大人と常識

大人と子供というのは正反対の存在ではない。お腹が空いたり胸がドキドキしたりするようなところは大人も子供も同じである。違うのは「大人は社会常識を知っているが子供はそんなものは知らない」という点である。大人は常識を知っているだけでなく、それに従って行動する。子供は常識なんか詳しくは知らないし、知っていてもそんなものに従いたくない。子供は放っておけば自分のやりたいことをやりたいようにやる。それで、大人に叱られる。

子供は大人に叱られているうちに、やりたいことをやるのではなく常識に従って行動するようになったりもする。やりたいことをやるのは「新しいことを身に付ける」ことに大体等しい。常識というのも子供にとっては「新しいこと」ではあるので、子供は常識を身に付けたりもするが、常識に従って行動するようになったら「新しいことを身に付ける」必要はなくなる。だから、常識に従う大人はもう新しいことを身に付けようとはしない。そして、「新しいことを身に付ける能力」を常識に沿う線で止めているのが「凡人」だから、大人は凡人である。そうじゃないのが子供だから、子供は天才なのだ。

誰でも子供のうちは天才だが、常識を身に付けていくうちに凡人になる。常識に従って行動するというのは、「やりたいことをやらない」ということである。常識の中にだって我々のやりたいことはありそうなものだけど、ない。我々がやりたいことというのは面白いことだが、面白いことというのは新しい情報が含まれているようなことである。大人にとって常識というのは古い情報だから、やりたいことというのは常識に反するようなことなのだ。常識は古い情報だけど子供にとっては新しい情報なので、我々はそれを身に付けてしまったりもしたのである。

常識に従って行動できるようになることは、やりたいこと(即ち常識外の行動)をしないようにすることで身に付くのだ。そして、常識に従って行動する人が常識外のものごとに接したときはどうするかというと、何もしない。常識外のことに対応するには常識外の行動が必要だが、常識外の行動はしないことが身に付いている。だから結局何もしないで常識外のものごとを無視する。その結果、事態はますます悪くなる。

最近は常識外のことがいろいろと起こっている。「常識外の行動も必要である」ということが新たな常識になりつつある。常識に従って行動するのが大人だから、常識が変われば大人の概念も変わる。今までの大人というのは常識にだけ従うものだったが、これからは常識に従う行動も常識外の行動もどちらでもできるのが大人だということになるだろう。常識に従うというのは自分で考えないということでもある。常識外のものごとに出会ったときにどうすればいいのかは自分で考えるしかない。

常識外のものごとにどう対応するかなんて、急に考えたってわかるものではない。それができるようになるためには普段から自分で考えていなくてはならない。普段とは常識的な場面であり、自分で考えるとは常識に従うとは限らないということだ。つまり、今後我々は常識というものを常に疑っていなくてはならないということになる。でも、常識外の行動ばかりしていたら生活が成り立たないので、とりあえず「心の中では常識を疑っているが行動は常識に従う」というメンドクサイ方向に行くしかない。それはリラックスへの道でもある。

 → これからの大人