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四 ベルスン炎上


右往左往する人込みの中に、傭兵隊長が姿を現した。
黒髪の少年へ、視線で合図を送る。
そのまま傍らのアレクシアに、一瞥をくれると踵を返した。
その目つきは、かなり剣呑なものだった。
「アレク」
エリクは、アレクシアを促すと走り出した。
アレクシアは、慌てず手にしていた酒を飲み干し、空の袋を背後に放ってから、少年の後に続く。
本来なら、誰しも、灼熱した日差しを避けて休息する時間であった。
悲鳴と怒号が上がり、ベルスンの市場は、自分の荷をかき集め逃げだす商人と、どさくさに紛れて略奪に走る者に踏みしだかれた。
中途半端な武装の兵が 宿舎から吐き出され、混乱に輪をかける。
入り組んだ路地の貧弱な石畳は、逃げ急ぐ馬車や荷車、人々の足をとり転倒させ、何人かは押しつぶされて命を失った。
エリクは、人ごみを器用に、すり抜けて行く。
先行する傭兵と、エリクとアレクシアの三人は、人々の波に逆らい、ベルスンの中心である巨大な水盤へ向かった。
彼らが水盤の広場に足を踏み入れたときには、もはや人けはなく、奇跡のように三頭の馬だけが繋がれて残っていた。
悲鳴まじりの号令と、剣戟の音が近づいてくる。
エリクは、手綱を受け取ると、ライリンの背を叩き笑った。
「はでだな」
「カーディーンだからな。中でもティルファの出身のものは、火薬を使う」
ライリンが、憎々しげに言う傍から、ベルスンの西の端に火の手が上がる。
「アルカーの補給部隊から略奪し、行きがけの駄賃にバイザル伯の陣を叩いて、快進撃中か。ベルスンは、ひとたまりもないな」
エリクは、アレクシアを振り返った。
笑っている。
口の端を片方引き上げる、人の悪い微笑。
それは、アレクシアに、昏い夜の幻のような、子供の姿の魔物を思わせた。
ベルスン常駐の守備隊が、 ようやく態勢を整え反撃を始めたと見え、寄せ手の勢いが衰えた。
だが、すでに燃え広がった火勢を押さえる術はない。
灼熱する日差しと相まって、兵を苦しめる。
剣に倒された兵を、馬が蹄に掛け、焼かれて熱を持った土塀が、闘う人馬の上に倒壊した。
戦いの喧噪は、じりじりと押し寄せて来つつあった。
それとは逆の方向から、女を横抱きにした傭兵が、馬で駆け込んできた。
明るい栗色の髪をした、ベルバ地方出身の傭兵の一人だ。
その後に、がっしりとした体格の中年の男が続く。
灰色の外套のなかに、帯刀している様子はなく、商人のように見えた。
女は、馬から降ろされると、不安げに視線を巡らせた。
エリクが、進み出て彼女を支える。
そのとき、彼の微笑みは、優しいと言っていいものだった。
「アル・ハウィン。手荒になってしまって、ごめん」
褐色の肌の女は、自分の隊商からさらわれるようにして来た。
自分に関しては、その理由を問いただそうとはしなかった。
だが、残された女達を、案じないではいられない。
「エリ。私の隊商は、どうなるの」
「攻め手の兵は、見かけより数が少ない。バイザル伯の陣を攻めた以上、他の陣からの援軍に追撃される。ここで略奪する余裕はない。危ないのは、この騒動に便乗して悪さをしようって奴らのほうだが、隊商は先行して出発させたし、うまく行けば逃げきれる。だめでも、女だし、そう酷い目には会わない。何にせよ、アル・ハウィンだけは絶対に守る。髪の毛一筋傷付けさせても、叔父貴が怒り狂うだろうからね」
この少年は、仮にも親しんだ姐達の危機に、そう関心を持っていないらしく、隊商の安全は保証しなかった。
