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銅の谷の女神

第三章 デモナゼン砦の攻防

一 黒の血脈
二 女神降臨

 


第三章 デモナゼン砦の攻防


 

世界の中央に生まれた砂漠は、緩やかに時を掛けながらも、確実に広がりつつある。
かつて、その世界を皇帝の名のもとに一つに治めていた血統は、その出生と同様、謎めいた終わりを迎え唐突に途絶えた。
今では、伝説と迷信に埋もれ省みられることもない。
最後の皇帝の治世の後は、皇帝の両の腕に例えられたカーディーン大公一族とアーメルド公爵一族とが、残された地と人を二つに分けて治めた。
彼らの間には、元々些細な競争心と言ったものがあったが、皇帝空位の長い時に、それは、猜疑と憎しみへと、やがては戦へと育っていった。
人々が記録を逆上れる限り、すべてが戦いのなかに始まり終わる。
この果てし無い戦いは、人々にとって、発端も定かではなく、また、不本意ながら日常でもあった。
時は、ハンナム・カーディーン大公の治世、一六年の事である。
後々、この年を振り返るとき、ある者は稀にみる凶事を嘆いて見せ、また、ある者は舞台裏の戯れ言を思い浮かべ憮然とした。


一 黒の血脈


雨季の砂漠の灰色の闇。
その夜は、赤錆びた爪を思わせる月が、皓々とデモナゼン城郭を照らし出していた。


金細工のつけ爪が、無数の灯火を映して、華やかな光彩を見せる。
デモナゼン城郭の主は、豪奢な金の髪と黄金で飾り立てられた新妻を、儀式の間へと導いた。
壇上で待つ立ち会い人の元で、婚儀の宣誓が行われる。
当の花婿、花嫁より、よほど熱意のある観客が、歓声をあげた。
人々の頭上で、祝福の鐘が鳴る。
城下の鐘楼も加わり、それは、華麗な調べとなった。
やがて、澄んだ音が余韻を残して消え、魂を抜かれたような人々が、沈黙の中に取り残される。
最初の奏者が、意を決して六絃琴に指を滑らせた。
それを合図に儀式は祝宴へと移る。


広間の中央では、カーディーン大公の年若い従兄弟、セイラン・ピリス男爵が、花嫁に寄り添い、参列者の祝辞に応えていた。
花嫁となったレイスリン女侯エフィナは、夫となった青年の横顔を、そっと見上げる。
人形めいた線の細い美貌が、清雅な微笑を浮かべていた。
その微笑みが、ふと揺らいだ。
彼の視線の先にいたのは、カーディーン大公の嫡子、公子にしてティルファ伯だった。
「セイラン。おめでとう」
小柄な少年は、格式ばった事は言わず、親しげに祝いを言った。
落ち着いた物腰ではあるが、その肩書からすると、ずいぶんと頼りなげに思える。
エフィナは、少年の背後に、長身痩躯の騎士を見つけた。
男爵と公子、そして、その騎士を並べて見る。
間違いなく、その赤銅の髪の、鋭い面立ちの騎士が、一番男らしい青年だった。
中身は少女だとしても。
花嫁が、笑いを噛み殺している。
アレクシアは、レイスリン女侯を睨みつけた。
元から酔狂な女性ではあった。
しかし、自分の結婚式で、何を考えているのか。
銅の谷の戦士は、ため息をこらえた。
この場の主役である新婚夫婦の前という位置は、衆目を集める。
無作法な真似はできない。
それに、茶番劇は序の口だった。
アレクシアが警護している少年は、真情あふれる言葉を花嫁に掛けた。
「エフィナ。従兄弟殿を頼みます。若輩の私がいうのも、何ですが、セイランは、早くに家族を亡くしてしまったので、寂しがりやなんですよ。こんな外向けの笑顔じゃなくて、いっぱい笑わせてやってください」
本気で言っているのかと思えるほど、優しい邪気のない笑顔だった。
後から考えると、実際、本気だったかもしれない。
レイスリン女侯は、お気に入りの子供に、甘い微笑みを返した。
「貴方も。アレクをね」
少年は、真っ赤になった。
アレクシアは、片方の眉を引き上げ、臨時の主の背を見る。
女侯に妙な誤解をさせたのは、この命知らずの、いたずら小僧である。
殺気を感じて振り向いた公子は、目で落ち着くよう懇願していた。
ここで暴れるほど馬鹿じゃないと、黙って睨み返す。
公子は、気を取り直したように従兄弟に向き直った。
今、男爵の美貌には、微笑みではなく動揺がある。
「セイラン。カーディーンの血族は少ない。ヴィスが…ユイフォン侯爵が亡い今、私の従兄弟は、セイランだけだ。忘れないで」
「公子殿…」
ピリス男爵の声が、かすれた。
セイランは、同じ血族の黒い瞳に見つめられて、目をそらす。
小さな従兄弟のまなざしが、悲しげなものになる。
だが、何が言えようか。
裏切りは、すでになされてしまったのだ。
妹を取り返す代償に要求されるものが、彼の命を奪うこととなるのは判っていた。
公子の微笑が変わった。
アレクシアには、何度か見覚えがある…初めに会ったときの、あの昏い夜の幻の少女が浮かべた微笑。
今ならわかる。
このいたずらな子供は、悪巧みに興じているのだ。
少年は、年長の従兄弟に優しく言った。
「セイラン。何があっても、と言っておくよ」
公子は、ピリス男爵の返事を待たず花嫁に目礼すると、次の客へ祝辞の場を譲った。


