校にはいったのも、突発的な雪のため、北信で唯一の旧制松本高校を受験できなかったためなのだ。

先生や役人という人種には魅力を感ずることはできず、もの作りを本業とするエンジニアが向いているのではと思い定め、親の財政的負担能力を勘案してどこかの国立大学の工学部に浪人せずにもぐりこめばよいとねらいをつけた。しかし専門を何にしたいかわからない。土屋敬一という友人に誘われ、とりあえず専攻を決めないでも入学させてくれる東北大学を受験することにした。 試験成績から判断すれば浪人しないで合格できそうだというのも理由の一つだった。そしてめでたく現役で合格し、仙台に出向いた。いい学校につれていってくれた土屋君には今でも感謝している。彼は電気を専攻して国鉄に入り、後、東北電力で風車発電の専門家になった。

1年9組のクラス担当は数学担当の矢島先生だった。先生は山好きで戸隠山登山につれていってもらったのは忘れられない思い出となっている。2-3年次のクラス担任は国語の故池田茂登先生でよく伊勢物語の筒井筒の話をしてくださった。

昔、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとにいでて遊びけるを、おとなになりにければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思う。 女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども、聞かでなむありける。さて、この隣の男のもとより、かくなむ、

      
筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに

女、返し、

   
くらべこし 振り分け髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき

など言ひ言ひて、つひに本意のごとくあひにけり。

先生は藤原不比等の40数代の後裔で、松平といったが、藤原忠平のおとどから忠平となり、結婚で池田となったそうである。引退後は庭に小川が流れ、野草の花が咲き乱れる京都市北区上賀茂の”ならがわ山荘みたらし庵”に住んでおられた。 先生は毎年”歌会始め”応募2作品を年賀状で送ってくださった。いくつか書き留めておいた晩年の作品を紹介しよう。

   ふるさとに帰れば即ち産土の森の杜に詣づるならひ・・・1991


   我が歳九十を過ぎぬ然れどもわが行く道のかがやきとあり・・・1998


   我が庭を高くおほへる青空にはなやぎ咲ける合歓の紫・・・1999

高校時代の同期生は多士済々である。2004年の文芸春秋の同級生交歓に登場した最高裁判所判事の才口千、劇作家の別役実、山階鳥類研究所長山岸哲、昭和医大医学部教授の出浦照国、平塚市民病院長の宮沢直人、前中野市長の綿貫隆らは同窓会「北ラス会」の常連である。山岸哲を囲む探鳥会にも参加して旧交をあたためている。この縁で山階鳥類研究所の維持会員になって紀宮清子内親王殿下の論文など読ませてもらっている。

高等学校同窓会40周記念文集原稿「センチメンタルジャーニー」

December 25, 2004

Rev. March 13, 2010

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