上田三四二 うえだ・みよじ(1923—1989)


 

本名=上田三四二(うえだ・みよじ)
大正12年7月21日—平成元年1月8日 
享年65歳 
埼玉県所沢市北原町980 所沢聖地霊園63区4側39



歌人・評論家。兵庫県生。京都帝国大学卒。昭和30年『黙契』で歌人として出発後、次第に文芸批評を手がけ、『斎藤茂吉論』で『群像』新人文学賞、『湧井』で迢空賞、『うつしみ−この内なる自然』で平林たい子文学賞を受賞。『遊行』『この世この生』『惜身命』『祝婚』などがある。






 

 線香の煙があたりに流れた。水に洗われた墓石は表情を取り戻すかのようだった。水は並んで彫られた二つの戒名の窪みにも流れた。黄に赤をまじえた花はあたりの墓にもみな供えられたので、一帯が華やいだ。六人の大人と一つの小さな影は、一仕事終えた感じにそこにしばらく佇んだ。
 いま立っている地の下に、父と母が埋められている、という想像は慰藉にとおかった。掘りかえして、父母に会えるのなら会いたいが、骨を抱いて、それが父母だという気持にはなれない。それでもやはり、墓はないよりはある方がよいのだろう。来世を信じることの出来ない私のようなものでも、そこに父母の墓があるということで、そしてその墓を守ってくれる生家があるということで、何となく安心したような気になる。
 『では、お前の場合はどうなのか。』そう自問する。自問して、答が用意されているとはいえない。わかっているのは、自分がこの故郷の墓地に還ってくることはないという一事だけだ。
 父母に会いたい気持からすればそこにいっしょに眠るのがかたちとしては落着くが、死んであとがないとする私の理解からは、それは意味がない。何処で眠ろうと、また何処にも眠る場所を持たないでも---それでは後に残った家族が困るのでいずれは何処かで眠ることになるだろうが死後のことはどうでもよいとするのが私の気持だ。葬式なども、出来ることならやらないでいたい。死んだ顔を人に見せることもしたくない。それでいて骨だけは、にぎやかに拾ってもらいたい気持があるから矛盾している。骨はもう自分ではないからだろうか。本のように二次的な自分にちかいからだろうか。しかし本のように、骨も残しておきたいという気持はない。
                                                            

(故 山)

 


 

 医師として国立療養所東京病院に勤務していた42歳のとき結腸がんの手術を受けた。〈たすからぬ病と知りしひと夜経てわれよりも妻の十年老いたり〉——。
 以来、再発の不安から鋭敏に研ぎ澄まされたその感性、感覚、思想はいっそう研ぎ澄まされ、「魂の浄化」を目指す短歌は、揺るぎなく「死」を包み「生」を浸した。
 〈死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日一日はいづみ〉、一瞬の生、永遠の死。後の世を夢と比し、無を想う澄明な「死生観」を主題として多くの作品を著していった。
 18年後の昭和59年、前立腺を因とする二度目の大手術をへて「定命」を悟るが、なおも月日を得て、平成元年1月8日、大腸がんのため、その「定命」を観じる者となった。



 

 郊外の白々とした霊園は、新興住宅地のように区画統一され、展示会から選び出されたような真新しい碑が余裕を持った塋域を形づくっている。背後を囲む無造作な樹林は空に稜線をなし、夥しい碑は一斉に天を目指している。
 「たまものの生」を成熟させた三四二の遺言に〈葬式はするな。お墓に戒名は刻むな。〉とあったが、確かに後生を信じられなかった三四二の碑「上田三四二/妻露子之墓」に戒名は無い。妻「露子」の文字に朱を射して光に正対する碑の主に、恐ろしいほどの早さで時は循環し、「回帰」は興ったか。それとも、やはり時に期待する妄想の産物であったろうか。
 ——〈くるしみの身の洞いでてやすらへと神の言葉もきこゆべくなりぬ〉。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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