アル・ハウィンは、小さくため息をついた。
どのみち、彼女にしても、どうにかできることではない。
ライリンは、少年の頭を小突いて言った。
「それで、どうするんだ。だいぶ危険が迫ってるぞ」
なるほど、大気が熱し、煙が立ち込めてきた。
肉の焼け焦げる臭いと血臭が、間近まで押し寄せる。
一行の視線を集めた少年が、口を開いた。
「頃合いだな。からくりを動かしてもらおうか。ベルスンの長殿」
それまで、控えめに佇んでいた、灰色の外套の男が、黙って頷いた。
懐から、大振りの鍵の束を取り出すと、水盤に向かう。
複雑な意匠の文様に、隠された鍵穴があった。
三本の鍵を差し込み、次々に回す。
鍵穴の真下の彫像が、ゆっくりと回転する。
続いて、何かが、地中をすべり落ちる音が響いた。
それは、次第に大きくなり、地鳴りのようになっていく。
「これで、最後です」
男が、ぼそりと呟いた。
その途端、ベルスンの四方へ、爆音とともに巨大な水柱が立つ。
そちらに気を取られていると、今度は、背後で水盤が大きく割れた。
水は、完全に止まっていた。
水盤の割れ目から、湿った空気が立ち昇る。
見れば、水をくみ上げる仕掛けとそれを囲む回廊が、地中深くに伸びている。
そして、その中途に、大きな横穴が一つ。
通常なら、大の大人でもしり込みしそうな暗闇に、年端もいかぬ少年が、躊躇無く馬を進める。
彼は、振り返って、嬉しそうに手招きした。
「涼しいぞ」
皆それぞれ、緊張の面持ちだったのだが、その一言で崩れた。
アレクシアなどは、更に複雑な表情になったが、残りの者は、苦笑しつつ少年の後に続く。
一行が馬ごと抜け道に入ると、水盤が音もなく元に戻った。
ただ、もう水は流れない。
このベルスンの水源は、最後の一滴まで水柱となり、砂漠に撒かれ涸れてしまった。
ベルスンの地下道は、水盤のからくりを作った当初、土砂の運び出しや巨大な器具の搬入に使用したものなので、人馬が楽に往来できる程の大きさがある。
通風穴も生きていて、松明は無事に灯った。
しばらくすると、枝道に行き当たる。
エリクは、この地下道の地理を熟知しているようで、迷いなく進路をとった。
幾つ目かの枝道の前で、アル・ハウィンに告げる。
「ここで別れる。その道を登れば、叔父貴の部下が、出口で待っている。叔父貴には、今日中に会えるよ。よろしく言っておいてくれ」
ベルスンの長が、鍵束の中から一つを抜き取り、アル・ハウィンの護衛につけた若い傭兵に渡す。
褐色の女は、悲しげに少年を見つめると頷いた。
そして、細い声で言う。
「気をつけて。エリ」
エリクは、隊商の女将に向かって、力づけるように微笑む。
それから、一歩下がって傍観していたライリンへ声を掛けた。
「ライリンも、アル・ハウィンの護衛に付いて行ってくれるかな」
それは、半ば命令だったが、傭兵隊長は拒んだ。
「ラハスがいれば、十分だ。俺までが行ってしまっては、お前のお守りが、居なくなる」
「俺は別に、お守りはいらないよ」
エリクは、力の抜けた声で言った。
そこへ、心底心配そうなアル・ハウィンが、口をはさむ。
「私の護衛は、ラハスがいれば十分よ。ライリンは、エリに付いていてあげて」
アレクシアは、呟いた。
「なるほど、過保護だ」
「追い打ちを掛けるなよ。アレク。情け容赦無いな」
エリクがぼやくと、鞘に納まったままの大振りの剣が、少年の首筋に当てられる。
アレクシアは、エリクの顔を剣先ですくい上げると、ライリンに向かって言った。
「この首は、バイザル伯の首の質だ。奴の首をとるまでは、何があっても生かしておいてやる。安心して行くがいい」
