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二 女神降臨


赫い月光が、窓に嵌め込まれた色硝子の光彩を、陰鬱な物にしている。
警鐘は鳴り止まず、灰色の闇が落ちる夜の静寂を乱した。
銅の谷の生き残りは、行きかう者もない螺旋階段を昇る。
「アシェイル」
聖洞騎士は、そっと呼びかけた。
懐かしい祭主の気配を感じ取りたかった。
だが、何も応えて来ない。
銅の谷の最後の夜。
あの夜から、一年半あまりかかってしまった。
死んでしまったと、思っていた時期もある。
だが、生きていると知り、取り戻すと誓い、あらゆる手をつくし、ここまで来た。
そして、デモナゼン城郭へ入り込んだ嵐の夜、確かに彼女の悲鳴を聞いた。
なのに、それから、ふつりと『冥』の祭主の気配は消えたままだ。
本来、聖洞騎士ならば、どれほど隔てられようと、己の祭主の声を聞くことができるはず。
アレクシアは、あの夜、己の祭主を守れなかったことに、また、ここまで来るのに時がかかってしまったことに、負い目を持っている。
だから、聴こえないのだろうか。
「アシェイル」
せめて、呼びかけを声に出してみる。
セスリエル・ピリス男爵令嬢。
その兄が、略奪された妹を奪い返し、塔に幽閉した。
アレクシアは、ためらってもいたのだ。
もし、アシェイルが、『冥』の祭主ではなく、セスリエルという名を選ぶなら、自分はどうするだろう。
いや、アレクシア自身は、アシェイルを友として守ると誓ったのだから、それはそれでもよかろう。
しかし、アシェイルは、セスリエルとして生きられるのだろうか。
『冥』祭主は、特別な存在とされていた。
谷の外で、生き延びられるとは聞いていない。
何故、アシェイルは、永らえているのか。
もともと、谷の血族ではなかったためなのか。
「アシェイル……応えてくれ」
 ここでも、濃密な薫りが思考を乱す。
聖洞騎士の琥珀の瞳が、苛立って物騒な輝きを帯びた。


漆喰の壁に彩色された樹木が、仄暗い明かりの元で、怪しく蠢いて見えた。
赫い輝きが、華奢な少女の身体を包む。
このささやかな聖域を、香炉から流れ出る淡い緑の煙が満たしている。
女神は、微笑みを浮かべ微睡んでいた。
深淵の闇に、赤銅の髪の女達が、癒しの手を差し伸べる。
ある女は、春の日差しを見せた。
また、ある女は、大地に高くそびえ立つ大木の枝先に、小さき者たちが羽を休め囀る様を。
また、ある者は、清いせせらぎと、深い森の緑を映した湖水を。
気が付くと、それは、女神自身の記憶だった。
息子のために、美しくしつらえた箱庭の思い出なのだ。
あの子は、どこにいるのだろう。
祭主達は、美しい光景や喜ばしい思い出を、女神の心に寄り添ってなぞる。
優しい娘達は、女神を孤独にしてはおかなかった。
深淵の微睡みに、絶えず心を差し伸べ、夢を捧げた。
あの柔らかな心の持ち主達は、どこにいるのだろう。
 ……貴方を守るといった、あの小さな琥珀の瞳の騎士は、どこへ行ったの。
泣いてばかりいた異邦人を、私の祭司と呼び、我が祭主と呼び、我が友アシェイルと囁いた、あの子供は。
あの子は、聖洞騎士見習いとして最初の剣を受けたとき、アシェイルよりも、小さなあどけない子供だった。
それが、見る間に、鋭い面立ちの、長身痩躯の戦士になっていく。
アレクが、いない。
誰が、どこへやってしまったの。
あの子は、私のものなのに……
(アシェイル……!)
