ヨーロッパ滞在顛末 16


接見 27/11/01

ぼくは慌てた。初めて生身の人間が電話に出たのだ(って、そのために電話をかけてたはずなのだけど)。
とにかく部屋を見せてもらわなければ。部屋を探しているので見せて欲しい、とつっかかりながらも云うと、彼女はあっけなく「判ったわ。いつがいいですか?」と訊いてきた。
じゃあ明日にでも見たいです。「明日? OK。午前に来れますか?」はい。では何時頃に? 10時とかですか?
それから彼女が喋った内容はよく判らなかったが、とにかくもう少し遅いほうがいいらしい。結局10時半に決まった。

部屋に戻ってからぼくはケルンの地図を広げて、今日電話に出てくれた彼女の住所を確かめた。Lohnskotter Weg……と。これか。うわ。もう北の市境に近いな、こりゃ。もうここから先はすぐ森になっちゃうじゃないの。どんなところだ、一体…

翌日、6月5日、火曜日。ぼくは語学学校を休んで、それまで全然乗ったことのない路線の市電に乗って、ライン右岸のケルン市北端を目指した。まずラインを渡ること自体が、ぼくには珍しかった。
市電を2回乗り換えて、目的地の駅に近づくにつれて、次第にただごとでなく緑が多くなってくる。これはもう純然たる林だなぁ… うわ、広大な原っぱが、ひらけちゃいましたよ… 私は今からどこに住もうとしてるんでしょう… ぼくは心の中で呟いていた。

目指す駅の手前から再び閑静な住宅地が広がってきた。あぁよかった。別に野中の一軒家という訳ではなかったんだ。

地図に従って指定の住所の家に辿り着き、入口でKさんの部屋の呼び鈴を押す。ドアの鍵が解錠されたので、中に入って階段を登っていくと、3階で小柄なショートカットの女性がドアを開けて待っていた。
「ハロー。どうぞ入って下さい」促されてぼくは部屋に入る。「そこに荷物を置いて座って? コーヒー飲む?」とてもハキハキして感じのいい人だ。

部屋はこの建物の最上階、いわゆる Dachgeschoss(屋階)にあって、窓側の天井は屋根のラインに沿って斜めになっている。居間のソファに落ち着いて、コーヒーを飲みながらひとしきり出身やドイツに来た時期や今までの境遇とかについて少し話した。しょっちゅう聞き直されるし、こちらも向こうが喋ることを全部は解らないけども、何とか辛うじて意志疎通した。

「じゃあ部屋の中を見て下さい。まずこちらが台所」彼女に導かれて台所の方へ行く。電熱プレートが三つ、それとオーブントースター、冷蔵庫。食器棚は小振りのものが二つある。
「こっちは浴室」結構大きめの浴槽がある。それと洗面台とトイレ。浴槽の上は居間と反対側の屋根に面していて、やはり天井が斜めになっているが、そこに天窓がついている。ぼくはこの窓を見て、かなり気に入った。
「それとここが物置」1畳ほどのスペースがあって、洗濯物や日用品が棚に貯蔵してある。これで終わりだ。全部で40平方メートルくらいの1Kということになる。十分じゃないか?

「どうですか?」「うん、すばらしいです。窓からの景色も綺麗だし。気に入りました」率直に感想を云ったら彼女は少し笑った。気に入った、てのは変だったかな? 「そうね、そこから先は森だから、景色はいいわね。200メートルも歩けばもう森に入れるんです。夏はよく散歩に行きます」

何だか見れば見るほどこの部屋が魅力的なものに思えてきた。いずれにせよもう半ば決めるつもりで出てきたので、ここを気に入ることができてぼくは幸せだった。
それからぼくたちは家賃の交渉に入った。Mitwohnzentrale でもらった情報では月800マルク(約46,000円)となっていたが、他に電気水道代として39マルク必要らしい。ケルン市内としてはそれほど安い物件ではないようだが、東京で住むことを考えたら渋ったら殴られそうな条件だと、その時のぼくは思った。何しろ市域のはじっこと云っても、市内中心には30分で出られるんだし。

「他に何か訊きたいことは?」うーん、家具はどうなるんですか?「家具は自由に使っていいです。この洋服ダンスと、ソファ、テーブル、机、冷蔵庫、食器棚。テレビとステレオは持っていきたいんだけど、いい?」もちろんOKです。あとコンピュータを電話に繋ぎたいんですけど、電話は?「電話はこの回線をそのまま使って下さい。使用料は月々払ってね」はい。ちょっと電話線のコネクタを見てもいいですか?「どうぞ、こっちです」コネクタは日本で買ってきたモジュラのアダプタをつければよい形のものだった。

ぼくは云った。「何も問題ないです。完璧です。ここを借りたいのですが」
「OK? よかった。じゃ7月の1日から住めますけど、荷物はその数日前から入れてもいいですよ」ぼくが入った後はどこへ行かれるんですか? 「4週間……へ旅行に行って、それから帰った後はヴッパータールの両親と一緒に住みます」え? どこへ旅行に?「トルコへ」トルコ。あなたはトルコの人なんですか?「そうよ」
それで初めて気がついた。確かに彼女の部屋の内装は少しエキゾチックな感じがした。見ると天井近くの壁にはコーランの額さえ飾ってある。でもドイツ語がとても流暢だし、格好がとてもカジュアルなパンツ・ルックだったので、全然予想しなかったのだ。

ともあれ来週また会って本契約をすることを決めて、ぼくは弾む気持ちで新居になるはずの部屋を後にした。

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