四 ベルスン炎上
右往左往する人込みの中に、傭兵隊長が姿を現した。
黒髪の少年へ、視線で合図を送る。
そのまま傍らのアレクシアに、一瞥をくれると踵を返した。
その目つきは、かなり剣呑なものだった。
「アレク」
エリクは、アレクシアを促すと走り出した。
アレクシアは、慌てず手にしていた酒を飲み干し、空の袋を背後に放ってから、少年の後に続く。
本来なら、誰しも、灼熱した日差しを避けて休息する時間であった。
悲鳴と怒号が上がり、ベルスンの市場は、自分の荷をかき集め逃げだす商人と、どさくさに紛れて略奪に走る者に踏みしだかれた。
中途半端な武装の兵が 宿舎から吐き出され、混乱に輪をかける。
入り組んだ路地の貧弱な石畳は、逃げ急ぐ馬車や荷車、人々の足をとり転倒させ、何人かは押しつぶされて命を失った。
エリクは、人ごみを器用に、すり抜けて行く。
先行する傭兵と、エリクとアレクシアの三人は、人々の波に逆らい、ベルスンの中心である巨大な水盤へ向かった。
彼らが水盤の広場に足を踏み入れたときには、もはや人けはなく、奇跡のように三頭の馬だけが繋がれて残っていた。
悲鳴まじりの号令と、剣戟の音が近づいてくる。
エリクは、手綱を受け取ると、ライリンの背を叩き笑った。
「はでだな」
「カーディーンだからな。中でもティルファの出身のものは、火薬を使う」
ライリンが、憎々しげに言う傍から、ベルスンの西の端に火の手が上がる。
「アルカーの補給部隊から略奪し、行きがけの駄賃にバイザル伯の陣を叩いて、快進撃中か。ベルスンは、ひとたまりもないな」
エリクは、アレクシアを振り返った。
笑っている。
口の端を片方引き上げる、人の悪い微笑。
それは、アレクシアに、昏い夜の幻のような、子供の姿の魔物を思わせた。
ベルスン常駐の守備隊が、 ようやく態勢を整え反撃を始めたと見え、寄せ手の勢いが衰えた。
だが、すでに燃え広がった火勢を押さえる術はない。
灼熱する日差しと相まって、兵を苦しめる。
剣に倒された兵を、馬が蹄に掛け、焼かれて熱を持った土塀が、闘う人馬の上に倒壊した。
戦いの喧噪は、じりじりと押し寄せて来つつあった。
それとは逆の方向から、女を横抱きにした傭兵が、馬で駆け込んできた。
明るい栗色の髪をした、ベルバ地方出身の傭兵の一人だ。
その後に、がっしりとした体格の中年の男が続く。
灰色の外套のなかに、帯刀している様子はなく、商人のように見えた。
女は、馬から降ろされると、不安げに視線を巡らせた。
エリクが、進み出て彼女を支える。
そのとき、彼の微笑みは、優しいと言っていいものだった。
「アル・ハウィン。手荒になってしまって、ごめん」
褐色の肌の女は、自分の隊商からさらわれるようにして来た。
自分に関しては、その理由を問いただそうとはしなかった。
だが、残された女達を、案じないではいられない。
「エリ。私の隊商は、どうなるの」
「攻め手の兵は、見かけより数が少ない。バイザル伯の陣を攻めた以上、他の陣からの援軍に追撃される。ここで略奪する余裕はない。危ないのは、この騒動に便乗して悪さをしようって奴らのほうだが、隊商は先行して出発させたし、うまく行けば逃げきれる。だめでも、女だし、そう酷い目には会わない。何にせよ、アル・ハウィンだけは絶対に守る。髪の毛一筋傷付けさせても、叔父貴が怒り狂うだろうからね」
この少年は、仮にも親しんだ姐達の危機に、そう関心を持っていないらしく、隊商の安全は保証しなかった。
アル・ハウィンは、小さくため息をついた。
どのみち、彼女にしても、どうにかできることではない。
ライリンは、少年の頭を小突いて言った。
「それで、どうするんだ。だいぶ危険が迫ってるぞ」
なるほど、大気が熱し、煙が立ち込めてきた。
肉の焼け焦げる臭いと血臭が、間近まで押し寄せる。
一行の視線を集めた少年が、口を開いた。
「頃合いだな。からくりを動かしてもらおうか。ベルスンの長殿」
それまで、控えめに佇んでいた、灰色の外套の男が、黙って頷いた。
懐から、大振りの鍵の束を取り出すと、水盤に向かう。
複雑な意匠の文様に、隠された鍵穴があった。
三本の鍵を差し込み、次々に回す。
鍵穴の真下の彫像が、ゆっくりと回転する。
続いて、何かが、地中をすべり落ちる音が響いた。
