一 夜宴
その夜。
戦士達と商売女達の宴。
前線から帰還したばかり、酒よりも生き延びたこと、敵味方の別無く流された血の色と、腐臭とに酔ってしまった戦士達。
嬌声を上げ、些かの後ろめたさもなく、歌い笑いさざめく娼婦達。
年老いて、売り物をその身ではなく、酒や食料に替えた、だが、したたかな女達。
松明の炎、不器用に紅をはいた唇、誘うような弦の響き、肉の焼ける匂い、油のはぜる音、時折起こる罵声と哄笑、猥雑な、何処か脅えと虚勢を含んだ軽薄な雰囲気が夜の砂丘を満たしていた。
そんな夜の一隅で、男たちが、少女のか細い肢体を捕らえようと、からかい半分に腕を伸ばす。
少女は、歩を速め、比較的上級の士官にのみ許された小さな個人用の天幕の群れに向かって陣中を横切る。
商売女の仲間に入るには、やや年若と思われ、その点で浮いて見える少女は、女達を束ねる女将であり隊商の長でもあるアル・ハウィンの娘と目されていた。
情人であると言うものもある。
アル・ハウィンの豊かな胸に抱かれた少女の唇に、アル・ハウィンの淫らがましい紅の色が移っていたのだとか。
姐達の用事を足すために立ち働くことはあっても、客をとることはなく、時折姿を消し、また、さり気なく隊商に混じるなど…とりとめのない噂話が、囁かれていた。
少女と女将の噂に、好奇心を見せた男達は、女達の密やかな目配せに戸惑う。
しかし、女達は、よく人を笑わせる、陽気な、そして、きつい目をしたこの少女に、好意的でもあった。
少女が、ある天幕に手を掛けるより、男たちが、彼女の腕を捕らえるほうが早かった。
あらがう影が、かがり火で天幕に映り蠢く。酔漢に囲まれた少女は、相手の人数を見て取ると、鋭く舌を打ち抵抗を止めた。
女にあぶれた五人の男。多少でも理性が残っているものは、いないようだった。
「さて」
追い詰められた少女の身にそぐわない冷静な声が、その場に問いを投げかけた。
「どうしたものかな」
すでにろれつの回らぬ男が、助けを呼んでも無駄だと、唸るように言う。
「確かに」
この騒ぎではね、と、余裕のある少女の笑みに、男達も笑った。
彼らの腰にだらしなく吊るされた長剣の一つへと、か細い腕が素早く伸びる。
それを、少女のものだと認識した者はいなかった。
彼女の白い腕が、信じがたい強靱さを見せる。
肉厚の大剣に喉元を割かれた男は、自らの剣を頸にくわえ込んだまま倒れた。
華奢なサンダルで、容赦なく死体を踏みしだき、今一人の男の懐に飛び込む。
血塗られた少女の腕が、男の剣を奪い、胸へつきたてた。
そのまま、訳も分からずと言った態の生き残りに、不敵な不吉な微笑を浮かべて向き直る。
その少女の背後で布が揺れ、痩身の戦士が、天幕から音もなく現れた。
戦場から帰還したばかりなのか、血糊のついた武装も解かぬままのいでたちで。
既に、震え上がっていた暴漢が、彼の無言の剣のもとに、すべて切り伏せられる。
陣中を覆う喧騒で、ただ一つの悲鳴すら、かき消され、聞き届ける者はいない。
まさに、助けを呼んでも無駄なのだった。
戦士は、血飛沫を浴びた兜をとると、赤毛というよりは、あまりに艶やかな赤銅の髪を振り分けて、その相貌を露にした。
細面のそれは、思いもかけず若者のものだったが、ひそめられた眉に、何処か思い詰めた険しい物思いが、見え隠れしている。
不機嫌な視線を投げかける琥珀の瞳は、松明の火が映えて、赤く血に染まって見えた。
青年は、抜き身の長剣はそのままに、殺気を押し殺した声で囁く。
「はめを外し過ぎだ。酔っ払い共が。お前も、早くねぐらに帰るんだな。子供でも女だ。このような夜では、また、意にそまぬことになろう。お前でなくても、……酔漢が…な」
少女は、眉を片方引き上げると、値踏みするように青年を見返す。
