二 異境の宴
色硝子の嵌め込まれた窓から、眩惑的な光が降り注ぐ。
塔への螺旋階段を昇る青年は、老人のように疲れた足取りをしていた。
鐘楼から澄んだ調べが響き、彼の面の愁いを深める。
宴のざわめきは、高みに昇るほど遠ざかった。
歩哨が敬礼をして、主を通す。
最後の階段を昇ると、外側から大きな錠のかかった扉があった。
青年は、物憂い動作で懐から鍵を取り出す。
セイラン・ピリス男爵は、一瞬、痛みに耐えるようにきつく目を閉じた。
「セスリエル…」
濃密な薫りが、香炉から立ち昇っていた。
空気抜きの小さな窓以外は、漆喰で塗り込められ、樹木を象った彩色が施されている。
漆黒の長い髪が、女主人の背を覆い、更に、床に敷き詰められた毛皮の上に広がっていた。
燭台の焔は、日の差さぬ部屋を、白々しいまでの明るさに照らし出していたが、ピリス男爵は、闇を感じた。
妹の傍らに、膝をつく。
男女の差はあれ、よく似た繊細な面立ちをしている。
「セスリエル、眠らなかったのか」
瞬きもしない瞳が、虚ろに宙をさ迷っている。
妹は、昨夜見たままの姿勢で座っていた。
セイランは、華奢な少女を抱き上げた。
冷えた寝台へと運ぶ。
その縁に腰掛けさせると、そっとかき抱いた。
妹の髪を、指先で愛しげに梳く。
「セスリエル。昨日の夕刻から、どこか、いつもと違うね。何があったんだい。こんなふうに閉じ込めているのに、何があるというんだ」
男爵の指が髪を滑る度、人形のようだった面が、戸惑いと嫌悪でかすかに歪む。
「セスリエル」
セイランは、この一年半、取り戻した妹に語りかけ続けたが、夢うつつにいるような少女からは、何の反応も得られなかった。
セイランが、夢に描いていた妹とは、まるで違う。
だが、彼女は、彼を信じられないほど深く捕らえた。
一六年前になる。
有り得べからざる事に、デモナゼン城郭の城壁が破られ、城下の町が略奪された。
賊はすぐさま掃討されたが、逃げ延びたものもいた。
盗賊は、人質として、町に出ていた男爵夫人と幼い娘を攫って行った。
大規模な討伐隊が組まれた。
彼らは、略奪された品を取り戻したが、男爵夫人と令嬢は戻らなかった。
討伐隊が追いついた時、逃走した盗賊すべてが、何者かに斬り殺されていた。
高価な略奪品は、何一つ欠ける事なく散乱し、その上に、盗賊たちの切り刻まれた死体が、投げ捨てられていた。
奇妙なことに、男爵夫人の遺体だけが、丁重に埋葬されていた。
そして、どんなに探しても、令嬢は見つからなかった。
遺体どころか、服の端切れすらも。
妻と娘を失った男爵は、失意のあまり、まだ幼かった息子に砦を委ねて隠遁し、鬱々とした生活の果て病を得て亡くなった。
息子は、妹の生を信じていた。
まだ四歳だった少女は、記憶の中で愛くるしく生き生きとしていて、死の影がさすなど信じられなかった。
そして、一五年近くを経て取り戻したのだ。
セスリエルの睫が震えて閉じられた。
血を含んだように赤い唇に、兄の唇が重ねられる。
妹は、もはや愛くるしい幼女でも、母のように陽気で優しい女性でもなかった。
見知らぬ美しい女。
華奢で儚げな姿態、漆黒の、底の知れぬ闇を写した髪と瞳、うつつには無い、あやうい魂を持つ女だった。
深い接吻に、女が応えた。
セイランの腕の中で、女が別の存在に変わった。
異邦の巫女が目覚める。
青年が身を離すと、女は目を開けた。
その瞳は、赫い輝きを帯びている。
髪もまた変貌した。
赤銅に染まる。
女には、圧倒的な威厳と力と憎悪があった。
「ああ…」
セイランは、恍惚として彼の女神を見た。
女神もまた、妹のように、彼を見ない。
女は、残忍な意図を込めて、遥か遠くをねめつけていた。
その朱唇から、愛撫にも似たつぶやきが漏れる。
「我が半身。我が軛。おいで、私は、ここにいる」
香炉から立ち上ぼる薫りが、強まった。
「おいで。我が騎士、アレク……」
女神の来訪の刻は、短い。
女は、冷酷な微笑みを浮かべたまま、糸が切れたように崩れ、美貌の男爵に抱き止められた。