祝宴が始まって間もない頃である。
赤銅の髪の騎士を従えた貴公子が、婚礼の招待客と当たり障りのない挨拶を交わし、大広間から退出した。
回廊には、そこかしこへ果物や酒杯が置かれ、弦をつま弾く楽人がいる。
しかし、客人の殆どがいまだ広間に集い、新婚の夫婦へ祝辞を送っていたので、辺りは閑散としていた。
ひとけが無くなった所で、アレクシアが口を開く。
「随分、早く引き上げたな」
「子供は、夜更かししないものです。飲酒も、褒められたものではありません。と、いっても、お祝いとなると、お断りするのも難しいでしょう。こういう場合は、早めに失礼するべきかと思います。どのみち、あれでは、一人くらい欠けても、わかりはしません」
振り向きもしない公子が、ばかていねいに応えた。
見事な黒髪、黒ずくめの衣装。
黒い長衣に施された精緻な金糸の刺繍が、時折、灯火を映して輝く。
それがなければ、すぐにも闇に溶け込んでいたろう。
アレクシアは、足早な公子の小柄な背を睨んだ。
「どこに行く気だ。部屋は、そちらではない」
宴のざわめきは遠のき、けだるげな弦の響きが、かすかに聞こえる。
少年は、横顔へ意味ありげな微笑みを浮かべた。
「こっちでいいんだよ。アレク。人目のないところに行こう」
銅の谷の戦士は、壮絶に顔をしかめた。
どこまで茶番を続ける気なのか。
アレクシアの長剣が鞘走った。
ウィストリクから借りた礼装には、やや不似合いな、無骨といっていい大剣である。
音を立てて空を切った剣が、もう一振りの剣を火花を散らして受け止める。
刃を合わせた次の瞬間には、双方、飛びすさっていた。
高い位置に置かれた灯火が、三つの人影を淡く映し出す。
「こいつか」
アレクシアは、背後に庇った少年へ確認を取る。
琥珀の瞳は、その間も対峙した剣から離れない。
ひとけの無い場所に来たのは、この物騒なものを誘い出す為だったらしい。
「そう。意地になった使い捨ての質より量の刺客」
三人目の人影は、依頼主の思惑を外れてまで、追って来た暗殺者だった。
標的である当人からの形容は、まったく気に食わなかったようである。
一声吠えると、剣を振りかぶって突進して来た。
「挑発して、どうする」
長身の戦士は、身を軽く沈めた。
敵の剣をかいくぐった赤銅の髪が舞う。
「単細胞な奴だと、からかいたくなるんだ」
「いいかげんにしろ。見捨てるぞ」
アレクシアは、低い声で毒づいた。
その“単細胞な奴”の中に、自分も入っているという、腹の立つ確信がある。
刺客の男は、剥き出しの敵意を見せた。
激しく打ち掛かる剣の一撃一撃に、憎しみがこもっている。
技は、さほどでも無いが、力は強く敏捷だった。
男は、渾身の一撃を軽く弾かれ、痩身の騎士の思いがけない膂力に目を剥いた。
一旦、剣をひき、間合いを取る。
苛立った唸り声が漏れる。
鋭い面立ちの騎士には、一分の隙もない。
刺客は、余裕で高みの見物を決め込んでいる少年へ視線を移した。
「外道が…」
憎悪のしたたるような罵倒に対して、少年は鷹揚に頷いた。
「異議はないよ」
男の肌が、赤黒く染まった。
「貴様は、我が一門を滅ぼした」
「犯罪者の一門だったからね。イェインのケステ」
「関係のない女や子供まで…」
ケステは、言葉に詰まった。
確かに盗賊だった。
しかし、貧しい里を守るためだったのだ。
それなのに、自分を含めたほんの一握りの身内の罪で、ほとんど何も知らない里人が、ずたずたに切り裂かれ略奪された。
生き残った者も、死刑囚として捕縛され、過酷な労役の果てに死んで逝った。
それが、すべて、このちっぽけな子供の命令だったという。
黒づくめの少年は、残酷なほど屈託がなかった。
「あの年は、不作でね。貧しい里は、一つじゃなかった。皆が皆、身内を守るためには何をしてもいいと考え出したら、大変だからね。外道の公子としては、当然の処置だろう」
怒り狂ったケステは、奇声を発し、アレクシアに体当たりをかけた。
銅の谷の戦士は、鋭く舌を打つ。
かわし損ねた男の左肘が、胴をかすめた。
刺客の身のこなしは、恐ろしく敏捷だった。
立て続けに数度撃ち合うと、男がいきなり身を翻した。
それを追うアレクシアの踏み込みは、わずかに足りない。
剣は、男の外套の背を裂いたにとどまった。
公子の鼻先に、ケステの剣が迫っていた。
石造りの柱脚に身を寄せていた少年は、刃が振り下ろされるのを、微笑んで待っているようだった。
ケステが、仇の死を確信し咆哮した。
黒い装束の小柄な体が、剣風に押されたように沈む。
アレクシアの剣が、ケステの背にくい込んだ。
次いで、金属が石に当たって砕ける音が反響する。
公子は、ぎりぎりの瞬間に、ケステの懐に飛び込んでいた。
華奢な短剣が、男の心臓を貫いている。
刺客が、もんどりをうって倒れた。
見ると、公子が背にしていた柱身が一文字にえぐれていた。
折れた剣の切っ先は、床に突き刺さっている。
アレクシアは、自分の剣から男の血を拭った。
「死刑囚に、報奨金を与えて、刺客として放ったというのは、話を省略してたんだな」
「正確には、私に恨みを持ってる死刑囚に、だ。そう難しい条件じゃない。人材は豊富だったはずだ」
「悪党だな。今更だが」
公子は、ケステの脇に座り込んだまま、うなずいた。
アレクシアは、剣を鞘に収め、少年と刺客の死骸を見比べた。
男の死に顔は、歓喜に満ちている。
仇を討ったと思って、死んだのだろう。
生き残った方が生気がないというのも、変な話だ。
さすがに、良心が痛むというのだろうか、公子は動く気配が無い。
仕方なく、手を差し伸べた。
「いつまで、座り込んでる」
つかんだ手が、血で滑った。
忘れていたが、この少年は、大きな傷を負っていたのだ。
アレクシアは、罵声を浴びせかけた。
そのとき、常に澄んだ音で美しい調べを響かせていた鐘楼が、突然、切迫した警鐘を鳴らし出した。
戦場である砂漠から、変事を伝える使者が、デモナゼン砦の歩廊を持つ城壁へ達し、今、城内へ凶報をもたらしたのである。


