本名=奥村 明(おくむら・はる)
明治19年2月10日—昭和46年5月24日
享年85歳(明媼之命)❖らいてう忌
神奈川県川崎市多摩区南生田8丁目1–1 春秋苑墓地中7区2–21
社会運動家・評論家。東京府生。日本女子大学卒。戦前と戦後に亘る女性運動の先駆者。明治44年雑誌『青鞜』を創刊し、戦後は主に反戦・平和運動に参加した。『女性の言葉』『雲・草・人』、自伝『元始、女性は太陽であった』などがある。

元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。
さてここに『青踏』は初声を上げた。
現代の日本の女性の頭脳と手によって始めてできた『青踏』は初声を上げた。
女性のなすことは今はただ嘲りの笑いを招くばかりである。
私はよく知っている、嘲りの笑いの下に隠れたるあるものを。
そして私は少しも恐れない。
しかし、どうしよう女性みずからがみずからの上にさらに新たにした差恥と汚辱の惨ましさを。
女性とはかくも嘔吐に価するものだろうか、
否々、真正の人とは—
私どもは今日の女性としてできるだけのことをした。心の総てを尽してそして産み上げた子供がこの『青踏』なのだ。よし、それは低能児だろうが、奇形児だろうが、早生児だろうが仕方がない、しぱらくこれで満足すぺきだ、と。
果して心の総てを尽したろうか。ああ、誰か、誰か満足しよう。
私はここに、さらにより多くの不満足を女性みずからの上に新たにした。
(元祖、女性は太陽であった—『青踏』発刊に際して—)
明治41年3月、雪が舞う塩原温泉の尾頭峠をさまよう男と女があった。心中を企てた森田草平と奥村明22歳。明の遺書に〈我が生涯の体系を貫徹す、われは我がCauseによって、斃れしなり、他人の犯す所に非ず〉とあった。この企ては未遂に終わり、彼女が書き残した遺書は反古となったが、一個の目覚める女性「平塚らいてう」は生まれたのだった。
以後、半世紀以上にわたって女性解放運動や反戦運動、平和運動の先頭を走ってきた彼女にもようやく終焉が訪れる。昭和46年5月24日午後10時36分、自伝『元始、女性は太陽であった』未完のまま、胆嚢・胆道がんを患い入院していた東京・千駄ヶ谷の代々木病院で85年におよぶ波乱の生涯を閉じた。
小田急線生田駅から徒歩、だらだらと続く登り坂の行き着くところ、一万四千基以上を数える墓石群が、ため息をつくほど広大な聖域に並び建っているが、彼岸でもないのに今日はやたらに墓参りの人たちで賑わっているようだ。
輝き始めた初夏の陽はすべてこの丘陵のひらけた空にあった。平塚らいてう筆跡の「奥村家墓」。昭和39年に逝った夫博史のために建てた墓に、ウーマンリブの草分けであった彼女もまた眠っている。供花も香もない墓前はいかにも清潔に輝いて、しゅるっと伸びた一本の猫じゃらしの先っぽに小さな淡紫の蝶が羽を休めている。
——〈自分は新しい女である。少なくとも真に新しい女でありたいと日々に願い、日々に努めている〉。
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