斬りつけるような、呼びかけが、封じられた聖域に届いた。
長い睫が瞬く。
赫い輝きは消えた。
身を覆う豊かな黒髪が、揺れた。
長い間、閉ざされていた唇は、思うように動かない。
「アレク…アレクシア……ここよ」
透明な滴が、蒼白の頬を伝う。
変わらない琥珀の圧倒的な輝きが、『冥』の祭主の心を満たした。
この世でただ一つ、愛しい懐かしい守護の騎士の瞳。
「アレク……助けて」
聖洞騎士は、言葉を返さなかった。
その代わり、いたわりと後悔と歓喜が、複雑に混じり合い、激しい痛みを伴って、祭主に伝わる。
この心は、私だけのもの。
アシェイルは、微笑んだ。
美しい女の人形めいた面に、生身の表情が戻る。
「私を守って……私を…私の……」
「アシェイル」
アレクシアは、再び祭主を得て、聖洞騎士の力が、満ちるのを感じた。
いまだ離れている距離も、石の壁も、妨げにはならない。
『冥』の祭主の華奢な姿が見える。
儚げな肢体を覆う、漆黒の闇を映した髪、蒼白の頬を伝う涙。
あの夜。
銅の谷の最後の夜に見た姿、そのままだった。
ほとんど無意識の、無造作な一撃で、歩哨が声もなく倒れる。
長い螺旋階段の最後に、錠のかかった扉が現れた。
聖洞騎士の瞳の琥珀が、輝きを放つ。
呼応するように鈍い音が響き、木の大扉が霧散した。
窓もない聖域の仄暗い闇に、一人の女がいた。
香炉から立ちのぼる濃厚な薫には、覚えがある。
「アシェイル…」
銅の谷の生き残りは、最後の祭主に手を差し伸べた。
指先が、祭主の頬に触れ、漆黒の髪に滑り込む。
震える肩を抱き寄せた。
「アレク…アレク。守って…」
『冥』の祭主は、夢を見るように呟いた。
「今度こそ、必ず。我が祭主、我が友、アシェイル」
聖洞騎士の腕の中で、痛々しいほど細い肩の震えが、止まった。
『冥』の祭主は、うっとりと微笑むと、自らの騎士に告げた。
「では、私を…殺して」


そのとき、人々は、迫り来る敵の大軍を、赤錆びた月光のもと地平線に認めていた。
飽食した大貴族達は、金糸銀糸や宝玉で飾り立てた礼装から、戦装束へ代えることすら思いつかず、ただ右往左往している。
城下では、住人が、不安な面持ちで、それでも、精一杯の武装をした。
デモナゼン砦の守備隊は、非常呼集に応えて、城門の守りを固める。
先刻、将軍と、その旗下を除く部隊が、城壁にたどり着き合流した。
城主であるピリス男爵は、城壁の歩廊から敵軍の威容を眺めた。
まだ年若い青年が、動じる様子も見せない。
縋るような眼差しの将兵達に、考え得るすべての指示を出す。
彼が、踵を返して城内に戻ったのは、混乱し始めた客人が無謀な行動を取るのを、押さえるためだった。
敵軍が押し寄せる前に逃す、というにも手遅れになっていた。
共に剣をとるのではなかったら、客室でおとなしく酒盛りをしながら死を待てばいいものを、この後に及んで益のない騒ぎを起こしているのだ。
「セイラン様」
副官のバナディが、貴族達に縋られている男爵の元へ駆け寄る。
「バナディ。どうした」
バナディは、男爵の清雅な美貌に、微塵も動揺がないのを見て取り誇りに思った。
「公子殿が、居間でお待ちです」
男爵の乳兄弟は、とっさの機転で、愚鈍な貴族の群れから主を救い出す。
セイランは、忠実な副官に微笑して見せた。
人の耳がなくなると、尋ねる。
「本当に?」
「嘘です……が、お訪ねになったのは、本当です。不思議なことに、公子の従者が、目を離した隙に、礼装の騎士から戦装束の者へ変わりました。応対した者は、別人だったと申しております。問題は、その後、出入り口を通らず、居間から消えたことですね」
ピリス男爵は、頷いた。
「あそこには、城内外に通じる抜け道がある。それを使われたのだろう」
バナディは、侮蔑もあらわに言う。
「逃げられたとか?」
「いや、そういう御方ではない。むしろ…バナディ。お前、方々のお相手はどうした?」
男爵の問いに、副官は眉を顰めてしまった。
あの陰謀好きの役立たず達。
