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銅の谷の女神

第二章 銅の女神

一 女神の奥津城
二 異境の宴
三 謀略の卓
幕 間

 


第二章 銅の女神


 

時は、ハンナム・カーディーン大公の治世一六年のことである。
後々、この年を振り返るとき、ある者は、赫く錆びた月光の元、引き裂かれた巨大な砦を思い浮かべ、また、ある者は、古の女神の憎悪と悲哀を思った。

一 女神の奥津城


陰鬱な灰色の闇が落ちる夕刻。
砂漠から吹きつける砂まじりの風を、城壁が、苛立たしい音をたてて遮った。
雲の流れは速く、嵐の刻が迫っている。
誰もが、安全な宿へ足早に向かった。
くすんだ空を背景に、濃い影に塗り込められた城がそびえ立っている。
デモナゼン城郭は、カーディーン大公配下の領土の最西端に位置し、目前に広がる砂漠と、その対岸アーメルド公爵領に対峙する砦である。
古い時代に造られたという歩廊を持つ堅固な城壁が、戦闘用の無骨な城と大規模な城下町を、抱え込むようにしていた。


砦への石段をたどる一団が、無数の松明に照らしだされていた。
飾りたてた騎士を先頭に、貴婦人の為にしつらえられた輿が何台かと、護衛の部隊が続く。
輿の中から、華奢な扇子が覗いた。
紗の帳を軽く退けると、レイスリン女侯は、城下を見渡す。
儚げな明かりが、嵐にせかされたかのように、町中に灯されていた。
高貴な婦人は、子供のように微笑む。
金の髪は、豪奢な飾り紐で結い上げられていたが、後れ毛が風に靡いていた。
「面白いわ。砂漠にも雨が振るのね」
輿の真横に付いていた護衛の兵が、視線を砦に向けたまま頷く。
赤銅の髪の若者は、侍従が止めるまもなく、女侯爵へ直答した。
「雨期には、酷い嵐になる。こんな所で足を止めていると、皆溺れてしまう」
レイスリン女侯は、扇子を広げて口許を覆うと、少女めいた高い声で笑う。
「めったにできない経験だわね。それも一興だわ」
小柄な侍従が、女主人の酔狂に目を剥く。
砦の鐘楼から、思いがけず澄んだ音が響いた。
刻を知らせる合図なのか、客人を迎える礼なのか、城下からも幾つか心細げな音が追従する。
砦の巨大な鉄扉の前で、先触れの騎士が呼ばわると、砦の主が、供を従えて現れた。
カーディーン大公の年若い従兄弟、セイラン・ピリス男爵は、大仰な儀礼の中で、許婚レイスリン女侯を出迎えた。
唐突に、目も眩む閃光が辺りを覆う。
すべてが容赦なく、激しい風雨に晒された。
耳を聾する雷の音が、悲鳴や罵声を消す。
騎士や貴婦人方の華麗な装いは、見る間に惨めな有り様になった。
取り乱した人々が、砦へ先を争い避難する。
叩きつける風雨の中で、只一人、轟然と砦の尖塔を振り仰ぐ者がいた。
端正というよりは、鋭い面立ちをした長身痩躯の若者で、背の半ばまで伸ばされた髪は、銅の谷の一族特有の艶やかな赤銅だった。
その眼差しは、ゆっくりと、許嫁を庇うピリス男爵に向けられた。
一族を滅ぼした片割れにして、神宝を奪い去った宿敵を前に、銅の谷の生き残りは、まごうかたなき歓喜を覚えていた。


