| 本名=江口章子(えぐち・あやこ) 明治21年4月1日—昭和21年12月29日
 享年58歳(妙章信尼)
 大分県豊後高田市香々地 江口家墓地
 
 
 
   詩人。大分県生。大分県立第一高等女学校(現・大分上野丘高等学校)卒。高等女学校卒業をまたずに結婚するが離婚。大正4年上京。北原白秋と知りあい翌年結婚、ふたりで『烟草の花』を創刊。9年白秋とわかれた後、数度結婚離婚を繰り返すが、精神を病み不遇のまま生家座敷牢で死去する。詩文集に『女人山居』『追分の心』などがある。
 
 
 
 
  新墓 
 
  旧墓 
 
 
   なにゆゑにうらぶれはてて
 故郷へはかへり来し
 
 いまさらにうらぶれの身の
 かへるまじきは
 ふるさとと
 砂白き浜にしるさむ
 
 鴨の羽
 拾ひし磯のさみしや
 浜ゑんどうの花の紫
 摘みとれど
 涙ながるる
 
 砂山の砂をふみつ
 盗人のひるの心に
 をののきて
 一人あゆめり
 
 鴨の羽
 ぬれてさみしや
 手にもてばさむきおもひぞ
 荒磯の海の落葉か
 (ふるさと)    
     北原白秋の二番目の妻として窮乏生活をともにすごし、その失意の心を支えてきた江口章子であったが、〈女、 恋に酔いて 死なんとはねがふ〉と詠ったように、章子は家庭に縛られることを望まない行動的な「新しい女」であった。白秋との破局、幾多の愛憎は章子をさらなる不幸へと導いて、ついには脳溢血で半身不随になった身を、故郷・香々地のかっての豪商江口家、父母も姉もすでに亡く、没落し廃園のようになってしまった生家で、姉の死後、後添えを迎えていた義兄に委ねることになった。
 脳軟化症に冒されて、なりふり構わず近所を彷徨する姿を人目から遠ざけるために章子は座敷牢に入れられた。それから数か月後の昭和21年12月29日朝、蒲団のなかでひっそりと息絶えた章子の姿があった。
  
 
    丘の傾斜を削っただけの夏草に覆われた細道をしばらく登ると、昭和53年に義兄の養子雅臣氏の建てた新しい「江口家之墓」がある。今はこの墓に義兄夫妻と共に章子は葬られてあるのだが、そこから更に登りついた竹林のなかに苔生した5、60基の墓碑が右に傾いだり、左に傾いだりして建っていた。江口家累代、江戸期からの古びれた墓々の端っこに置き忘れられたような石塊が一個。これが「うらぶれはてて」、ぼろ切れのように死んでいった章子のかつての墓。
 はばかるように密やかに営まれた葬儀の後、遺骨は、香々地の港を見おろす丘の江口家のこの古い墓地に葬られ、一個の石塊がその上にのせられたという章子の哀しい墓。木漏れ日がときおりの風にさびしく揺れている。
    
                          |