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厩戸王子跡~信達一ノ瀬王子跡~馬目王子(大阪終わり) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<厩戸王子跡> 一岡神社の境内の裏を塀に沿って田圃や畑のあぜ道を歩いていくと厩戸王子跡の碑につく。史跡の説明には、 厩戸王子には1201年(建仁元年)年10月7日、後鳥羽上皇が参られ、信達宿の戸御所に宿泊されたとある。そしてここで和歌会を開いている。 10月5日に出発して、ここ厩戸王子で3日目である。 このころ後鳥羽上皇の和歌への関心がいよいよ高まり、定家を同行させて和歌を楽しんだのだろう。 しかしおつきの人々は疲れ果てたことは想像に難くない。 厩戸王子は、別に馬戸王子・馬留王子・筆王子とも呼ばれていたようである。 馬留という名は、古道では後2カ所あるが、急坂が近くにあり、宿をとるところから、そう呼ばれているようである。 熊野三山への参詣の道すがら、険しい道のりを超えるため馬を留め宿を取り、明日の備えたのであろう。 この王子は、第一の窪津王子から数えて17番目の王子神社にあたるという。 しかしこの掲示板はいただけない。 昭和46年に西律先生が調査した折りもこの看板である。 もう30年くらいそのままである。 形のいい木製の掲示板はありがたいが、表面を削るなどして書き直し、何とか読みやすいものに替えてほしいと思う。板を新しいものにして字を書けば済むと思うのだが。 周囲の景色が大阪では珍しくきれいなところなので、ぜひ整備してほしい。 大阪の王子跡は不明なところが多い。 都市化が進んでいるため致し方ないところだが、古道歩きをするものにとっては、手応えがない。 <本 陣> 本陣とは江戸時代、街道の宿場に置かれた大名・公家・幕府役人など、えらい人々の宿泊所である。 起源は1363年(正平18・貞治2)年、室町幕府2代将軍足利義詮が上洛の時、その旅宿を本陣と称して宿札を掲げたのに始まるという。 おもに街道の山越え・渡し・分岐点に設けられ、特に参勤交代の往復にその職能を発揮した。 熊野古道沿いには、市場の本陣のほか岡中・中小路・北野に臨時宿泊所が設けられ、紀州公の参勤交代路として幕末まで続いていたが、明治維新で幕府・大名の保護を失い、1870(明治3)年に廃止された。 和歌山県でも大和街道沿いに本陣があり、その周辺は街道の風情を今も残している。 この本陣も素晴らしい建物で、さらに周辺の建物も趣のあるいい家屋ばかりである。 この周辺は、本陣だけではなくさくら屋、もみじ屋といった宿屋も軒を連ね、かつての熊野詣でが盛んであった頃の面影を残している。 こうした歴史街道はきっちりと残しておいてほしいと思うが、今ではもう無理なことなのであろうか? 信達本陣跡を抜け、1km程行くと和泉砂川駅近くになり、往生院というお寺がある。 小さいがよく手入れされたお寺である。 次の王子信達一ノ瀬王子跡は、往生院を過ぎて緩やかな坂を登ってすぐである。 町並みはきれいで、古い建物が多く夏の暑さを忘れさせてくれた。 どこかのおうちにの庭に、サルスベリがきれいに咲いていた。
<信達一ノ瀬王子跡> 信達一ノ瀬王子跡は、往生院から少し歩いたところにあり、馬頭観音を祀っている。 境内はあっさりしている。 また、周辺はブロック塀に囲われているが、どうも味気ない。 うっかりすると見過ごしてしまう。 境内には説明板もないので、ここが歴史街道の王子跡ということも忘れ去られてしまうのではなかろうか? このあたりの坂道は、定家の『熊野御幸記』によると、建仁元年(1201年)10月8日に、 「天晴る 払暁道に出でて 信達一ノ瀬の王子に参ず 又坂の中において祓 次で地蔵堂の王子に参ず 次でウハ目の王子に参ず」 とある。 私たちは、この坂道を直進せず、「左あたご道」と道標にある林昌寺に向かった。 これらの道標は下5分の1ほどが埋もれてしまっている。 工事をした人のセンスが疑われる。