ライリンが、剣の柄に手を掛ける。
傭兵隊長の剣呑な眼差しが、アレクシアの静かな琥珀の瞳を射る。
アレクシアは、苦笑した。
この男は、私が彼の大事な少年を害すると思って、睨んでいたわけか。
ライリンが、アレクシアの考えたことを悟って、真っ赤になる。
エリクは、その間身じろぎもしなかったが、ライリンの罵声より早く、片手で剣を退けた。
「ライリン。行くんだ」
少年の口調は、どこか逆らいがたいものがあった。
彼は、ライリンの苦い物を飲み込んだような顔を見てとると、笑って付け足す。
「アレクは、守ってくれる、と、言ったんだよ。バイザル伯の首をとるまではね。俺としては、アル・ハウィンを叔父貴の元に送って、他の皆と合流し、早めに取って返してくれたほうがいい」
ライリンは、諦めたように目を伏せる。
「わかった。なるたけ早く行く」
アル・ハウィンとラハス、そして渋い顔のライリンの姿が、枝道の闇に紛れて行った。
それを見届けると、残った者達は、やや気まずい沈黙の中、先に進んだ。
ほどなく、地下道の端の扉に突き当たる。
 ベルスンの長が、馬を下りて、再び鍵束を取り出した。
地上に出て見ると、扉の表側は岩壁で偽装されていた。
ベルスンの長は、感慨深げに、手の中の鍵束を見つめると、使い道の無くなったそれと、松明の燃えかすを、地下の暗闇に向かって投げ捨てた。



五 二つの結末


薄暗い灯に慣れた目が、地上の焼けつくような照り返しに馴染むまで、しばらくかかった。
何度も瞬きをした後、アレクシアは、そびえたつ岩山を見た。
灰色の岩以外、何も無い山の上に動く者がある。
誰かが、いる。
エリクは、喉の奥で満足げに笑う。
「約束の刻限に遅れたな。バイザル伯は、お待ちかねのようだ」
アレクシアは、バイザル伯を都合のよい場所におびき出すと言う計画など、カーディーン軍のベルスン襲撃で、失敗したと思い込んでいた。
だが、こうして、計画通りという含みを聴くと、奇妙にも納得する部分がある。
この子供は、自信たっぷりに大人達を動かしていた。
カーディーン軍の動きまでも、計算に入れていたのだ。
バイザル伯の兵は、焼けたベルスンで、無駄な時間を掛け主を探すだろう。
ところが、彼は、内密の報告を受けるため、ベルスンより更に誘い出されていたのだ。
灰色の外套の男が、嗄れた声で呻く。
「奴が…」
エリクは、ゆっくりと馬を進めた。
「バイザル伯は、銅の谷を滅ぼした。その首は、銅の谷の戦士アレクシアに。そして、その心の臓は、銅の谷で、恋人と娘を失ったベルスンの長に進呈しよう」


バイザル伯は、三つの騎影が、やって来るのを見つめていた。
彼は、歳をとってなお、丈高く炯々たる眼光の持ち主だった
アレクシアは、傲然と立つ男の影を見上げながら、明け方の取り乱した老人と比べた。
「愛妻の浮気話を、聴こうという態度じゃないな」
ベルスンの長が、顔を顰める。
「愛妻?バイザル伯夫人は、四〇年前に亡くなってる。確かに、血統を保つための一族に強要されて、後妻を娶ったが、顔も見ずにほったらかしだそうだが」
エリクが、相槌を打つ。
「そう、そう。その上、男手一つで育てた最愛の一人息子は、若死にするしね。自棄になるのも仕方ない。同情するね」
アレクシアは、唸った。
「なんだと」
少年は、ちらりと、アレクシアを横目で見た。
「極秘の書状だ。アレクは、人の浮気調査の結果を、読んだりしない。見るのも嫌だろう。だからさ」
「大嘘付き」
「うん」
「悪党」
「…かもね」
二の句が継げず憮然とするアレクシアへ、ベルスンの長が話しかける。