 事は、カーディーン陣営にあるものなら、戦慄せざるをえない凶事である。
しかし、カーディーン大公配下のデモナゼン砦の一隅でありながら、ほくそ笑む者がいた。
 緊急に、そして、密かに設えた会合の場で、男が大仰な身振りで、凶報を披露した。
「誠に佳き日であります。お聞きくだされ。やってくれましたぞ。先程、お話しした男ですが、将軍を拉致してくれたそうです」
 それは、すでに知れ渡っていたことだが、男達は、改めてどよめいた。
「なんと……なんと。また、いかようにして?」
 貴族達は、喜々として、自国の将軍を捕らえた男の話をしている。
 バナディは、ピリス男爵の代理として、会合の末席に連なっていた。
忠実な副官にとっては、主が、このような男達と同類に見られるのかと思うと、どうしようもなく不快だった。
男爵が、この場に同席していないのが救いだ。
デモナゼン砦の主は、動揺している客人への対応と、砦からの派兵や防備に関する軍議に追われていた。
「なんと申しましたかな。その男」
「モンティール子爵です。バイザル伯よりは、格落ちすると思いましたが、なかなかどうして、つかえます。まぁ、今回は、偶然がうまく働いたのですが……」
 大公の実弟、アズィー・カーディーンは、常勝将軍として知られていた。
まだ少年といっていい時分から、戦場に出、剣士としても指揮官としても、勇名を馳せた。
彼が陣頭にたって、負け戦になったことは一度もない。
それは、早くも伝説の域に入っている。
その将軍が、あっけなく拉致された。
数に勝るアーメルドの軍を手玉に取り、他でもないデモナゼン砦へ凱旋する途上のことだ。
将軍は、アーメルドの有力貴族を捕虜にしていた。
この指揮官の奪還を狙った敵兵が、無謀な夜襲をかけ、逆に撃ち取られる。
その残党の追撃に、自ら飛び出した将軍と旗下の精鋭は、モンティール子爵率いる補給部隊と衝突することになった。
子爵にしても、本来の目的は、カーディーン側のオアシスでの略奪である。
そこへ、味方と信じて全く無防備に飛び込んで来た小部隊に、敵の総大将がいるとは、思いもよらぬ偶然だった。
 戦の詳細はともかく、常勝将軍と称えられた英雄が捕虜になったという事実は、人々にとてつもない衝撃を与えた。
しかも、その敵は、デモナゼン城郭のごく間近にいるのだ。 
だが、満足げに頷く者もいた。
「やれ、これで難なく、将軍の命がとれますな」
「そして、この失態を理由に、公子を廃嫡し、我らが麗しの男爵を大公に」
「まったく、佳き日ですな」
 きらびやかな装いの貴族達は、上機嫌で自国の凶事を祝う。
誰一人として、将軍亡き後、敵将アーメルド公爵がいかに動くか、案ずる者はいなかった。