<林昌寺・長岡王子跡> 躑躅山林昌寺は、45代聖武天皇の勅願により行基により開かれた名刹である。 もともとの山号は、温泉山であったが、73代堀川天皇が行幸した際、山躑躅が見事であったので山号を躑躅にしたという。 私は、うかつにも予備知識もなく、寺に入り字を見たとき、「髑髏(どくろ)」とまちがった。 えらくおどろおどろしい名前だなと思ったら、「躑躅(つつじ)」であった。 一安心するとともに、自分の識字レベルを恥ずかしく思った。 創建時には威容を誇っていた大伽藍は、信長の攻めに塵芥に帰してしまったという。 信長は、こんな寺まで焼いたのか。 現在の建物は、江戸時代に入ってから建立されたものという。 先の往生院とともに京都仁和寺を総本山とする真言宗御室派に属し、泉州地方の弘法大師信仰の中心として知られている。永禄8年2月28日長崎温泉(雲仙)山の修験僧祐海上人が、この地の海岸から不動明王の縁日である28日に渡海したという。そのくだりは、山門の脇に建つ「補陀洛渡海碑」に記録されている。 境内には、法林の庭や、鎮守愛宕権現社がある。 またいろいろな地蔵さんが、それを寄進、建立した人の名前を書いて建っている。 この愛宕山を中心にした一帯を、「長岡王子」であるという。 信長も攻めたというこの寺の境内は、想像以上に大きく僧たちの力も強かったのだろう。 林昌寺を出て左にルートをとると、田園風景が拡がり、お百姓さんが暑い中を忙しそうに作業をしていた。 田の切れるところに岡中の鎮守社がある。 このころから、古道は線路や高速道路に囲まれて、南へと進む。
<岡中鎮守社・山中宿> 林昌寺境内の愛宕山南西麓の岡中鎮守社には、小さな祠と素晴らしい楠がある。 府の天然記念物であるが、樹齢500年以上で、張った根がその歴史を感じさせる。 同行した一人が、楠の幹に体を当てていると、悪病を取り払ってくれると言って、背中をその幹に当てていた。 樟脳や肩こり薬の原料は楠であり、大木の霊気により病気も治るかもしれない。 ただ祠は手入れが悪く、使わない碁盤や山車の屋根が無造作に捨ておかれていた。 パニックにならなければ、こうした鎮守の森の有り難さが分からないのだろうか。 井戸と祠があれば、パニック時の避難所にできるのだが。 神戸の教訓を活かして、普段からきちんと整備をしておいてほしいと思う。 <波太神社遙拝鳥居> 古道を進み、JR和泉鳥取駅近くに来ると波太神社遙拝鳥居が建っている。 往事にはここから波太神社を伏し拝んだのであろうか。 波太神社は、式内社で日根郡鳥取郷の総社であったが、現在は阪南市石田に鎮座している。古道の脇にはいろいろな顔をした地蔵さんがある。 この地蔵さんたちの歴史などを調べても面白いかもしれない。 <山中宿・山中渓> 山中宿はかつて雄の山峠越えの宿場町として栄えたところである。 山中宿集落の入り口には、紀州街道としてタイルできれいに舗装され、周辺の町並みもかなり保存されている。 こうした歴史的建造物などの説明を読むと、歴史的に古いものをやたら権威づけようとして、表現に難しい言葉を使ったり、言葉にならないものが多々ある。 人々が営々と生きてきた証を、忘れないようにするためのものであり、それには権威付けや理屈は要らない。誰にでも分かるような平易な文章で、正しく歴史を伝えることが大切である。
<馬目王子・山中渓> 道の中程に山中神社がある。 以前歩いた折りにはこの案内板はなかった気がする。庄屋屋敷の斜め前の細い路地の奥に神社はある。 八王子と馬目王子の社がある。 八王子神のお祀りしているのは、本地十一面観音という。このあたりが少しややこしい。そういえば熊野三山(新宮、本宮、那智)の本尊も仏様である。 山中宿を抜け坂道を進むと、大阪と和歌山の府県境がある。県境には境橋という小さな橋が架かっているが、そこが文久3年(1863年)に土佐藩士が父の敵である元の同藩士を斬殺したといわれるところである。日本最後の仇討ちの場として知られている。 以前は小さなわびしい立て札が掛かっているだけであったが、今は立派な碑が建っている。しかし、最後の仇討ちの場としては、高野山がある。少しややこしい。 腹が立ったのは、以前この碑が建ったときは、まわりは何もなく、碑が際だっていたが、今回訪れたときは、不粋な金網で囲われていた。信じられない。 お役所の方々のセンスはこういうものかと少し残念に思った。この金網はなくても橋脚は十分に保護できるのに、わざわざお金をかけて見苦しくしている。夏になって葛や雑草が金網を覆うまで待たなければならないのか。 この碑を撮ってから、この境橋を阪和線の鉄橋の下から撮りに行ったのだが、鉄橋の下で誰かがウンチをしていて、ぐっしゃりと踏んでしまった。前を流れる川で靴を洗った(クソ!!) この橋を渡るといよいよ和歌山である。和歌山最初の王子社跡はもうすぐである。 2011年3月6日に再訪したが、街道筋はかなりグレードアップされていた。 案内板などはそれほど変わっていないが、馬目王子跡などはきれいに整備されわかりやすくなっていた。 この街道筋の歴史を伝えるべく、少しづつでも動き出しているのを見るのはうれしい。 以前歩いたときは単に歩いただけであったがこうしてゆっくりと歩くと新しい発見がある。
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