「銅の谷のお方。こんな時だが、お尋ねしても、よいであろうか」
「何か」
「銅の谷の一族は、全て滅ぼされたわけではないと聴いた。だが今までに、奴目を討ちにきたのは、貴方一人。生き残ったのは、貴方だけなのか」
「いや。生き伸びたのは、私だけではない。ただ、『復讐の剣』として、私が選ばれたというだけだ」
ベルスンの長は、その無骨な容貌のなかで、只一つ、可憐でさえある菫色の瞳を瞬かせた。
「それでは、その、私の妻…、貴方がたは、そうは言わないだろうが、谷の戦士で、私の妻だった、サイリアを知らないだろうか。彼女は、何年も前に、子供を身籠もって行ってしまった。彼女は、それに子供は、死んだのでしょうか。生きては…」
アレクシアは、頭を振った。
サイリアは、白い夜衣を鮮血に染めて、闘って闘って息絶えた。
常には、小さな教え子を前に、ありとあらゆる剣技を、惜しみなく見せる師であった。
あの夜、その肉を断ち骨を断つ豪剣は、敵はもちろん味方といえど、うかうかと近づくことを躊躇わせた。
強弓が、彼女を大木に縫い止めた。
恐怖にかられた射手によって、次の矢もその次の矢も、執拗に彼女の身体に打ち込まれた。
最後の矢が打ち込まれる寸前に、彼女が絶叫したのは、誰の名だったのだろうか。
そして、サイリアの娘。
優しい菫色の瞳をした、年若い祭司。
切り裂かれて死んだ戦士たちとは違い、祭司たちは、聖域たる洞のなかで眠るように息絶えていた。
「二人とも、谷にいた。サディアは、谷の娘の中でも父親の名を知っている数少ない一人だった」
アレクシアが、男に語れたのは、それだけだった。
ベルスンの長は、眼を瞑り、見ることも無かった娘の名を呟く。
そして、アレクシアに向かって、小さく頭を下げた。
エリクは、失われた者を悼む二人を、いたって静かに眺めていた。
憎しみに激高することもなく、悲しみに号泣することもない、淡々とした復讐者達。
この二人の復讐の刃は、どんなにか冷たいものだろう。
バイザル伯は、憎むべき仇というより、死者の鎮魂ために祭壇に捧げられる供物に過ぎない。


老伯爵は、不安と絶望を押し隠し、灼熱した午後の大気の中、傲然とした姿勢を崩さなかった。
しかし、思いがけず、復讐者達の中に求めていた者を見いだし、苦悶に顔を歪め瞑目した。
やがて、狂気の哄笑に捕らえられる。
彼は、冥い歓喜を抱いて叫んだ。
「その瞳…その…顔!よく、来た。よくぞ、我が前に現れた。息子の唯一の形見、我が孫よ」
ベルスンの長は、弾けるように連れの顔を振り返った。
エリクは、否定するよう頭を振る。
そして、アレクシアの瞳を見た。
眼前の老人と同じ琥珀を。
赤銅の戦士に、動揺はなかった。
なめらかな動作で、馬から降り、剣を抜く。
バイザル伯の、すがりつくような眼差しが、失われた息子の似姿を追う。
震える唇で、繰り返し名を呼んだ。
「アフィテス…。アフィテス!」
バイザル伯の護衛が、岩陰から飛び出して来た。
屈強の男が、七人。すでに、抜刀している。
ベルスンの長は、アレクシアを庇うように、自分の馬で兵を遮る。
バイザル伯は、別人のような酷薄な声で、配下の男たちに命じた。
「邪魔する者は、殺してしまえ。わしの孫を捕らえるのだ」
アレクシアは、老人を見つめた。
琥珀の瞳が、同じ琥珀の瞳の狂気を見てとる。
祖父だというのは、初耳だった。
銅の谷の一族には、父方の親族は、あまり意味がない。
これが父親にしろ、母親の一時の恋人というだけだ。
名前も知らないことが多い。
だが、この老人は、その血のつながりに執着している。