黒ずくめの貴公子は、紙のように白くなった唇に、淡い緑の丸薬を含んだ。
赤銅の髪の騎士が酒杯を差し出したが、頭を振り、そのまま苦しそうに飲み下す。
ややあって、柱にすがって立ち上がると、かすれた声を絞り出した。
「これで、少しもつ」
 アレクシアは、眉をひそめ、役に立たなかった杯の中身を飲み干した。
「まだ、何かする気か」
 少年は、息をするのも辛そうだったが、いつものように笑って見せた。
「アレクの用件も片付けないとね。他にも二・三」
「私の用件……」
「丁度…ほら。セスリエル・ピリス男爵令嬢にお会いするのに、ほどよい混乱になったろう」
 不安をそそる連打は、断続的に続いている。
「この警鐘か?いったい何だ」
「デモナゼン城郭から遠くない所で、叔父貴が捕虜になった。アーメルド公爵としては、この機を逃さないよう援軍を送るだろう。ここは、最前線、激戦地になる。その知らせだ」
 最悪の事態のはずだった。
しかし、この悪党は、貧血で倒れかけてはいたものの、平然と笑っている。
 アレクシアは、本気で呆れた。
いや、感心したというべきかも知れない。
「お前が、そうなるよう仕組んだな。将軍を慕っているように見えたが、本当に、あっさり、悪巧みの犠牲にしたな」
 それには応えず、大きな黒い瞳が、まともにアレクシアの琥珀の瞳をのぞき込んだ。
「悪巧みの、こつは、ね。駒に対して好き嫌いをしないことなんだよ。無益な善玉より、有益な悪玉。つかえない好きな人物より、つかえる嫌いな奴をとるんだ。さあ、行こう」
 公子は、先程の薬が効いたのか、案外しっかりした足取りで歩き出す。
アレクシアは、しばらく、その小柄な背を見つめていたが、一つため息をつくと、ゆっくりと後を追った。