事の起こりは、一年半前に逆上る。
そもそも、銅の谷は、エイオン峡谷の中のごく小さな自治領だった。
傭兵を生業にした武人の一族で、大半が、成人すると谷から出ていく。
谷に残るのは、老人と修行中の子供、谷の聖域を守る祭司、産み月を控え、子供を生む為に故郷に戻った女達である。
男は、いない。
男が生まれれば、その日のうちに、谷の外へ出される掟であった。
「アレク」
朝早く、決められた修練の刻だった。
真剣で撃ち合っていた子供達の一人が、相手の剣を弾き飛ばし振り返った。
年若い祭司が、手招きしている。
アレクシアは、剣術の師が頷くのを見て、仲間の列から抜けた。
急な斜面を、所々突き出ている木組みを足掛かりにして、身軽に登っていく。
この子供は、銅の谷の戦士の常で、性別を感じさせない硬質の容貌を持っていた。
その身のこなしや肢体は、青年に近い少年としか見えない。
彼女は、自分に比べると、いかにも少女めいた祭司の前で膝を付いた。
祭司の菫色の瞳が、眩しげに瞬いた。
「アレクシア。祭司長様から、お話があります。すぐに装束を改めて、聖洞へいらっしゃい。今宵の儀式のために用意した正装よ」
「承りました。祭司サディア。聖洞への先導は、お願いできるのでしょうか」
若い祭司は、弾んだ声で応えた。
「もちろんよ。楽しみにしていたんですもの」
アレクシアは、怪訝そうに眉を寄せた。
「祭司長様の御用とは何か、貴方に伺っても、よろしいですか」
サディアは、ひらひらと手を振り笑った。
その様子は、とても聖別された祭司には見えない。
ちょっとしたことで、笑い転げてしまえる若い娘でしかないようだった。
戦士として育てられる子供達とは違う、陽に焼けていない白い肌に、そばかすが愛嬌を添えている。
「違うわ。祭司長様の話が楽しみ、ではないの。貴方の正装が、よ。聖洞騎士の見習いさん。きっと、歴代の聖洞騎士の中で、一番似合うわね。貴方が、祭司ではなくて騎士を選んだのは、本当に正しい判断だったわ。しかも、それを初めに、私に見せてくれるのよね」
銅の谷の子供たちは、六つになると、祭司長の託宣を受ける。
アレクシアは、谷の外へ出る傭兵になりたかったのだが、希有なことに、祭司の才と、聖洞騎士の才、双方に恵まれていたため、別の選択を迫られた。
そこで、祭司になるよりは、せめても戦士である聖洞騎士を選んだ。
決して、衣装で選んだ訳ではない。
アレクシアは、祭司に口答えする無礼を避けて、視線だけで抗議した。