「ご親切に。でも、『赤毛のリデ』と言う士官に、伝言がある。今夜は、その天幕に戻ると聞いて来た……貴方のその髪は、赤毛なのかな」
青年が口を開きかけた時、二人から、やや離れた所を行く男と女の一団が、冷やかすような声を掛けてきた。
青年と少女の足元に転がる惨状は、闇に飲まれて、彼らにはわからない。
彼らが見たのは、佇む若い二人が見つめあっているところだ。
青年は、剣を収めると、乱暴に少女の腕を掴むと抱き寄せて、天幕に引き入れる。
その間、物騒な少女の両腕を、一まとめに拘束することも忘れない。
少女は、いぶかしむような一瞥をくれたが、何も言わず、長身の青年に身を預けて従った。
歓声と高笑いが、通り過ぎていった。
炉は、火を起こしたばかり。
少しばかりの荷。
幾度となく主をかえたであろう古びた敷布。
夜営地の小さな天幕の中は、二人の人間で、ほぼ満杯だった。
青年は、少女をそっと解放した。
「伝言を聞こう」
少女は、赤くなった手首をさすりつつ、目の端で青年の腰の剣の行方を探る。
「リデでは、ないな。やはり、それは銅の髪というべきだしね」
少女は、楽しげに決めつけた。
「何だと」
少女と青年の手が、同時に動いて長剣の柄にかかる。
少女は、喉の奥で笑いを押し殺した。
華奢な手が、青年の腕から首筋へと滑り、赤銅の髪を撫ぜた。
「奇麗だな。本当の名は?」
「アレク…。お前は…何者だ。何故、わかった」
「伝言というのは、嘘。リデは、ここにもぐり込ませた間者の一人。貴方が、ここへ不法に潜り込んだのなら、多分我々は、敵ではない」
少女は、人の悪い微笑みを浮かべて、付け足した。
「それに、リデは、男のはずだからね」
狭い天幕の中で、反射的に飛退こうとしたアレクを、見かけだけは、か細い腕が押し止どめた。
「女を連れ込んだ夜、天幕を倒すほど暴れたら、恥ずかしいんじゃないかな」
罠にかかった獣さながらの怒気が、赤銅の髪の戦士から発せられる。
少女は、自分が、危険を冒していることなど知らぬげに笑う。
「アレク……アレクね。男の名だ。本当は、なんて言うのかな」
「アレクシアだ。アレクと呼ばれている。偽名ではない。自分こそ名乗れ」
「エリク」
「それこそ、男の名ではないか」
「男だからね」
アレクシアは、目眩を感じて絶句した。
目の前の子供は、事も無げに笑って言う。
「恐れることはない。互いの目的は、そう違った物ではないはず」
闇のなか、漆黒の髪と瞳が、小さな炉の微かな灯を映して、いたずらに輝く。
それは、古臭い御伽話を思い出させた。
大人になっても、子供ほどの背丈しかない、陽気で残忍な小さな魔物。
しかも、二重の欺瞞。
少女の姿さえ、借り物なのだ。
頬に落ちかかる見事な黒髪が、少女だとしたら、かなり乱暴な仕種で振り払われ、陽に焼けていない白い細い腕が露になる。
少なくても、砂漠生まれではないのだろうと、少年と相対するアレクシアは思った。
恐れるには、余りにちっぽけで、侮るには何やら不可解な生き物だった。
アレクシアの薄い唇は、錆びついたかのように閉ざされていたが、長い沈黙のあと、嘲るような口調で、問いを投げかけた。
「お前は、私の目的が何か、知っているというつもりか」
エリクと名乗った少年は、鷹揚に微笑んで頷き、ごく簡単に答えた。
「この陣営にとって、よからぬこと」
アレクシアは、眉をひそめた。
目の前の子供は、獲物を前に舌なめずりする獣じみていて、その抑制の効いた囁きが、癇に障るのだ。
「無理を承知で、リデと入れ替わったということは、事を、短期間で済ませるつもりだ。となれば、刺客。狙いは、この一両日、視察で陣中にいるバイザル伯、もしくは、ユエ男爵。ああ、バイザル伯だね。政治的にも、軍事的にも、重要人物というわけではないから、私怨だ。しかも、強引かつ、無謀な正面突破と見た。生きて帰る気がないのか、それほど、強いのか、又は、単に馬鹿なのかは、判りかねるけどね」