 デモナゼン砦では、下層に、物資の貯蔵庫と吹き抜けの広間があり、中庭とそれを囲む回廊、守備隊の居住区、大広間、客室、と続き、上層部には、執務室と城主の家族の居住区がある。
 城主の小さな従兄弟は、随所に配された衛兵に誰何される度に微笑んで、こう言った。
「セイランに、会いたいんだけど、忙しいらしいね。それで、居間で待つよう言われたんだ。こちらでいいの?そう。ねぇ、この鐘は何なの。何だか大変そうだね」
 いかにも、寝入りばなを起こされたという、あどけない様子の子供に、兵士たちは親切だった。
そして、誰もが、少年の叔父が捕虜になったなどと言う凶報を、伝えるのを嫌がった。
そんなことは、城主が、なるたけ優しく伝えるだろう、と考えたのだ。
そこで、少年の質問を避けるためにも、公子とその従者を、すんなり通し見送った。
 悪党の公子は、居間の長椅子に収まると、応対に出た男爵の従僕に、あくびをかみころしつつ、無邪気に言った。
「ごめんね。少し眠いんだ。セイランが来るまで眠らせてくれる?でも、何があったのかなぁ」
 従僕も衛兵と同じように、曖昧な微笑を浮かべて、そそくさと居間からさがる。
黒ずくめの貴公子と赤銅の髪の騎士は、豪奢な居間に取り残された。
「さて、アレク。セスリエル・ピリス男爵令嬢は、ここから目と鼻の先の塔に、幽閉されているそうだ。忍び込む手間を、省いてやったぞ。それにしても、セイランの家来は、お人好しぞろいだよなぁ」 
 公子は、湯気の立つ香草茶のカップを、幸せそうに抱えている。
城内いたるところに置かれた香炉のせいで、よく分からないが、爽やかな香りがしているのだろう。
やけに、ほのぼのした情景だった。
 アレクシアは、目眩を感じた。
この妙な子供と行動を共にするのは、精神衛生上よくない。
「ああ、そうだな。ここまで来れば、何とでもなる。お前の方も、問題の刺客も片付けたことだし、もう護衛はいらないな。私も、この分なら、お前の手を借りなくても済むだろう。アシェイルを連れていても、騒ぎに紛れて脱出できる」
 少年は、首を傾げながら、アレクシアを見つめた。
「一人で行くの」
 心細げな子供の声だった。
アレクシアは、唸った。
「いつまで、その茶番を続けるんだ。貴様。私と同い年だと言ったろう」
 悪党の公子は、声を上げて笑った。
「子供に甘いアレクが、聞いてくれるうちはね」
 黙って立ち去りかけた騎士の背に、少年は何げないように尋ねた。
「セイランをどうする?斬るつもりだったろう」
 アレクシアは、立ち止まったが、振り返らずに短く応えた。
「アシェイルの兄だ、といったのは、お前だ」
「一族の復讐は?」
「祭司長に命ぜられたのは、バイザル伯の首だけだ。アシェイルが、兄の首を落とせというならやるが…」
「そう」
奇妙な沈黙が落ちた。
 アレクシアは、自分が振り返ってしまった事に驚いた。
もっと、驚かされたのは、どうせ、あの人の悪い微笑を浮かべているだろうと思った少年の、途方にくれたような様子だった。
 アレクシアを我に返らせたのは、居間の一隅から聞こえた物音だった。
重たげな壁掛けが動き、その後ろの石組みのずれが、露になった。
燭台の明かりが、忍び込む人影の正体を明かす。
 公子は、そっと、その人物の名を口にした。
「ウィストリク」
 戦装束は血にまみれ、足取りは重く、目は血走っていた。
輝くようだった金の髪は、砂塵と血糊で、くすんでいる。
うつむいていた青年の顔が、ゆっくりと上がった。
その視線が、少年を捕らえる。
 アレクシアは、一飛びで主従の間に割り込んだ。
抜く暇はなかった。
次の瞬間、血脂にまみれたウィストリクの剣を、鞘ごとの剣で受け止める。
 育ちの良い貴族的な顔立ちが、絶望的な憎悪に歪んでいる。
殺気は、本物だった。
しかも、その相手は、あれほど過保護に守っていた養い子だ。
 銅の谷の戦士は、舌を打つと、いきなり青年を蹴り飛ばした。