聖洞に入ると、空気が変わる。
それは、外界がいかなる気候であろうと、冷たく澄んでいた。
高い天窓から、幾筋もの光が降る。
初めの広間は、旅立つ銅の谷の戦士へ祝福を送る場だった。
それを過ぎ、祭司の先導によって、動植物の浮き彫りが美しい通路を下って行く。
祭司の修行や儀式のための場は、聖洞の下層に行くほど、壁画や浮き彫りによって華やかに埋め尽くされている。
アレクシアは、サディアに導かれるまま、生まれて初めて聖洞の最下層に足を踏み入れた。
「アレクシア。銅の女神の僕よ」
地底の聖域は、老いた祭司長の震える声音を、大音声にして反響させた。
驚いた事に、主だった祭司がすべて集まっている。
サディアは、目礼すると、さりげなく退出した。
アレクシアは、六歳の時したように、多くの皺が刻まれた老女の手の元に、ゆっくりと跪いた。
静寂が、辺りを支配している。
老祭司の瞳が、アレクシアの視線を受け止めて揺れた。
「今より、成年の儀礼を受けよ」
日のあるうちに、ただ一人でというのは、異例の事だった。
儀礼は、今宵、同年の子供達と共に、受けるはずだ。
しかも、ここは、成年の儀礼の行われる場ではない。
もっと神聖な、祭司による谷の秘儀が行われる祭祀場だった。
しかし、アレクシアは、沈黙を守った。
聖洞騎士の見習いとしての年月が、祭司への服従を身に着けさせていた。
気が付くと、祭司の詠唱が空気を震わせている。
祭司長とアレクシアを中心に、円陣が組まれた。
大振りの剣が、二人の祭司によって運ばれてくる。
剣を覆う布がとかれた。
二人のうち年長の祭司が、聖布と鞘を持ち去る。
残された祭司が、剣を両の腕で掲げた。
詠唱は高まり、香炉から淡い緑の煙が立ちのぼる。
祭祀場の床は、樹木を意匠に、タイルが引き詰められていた。
だが、それは、見る間に透き通って行く。
アレクシアの琥珀の瞳に、あるはずのない深淵が映った。
意識が、降下して行く。
深淵の闇は、燐光を孕み脈打っていた。
闇の果てには、女神が眠っている。
それを見るのは、祭司のみだった。
また、女神と交感することができるのは、祭司の中でも、祭主と呼ばれる特に選ばれた者、数名のみという。
「アレクシア。祭司にして聖洞騎士たる稀なる者よ。そなたの祭主に誓を。女神の御前にて」
老祭司の震える声は、アレクシアを我に返した。
祭司長アグリスは、慈愛と、憐憫のこもった眼差しを、新たな、そして希有な聖洞騎士に向けた。
アレクシアの表情は、動かなかった。
その様子は、不遜で、傲慢ですらあった。
獣を思わせるしなやかな動作で、ゆるりと起つ。
抜き身の剣を掲げ持つ祭司に向かって、歩み寄った。
詠唱は止んでいた。
その場に集った祭司の誰もが、息を詰めている。
アレクシアの、少女にしては低く掠れた声が、誓詞を以て静寂を破った。
「我に、御身を守る剣を授け給え。女神の僕、祭司アシェイル。今ここに、我が命の有る限り、そして、死して後までも、女神の分身たる御身を、守護する事を誓う」
祭司にして祭主たるアシェイルは、かすかに身を震わせた。
その華奢な腕から、剣を受け取ると、アレクシアは、小さくささやいた。
「そして、我が友アシェイルを守る」
誓として自ら断ち切った赤銅の髪が、漆黒の鎧の背を滑り床に散った。
続けて、緋の外套を受け取り身につける。
それを見届けて、儀式は終わった。
祭司長は、新たに得た聖洞騎士へ祝福を贈った。
「聖洞騎士アレクシア。そなたの儀礼を急いだは、神託ゆえ。『冥の祭主』アシェイルに、変事の起こる予兆があった。それは、一族の命運にも拘わる事。ひいては、銅の女神にな。おのれの役目を果たせよ」
アグリスの瞳には、またしても、憐憫がたたえられている。
アレクシアは、不遜なまでに真っすぐ、老祭司を見返した。
「命に代えましても」
祭司長は、深く頷いた。
「お前は、それを果たすだろう。アレクシア。一つ、銅の谷の祭司の長として命ずる。今から、ヘイセルの谷に向かえ。我が一族の古い祭祀場跡だ。祭具を一つ納めに行くのだ」
アレクシアは、瞬きした。
「それは、聖洞騎士の役目ではありません。祭主アシェイルの側を、離れることになります」
アシェイルは、すがるような眼差しで友を見つめた。
祭司の常で、身を覆うほどに伸ばした髪は、銅の谷の一族には、珍しい黒髪だった。
アシェイルは、血族ではない。
祭主長に『冥』の祭主としての才を見いだされ、幼い頃、谷の外から連れて来られた娘だった。
十余年を経ても、どこか、一族に馴染んでいないところがある。
蒼白の面は、可憐で、実際の年齢より幼く見えた。
脅えた目をしたアシェイルは、女丈夫の一族の中で、異質なまでに、もろく、はかなげな生き物だった。
アレクシアは、どういうわけか、そんな彼女に、強く魅せられていた。
聖洞騎士になることを定められる前の、ほんの子供の頃から、この華奢な祭司の、自他共に認める守護者だった。
アシェイルも、アレクシアには、心を開いていて、時には微笑みを見せることもあった。
正式に彼女の守護者となったばかりなのに、置き去りになどしたくない。
だが、祭司長の眼差しが気になった。
「行かねば、そなたは、おのれの役目を果たすことはできぬ」
老祭司の深いため息が、アレクシアを頷かせた。
「ヘイセルならば、今宵の内には、戻れましょう」
アレクシアは、かすかに震えるアシェイルの肩を抱くと、外套を翻して、祭祀場を後にした。
祭具は、小さな香炉だった。
聖布で包むと、谷の中でも、足の速い馬に騎乗する。
聖洞の外では、習練が続いていた。
剣術の師、サイリアが、聖洞騎士の正装をしたままのアレクシアに、口笛を吹く。
気が付いた習練の仲間が、冷やかすような歓声を挙げた。
その側で、祭司サディアが、大きく手を振って見送っていた。
サディアは、祭司であったが、サイリアの娘でもあるので、よく習練場に顔を出すのだ。
アレクシアは、片手を挙げて挨拶を返す。
そのまま彼女の脇を駆け抜け、ヘイセルに向かった。