「大丈夫です。さすがに不安になって、騒ぎだしたんですが、例の…薬で……」
「そうか。それでよかろう」
瞑目するセイランは、大理石の彫像を思わせた。
バナディは、この騒ぎに紛れて、あの男達を抹殺してしまいたかった。
そうして何が悪いというのだろう。
この主は、呪われた大公位など望んでいない。
ただ、妹姫を取り戻したかっただけなのだ。
「バナディ」
「はい」
「もし、私を、今すぐ必要とする者がいないなら、少しでいい。塔へ行きたい」
バナディは、複雑な顔になった。
塔の佳人は、セイランの最愛の妹姫セスリエルだった。
妹を溺愛する主を微笑ましいと見るべきだろう。
しかし、男爵の塔への耽溺は、よくないことのように思えたのだ。
それでも、止めることは惨いような気がしてできない。
「どうぞ。今しばらくであれば、後のことは、私が何とかいたしましょう」



「見たくなかったぞ」
公子は、吐くふりをした。
ウィストリクは、正体を失った反逆者達を指で示す。
「吐くなら、絶好の場所があるじゃないですか」
「正気じゃなきゃ、つまらん。私が気分悪くなるだけじゃないか」
室内には、名の知れた大貴族が、焦点の合わない目で何か幻を見ているのか、涎を垂らしながら相好を崩している。
腐臭がしてないのが不思議なくらいの醜態は、修羅場なれした主従をして、目を覆いたくなるほどだった。
「セイランてば、こんなのをよく我慢してたな。神経細そうなのに。これは話にならん。御大もか?」
ウィストリクの澄んだ蒼い瞳が、昏い宴の参列者を確認していく。
「いません。はずれですね。逃げましたか」
公子は、悪がきよろしく、鼻をならした。
「バーシュ伯も、命冥加な奴。私は、あいつが大嫌いだ。…といっても、最初から、御大は見逃すつもりだったから、いいか。しかし、自力で、ちゃんと逃げられるのかね」
「昨日、隊商が、幾つか出て行きました。天敵の公子が現れた時点で、逃げ出したのかもしれませんね。ならば、とっくに安全圏です」
「仲間には、何も警告せずにか。なるほどね。私としては、ある意味、奴を尊敬してるよ」
公子は、香炉を軽く蹴った。
中身が、転がり出る。
ウィストリクが、瑪瑙細工の煙管を取り上げた。
煙草を取り出して調べる。
「煙管のほうもですね。これが、悪名高い緑妖花ですか。出回っているまがい物と、区別がつきませんが、この効果を見ると、数倍強烈ですね」
ウィストリクが、指先で転がしたのは、麻薬だった。
調合次第で、幻覚剤、覚醒剤、麻酔薬、場合によっては、美容薬から、媚薬にまでなる。
しかし、あまりに凶悪な中毒症状故に、厳しく取り締まられていた。
しかし、取り締まるまでもなく、元となる植物が特殊で、繁殖地が限られているため、すでに乱獲で絶滅し、姿を消したともいわれている。
それだけに、この世に残された希少な麻薬は、高価だった。
「ウィストリク。一度くらいでは、中毒にならない。少量なら覚醒作用もある。気付けに貰ったらいい」
戦場からやって来た青年は、心身ともに限界に近づいていたが、断固として断った。
「…嫌です。犯罪ですよ」
どんなに体調が悪くても、醜態を晒す男達を目の前にして、そんな気になれるものではない。
「そうか?私は、とっくに飲んでるけど……」
青年は、目を剥いて、幼い主を振り返った。
「痛み止め代わりに…よく効いたけど……これ見て、思いっきり嫌になった。吐けるものなら、吐きたい……」
ほとんど泣きそうに見えるほど、目に涙を溜めている。
そういえば、あれほど酷い傷で、あれだけ血を失ったのにもかかわらず、平然と行動していた。
ウィストリクは、動揺して意味もなく口を開閉したあげく、持っていたかけらを口にほうり込んで見せた。
「こ…のくらい、なんて事ないですよ。ほらね。あ。ちょっと、すっきりして来たな」
半泣きになっていたはずの公子は、上目使いにウィストリクを見つめると、にたりと笑った。
「よし。これで、当分倒れないですむな。安心してこき使える」
ウィストリクは、引きつった。
