天才と凡人

手元の辞書によると、天才とは「先天的能力が平均をはるかに越えている人」という意味である。先天的能力というけど、人間が生まれながらに持っている能力は「おぎゃあ」と泣くことくらいのものである。天才というのは「おぎゃあ」と泣く能力について言っているのではないだろう。他の先天的能力としては「自分の身体を維持し成長する能力」というのもあるが、非常に健康であったり身体的成長が平均をはるかに越えている人のことを天才とはあまり言わない(言ってもいいような気もする)。

他のあらゆる能力、例えばしゃべったり歩いたり楽器を弾いたりする能力は後天的に身に付けるものだ。赤ん坊を見れば、それは明らかである。コップで水を飲むことですら練習しないとできないのだから。しかし、そういういろんな能力を「身に付ける能力」というのは先天的能力である。では、「いろんな能力を身に付ける能力」の平均というのはどうやって測るのだろうか? 身に付けた能力の数で測るのか?

大人が平均的な日常を送るために使っている能力を数えたらものすごい数になるはずである。「いすに座る」とか「丸と三角を区別する」とか「声を聞いただけで誰だか判る」とか、要するに筋肉による運動と五感による認識の能力を数えていったらキリがない。したがって、天才も凡人も身に付けた能力の数が膨大であることに変わりはないのである。つまり、「いろんな能力を身に付ける能力」において天才も凡人もたいした差はないということになる。

例えば、平均的狩猟民は野外生活の能力において文明人の「平均をはるかに越える」から、文明人から見れば天才である。逆に狩猟民から見れば、平均的文明人は文明生活の天才だ。同じ人が見方によって凡人に見えたり天才に見えたりするわけである。つまり、天才というのは能力の大小の問題ではない。天才とは「(いろんな能力を身に付けるという)先天的能力を自分の育った社会の常識から離れたところに発揮した人」だと言える。一方、凡人は「先天的能力を自分の育った社会の常識に沿って発揮した人」である。平均というのは常識によって作られた線だったのだ。

天才は「先天的能力を自分の育った社会の常識から離れたところに発揮した人」だけれども、発揮して終わりだったら「天才だった人」である。二十過ぎればただの人、というやつだ。天才であり続けるためには新たな能力を身に付け続けなければならない。天才というのはタイヘンだ。ところで、凡人というのは「(いろんな能力を身に付けるという)先天的能力の発揮を常識的な線までで止めてしまった人」のことである。能力がないのではない。それは平均的日常を送っていることで証明されている。それはある意味ではラクだ。

しかし、問題は常識というヤツが急激に変化しつつあるということだ。常識が変化すると、凡人が凡人であり続ける日常生活を送るために、新たな常識に合わせて新たな能力を身に付け直さなければならない。それは天才であり続けるのと同じタイヘンさである。なんでそんなことになってしまったのかというと、天才と凡人というのは常識という線によって分けられていただけだからだ。常識が動くと凡人も天才も同じように大変になる。

新たな能力を身に付けることのタイヘンさというのは子どものタイヘンさである。我々は子どもの頃、実にたくさんのことを身に付けたはずだ。しかし、それをタイヘンとは思っていなかったのではないだろうか? だから我々に必要なのは子どもに学ぶことであり、子どもの頃のことを思い出すことである。