その夜。
それが、銅の谷の最後の夜だった。
火の手が上がっているのに気づいてからの記憶は、曖昧だった。
ヘイセルからの帰路は駆け通しだったが、その時点で、馬に対する配慮など吹き飛んだ。
鞭をくれ、死力を尽くさせると、銅の谷の柵を越える。
そのいきおいのまま、剣を抜くと、篝火を前にした人影をなぎ倒した。
驚いた表情の首が墜ちる。
鎖かたびらの上に着込んだ外衣に、見慣れた紋章があった。
「バイザル伯か」
我が物顔で、谷に踏み込んでいた男達は、近隣の領主バイザル伯の兵だった。
炎上し、消失した家屋は燻り、血溜まりが暗く澱んで見える。
もはや、そこここに散らばる死体からは、死臭が漂っていた。
打ち捨てられた銅の谷の者は、大抵、夜着のままで武装している者はいない。
谷の一族とバイザル伯とは、長年、友好的な関係にあり、銅の谷の子供の父親は、バイザル伯領の者である事が多い程だった。
この襲撃は、完全な不意打ちだったのだ。
銅の谷が武人の一族であるとはいえ、長くは抵抗できなかったろう。
戦闘は、すでに終わり、今は、敵兵も、撤収の作業の為に残っているに過ぎない。
アレクシアは、奥歯を噛み締め、呻き声を殺した。
聖洞の入り口近く、子供達の格好の遊び場だった大きな樫の木に、大柄な女が、何本もの強弓で縫い留められている。
「サイリア!」
アレクシアは、馬を降りかけ寄る。
剣術の師の体は、冷えていた。
その右腕は、どす黒い血と肉片とがこびりついた剣を、握り締めて固まっている。
アレクシアの無防備の背に、剣が振り降ろされた。
相手の死を確信しきった男が、胴を断ち割られて倒れる。
銅の谷の残党を狩ろうと、数人の兵が集まって来た。
夜の闇の中、アレクシアの琥珀の瞳が、篝火を映して獰猛に輝く。
銅の谷の生き残りは、怒りで熱した頭を冷ますため、すぐさま屠る事ができる獲物を得て喜んだ。
アレクシアが、悲鳴をあげる最後の一人を切り捨てるまで、さほどかからなかった。