そして、それこそが、アレクシアが、『復讐の剣』に選ばれた理由なのかも知れない。
「だが、何故だ」
孫だと執着するなら、何故、谷を攻撃したのか。
あの夜は、たまたま祭司の命で谷を出ていて、かけつけるのが遅くなった。
そうでなければ、闘いで命を落としていたろう。
また、捕らえてどうするのか。
アレクシアには、老人が得体の知れない生き物に見えた。
今や、バイザル伯は、恍惚として、歓喜と憎悪の入り交じった不可思議な微笑を浮かべていた。
「息子が、アフィテスが、死んだとき、何もかも失ったと思ったが、子供がいることがわかった。産みの母が銅の谷の一族だったために、引き取れなかったと。男か、女か、谷におるのか、外に出されたか、何という名前なのかさえわからぬ。このわしが、どんなに頭を下げても、谷は教えるのを拒んだ。谷の奴らが、憎い。わしには、家門を継ぐ者が、必要なのだ。庶出であってもいい、わしの血を受けた者が!」
アレクシアには、老人の執着と憎悪が理解できない。
それ故か、老人の長い口舌を遮る事ができなかった。
「谷を攻めれば、孫は死ぬかも知れん。だが、指をくわえて、何もしなければ、孫は決して手に入らぬ。死んでしまうなら仕方ない。しかし、生き伸びれば、わしを討ちに来る。捕らえて、手に入れることができるのだ!わしは、賭に勝った!」
バイザル伯にとって、アレクシアは、孫であり、家門を継ぐ道具であり、谷そのものでもあり、執着の元であり、憎悪の対象でもあった。
アレクシアは、老人を哀れとも滑稽とも思ったが、だからといって、それ以上の特別な感慨もなく、剣を老人の首に擬す。
バイザル伯の首をとること。
それが、谷の祭司から、アレクシアに課せられた、最後の使命だった。
アレクシアの背後に、バイザル伯の兵が迫る。
ベルスンの長も奮戦していたが、押さえきれる人数ではない。
帯刀しているように見えなかった彼の得物は、長剣というには短く、短刀と言うには長い、刃渡りのある肉厚の刀だった。
その切っ先で、敵兵を革鎧ごと突き通すと、警告の叫びを上げた。
「谷のお方!」
アレクシアは、半身を返して、撃ち込まれた剣を弾き返した。
化け物じみた体躯の男が、自分の半分も無いような痩身の戦士の膂力にたじろぐ。
老人が、自らも剣を抜き放ち、吠える。
「手足が欠けても構わん。捕らえろ」
アレクシアの剣は、苦もなく大男の喉元から左胸まで断ち割る。
血を吹き上げて倒れる男の身体を避けて、次の兵が撃ちかかる。
ベルスンの長は、二人を倒し、三人めに対峙していた。
その脇では、黒い髪の痩せぎすの少年が、同時に二人の兵の相手をしている。
彼は、手綱も取らず、この足場の危うい岩山で自在に馬を操り、大の大人を翻弄していた。
頭に血の上った男が、振り降ろした剣をかわされ、その勢いで体勢を崩した。
エリクは、すかさずその男の腕を掴んで引き、だめ押しに男の馬の腹を蹴る。
疾走する馬から落ちた兵を、もう一人の兵の馬が蹄にかけた。
慌てた男の胸に、少年の細身の剣が、するりと入り込む。
「バイザル伯!」
アレクシアとベルスンの長が、残りの兵を相手にしているさなか、奇蹟的な速度で岩場を駆け抜けた少年が、老人に呼びかける。
バイザル伯は、アレクシアの背に振り降ろしかけた剣を止めた。
それは、この、体力も気力も搾り取られる灼熱した大気の中にあって、場違いに余裕のある陽気な声だった。
「お気の毒な老伯爵。お忘れか、何の為に、ここまでお出ましになられたか。今や、貴方の門地など、塵芥同然。反逆者の烙印を継ぐ者が、それほど必要か」
少年の告発に、バイザル伯が、顔を歪める。