アレクシアの視線が、少年から自らの剣へ、そしてまた、少年へと露骨にさまよった。
エリクは、その様を、恐れげもなく、微笑を含んだ眼差しで見つめる。
やがて、アレクシアは、ため息とともに一つの問いを口にした。
「お前の目的は何だ」
「よからぬことさ」
少年は、楽しげに、それこそ歌うように言った。
「老バイザル伯は、年甲斐もなく、四十も年下の美少女を妻にした。妻の浮気を殊の外、心配なさっている。妻に張りつけた密偵から、連絡なんか来ようものなら、まず間違いなく、任務など放り出して、どこへでも、誘い出されてしまうだろう。リデが、その連絡を取り継ぐ手筈になっている。そして今、リデは、アレクだ。バイザル伯は、正しい符丁を示せば、下っぱの顔を確認する手間をかけたりしない。覚えてもいないだろうけど」
少女の姿をしたものが、懐から書状を取り出し、アレクシアに押しつけた。
相手の沈黙を、どうとったものか、やや事務的に続きを語る。
「リデに入れ替わって近づくなり、バイザル伯を斬り捨てられると困る。獲物は、この書状で、こちらの都合のよいところに、おびき出せる。そこで、こっちの用事が終わったあと、奴の首をアレクに引き渡すから、妥協してくれないか」
アレクシアは、分厚い書状を弄びつつ、呟いた。
「ずいぶん、調子のいい話だな」
「でもないさ。予定は、未定だよ。リデは、姿を消すし、アレクは、見るからに頑固そうだしね。ところで、リデは、殺してくれたのか」
「いや、ビルデ街道沿いの傭兵宿にいる。両足に軽い怪我をしているが、命に別状はない」
アレクシアが、あっさり答えると、仲間の無事を知った少年は、意外にも、ほっとしたように息をついた。
それなりに、警戒して、緊張してたのだろう。
そう思えば、最前よりは、子供らしく見える。
しかし、狭い天幕のなかでの駆け引きは、続く。
エリクは、口の端を片方引き上げて、また子供らしくない、人の悪い微笑を浮かべてみせた。
「両足に軽くね。惨死体とか、両手に金子で裏切って逃亡でなくて幸いだな。誰かに、回収に行かせよう」
「惨死体とか、両手に金子だと、どうするんだ」
「当然、惨死体のときは、犯人を同じ目に合わせる。両手に金子なら、捜し出して、惨死体にする」
「当然だな。ついでに聞くが、バイザル伯をおびき出す罠は、どこからだ。この書状が贋なのか、その浮気相手がお前の手の者なのか、美少女の妻そのものが、そうなのか」
「バイザル伯夫妻の仲人からだよ。こっちの話に乗る気はない?」
アレクシアは、少年に書状を付き返す。
「そういう俗な手段を使う奴は、信用できん」
「俗な相手には、俗な手段で対応するものだよ。どうしてもだめかな」
少年は、困ったように首を傾げて尋ねる。
そして、しばし考えると、ためらいがちに言いだした。
「これをいうと、絶対怒りそうだけど。アレクが、陣中で凶行に及ぶと、出入りの女たちが、手引きを疑われて、証拠が有ろうがなかろうが、皆殺しになるな」
「手引きなどされていない」
「でも、私という別件の手引きは、しているわけだし。責任をとらすなら、恰好の生贄だよね。陣中で事があったら、足が遅いし、まず逃げきるのは無理だ。気のいい女達なのに、かわいそうだよね」
「人ごとのようにいうな。お前の責任だろう。何とかしろ」
怒りを押し殺した声で、アレクシアが、囁くと、少女の姿をした少年は、わざとらしく瞬きをした。
「だから、お願いしている。でも、人の機嫌をとるのは、難しくって…。アレクが、彼女たちを、見捨てられない程、お人好しだといいな、とは、思ってるんだよ?」
問題の書状は、こうしてリデの手から、バイザル伯に渡されることとなった。
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