聖洞の中は、静まり返っていた。
広間と通路には、何故か、ありったけの明かりが灯されている。
かすかに、香が薫った。
略奪の爪跡は無残だったが、祭司の遺体はない。
アレクシアは、顔に飛んだ血飛沫を拭うと、今朝辿った通路を捜した。
しかし、祭司の先導がなければ、聖洞の下層は迷宮だった。
「アレクシア」
震える老祭司の声が聴こえた。
「祭司長アグリス。どこです」
アレクシアの声は、殺気を帯びて鋭いものだった。
くぐもった笑いが、響いた。
「無駄じゃ。聖域へ至る道は、閉ざされた。人も大気も通わぬほどに」
アレクシアは、声をひそめた。
老人の息は、苦しげで、今にも途絶えそうだった。
「生きておられるのですか」
「あと、少しは、の。皆は、先に眠った。この老いぼれは、そなたを待っておったのよ。稀なる者、祭司にして最後の聖洞騎士よ」
聖洞騎士は、途切れ途切れの声が、肉声でないことに気づく。
明け方の儀式と同様に、意識が壁や床を突き通し、求めるものが透けて見えた。
仄暗い聖域、薫る香、眠るように穏やかな死に顔の祭司達、老いた祭司長の苦しい吐息…。
「何故です。何故、私を遠ざけたのです」
「これは、避け難き事じゃった。しかし、そなたを失うべきでは、なかったのでな。それより、わしからの最後の使命を与えよう」
「聞くと思うのですか」
「他に、しようもあるまいからの。そなたは、バイザル伯へ贈る我が一族の『復讐の剣』となれ」
アレクシアは、嘲るように微笑んだ。
「承りましょう。こう隔てられていなければ、貴方にとどめをさして差し上げたのに。何が…『おのれの役目を果たせ』だ」
老女の答えは、軽い笑いと共に返って来た。
「行け。そなたの役目は、そなたが思わぬような形で果たされるぞ」
祭司長の意識が途切れた。
同時に、酷い目眩が、アレクシアを襲った。
脈打つ闇、白い肌の女神、艶やかな光沢の銅の髪、乳白色の杖が、ねじくれた角のように、額に打ち込まれている。
サイリアの豪剣に、たたき伏せられる兵士。
強弓が、女戦士に執拗に打ち込まれる。
絶叫が尾を引く。
祭司達の穏やかな死に顔。
緋の外套、漆黒の鎧、琥珀の瞳が、焦燥と怒りでぎらついている。
思い出したように、血飛沫を拭う……
「祭司長!」
アレクシアが見た物は、アグリスが見た託宣そのものだった。
老祭司長から、最期の祝福が、贈られるのを感じた。


半年後、アレクシアは、バイザル伯を討った。
バイザル伯の早世した息子には、銅の谷の女との間に子供があった。
銅の谷の女戦士は、身籠もれば、独りで谷に帰る。
女の子が産まれれば谷で育てるが、男の子であれば里子に出す。
どちらにせよ、子供の父親と暮らしたり、父親に子供を渡すことは、稀であった。
それ故に、アーメルドの名門貴族であったバイザル伯は、孫を跡継ぎに欲して、襲撃を行ったのだった。
アレクシアは、祖父の首を落とした後、祖父に谷の襲撃を唆し、谷から『神宝』を持ち出した者がいる事を知った。
それを口にした少年は、『神宝』を宝物と、思っていたようだが、谷にそんな物はなかった。
あるとすれば、それは、祭主だった。
アレクシアは、『冥』の祭主アシェイルを思う。
役目は果たされると、アグリスは言った。
それでは、取り戻せるのだろうか。
更に一年を掛けて、アーメルドの銅の谷の戦士は、カーディーン陣営、デモナゼン城郭に潜入した。




