ヨーロッパ滞在顛末 14


開始 27/06/01

そう、当初はもともと自分で部屋を探すつもりではいたのだ。ただ、学校で紹介されてトントン拍子に何とか暮らせる状態になってしまったものだから、「部屋を探す」ということが何を意味するのかが、すとんと頭から抜け落ちていたのだ。やばい。このままでは、また宿無しになってホテル暮らしに逆戻りになってしまう。5月もあと1週間ほどで終わる。1ヶ月のうちに部屋を見つけないと。。。

うまいことに、日本の実家の近くには、親の知人で少し日本語の話せるドイツの人がいた。その人に予め聞いていたのは、ケルン近辺なら、Mitwohnzentrale という情報センターで賃貸住宅の情報を入手できるということだった。
その事務所は、中央駅の裏、ドームと反対側に面していた。それは既に駅のホームから見つけていて、知っていた。あそこに行かなきゃいけないな……

ドイツで住居を探すときの最も一般的な方法は、新聞に住居募集の広告を載せることだ。新聞に載ると、貸したい人から直接連絡が来て交渉が始まり、家賃や敷金などのいろいろな条件を検討して決めるわけだ。それは知識として知ってはいたが、そんな芸当がスラスラ出来るようだったら、初めから語学学校なんか行かない。そう考える私は甘いでしょうか?

5月29日、火曜日。授業が昼に終わった後、中央駅に出て、事務所に足を運ぶ。Ich suche ein Zimmer zu mieten. それさえ云えれば、あとは何とか続いて行くはず……
カウンタにはずんぐりした兄ちゃんが座っていた。用件を云うと、申込用紙をくれながら何か云ってくるけど、あ、速い。全然お手上げ。英語にシフトしてもらっても、まだ半分くらいしか解らないくらい速く喋る。グズつくと相手はだんだん苛立ってくる。
いいや。とにかくこのフォームに全部記入して持ってくればいいんでしょ。そう思って早々にその日は退散。パスポートとクレジットカードを持ってくること、と。

やっぱりハンバーガー屋で喰うものを注文するのとはわけが違うなぁ。コトがコトなだけに、そういい加減にも済ませられないし。それにしても、語学学校の先生って、あれでも相当ゆっくり喋ってくれてたんだなぁ、と改めて実感する。

それから部屋に帰って、辞書首っ引きでフォームに記入する。期間は7月から2002年の3月まで。ワンルーム以上のアパート。家具つき。少しは市の中心から離れてもいい。月額最高1200マルクまで。こんなとこかな。

翌日の水曜に、Mitwohnzentrale の事務所を再訪。昨日と同じ兄ちゃんだ。電話中のようなので、カウンタ正面の壁の籐椅子に座って待つ。……おいおい、客が目の前に来てんだから、新しく電話かけるのはやめなさいよ。ったく…
こちらが声をかけるまで応対をしないらしいことが判ったので、3件目の電話が終わった後に間髪入れず「こんちは、これお願いします」とフォームを出す。すると手元の端末で調べてくれた。物件をプリントアウトした紙が2枚渡される。合わせて6件。「……That's all?」「Yah, that's all.」

あっそ。どれどれ……何これ。全然期間の短い物件ばっかりじゃないの。6月から9月まで。7月から11月まで。来年の3月までいさせてもらえるのは2件しかないぞ。こんなもんなの? どちらもちょっと遠そうだなぁ…

でまぁ、何はさておき、次に私はどうすればいいんでしょう。尋ねると彼はあまりに流暢な英語で説明してくれる。途中で「解ってる?」と訊いてくるので、「あんまりちゃんと解ってません。もう少しゆっくりお願いします」答えるとウンザリした顔をして単語を一つ一つ並べ直すやり方に変える。《ゆっくり話せば解る》ってことは解ってもらえないのかなぁ。

とにかく状況が判ったあと、ぼくの目の前にはまた一つの新しいパニックが転がっていた。
ここから先はぼくが自分自身で貸し主に電話して交渉するらしい。アポを取って部屋を見たあと、貸し主との合意が取れたら、もう一度ここにその旨を知らせると、渡したクレジットカードの番号から、一月分の家賃と同じ金額が、何回かに分割されて仲介料として引き落とされるとのこと。つまり、やることは新聞を使ったときとそう変わらないわけだ……

その夜ぼくは部屋で、電話口で喋る台本を作成した。

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