三 謀略の卓
レイスリン女侯の花嫁行列が、デモナゼン城郭に入城して二日目の夕刻。
昼夜通しで行われた歓迎の宴も、さすがに果てた。
半日の休みを挟み、婚礼の儀式と披露宴に移る事になる。
したり顔。
アレクシアは、理解できなかった。
何故、こんなに和やかなのだろう。
花嫁の応接間には、さまざまな客が訪れた。
美しく装った女侯は、その祝辞を権高な微笑みを浮かべて受ける。
花嫁がしおらしげな礼を返したのは、一度だけだった。
「このような遠方まで、お越し願えるとは、思いもよりませんでしたわ。ティルファ伯」
「父大公の名代として、従兄弟殿の婚礼に参列できますのは、幸運でした」
カーディーンの公子は、社交辞令をする間、人畜無害な笑顔を惜しみ無く振り撒いていた。
行儀のいいおとなしい少年。
これが、彼に対する世間一般の評価だった。
あの人の悪い頬笑みは、どこに隠したのか。
しかも、彼の後ろに控えている従者は、ウィストリクだ。
主従共に、何の屈託も無さそうである。
それとも世間では、これが普通なのか。
アレクシアは目眩を堪えた。
「レイスリン女侯。お願いがあるのですが」
小柄な少年が、ためらいがちに申し出ると、いかにも子供子供した風情で女侯の気をひいた。
花嫁は、本当に優しく微笑む。
アレクシアは、背を向けて逃げ出したい衝動に駆られた。
「まぁ、どのような事でしょう。私にできる事でしたら、いいのですけれど」
「はい。本当に、ずうずうしいお願いなのですが」
公子は、そこで言葉を切り、視線を、レイスリン女侯からアレクシアに移し、また戻した。
「アレクを」
恥ずかしそうに、言い淀む。
アレクシアは、演技過剰の少年を睨んだ。
人目が無かったら、殴り倒してやれたものを。
「まぁ」
皆まで言わずとも、レイスリン女侯は理解した。
それどころか、とんでもなく過剰な想像力を働かせたらしい。
細めた目が、三日月を思わせる。
「まぁ、そうなの?」
内気な少年の様子は、女侯の好意的な声音に励まされ、思い切って願いを口に出した…と見えた。
「アレクを、いただきたいのです」
床に叩きつけて、踏み付けてやりたい。
アレクシアは、しみじみ思った。
ウィストリクは、ティルファ伯にあてられた客室に戻ると、とたんに爆笑した。
「ウィストリク。ほどほどにしとけ。アレクに、ばっさり斬られるぞ。本当に容赦ないんだから」
豪勢な部屋の主は、そう言いながら、我が身の危険も感じたのか、アレクシアの剣の行方を、さりげなく目で追っている。
公子の言葉を冗談と受け取ったウィストリクは、アレクシアに笑顔のまま向き直った。
「こういう方ですが、よろしく」
アレクシアは、昨夜殴り倒した男を、黙って見つめ返した。
覚えていないのだろうか。
もっとも、ウィストリクは、アレクシアの顔を見ていない。
「バイザル伯令嬢が、お相手では、いろいろ問題はありそうですが、この際よしとしましょう。公子殿の手綱を締める役は、十分こなせそうだし、今後は、お任せします。こうと分かってれば、私も痛い目を見なくて済んだのに。昨夜はすみません。もう、やぼな手出しはしませんからね」
どうやら、自分を殴った者が誰かは、分かっているらしい。
しかも、殴った理由を曲解している。
アレクシアは、沈黙を守った。
「それでは、一旦、将軍のところへ戻ります」
青年は、にこやかに微笑みながら部屋を辞した。
そして、銅の谷の戦士とカーディーンの公子は、部屋付きの侍女も何もかも人払いした客室に、沈黙と共に取り残された。
公子が、陶製の杯を取り出し、一つには果実酒、もう一つには水を注ぐ。
そういえば、去年、飲めないと言っていた。
アレクシアは、赤い液体で満たされた杯を受け取ると、低い声で言った。
「あれは、何だ」
「ウィストリクから取り上げた、叔父上の差し入れだ。私は飲まないから、よく分からないけど、上物だよ。毒は入って無いから、安心して飲んで」
アレクシアは、あくまで静かに尋ねた。
「酒の事じゃなくて。あの、『お相手』とか、『よろしく』というのは、何だ?」
少年は、人の悪い微笑みを浮かべた。
「聞くまでもないと思うけどな」