閃光が、小さな尖頭窓から侵入し、燭台の焔を震わせる。
石造りの城壁は、雷鳴をかすかに通した。
「陰気なところね。嵐のせいかしら」
レイスリン女侯は、侍女に髪を梳かせながら言った。
手鏡の角度を少し変えると、赤銅の髪の若者が写る。
「戦闘用の城だからな。優雅な舞踏会でも似合う、繊細な城を期待していたのか」
侍女が、首をすくめる。
女侯の寝室には、三人きりだったが、侍従長の叱責が聴こえて来たような気がしたのだ。
この若者は、高貴な婦人に対して、直答するどころか傲岸不遜な口をきく。
もっとも、そこが、酔狂なレイスリン女侯に、気に入られたのだが。
「そうね。辺境とはいえ、一応貴族もいるし、一応宴もあるそうよ。ピリス男爵は、美青年でしょ。ちょっと線が細いけど、一応、以上よ。しばらくは、退屈しないでしょうね」
「よかったな」
レイスリン女侯は、侍女が編み終えたおさげを揺らして笑った。
濃い化粧を落として、夜の楽な衣になると、高雅な貴夫人は、あどけなさの残る娘に変わる。
侍女を下がらせると、化粧台の前から寝台へ移った。
枕を子供のようなしぐさで、抱き締める。
そして、無礼な護衛を見上げた。
「アレクが見かけ通りだったら、もっと、よかったのに。ひどいわ。ピリス男爵より、私ごのみの容姿で、どうして、私より年下で、しかも、女の子なのよ」
アレクシアは、苦笑した。
この婦人は、菫色の瞳の祭司を思い出させる。
「女だからこそ、貴夫人の身辺警護になった。だいたい、婚約者の城で、男が寝室にいたら、まずかろう」
「あら、それは問題ないわ。この婚姻は、家同士の契約で、私とピリス男爵の恋愛じゃないもの。彼も、秘密の愛人がいるみたいだし。何でも、塔の一つに幽閉しているのですって」
「愛人を幽閉する男…その噂、確かめてやろうか」
何を考えているのか、青年に見える少女は、その薄い唇で微笑んだ。
琥珀の瞳は、燭台の焔を映して、昏い輝きを見せる。
「貴方が男性だったら、…ねぇ」
レイスリン女侯エフィナは、妙にしみじみと言った。
アレクシアは、女主人のため息を無視する。
「城内で、ある程度、自由に動けるよう、取り計らってくれないか」
「いいわよ。また、つばめの言いなりの有閑婦人と、いわれそうだけど」
「…いわれたのか」
長身痩躯の若者は、困った顔をした。
辛辣な口をきくかと思えば、人がいいところもある。
おさげ髪の貴夫人は、微笑むと言った。
「ひどいでしょう。私が有閑婦人だというのは、否定しないわ。でも、こんな態度が大きい、つばめが、いるもんですか。失礼よね」
レイスリン女侯の軽やかな笑い声で、アレクシアの琥珀の瞳が和む。
「私は、貴方が好きだ。男でなくて、残念だけど」
「あら、嬉しいわね。でもアレクには、恋人がいるのではなくて。何だか、いつだって、思い詰めた顔をしているわよ。恋患いだと思っていたわ」
アレクシアは、頭を振った。
「さらわれた、大事な人を探しているんだ」
「それは、ピリス男爵が、幽閉している人のこと?だから、婚約者である私に仕えて、近づく機会を狙っていたの」
アレクシアは、有力貴族だった領主を殺して、カーディーンへ亡命して来たという。
何を期して、レイスリン侯爵家に雇われたのか、謎だった。
だが、狙いがピリス男爵なら、よくわかる。
そして、レイスリン女侯は、婚約者よりも、この異邦人を気に入っていた。
「アレク。私は、いいから、思った通りに動きなさい。どんな協力でもしてあげるわ」
アレクシアは、目を瞠るとやわらかく微笑んだ。
そのまま、枕を抱いたおさげ髪の貴夫人に、礼をして寝室から出て行く。
レイスリン女侯は、二度目のため息をついた。
「深入りは迷惑ということね。でも、どうしてあれで、女なのかしら…もったいない」


兵士達に当てられた部屋へ向かい、螺旋の石段を降りる。
ふと、遠い雷鳴の中に悲鳴を聴いて、立ち止まった。
尖頭窓から、別棟の塔を見上げる。
銅の谷の戦士は、つぶやいた。
「『冥』の祭主を、取り戻すことがかなわねば、この地は、女神の奥津城として滅びるだろう…」
それは、老祭司長、最期の託宣でもあった。

 


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