エリクは、馬から飛び下り、丈高い老人と赤銅の戦士の間に、割って入った。
同時に、火を吹くような衝撃を受け止める。
バイザル伯の剣は、少年の華奢な剣を断ち割りかけていた。
エリクは、嘲りも露に片頬で笑う。
「アーメルドの貴族でありながら、カーディーンと通じた、その反逆の証拠を抑えた。それをお買いにならぬかと、持ちかけたら、真に受けて巣穴から飛び出してきた。本当は、私だけなら、それを見届けた後は、貴殿は用済みだったのだがね」
こんな時だが、アレクシアは、少年のあまり板に付いていなかった『俺』が、『私』に変わったのに気がついた。
気のせいでなく、この高慢な物言いの方が、自然に聞こえる。
アレクシアと剣を撃ち合っていた男が、足場の悪さによろめく。
隙の出来た胴を、力任せに剣で薙ぐ。
剣は、革の鎧を裂き、腹を断ち割って骨で止まった。
男は、剣を腹にくわえ込んだまま倒れる。
アレクシアは、血脂にまみれた剣を引き抜くと、バイザル伯に向き直った。
ベルスンの長は、最後の一人倒し、馬首を巡らせた。
灰色の外套は、汗と血糊で色が変わって見える。
アレクシアは、バイザル伯から視線を移さず、近づいてくるベルスンの長に言った。
「谷の祭司は、私一人に任せた方が、こやつに対する復讐になると判断したようだが、貴方は、いかがなされる」
ベルスンの長は、どこか痛ましげに祖父と孫を眺めた。
「いいえ、谷のお方。復讐は、自らの手でなすべきもの。だが、もし、貴方にためらうことがあれば、私が肩代わりしましょう」
アレクシアは、頭を振った。
ベルスンの長は、無言で馬を下り、アレクシアの傍らに立つ。
バイザル伯は、そのやり取りを聴いていなかった。
自分の剣を受け止めた少年を、訝しげに見つめる。
「似ている。まさか、何故…ここにいる」
バイザル伯の瞳に、正気が返ってきた。
それを見て取った少年は、彼だけに聞こえるように囁く。
「カーディーンの反逆者とアーメルドの反逆者が、手を結んでやらかしたことの後始末のためだ。家名を汚したくなかったら、おとなしく討たれてやれ。私には、アーメルド公爵に、お前の反逆を知らせる義理はない」
バイザル伯は、何も聴こえなかったように、傲然とした姿勢を崩さなかった。
少年から視線をはずし、アレクシアへ移す。
老人の手から、剣が滑り落ち、乾いた音をたてた。
「お前を取り戻したかった。賭に負けたな。アフィテス…いや、お前は、何という名なのだ」
「アレクシア」
「許せとは言わぬ。終わりにしてくれ」
ベルスンの長は、アレクシアが、動くよりも早く血塗られた刀で、妻と娘の仇の胸を突いた。
刀が引き抜かれる軌跡を追って、鮮血が迸る。
老人の眼が苦悶で閉じられ、アレクシアの剣が、祖父の皺首を断った。
老伯爵の身体が、ゆっくりと倒れる。


しばしの沈黙のあと、初めに口を開いたのは、エリクだった。
「銅の谷の女との恋は、高くつくな。バイザル伯は、息子が銅の谷に子供を残したために、銅の谷を攻めて、自らも滅んだ。ベルスンの長は、銅の谷の妻子の復讐のために、一族を捨てる」
その言葉の終わらぬうちに、蹄の音が近づき、数騎が岩山を駈け登って来るのが見えた。
一団の先頭の男が、馬上で親しげに手を振る。
アレクシアは、その男の背格好から、ライリンかと思ったが、近づくにつれ、別人であることがわかった。
ライリンより、もう少し若い、育ちのよい貴族的な風貌の青年だった。
その蒼い瞳の笑顔に応えたのは、エリクだった。
「ウィストリク・バーンか。久しぶり」
ウィストリクは、周囲に散らばる死体と、血飛沫を浴びた少年を見比べて、大げさに嘆息した。