アレクシアは、杯を干すと、にっこり笑った。
「そうか、私の誤解じゃないんだな」
公子が、飛びのく。
凝った装飾の椅子が派手に蹴倒され、アレクシアの剣が一閃した。
「ちょっと、アレク。落ち着いて」
少年は、笑いながらも、小卓を盾に剣を躱す。
「人が黙って、茶番を我慢してやれば、随分、図に乗ってくれたな。殺しはしないから、ちょっとぐらい斬らせろ」
「ひどいな。アレクに斬られたら死ぬだろう。それが、仮にも恋人に対する仕打ち…」
「誰がだ。人を、ウィストリクに対する盾にしたな。だいたい、女侯にだって、さんざん妙な冷やかしをされたんだぞ。わざと遊んだな」
「子供の悪戯と思って、大目に見てくれ」
「…貴様。私と同じ年だろう…」
アレクシアの見幕に、後退さった公子が、分厚い絨毯に足をとられる。
柱に背がぶつかった。
短く呻くと、左肩を押さえてうずくまる。
「馬鹿が。傷口が開いたか」
アレクシアは、剣をひいた。
そういえば、怪我人だった。
仕方なく助け起こすと、少年は、目に涙を溜めながらも笑っていた。
「アレクは、本当に容赦ないくせに、女子供には甘いよな。去年は、私を子供だと思ってて、今は、昨日言った通り、女と思ってるわけ?」
アレクシアは、少年を軽く突き放した。
「遊んでる暇はないんだ」
「あせるな。女侯の護衛からは外してやったんだし、もう、いつでも塔に潜入できるだろう。でも、姫君を奪うなら婚礼の儀式の最中がいい。脱出には手を貸してやれるから、妥協して私の護衛をしていてくれ。何しろ、この通り怪我人で、今度刺客が来たら、まずやられてしまう」
不本意極まりない。
銅の谷の生き残りは、最後の祭主を取り戻すため、カーディーンの公子と手を組んだ。
負傷している公子を護衛する代わりに、デモナゼン砦からの脱出に、公子としての力を借りる事になっていた。
バイザル伯の首を狙って単身、その陣営に潜入したときとは違う。
アシェイルを伴って、ピリス男爵の追っ手を振り切る自信が、今一つなかったのだ。
仕方がないので、確認する。
「刺客の素性は、分かっているのか」
公子は、黙って椅子と小卓を元に戻した。
説明するつもりはあるらしい。
意外に律義だ。
アレクシアは、勝手に先刻の酒瓶を飾り棚から取り出し、新しい杯へ注いだ。
カーディーンの公子は、アレクシアが差し向かいに腰掛けるのを待って、語り出した。
「複数の死刑囚に、報奨金の約定を与え解放した。質より量だな。大分片付けたんだが、あと少し残っている。剣客崩れだ。雇い主の方は、巧妙に素性を隠しているつもりらしいが、お里は割れている。単純に言えば、ピリス男爵に、次の大公になって欲しいと思っている派閥。アレクには、カーディーンのお家の事情なんか、興味ないだろう。この説明でいいかな」
この話には、矛盾がある。
アレクシアは、杯を干して、再び赤い酒で満たした。
「セイラン・ピリス男爵も含めてか?」
公子は、何だか煮え切らない返事をした。
「たぶん…そうかな」
怪我をした公子を、医者のさじ加減に細工して殺すのならいざ知らず、この城塞で、剣客くずれが斬り殺すのを見過ごしたりしたら、重大な責任を問われるはず。
その危険は、考えないのか
「自分の懐で、お前を斬り殺したら、暗殺にならないじゃないか」
「雇用主は、そう考えるだろう。だからこそ、私は、デモナゼン城郭へ逃げ込んだんだ。ところが、捨て石の刺客が意地になってるようで、この様なんだよ」
公子は、左肩を押さえて見せた。
アレクシアは、鼻で笑った。
「何でも、お前の計算通りとは、いかないぞ」
「そうだな。敵でも味方でも、頭に血が昇っている奴の相手は、苦手だ」
黒髪の少年は、いつもの微笑みを消して、真剣に呟いた。
そうすると、心細い程小さな子供に見える。
アレクシアは、まったく不本意なことに、過保護になる連中の気分が分かってしまった。
同い年でなければ、罠に嵌まったかもしれない。
冗談ではない。
アレクシアは、果実酒を継ぎ足して質問を続けた。
「公子を暗殺しても、大公の実弟の将軍がいる。だからといって、そちらにも刺客を送ったら、やはり謀反がばれるだろう」
