宇野千代 うの・ちよ(1897—1996)


 

本名=宇野千代(うの・ちよ)
明治30年11月28日—平成8年6月10日 
享年98歳(謙恕院釈尼千瑛)❖薄桜忌 
山口県岩国市川西2丁目1–10 教蓮寺(浄土真宗)
東京都港区南青山2丁目26=38 梅窓院(浄土宗)



小説家。山口県生。岩国高等女学校(現・岩国高等学校)卒。大正6年上京、本郷の料理店で給仕のアルバイトの間に芥川龍之介らを知る。結婚して札幌に移り、10年『脂粉の顔』が懸賞小説一等当選。離婚して尾崎士郎と同棲以後、東郷青児・北原武夫らと同棲・結婚を繰り返し、恋多き作家といわれた。『色ざんげ』『おはん』などがある。



 岩国市・教蓮寺の墓

 南青山・梅窓院の墓


 

 あれはいつ頃のことであったろう。私の仕事になっていた着物をつくることが、だんだんと忙しくなって、そのために人を入れたりするようになったので、私の住んでいる棟には、もう私の寝るところもないようになった。良人の住んでいる別棟の、廊下のようになった板敷の濡れ縁をへだてて、四畳ほどの離れがあった。その離れに、夜の間だけ私の眠る場所を作ることになったときのことを、私はいまでも思い出す。
 夜、私は狭い庭を通って、その離れまで行くのであった。良人はいま仕事をしている。私は良人の部屋の、灯のついた、明るい窓のすぐそとの軒さきを歩き乍ら、のちには何の気もなく、通り馴れたところを歩くようにして行くのであつたが、しかし、離れの寝床に横になって、眠るまでの短い間、良人のいるところから聞えて来る紙をめくる徴かな音、しわぶきの声などが、すぐ間近に、呼吸を伝えるように近く聞えて来るのであった。それはつい昨日のことのように思われる。いま、この部屋でのことと同じように、良人はすぐ唐紙をへだてたところで仕事をし、私は先に眠っている。声をかけることは良人の仕事を妨げると分ってい乍ら、ときどき呼んだりしたこともあった。あの遠い昔の、平穏な生活と、何と言うそれ違いであったろう。しかし私は、そのことを思い比べたりは決してしなかった。良人と適度に離れて暮すのが習憤であった私は、いま濡れ縁一つへだてたところに眠ってい乍ら、良人の気配のすぐ間近に感じられることに、やがて馴れ、また新しい安らぎを得たような気になるのであった。
 人間の感情くらい不思議なものがあるだろうか。私は自分のこの思いを、極く自然に、ちょうどそれは水が低いところにしたがって流れるように、馴致したのであった。或いは、自分が好んでそれをしたと言うことで、私の苦悩は殆どなかったと言って好い。人には信じられないかも知れないが、それでもなお、私の生活は平穏であった。
                                                         
 
(刺 す)

 


 

 郷里岩国から出奔以来、尾崎士郎や東郷青児、北原武夫などと幾多の恋愛、結婚遍歴を経てきたことだろう。着物デザイナーという肩書きもある。ファッション雑誌『スタイル』を創刊・編集したこともあった。その時その時に全力を傾けた。哲学者アランの〈世にも幸福な人間とは、やりかけた仕事に基づいてのみ考えを進めて行く人のことであろう〉という言葉を好んだ。
 〈自分を不幸な女と考えないように、いつでも自分を幸福だと思うように工夫をして〉奔放多彩に生きた。晩年は〈この頃、何だか私、死なないような気がするんですよ〉とうそぶいてもいたのだが、平成8年6月10日午後4時15分、急性肺炎のため東京都港区の病院で天寿を全うして悠々と逝った。 



 

 近くを流れる錦川のわずか上流には日本三大奇橋に数えられる木造アーチ型の錦帯橋がある。薄もやに包まれた早朝、生家からほど近いこの寺に建つ「宇野千代之墓」。露に濡れた碑の天辺にまもなく輝くような幸福が訪れようとしている。
 千代の命日は〈薄桜忌〉と名付けられ、季節には墓の右手に移植された岐阜県根尾村(現・本巣市)の薄墨の桜が華麗な花を咲かせるのだろう。千代の小説『おはん』に描かれたあの臥龍橋の下に流れる錦川の懐かしく、切なく、愛おしい水音を聞きながら、満開のその花びらを透かして、かつては憎み嫌ったであろう故郷の空を、幸せに充ちてどこまでも突き抜けた故郷の空を、いつまでも飽かずに見上げつづけているのであろうか。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


    植草甚一

   上田 敏

   上田三四二

   臼井吉見

   内田百閒

   内田魯庵

   内村鑑三

   宇野浩二

   宇野千代

   梅崎春生

   海野十三