「また、酷い有り様ですね。私達を、待てなかったんですか。貴方は」
「待ちきれない御仁ばかり、でね」
馬を降りたウィストリクの視線が、アレクシアとベルスンの長の間をさまよう。
エリクが、ベルスンの長の肩を軽く叩いた。
「お客人になられるのは、こちらだ。丁重にお世話してくれ。」
青年は、ベルスンの長に目礼すると、再び少年に向き直り尋ねた。
「承りました。して、貴方は?」
「例のご婦人の隊商を、保護しに行く」
ウィストリクは、眉を顰めた。
「あの女性は、保護しました。それ以上、敵地で無理を重ねることもないのでは?」
「アル・ハウィンの身に何かあれば、叔父貴の機嫌が悪くなる。さらに、隊商に何かあれば、アル・ハウィンが、悲しむ。できれば、助けないとね」
「では、何人かつけましょう」
「いらない。ライリンが、すぐ取って返してくるし、強力な助っ人がいるから」
アレクシアは、自分が、その場の全員の視線を、集めているのに気がついた。
「バイザル伯の首を取るまで、と言ったぞ」
「延長してくれたら、いいことを教えてやろう」
アレクシアは、妙に楽しそうなエリクの言葉を最後まで聴かず、無言で向きを変え去りかけた。
「聴かないと損だぞ。バイザル伯を、そそのかし、谷を攻めさせ、谷の『宝』とやらを、持ち出した人物の手掛かり」
銅の谷の戦士は、再度向きを変え、痩せぎすの少年の胸元を締め上げた。
「この嘘つきが」
「嘘だったら、今度は、俺の首を斬れば?」
「いっそ、その方が、すっきりするな」
「アレクは、男には厳しくて、問答無用で、酔漢を斬り捨てる。でも、女に甘いから、罪のない隊商の女達を、見捨てたりできないんだよね」
アレクシアは、今や凶悪といっていい笑顔の少年を突き放し、苦々しい声で言った。
「事が済んだら、二度と私の前に、その顔を出すな」
「努力はするよ」
また視線を感じたアレクシアが、顔をあげる。
引きつった顔の面々の中でも、ウィストリクが、際立って剣呑な目つきをしている。
アレクシアは、毒気を抜かれた琥珀の瞳を瞬かせた。
「過保護の三人目か?」
「本当に、情け容赦無いな」
図星らしく、少年の声から、力が抜けていた。
当人達以外、まったく意味不明の会話だった。
一行の訝しむ様子を見て、ベルスンの長は、その場を取りなそうとした。
「この御二方の事は、心配ござらん。こんな様でも、意外に気があってるようですな。まぁ、年頃も近いですし…。え…えと、銅の谷の方は、早く大人になられるから、まだ、随分とお若いとお見受けしますが」
ベルスンの長から見れば、ひとからげにできる年齢差なのだろうか、アレクシアは、多少不快に思ったが頷いた。
そこで、実際より年少に見られている自覚のあったエリクが、口をはさむ。
「こう見えても、実は、十五歳だ。十やそこら、一まとめにされたって、怒るなよ」
「なんだと」
「これは、嘘じゃないぞ。そうは、見えなくても本当に十五なんだ」
貧相な体格の子供は、結構真剣に自己主張した。
嘘だとしたら、余りにも滑稽な見栄張りだから、却って真実だと判る。
アレクシアは、顔を顰め、こめかみに手を当てた。
「私が、幾つだと思っているんだ?」
「二十七・八か、見掛けより若いってことは、二十ちょいかな…」
エリクは、曲がりなりにも女性の年齢だけに、最後は自信なさ気に言葉を濁したが、その場の誰もが、その推測に心の中で頷いていた。
寡黙で、眼光鋭い、長身痩躯の戦士は、顔を顰めたまま言った。
「十六になるまで、後、二日あるんだが…」



幕 間