鐘楼から、澄んだ音色が響き渡る。
楽人の指は弦の上を滑り、竪琴はけだるげに唄う。
果てもなく運ばれる杯と豪勢な料理。
豊かな色彩の壁掛けや、金細工、銀細工で飾られた広間。
敷き詰められた高価な毛皮。
香炉からたちのぼる濃厚な薫り…
カーディーンの宮殿たる赤光殿ではありえない、辺境ならではのもてなしだ。
社交は脇に追いやられ、ただただ、快楽を提供するのに専念した宴だった。
客人は飽食し、舞や唄、その他もろもろの戯れ事を、思い思いに楽しんでいる。
「まいったな…」
アレクシアは、宴に乗じて城内を探るつもりだった。
ところが、レイスリン女侯の随行として、もてなされる側だった上に、外見が災いし、美貌の遊び女達に迫られた。
谷を出て一年半。
馬鹿げたことだが、男だと勘違いして迫ってくる女のあしらいには、慣れてしまっていた。
口で女だと言っても、信じる者はあまりいない。
脱いで見せるのも面倒だし、そういうときは、人気のないところに連れ込み、当て身を食らわせ、……逃げるのである。
「悪いな」
人気のない客室に連れ込んだ女を、気絶させ長椅子に横たえた時だった。
先客がいることに気が付かなかったのか、一組の影が滑り込んで来た。
「……無理で…傷が、まだ」
育ちのよさそうな、貴族的な風貌の青年が、小柄な人物をかき口説いている。
青年は、後ろ手に掛け金を降ろした。
妙なことになった。
アレクシアと連れの女は、新しく来た二人連れと、客用寝室に閉じ込められてしまったのである。
隙をついて逃げようにも、その隙が問題だ。
アレクシアは、舌を打った。
いっそ声を掛け、堂々と出て行った方がいいだろうか。
「そんな事を言いに来たのか。ウィストリク」
声の調子から言って、小柄な方は少年だった。
アレクシアは、出そびれた。
どこかで聞いた声だ。
「デモナゼンは、反逆者の巣窟ですよ。まして、病み上がりの身で…」
「黙って、叔父上との連絡役を務めていろ。お前、まさか、私が、まだ赤ん坊だとでも、思ってるんじゃないだろうな」
「…まさか。私と姉が、おしめの世話を承った時よりは、随分と大きくなられた」
ウィストリクと呼ばれた青年は、含み笑いをした。
聞いた名前だった。
彼は、蒼い瞳をしているだろう。
そして、もう一人は、黒髪で黒い瞳をしているのだ。
アレクシアは、長椅子の陰で憮然とする。
二度と会うまいと思っていたのに。
いや、まだ遅くはないか。
「だったら、いいだろうが。もう、行け」
少年は、苛立っていた。
「そう。気が付いたら、もう大人ですよね。本当にうっかりしてました」
青年の声が、不穏になった。
アレクシアは、それに全然気が付かない少年を、馬鹿かと思う。
ここまで、抜けているとは思わなかった。
「ウィ…ストリク?」
少年の声に不安が混じった。
今更遅い。
物音から察するに、どうやら、寝台に押し倒されたらしい。
「もう、子供だからと遠慮しなくてもいいわけだし、さっさと手をつけとかないとね」
青年の声は、冗談めかした楽しげなものだった。
「やめ…」
切迫した悲鳴が、途中でくぐもる。
きぬ擦れと言うには、荒っぽい、あらがう物音。
ウィストリクは、趣味は悪いが手際はよさそうだ。
アレクシアは、頃合いを計っていた。
もう少しすれば、出て行く者に気づかなくなるだろう。
助けてやる気は、毛頭ない。
銅の髪の戦士は、音も無く扉に向かった。
そこで、振り向いてしまったのが、一生の不覚だった。
のけ反った少年の涙の滲んだ目と、目が会う。
一拍遅れて、少年が叫ぶ。
「ア…、アレク!薄情者っ。たすけろーっっ!」
後は、条件反射だった。
ウィストリクは、背後から鞘に入った剣の一撃をくらって昏倒した。
アレクシアは、我に返るとつぶやいた。
「しまった。余計なことを…」
「相変わらず、情け容赦が無いな。放って逃げるつもりだったろう」
恨みがましい声がする。
黒髪の少年が、覆いかぶさった青年の体を、苦労して脇にどけた。
乱れた衣装を整える。
貴公子然とした絹物だった。
