自由論

現代社会において、自由とは「ものごとが自分の思い通りになる状態」あるいは「思い通りに行動することに対して束縛がない状態」のことで、そういうことに価値があると考えられています。しかし、本当はそういう状態は自由じゃないのだ、と僕は考えます。

ものごとが思い通りになるというのは、まず何か「思い」があってそれが未来において「その通りに」実現するということです。何かを未来において実現させるためには、自分の想定した未来から逆算して現在必要な行動をとらなくてはなりません。つまり、未来の状態を想定すると、その未来は現在の自分の行動を束縛するということです。また、その「思い」が頭に浮かんだのは過去だから、現在の行動は過去に束縛されていることにもなります。つまり、ものごとが思い通りになる場合、我々はその「思い」を実現させるために過去にも未来にも束縛されているのであって、全然自由ではないわけです。

その「思い」というのが自分で一から考え出したものなら、それに縛られてもいいと考えることもできます。その場合、自由なのはそれを思い付いた過去の自分なので、現在の自分は自由ではないことになります。それに、我々が思い付くようなことは、たいていの場合周りから得た情報に基いています。外からやってきた情報に縛られているわけです。一から考え出したことなら自分の自由な発想と言えるかというと、そうとも言い切れません。なぜなら、それを考え出した脳ミソは我々が自分で作り出したものではないからです。

そもそも、我々にとって何の束縛もない状態というのはあり得るのでしょうか。我々は物理的法則を逃れることはできず、社会的な制約もあるし、生理的な欲求も満たさなければ生きていくことができません。さらに、それらの束縛を逃れたいという我々の「思い」のせいで、我々は過去や未来に束縛されるわけです。我々を束縛するものの中で、この我々自身の「思い」による過去や未来からの束縛だけは逃れることができるかも知れません。過去や未来というのは現在の我々の頭の中に存在するのであって、それは我々自身の意識の産物だからです。思い通りにしようと思うことがより束縛を生むということです。

未来を思い通りに確定しようとすることが自由と反対の結果を生むのだから、自由とは未来を確定しないことです。「思い通り」というのは、未来を確定し現在を束縛することだから自由ではないわけです。未来を確定しないというのは、試行錯誤することによって何かを発見するということです。我々の脳ミソは、我々が試行錯誤していれば自然に何かを発見するもので、何かを発見することは、自分がその「何か」を知らなかったことに気付くことでもあります。それは一種の自己否定ですが、新しい自分を肯定することでもあります。だから、古い自分を肯定し過ぎることは発見の妨げになります。自由に試行錯誤することで何かを発見したとき、我々は不確定だった自分の未来を発見するのです。

 → 矛盾と自由