それは、次第に大きくなり、地鳴りのようになっていく。
「これで、最後です」
男が、ぼそりと呟いた。
その途端、ベルスンの四方へ、爆音とともに巨大な水柱が立つ。
そちらに気を取られていると、今度は、背後で水盤が大きく割れた。
水は、完全に止まっていた。
水盤の割れ目から、湿った空気が立ち昇る。
見れば、水をくみ上げる仕掛けとそれを囲む回廊が、地中深くに伸びている。
そして、その中途に、大きな横穴が一つ。
通常なら、大の大人でもしり込みしそうな暗闇に、年端もいかぬ少年が、躊躇無く馬を進める。
彼は、振り返って、嬉しそうに手招きした。
「涼しいぞ」
皆それぞれ、緊張の面持ちだったのだが、その一言で崩れた。
アレクシアなどは、更に複雑な表情になったが、残りの者は、苦笑しつつ少年の後に続く。
一行が馬ごと抜け道に入ると、水盤が音もなく元に戻った。
ただ、もう水は流れない。
このベルスンの水源は、最後の一滴まで水柱となり、砂漠に撒かれ涸れてしまった。
ベルスンの地下道は、水盤のからくりを作った当初、土砂の運び出しや巨大な器具の搬入に使用したものなので、人馬が楽に往来できる程の大きさがある。
通風穴も生きていて、松明は無事に灯った。
しばらくすると、枝道に行き当たる。
エリクは、この地下道の地理を熟知しているようで、迷いなく進路をとった。
幾つ目かの枝道の前で、アル・ハウィンに告げる。
「ここで別れる。その道を登れば、叔父貴の部下が、出口で待っている。叔父貴には、今日中に会えるよ。よろしく言っておいてくれ」
ベルスンの長が、鍵束の中から一つを抜き取り、アル・ハウィンの護衛につけた若い傭兵に渡す。
褐色の女は、悲しげに少年を見つめると頷いた。
そして、細い声で言う。
「気をつけて。エリ」
エリクは、隊商の女将に向かって、力づけるように微笑む。
それから、一歩下がって傍観していたライリンへ声を掛けた。
「ライリンも、アル・ハウィンの護衛に付いて行ってくれるかな」
それは、半ば命令だったが、傭兵隊長は拒んだ。
「ラハスがいれば、十分だ。俺までが行ってしまっては、お前のお守りが、居なくなる」
「俺は別に、お守りはいらないよ」
エリクは、力の抜けた声で言った。
そこへ、心底心配そうなアル・ハウィンが、口をはさむ。
「私の護衛は、ラハスがいれば十分よ。ライリンは、エリに付いていてあげて」
アレクシアは、呟いた。
「なるほど、過保護だ」
「追い打ちを掛けるなよ。アレク。情け容赦無いな」
エリクがぼやくと、鞘に納まったままの大振りの剣が、少年の首筋に当てられる。
アレクシアは、エリクの顔を剣先ですくい上げると、ライリンに向かって言った。
「この首は、バイザル伯の首の質だ。奴の首をとるまでは、何があっても生かしておいてやる。安心して行くがいい」
ライリンが、剣の柄に手を掛ける。
傭兵隊長の剣呑な眼差しが、アレクシアの静かな琥珀の瞳を射る。
アレクシアは、苦笑した。
この男は、私が彼の大事な少年を害すると思って、睨んでいたわけか。
ライリンが、アレクシアの考えたことを悟って、真っ赤になる。
エリクは、その間身じろぎもしなかったが、ライリンの罵声より早く、片手で剣を退けた。
「ライリン。行くんだ」
少年の口調は、どこか逆らいがたいものがあった。
彼は、ライリンの苦い物を飲み込んだような顔を見てとると、笑って付け足す。
「アレクは、守ってくれる、と、言ったんだよ。バイザル伯の首をとるまではね。俺としては、アル・ハウィンを叔父貴の元に送って、他の皆と合流し、早めに取って返してくれたほうがいい」
ライリンは、諦めたように目を伏せる。
「わかった。なるたけ早く行く」
アル・ハウィンとラハス、そして渋い顔のライリンの姿が、枝道の闇に紛れて行った。
それを見届けると、残った者達は、やや気まずい沈黙の中、先に進んだ。
ほどなく、地下道の端の扉に突き当たる。
ベルスンの長が、馬を下りて、再び鍵束を取り出した。
地上に出て見ると、扉の表側は岩壁で偽装されていた。
ベルスンの長は、感慨深げに、手の中の鍵束を見つめると、使い道の無くなったそれと、松明の燃えかすを、地下の暗闇に向かって投げ捨てた。
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