本名=宇野格次郎(うの・かくじろう)
明治24年7月26日—昭和36年9月21日
享年70歳(文徳院全誉貫道浩章居士)
東京都台東区松が谷1丁目4-3 広大寺(浄土宗)
小説家。福岡県生。早稲田大学中退。大正8年『文章世界』に『蔵の中』を発表。つづいて『苦の世界』を『解放』に発表、新進作家として認められた。一時精神を病んだが、昭和8年『枯木のある風景』で甦った。『子を貸し屋』『枯野の夢』『子の来歴』『夢の通ひ路』『器用貧乏』『思ひ川』などがある。

その時分の或る日、三重次が、二人の間に何か思ひあまったやうな話が交されてゐた途中で、「……先生は、いったい、なにが一ばん好きなのです、」と聞いたとき、牧は、すぐ、はつきりと、「それは、……やつぱり『文学』だ、」と答へた。すると、三重次は、その牧の答へがをはるのと殆んど同時に、声は低かつたが、鋭い真剣な調子で、「そのつぎは……」と促すやうに云った。そこで、牧は、ちよと云ひしぶつたが、やがて、「……そのつぎは、……母、……」と云つた。と、三重次は、「そんなら、あたしは、三ばんめ、……」と、しまひの方はやつと聞きとれるほどの低い声で、云つて、深く俯いてしまつた。
さて、その一ばん好きな『文学』のなかで、『最上』のものと思つてゐる『小説』が、しだいに書けないやうな気もちがしだした事は、自分が『小説』の方から離れてゆくのか、『小説』の方から自分を見放したのであらうか、といふやな不安が、(はつきり、意識しないとしても、)おこり出したのは、大形にいふと、文学を、『生活』とも、ふだんに考へてゐる牧に、いひやうのない『不安』を感じさせた。
(思ひ川)
〈作家というものは、貧・病・女の三つを味わなければ一人前ではない。〉と伝えられている宇野浩二の生涯は、愛人と妻の板挟みに悩み、芥川龍之介の自殺と前後して精神に変調をきたした彼の『苦の世界』を彷彿とさせるものがある。
愛憎に関わった女性は枚挙にはいとまがない。商人の妾・加代子、銘酒屋の伊沢きみ子、芸者鮎子、姐芸者小竹(村田キヌ)、女給星野玉子、芸者村上八重らがいたが、妻となったキヌは昭和21年に病死。浩二は36年9月21日に肺結核のため自宅で死去した。彼の告別式で、友人の広津和郎は〈彼には土俵際にきて相手をうっちゃるような強さがあった。〉と追悼の言葉を贈った。その後、星野玉子は38年に、村上八重は41年にそれぞれ病死した。
精神を病んだ7年間の療養の後、文壇復帰を果たした宇野浩二は、なお一層、純文学一途に打ち込んだ。あれほど多くの女性と関わりながら「自分にとっては一に文学、二に母親、三に恋愛だ」といってはばからず、友人とあっても文学の話しかしなかったというし、自ら呼称し呼称された「文学の鬼」の墓は、江戸の匂いがほのかに残る浅草の広大寺にある。
寒椿の生け垣がある参道をすりぬけ、立ち入った塋域はビルのガラス窓と民家に囲まれている。時代を経た古色の墓石の間に、女文字のような弱々しい筆刻の「宇野家之墓」が建つ。タイル張りの床道が本堂の屋根越しに差し込んでくる冬の冷たく低い陽ざしを眩しそうに反射して、この墓地の碑面すべてを柔らかに照らし出していた。
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