胸元を掻き合わせる指先が、かすかに震えている。
アレクシアは、見ない振りをして言った。
「女が襲われているなら、黙っていても助ける。だが、何が悲しくて、同い年の男を助けねばならない」
黒髪の少年は、口の端を歪め悲しげに笑った。
年の頃は、十三・四に見える。
が、去年言った事が真実なら、アレクシアと同じ十六歳のはずだった。
「まぁまぁ。見返りは、考えとくから…」
涙をためたまま、ふざけた事をいう。
アレクシアは、眉を片方引き上げた。
バイザル伯を討った時、この悪党に、いいように引きずり回されたのを思い出す。
「お前、以前も、男に襲われてなかったか」
「いや、あれは、酔っ払いに絡まれて…」
「あれは、女装してたから、か。そうだな。いいことを考えたぞ」
長椅子に寝かせていた女の薄物を取り上げると、寝台の上の少年に放った。
少年が、怪訝そうな眼差しでベールを見ると、アレクシアは、にやりと笑う。
「お前の方が、小柄だし似合うだろう。見返りに、私が『神宝』の在りかを探る間、塔の見張りを、誘惑していてくれないか」
少年は、寝台に突っ伏した。
そのまま、力の抜けた声で言う。
「アレク。一年の間に、随分、擦れたな…」
「…冗談だ。見返りなどいらない。お前は、女だったと思うことにする。それじゃ、今度こそ、二度と顔を見せるなよ」
少しは気が晴れたアレクシアは、立ち去ろうとした。
そこへ、悪魔の声がかかる。
「アレク…、この場を、見捨てないでくれたら、いいこと教えてあげるよ。例えば、幽閉された佳人の素性とかね」
アレクシアは、またしても、振り向いてしまった。
少年は、まだ小柄だったが、少しは背が伸びている。
去年は、肩まであった髪が、首筋ですっきり切り揃えられていた。
よくよく聞けば、声変わりも済ましている。
もっともらしい顔をして、黒地に金糸でこった刺繍の入った絹の衣を着込んだところは、貴公子といってもいい。
黙っていれば…中身を知らなければ。
「エリか、エリクか、ティルファ伯か、それとも、公子殿か、何と呼べばいい」
赤銅の髪の戦士が、皮肉な調子で尋ねる。
初めて会ったとき、エリまたはエリクと名乗っていた少年兵だったのが、別れる間際に、それは偽装で、実はカーディーン大公の嫡子、公子にしてティルファ伯だと、ふざけた告白をした。
こんなところまで入り込めるなら、本物なのかも知れない。
「お忍びで、従兄弟に会いに来た公子なんだから、公子かな」
少年は、さりげなく寝台の柱をささえにして、立ち上がった。
どことなく、生気がない。
「左肩をどうした」
アレクシアは、腕を延ばし少年の左肩を掴む。
「っつ……乱暴な…。傷口が開く…」
アレクシアは、罵声を浴びせた。
「人のせいにするな。何だこれは、着ているものが血で、ぐしょ濡れじゃないか」
つかんだ手が血にまみれた。
城内に焚き込められた濃密な香の薫りと、黒い地の装束のために、気が付かなかったのだ。
問答無用で着ているものを剥ぐと、元は白かったろう包帯が、鮮血に染まっている。
背に左肩から腰にかけて、大きな刀傷がある。
まだ生々しいそれは、ふさがりきらず血を流していた。
手当が悪いのではない。
致命傷でもおかしくない傷を負って、動き回る方が、馬鹿なのだ。
「馬鹿が。医者を呼ぶか?」
「この砦で?確実に止めをさされるな」
「手間のかかる奴だな。手当はしてやる。どうでもいいが、気を失うなよ。この部屋には、もう二人も、寝ているんだからな。面倒みきれん」
シーツを裂いて、包帯に換えてやる。
アレクシアが、身につけていた化膿止めや血止めでは、まるで足りないが、できるだけはしてやった。
豪勢な寝台で、うつ伏せに横たわった少年の背が震える。
熱でも出したかと思えば、笑っていた。
アレクシアは、苦々しい声で尋ねた。
「何がおかしい」
「え…おかしくない?」
顔だけ横向きにして、アレクシアを見上げた公子は、笑いの衝動と傷の痛みに、複雑な表情を見せた。
「…おかしいが、お前が笑っていい状況か?」