夜半から明け方にかけて、また、ぎらつく太陽が高く昇り、やがて沈むまでに、幾つかの出来事が、ごく狭い地域で起こった。下級兵士の私闘、その上官の降格、カーディーン軍の襲撃、ベルスンの壊滅、バイザル伯の暗殺、その暗殺犯の逃亡などである。
また、表立って知られない幕間劇も幾つかある。
その一つは、容赦ない風と陽に晒されている砂丘で見られた。
ベルバ地方に多い栗色の巻き毛の一団にあって、赤銅の髪が目立つ。
特定の軍に所属していないのが歴然とした、統一性のない武装の傭兵たちは、小柄な黒髪の子供を先頭に騎馬で疾駆する。
行く先を決め、成すべきことを指示するのは、その少年だった。
赤銅の髪の戦士は、釈然としない面持ちで、傭兵たちと共に彼の後を追う。
笑いの発作が納まりきらない少年が、傍らの憮然とした少女に囁く。
「ライリンには、ウィストリク達の事は内緒だ」
「何故だ。まだ、後ろ暗いことがあるのか」
「あれは、悪巧みの仲間だ。ライリンは、俺の善良で過保護な友人。俺が悪党だと、知られたくない」
「嘘付きめ」
アレクシアには、もう分かっていた。この少年は、敵側の人間なのだ。
それも、身分のある叔父がいる。
ウィストリクは、その配下の貴族だ。
自国の貴族を討ったベルスンの長は、一族の技術を手土産にして、カーディーンに亡命したのだ。
アーメルドの人間であるライリンには、知られたくないのだろう。
エリクは、からかうように尋ねる。
「…俺の正体ばれたかな?」
アレクシアは、にべもない。
「悪党だろう」
「バイザル伯には、解ったようだ。俺は、叔父貴に似ているし、叔父貴は、敵にも味方にも顔が売れてる。カーディーンの常勝将軍にして、大公のただ一人の弟、アズィー・カーディーンだから」
「それじゃ、お前は、その甥にして、カーディーン大公の一人息子、ティルファ伯というわけか」
「頼むから、内緒にしてくれよ。」
「大嘘付きめ」
アレクシアは、当然かけらも信じなかった。
腹の中では、隊商の護衛が一段落したら、何と言われようと、今度こそ立ち去る決意を固めていた。


もう一つの幕間劇は、所を変えて、数人の衛兵と分厚い布で外界から守られた天幕の中で見られた。
ベルスンの戦闘から救出された真紅の爪を持つ女が、恋人の腕のなかにいた。
彼は、髪も瞳も写したように甥っ子とそっくりだったが、上背もあり、武人らしく鍛え上げられた体格のよい青年で、衆目の一致するところ、甥よりは、よほど真っすぐな気性の持ち主だった。
恋人との逢瀬を邪魔され、部下に向かって、半分は本気ですねていた。
「まだあるのか。ウィストリク、無粋だぞ」
「はぁ、申し訳ありません。無粋ついでに、もう一つ無粋な事態のご報告をさせていただきます」
ウィストリクは、ベルスンに関する報告を終えた後、ベルスンの長の何げない指摘で、気づいたことを主に告げた。
「あの方は、アーメルド公爵家の流れを汲むバイザル伯令嬢を、お気に召したようです。もちろん、今は幼い方のことですし、友情…でしょうが……」
褐色の女は、驚いたように、細く切れ上がった目を見開いた。
「まぁ、よかった。あの子でも、ちゃんと同年齢のお友達ができたのね」
彼女の恋人は、屈託なく笑って、部下に尋ねた。
「無粋の極みだ。で、美女だったか」
「何というか…渋い美青年と思ったんですが…」
ウィストリクは、言葉に詰まった。


次の幕が上がるのは、翌年、ハンナム・カーディーン大公の治世十六年のことである。

(第二章 銅の女神 へ続く…)


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