「嘘だったんですか」
「いや、ちゃんと飲んでる。お前のほうが、顔色悪いくらいだろう。倒れられても、引きずってく力はないし。置き去りにしたら、叔父貴とクルストリアに、半殺しにされそうだからさ。最後まで、自分で歩いてくれよ」
悔しさに真っ赤になったウィストリクは、それでも、せっせと働いた。
いくつか、爆薬をしかける。
公子が、助けたい人物と、そうでない人物の仕分けをし、仕掛けを確認する。それは、同じ部屋にいても、生死が別れるような微妙な仕掛けだった。
「さて、これで、敵さんが、破城槌でも使って乱入してくれればいい。緑妖花を資金源に、火遊びされた方々には、めでたく退場願えますね。皆さんが、アーメルドに作った悪巧みの為の人脈は、ありがたく、私がいただきます」
外道と言われて異議のない公子が、明るく言った。
ウィストリクは、へたりこみそうになる。
育て方の、どこをどう間違えば、こうなるのだろう。
明るく元気に育てば、いいというものではない。
だが、この責任の半分は、姉にだってあるはずだ。
……などということは、後で考えればいい……
ウィストリクは、たまりかねて、公子にかみついた。
「お伺いしますが、いつになったら、将軍を救出する段取りになるんですか」
公子は、人の悪い微笑みを浮かべた。
「あぁ、それはね。半分は済んでいるんだよ。ウィストリクが、叔父貴の所へ行ってる間も、せっせと働いていたからね。実は、モンティール子爵は買収できている。後は彼が、敵の総大将捕獲なんて手柄に誘惑されて、さらに寝返らないよう手を打つだけ。それは、少し時間が掛かる」
ウィストリクは、情けない顔になる。
「なんですって?本気で、将軍を犠牲にする気は、なかったんですね。それなら、そうと言ってくれれば、よかったのに…」
悪党の公子は、かわいらしく笑う。 
「ウィストリクが、出て行く時点では、モンティール子爵の買収はできてなかったんだよ。いざとなったら、叔父貴には、犠牲になってもらうかも知れなかった。そのことは、本人に伝えてある。でも、ウィストリクに知られたら、止められただろうなぁ」
主と養い子に、手玉に取られた青年は、唸った。
「……悪気は…ないって…、こういうことだったんですか。きっちり首を締めていれば、よかった」
「まぁまぁ。ところで、ちょっと時間に余裕があるんだ。もう一か所、寄ってもいいかな」
「どこへです」
「塔へ。セスリエル・ピリス男爵令嬢に、ご挨拶がまだだった」
口調はふざけていたが、公子は、いつになく真剣な表情をしていた。



警鐘は鳴り終え、重苦しい静寂が帰って来た。
小さな聖域には、むせ返るような香が薫っている。
アレクシアは、一族最後の祭主を脅えさせないよう、そっと抱いた。
「アシェイル…何故?」
私を殺して……と、『冥』の祭主は、夢を見るように呟いた。
「アレク…守ってくれるのでしょう……?」
一体何が、あったというのだろうか。
アシェイルの中では、殺すことと守ることが、一つになっている。
「何をしている」
砕かれた聖域の戸口に、城主が立ち尽くしていた。
聖洞騎士は、ゆっくりと振り向きながら、『冥』の祭主の華奢な身体を背に庇う。
「アシェイル…あれは、貴方の兄か」
かすかな震えが、応えだった。
アレクシアは、一族の敵を前にして、言うべき言葉がなかった。
憎しみにまかせて、斬り捨てることもできない。
「セスリエル…」
セイランの声音に、絶望が滲む。
甲高い音を立てて、剣の刃が交わった。
アレクシアは、戦いに没頭できずにいた。
何かが、気に掛かっている。
数度撃ち合いを経ても、気が逸れてくのを止められない。
しかし、デモナゼン砦の城主の剣は、危険な軌跡を描いた。
それを受け止めながら、意識が深淵に落ちて行く。
砕けた香炉が、目に写る。
思い出した。
懐かしい薫りだったのだ。
それは、聖洞の秘儀の間に、焚き込められていた。
深淵に眠る女神と祭主を繋ぐ為のもの。
これほど濃厚ではなかったので、すぐに気づかなかったのだ。