ウィストリクがよろめく隙に、鞘をはらい、抜き身の剣を構え直す。
 毛足の長い絨毯は、触り心地は良かろうが、戦いの場の足場としては最悪だ。
うかつに身動きができない。
アレクシアは、慎重に間合いをはかった。
 ウィストリクの動きは、重く、よく物が見えていないようだった。
その実、きわどいところに、剣が撃ち込まれる。
あなどれない。
長時間、限界を越えて、戦い続けた者が、気力と、骨の髄までたたき込まれた技のみで、剣をふるうと、こうなるのではないか。
アレクシアは、ウィストリクの剣をかわしながら、そう感じた。
それにしても、剣を合わせることはできない。
剣戟で、人が来るかも知れないのだ。
しかも、こうしてかわし続けるには足場が悪い。
「斬るぞ」
 一応、青年の主に了解を求めた。
「ちょっと、待って」
 少年は、途方にくれていた。
そんな声だった。
「待てるか。馬鹿」
 アレクシアは、毒づいて、柄を両手で掴む。
動きは鈍るが仕方ない。
青年の剣が、振り下ろされた。
時間が引き伸ばされたように、剣の軌跡が残像となって見える。
アレクシアの剣が、ある一点で、ウィストリクの剣を捕らえた。
そのまま断ち割る。
 鋭い音が、響いた。
 鐘楼から、打ち出される警鐘が重なる。
 ウィストリクは、手に残った剣の破片を、床に滑り落とした。
目を閉じ、かすかに肩を震わせている。
 公子が、青年に歩み寄る。
「気がすんだか」
 血のこびりついた手甲が、黒い長衣の肩を掴む。
そのまま引き寄せて、小柄な少年を抱き込んだ。
「どうして、こんな汚い裏切りができる。あの将軍が、自分の地位を脅かすとでも、思ったのか。あの方は、我が子同然に、貴方を思っているのに。所詮、貴方は、黒い血筋の化け物か」
 青年は、ぞっとするような口調で、しかし優しく養い子の黒髪を撫ぜた。
手甲が滑り、少年の華奢な首筋にかかる。
「将軍が死んだら、貴方も生かしておかない」
 ウィストリクには、確信があった。
公子は、今回の凶事の偶然と言われる部分にかかわっている。
 カーディーン大公家の血筋は、俗に、親殺しともいわれる。
黒い血筋といわれても、不思議ではない歴史を持っていた。
聖人といわれる現大公ハンナム・カーディーンでさえ、そうなのだ。
それは、暗愚の君主を、息子が正すために、弑逆したという形をとった。
何代か置きに、聖邪が、交互に現れ殺し合うのである。
この子供は、その直系なのだ。
 呪われた少年は、常と変わらぬ微笑みを見せた。
「結構だね。だが、今は、手を離してもらおう。首を絞められたままでは、叔父貴を助け出せないぞ。私だって、叔父貴に死なれたら困る。今は、ね」
 ウィストリクは、公子を放した。
悲しげな眼差しで、囁く。
「裏切ったら、必ず殺しますよ」
「わかった。まず、戦況を報告しろ」
 青年は、幼い主の命に従おうとしたが、口をついて出たのは戦況の説明ではなかった。
「……はぁ。その前に、手当をしないと」
「負傷しているのか」
 ウィストリクは、手甲を突き出して見せた。
鮮血が高価な敷物へ、したたり落ちる。
「いえ。私じゃなくて、貴方の血でしょう。傷口が開きましたね。うっかり、掴んじゃいましたから……」
 公子は、長椅子の背に突っ伏した。
「ウィストリク…過保護も、時と場合を考えてくれ。薬は、飲んでいるから……あれ?アレクは?」
 こういう場面に、辛辣な事をいう筈の人物が、口を挟まなかった。
実をいうと、公子が途方に暮れていた割に、あっさり“刺客より、やっかいな味方”を懐柔した時点で、立ち去っていたのである。
 ウィストリクは、苦笑した。
「振られましたね」
 公子が、珍しく顔を顰めて唸った。
「死ぬほど真面目な奴らだけで、対決する気か」

 


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