永 六輔 えい・ろくすけ(1933—2016)         


 

本名=永 孝雄(えい・たかお) 
昭和8年4月10日—平成28年7月7日 
享年83歳(釋孝雄) 
東京都台東区元浅草3丁目17−17 最尊寺墓地(浄土真宗)




随筆家・放送作家。東京都生。早稲田大学中退。テレビ放送の草創期から、放送作家や司会者として活躍。ラジオ番組のパーソナリティーも務めた。作詞家として「こんにちは赤ちゃん」「上を向いて歩こう」などがある。ほかに著書として『芸人その世界』『大往生』などがある。






  


 

 最尊寺の墓は僕のねむる墓である。
 自分の墓があるというのはいいことだ。
 そして一所懸命に働いて墓ほどの土地も持てない国というのは、これは一寸考えものだ。
 さて、この十年、それがどんな墓地でも、気軽に墓の間を歩くようになった。
 そして、威張っていない、つつましい墓があると合掌する。
 勿論、そこに眠る人は知らない。
 知らなくても、墓に手をあわせることによって、気分が落ち着くのである。
 見上げるような墓石もあるが、有名人でも岡倉天心のように単なる土饅頭もあり、時には板一枚に戒名が、それもぎこちない字で書いてあったりする。
 そんな墓の間を歩いていると、その日に合掌するのにふさわしい墓とめぐり逢える。
 我家の墓だけが、墓ではない。
 生きとし生ける者、土の下に入れば、誰だって、人間の墓として頭をさげればいいのである。
 そう思い始めてから、とても気が楽になった。
 これは神社も同じことであり、時にはそれが、見上げる峰であったり、暮れなずむ海であったりする。
 そして、きらめく星にも、合掌する。
 宇宙に、歴史に、手をあわせる。
 その一番手前にいるのが同じ時代を生きた仲間たちだ。
 自分が死ぬなんて思ったこともないまま、死んでいった人達だ。
 だから最尊寺の先祖代々の墓が、一番お参りしにくいのかもしれない。
 まだまだ、そこにねむりたくないから。

 (僕は寺の子・坊主の子)





 

 〈日常生活の中に、突然、人の死が訪れてくる〉寺に生まれた永六輔。早稲田大学在学中にはすでにラジオ放送作家として名をなしていたが、テレビ放送創世記、その多彩な才能に拍車がかかり、作家、司会者、果ては作詞家として「上を向いて歩こう」や「遠くへ行きたい」などのヒット曲も生み出した。しかし学生時代から影響を受けていた民俗学者宮本常一の〈放送の仕事をするなら、電波の飛んで行く先へ出かけて行って、そこで見たこと聞いたことをスタジオに持ち帰って発信しなさい〉という言葉は一年のうち三百日は旅暮らしという生活に足軸を変えさせていった。晩年はパーキンソン病を患い、次第に旅を続けることが難しくなったが、最後の冠番組『六輔七転八倒九十分』を終わらせた10日後の平成28年7月7日、東京・渋谷の自宅で死去した。



 

 〈浅草寺と寛永寺の鐘が左右から聞こえてこようという町〉元浅草にある寿徳山最尊寺は永六輔の生まれた寺である。肝煎として永六輔がはじめた寄席「永住亭」が今も年二回開かれているというこの寺の墓地は通りの向かいにある本行寺の脇路地を入った裏側。周辺四つの寺の墓地がコンクリート塀で区切られた一画、四方二尺ほどの墓が碁盤の目のように並んでいる。正面奥右の墓碑に永六輔の筆「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように」、置き碑に「生きているということは 誰かに借りを作ること 生きてゆくということは その借りを返してゆくこと」、碑側面に先に逝った愛妻晶子のそれに並んで永六輔の法名「釋孝雄」が刻まれてある。小沢昭一が西行法師、松尾芭蕉に並んで「日本三大旅人」の一人だと言った永六輔の終着駅。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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