美と社会

というものが暗黙的情報によってもたらされるのだとすると、美しさを意識的にとらえるのは、おもしろいことではあっても、美を直接認識するのとは違うということになります。意識化してしまったものは美そのものではないからです。しかし、美を直接認識することは精神的な危険を犯すことでもあります。なぜなら、暗黙的=無意識的情報は身体性に基くものであり、意識的には制御しきれなものだからです。

無意識的情報には、意識(社会)が否定的にとらえる情報、つまりも含まれます。したがって、美を求めて無意識的情報を探ることは悪に触れることでもあります。また、美を追求することは、身体を通じて無意識的情報を掘り起こすということなので、個人的な行為であり社会性とは相反するようにも見えます。

美は無意識的情報によってもたらされるといっても、無意識的情報そのものではなく、「少ない意識的情報によって表現された多くの無意識的情報」が美であろうと思われます。そのようにして表現されることによって、我々は意識的情報の部分を受け入れることができ、同時に無意識的情報による感動がもたらされるのだと考えられます。

美の追求は、意識的な情報のみによって安定した社会にとっては一種の不安定要因です。しかし、それは意識が無意識的情報を扱う方法を探す試みでもあり、実は静的に安定した社会を動的安定に移行させるために必要なのだと思われます。

 → 創造性と無秩序