意識が、深淵に繋がれる。
深淵の闇は、空虚だった。
女神がいない……
気が付けば、無意識のまま振るった剣が、男爵の右肩を裂いていた。
鮮血が飛び散り、漆喰の壁を染めた。
 セイランは、傷ついた利き腕から、左腕に剣を持ち替える。
蒼白の面は、セスリエルと一対のもの。
よく似た繊細な面立ちが、血縁を示している。
秘儀の香に、血の匂いが混じった。
燭台の焔が、消えた。
仄暗い聖域で、一人の女が微笑む。
聖洞騎士の頬に一筋、傷が走る。
城主の剣は、利き腕でなくても十分鋭かった。
「アレクシア」
震えを帯びた優しい声が、囁く。
その存在は、闇の中、赫い燐光を見せた。
目も髪も、見る間に、赤銅の輝きに染まる。
『冥』の祭主は、別の存在に変貌していた。
それは、アシェイルを真似て、微笑んだ。
「アレクシア。最後の聖洞騎士にして、祭司。祭司にして、祭主である稀なる者」
銅の谷の女神は、愛しげに微笑んだ。
「我が半身」
圧倒的な力が、聖域を裂いた。
アレクシアは、爆風に煽られ、城主に突き当たり、もろともに螺旋階段に飛び出した。
男爵が、女神の現身に叫ぶ。
「セスリエル」
だが、それは、セスリエルでも、アシェイルでもなく、『冥』の祭主ですらなかった。
聖洞騎士が、唇をかみしめる。
圧倒的な力と威厳。
そして憎悪。
周囲の空気が、悪意をもって蠕動を始める。
女神の朱唇が、呪詛を紡いだ。
「我が軛よ。我の憎悪を繋いだ一族の末裔よ。我を解放するがいい。今こそ、人の子から、我が与えた、すべてをもぎ取り、砂の海に沈めてくれる」
「アシェイル。だめだ。還ってくれ」
アレクシアは、呻くように囁いた。
剣を支えに立ち上がる。
女神の白い素足が、聖域から出て、石畳みに降ろされる。
小さな聖域は、砂塵と化して霧散した。
灰色の闇が落ちる夜を背景に、女神の姿が赫く輝く。
閃光が、塔を幾筋にも刺し貫いた。
堅固な石造りの塔が、水に浸けられた砂糖菓子のように、もろく崩れて行く。
女神の存在が、間近まで迫まる。
白い腕があがり、最後の聖洞騎士の頬に触れた。
どこか、困惑したような面持ちをしている。
「何故、いけないの。人の子に、その価値があるの。貴方は、私を愛しているのに。その憎悪は、認めないというの」
女神の指先が、アレクシアの血をなぞる。
その優しい美しい微笑みに、幻惑されそうになる。
もちろん、愛している。
一族をあげて、貴方を愛した。
だからこそ、貴方が憎悪にまみれて、その手を汚すのは見たくない。
誰かが、言っていた。
(敵よりは、味方こそ、やっかいだ。私が……悪党であることに…真剣に怒る奴がいるんだよ…)
聖洞騎士は、片頬で微笑んだ。
「女神よ。貴方を愛している。だから、貴方を止める。貴方は、破壊の神ではない」
女神は、華奢な首を傾げる。
そのしぐさは、あの小さな悪党を思わせた。
しかし、女神が、間近に息づいているということは、日の光が目を焼くように、意識を焼く。
いっそ焼き尽くされて、何も感じないようになれれば、楽なのだろう。
女神の中の異物、『冥』の祭主の悲痛な声が、アレクシアの正気を保った。
「私を殺すの?」
(私を殺して)
「私を否定するのね」
(助けて……守って)
「私をとめるの?どうやって?」
女神は、その眼差しを、外界に向けた。
赤錆びた爪を思わせる月光が、すべてを晒している。
デモナゼン城郭は、戦いの時に向かって、緊張を高めていた。
手勢は少ない。
すぐにも援軍が望めない以上、歩廊を持つ堅固な城壁が頼りだった。
女の哄笑が、闇を渡った。
デモナゼン城郭を抱く城壁に、異変が起きた。
基底部が、砂となって砂漠に流れ出す。
残された見張り塔や、歩廊が、人々の上に倒壊した。
そして、城下の建物も城壁にならった。
瓦礫の中に崩れ落ちる鐘の音が、幾つも重なって、はるか高みの塔に届いた。

(完結編につづく)


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