人の悪い笑みが戻る。
「結構、頭を使っているね。実際今、現大公がなくなれば、嫡子とはいえ若年の公子を押しのけ、将軍が次代の大公になるだろう、ということになっている。暗殺の標的は、どちらか片方でいい。公子が暗殺されれば将軍が、将軍が暗殺されれば公子が、その犯人だ。何故なら、片方を暗殺し、片方を反逆者として葬る。そして、残るピリス男爵が、大公に…という脚本なんだ」
アレクシアは、少し考えた。
「つまり、お前がここに来た以上、標的は、将軍に代わったんだな。私が相手をするのは、頭に血の昇った捨て石の刺客だけだと」
公子は、アレクシアの杯へ果実酒を注ぐと頷いた。
「叔父上は、前線だ。身の回りは、常に精鋭が固めている。奴らもさぞかし、やり甲斐があるだろう」
アレクシアは、少年の含み笑いを聞いた。
「嬉しそうだな。刺客が苦労することがか、それとも、将軍が暗殺されることが?」
「酷いな。そんなふうに見えるか」
「見える。悪党だし。叔父の一人ぐらい、簡単に悪巧みの犠牲にしそうだ」
「必要あればね。そう。確かに。悪巧みするのは、反逆者ばかりではないな」
少年は、不可思議な微笑みを見せた。
アレクシアは、昏い夜の、幻のような少女を思い出す。
漆黒の髪と瞳。
驚いたことに、記憶の中のアシェイルの姿が重なった。
従兄弟だったのだ。
やはり、どこか似ている。
泣き顔を、見たせいかも知れない。
黙って杯を傾けると、『冥』の祭主の従兄弟が、小さく笑った。
「アレクは、私が悪党でも、怒らないな」
「呆れては、いるぞ」
「真剣に怒る奴も、いるんだよ。敵よりは味方がね。もしかすると、刺客よりも、やっかいかもな…」
少年が、水で満たされた杯を、指で弾く。
アレクシアは、何故か途方にくれたような様子の公子を見つめた。
高い音が、奇妙な余韻を残し消えていく。
城主の婚礼を控えたデモナゼン城郭の一隅で、昏い会合が持たれていた。
「しばらくぶりの朗報だ」
男が、得意げに口火を切る。
「バイザル伯が死んで、アーメルドとの繋がりが、途絶えてしまっていたが、代わりが見つかった」
同席した者から、嘆息が漏れる。
「それは、確かに」
「しかも、頃がいい。それは、将軍の件にも使えますかな」
「もちろん…もちろんですとも。バイザル伯よりは、格落ちしますが、アーメルド軍関係の機密は、十分に知れます。将軍を窮地に陥れる格好の情報を、手土産にしてくれますよ」
「上々な、お手並みです」
男達は、上機嫌だった。
煙管からは、淡い緑の煙が立ち上ぼる。
仄暗い部屋には、きらびやかに装った数人の貴族が集っていた。
貴族達の卓から、一歩下がり控えている男がいる。
ピリス男爵の副官バナディである。
彼は、我が物顔で振る舞う貴族に対して、不快を隠せなかった。
最も嫌悪感を呼ぶ男が、ねっとりとした口調で、男爵に語りかける。
「佳き日ですな。花嫁は名流の血をもたらし、政敵は消える。セイラン殿。まったく佳き日です」
セイラン・ピリス男爵は、薄く笑う。
超然とした美貌は、己の顔に薄汚い欲望を臆面もなく張り付けた面々の中で、ほの白く浮き立っていた。
バナディには、それが痛々しく見える。
早く両親を失ったが故に、権力欲の強い傲慢な貴族達に、いずれ大公位につける傀儡として目をつけられてしまった。
年若い主は、もはや退くことはできない深みに、嵌まっている。
異邦に捕らわれていた妹姫を救い出すため、敵と通じてしまったのだ。
その事実も、男爵の枷となっている。
この屈辱的な状況に、主は、何故微笑んでいるのだろうか。
セイランは、微笑む。
意味の無い、未来のない欲望を語る人々を、哀れんでいた。
女神は目覚め、世界は崩壊する。
権力が、何だというのだろう。
まだ何か望みがあるとすれば、そう、彼は、彼の女神を抱いていたいのだった。
最期の瞬間まで。
愛しい恐しい女神を…
花婿として装ったセイラン・ピリス男爵は、その場に集う者を昂然とさせるほどに、美しい微笑みを見せた。
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