「いや…でも、そうなんだけど…」
アレクシアは、長椅子で気絶している婦人と青年貴族に目をやった。
「邪魔するんじゃなかった。お前、まんざらでも無かったんじゃないか。一瞬抵抗して無かっただろう」
「勘弁してくれ。この傷で、身動き取れなかっただけだ。正直いえば、ちょっとは、ま、いいかとは思ったけど…。ウィストリクは、本当は、叔父貴の信望者なんだ。私は、その粗悪な代替品というところかな。それとも、過保護が高じたのかな。抱いてしまえば、いうことをきかせられるとでも思ったか。どのみち、ありがた迷惑な話だ」
公子は、ゆっくり身を起こすと長衣を羽織った。
アレクシアは、冷ややかに少年を見降ろした。
手当した傷以外にも、その小柄な背は、縦横無尽に傷つけられていた。
古い傷痕の幾つかは、致命傷でも不思議でない深手だったはずだ。
刀傷ばかりではない。
焼きゴテや鞭の跡まである。
おそらく、拷問でも受けたのだろう。
この年で、この古傷では、当時は、ほとんど幼児のはずだ。
気分が悪くなる。
「カーディーンの公子は、あれだけ過保護がついていても、うっかり目を離した隙にだか何だか、奴隷より酷い待遇を受けるようだからな。無理強いするのは、どうかと思うが、彼としては、止むに止まれなかったんだろう。気の毒に」
「アレク。…それは、男の論理だぞ」
少年は、妙な抗議をしたが、アレクシアは、鼻で笑って取り合わなかった。
「それより、助けたあげく手当までしてやったんだ。さっさと、男爵の事を話せ」
「従兄弟殿は……」
「ピリス男爵は、公子の父親、カーディーン大公の従兄弟だろう」
アレクシアは、大公一族の家系図を思い浮かべた。
アーメルド公爵一族は、この長年の宿敵に比べると、子孫繁栄の点では、圧倒的に優勢といえる。
カーディーン一族は、ほぼ直系しか残っていない。
現大公とその弟アズィー将軍、嫡子たる公子である。
例外的な傍流としては、何代か前の大公を祖とするユイフォン侯爵家があるが、これも、当主が早世し、その門地は大公の預かりになっている。
セイラン・ピリス男爵は、先々代大公の庶子を母に生まれた。
つまり、現大公の従兄弟になる。
「正確にはね。でも、年の近い血族は、皆、従兄弟と呼ぶ。特にセイラン・ピリス男爵は血が近くて、叔父上と私についで、大公位の継承権第三位でもある」
カーディーンの公子は、見覚えのある人の悪い笑顔を見せた。
「第四位は、セスリエル・ピリス男爵令嬢。セイランの妹姫。アレクにとっては、アシェイル…」
アレクシアは、顔を顰めた。
「妹だと」
「と、云われている」
「愛人と云ってたぞ」
「と、も云われている。あるいは、両方かも」
「アシェイルは…」
アレクシアが呆然とつぶやくと、カーディーンの公子は、駄目押しのように言い切った。
「つまり、幼いころ誘拐されたセスリエル・ピリス男爵令嬢だな」
「馬鹿な。ピリス男爵は、『冥』の祭主を攫ったのではなく、妹姫を取り戻したまでとでも……」
「あるいは、両方。または、すべて偽り」
アレクシアは、公子の襟元を締めようとして、思い止どまった。
気絶されても困る。
「この嘘つきが」
「嘘は、ついていない。セイランが、何を思って行動したのかは、本人にしかわからない、と言っている。例えば、アレク。取り戻したいのは、『冥』の祭主なのか?それとも、友人なのか?友人となれば、兄から奪ってまでも欲しいのか、と聞くぞ?」
銅の谷の聖洞騎士は、押し殺した声で囁いた。
「アシェイルの悲鳴が、聴こえる。奪い返すのでも、欲しいのでもない。守らねばならぬだけだ」
公子は、無表情に、長身の戦士を見上げた。
「守られる側は、どう思うかな」
アレクシアは、虚を突かれた。
かすかに伝わる、けだるい楽の音が、思考を乱す。
一つの昼と夜を越え、異郷の宴は、果てることを知らない。
人々は、今も、倦怠の漂う快楽の園で、いたずらに戯れていた。
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