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銅の谷の女神秘録後編・口絵2

 


第六章 代償


 右足は、僅かに後遺症が残った。
 だが、獣を思わせるしなやかな動作は、少しも損なわれていない。
そして、その膂力も失っていなかった。
 凄まじい斬撃を、片腕で操る剣で打ち払う。
 薄い唇が引き結ばれ、酷薄な表情をつくった。
 大振りの剣が、空を唸らせ、背後から忍び寄った男の首を切り裂く。
皮一枚でつながれた首が、身体もろともに地に倒れ込む。
敵味方を問わず、吹き上げる血に、たたらを踏んだ。
 砂塵が舞い上がり、外套が、音を立ててはためく。
体重のないような跳躍に、気を飲まれた巨漢が、額ごと剣を砕かれた。
「アレク」
 傭兵仲間が、感嘆も露に駆け寄った。
「まだだ」
 低くかすれた独特の声音が、短く言った。
 夜盗は、まだ生きていた。
 赤銅の髪が舞う。
横殴りに繰り出された大刀の切っ先をかわし、その痩身が踏み込んだ。
 次の瞬間、右手の長剣は、巨漢の大刀を制し、左手に繰り出した短剣が、心臓を抉っていた。
 傭兵達は、夜盗を全て倒してしまうと、雇い主の安全を確認した。
肝の座った商人は、泰然として満足と報奨金を示し、護衛の士気を高めた。
「当然だな。最近の盗賊は、手ごわい。生半可な護衛では、勤まらないんだ。奴らも、組織的になって、軍隊並さ。噂だと、カーディーン、アーメルドを問わず、脱走兵が、そのまま、その盗賊の一味になっちまうとかで、軍機は漏れるし、物資人物ともに奪われる。盗賊相手に負け戦になったり、補給を断たれて全滅した陣もあるとか……」
 アレクシアは、同僚の話に眉を顰めた。
「物騒な話だな」
「そうだよ。それに、こいつは極秘なんだが、辺境の村が、襲われているらしい」
「そんなに、ご大層な盗賊が、辺境を?」
「盗賊だけならば、まだいいさ。物資の補給を断たれた軍隊まで、当座しのぎに、辺境に手を出しているとか。そして、辺境から徴兵された兵士が、動揺して脱走する。そいつらが、また食い詰めて、盗賊へというわけだ。世も末だね」
 アレクシアは、黙って頭を振った。
そういう皮肉が、好きな奴を知っている。
だが、あれが、世の末を望むとは思えなかった。



湿った風が、思いの外、強く吹きつけていた。
 雨季に特有の灰色の闇が、辺りを覆っている。
ユルスノンの宿場は、砂漠の旅の終着点だった。
隊商は無事に役目を果たし、臨時雇いの人夫や護衛の傭兵は、相応の報酬を得て散って行った。

 暗闇から腕が伸びた。
「アレク」
 腰を抱かれて、引き寄せられた。
剣を抜かなかったのは、馴染みの気配だったからだ。
「悪党」
 宿の廐に繋がれた馬が、人の気配に小さく嘶く。
「伝言もなしで、消えることもないだろうに」
「アル・カトゥーンに弱みを握られるのは、まずいんじゃないか」
 悪党の公子は、詰まった。
「何だ。知ってたのか」
「お前が悪党だということは、よく知っているよ。私は、アル・カトゥーンに対する保証だった。事が決まれば、却ってないほうがいい。それに、お前、どこにいっても、狩り出すといっていたろう。当然、捜し出すと思っていたし、そうなった」
 青年は、恋人の艶やかな赤銅の髪に、指を滑り込ませて囁く。
「アレク。正直言うけど、俺は、万能じゃないんだぞ。その目立つ赤銅のたてがみがなきゃ、お手上げだったかも知れない」
「そうだったのか」
 手の中の、琥珀の生真面目な眼差しは、まるで悪びれない。
自分の苛立った口調は、空回りしている。
青年は、諦めて苦笑した。
「まあいい。会えてよかった」
 篝火に映える琥珀の双眸を、見つめながら、そっと身を離す。
 二対の剣が、冴えた音を立てて鞘走った。
 無様な悲鳴が、あがる。
 久方ぶりの逢瀬の途中、若者達は、それぞれ振り向き様の一閃で、忍び寄った影を両断した。
 腹から喉元まで、断ち割られた男が、甲高い笛のような悲鳴を上げ続けている。
その身体が二・三歩よろめくと、篝火に突き当たり、干し草へと倒れ込んだ。 
篝火は、廐の壁をなめ、大きく燃え上がる。
馬が、熱と炎に脅かされ、暴れ始めた。
廐の炎は、辺り一帯を、あからさまに照らし出す。
「悪党。これは、何だ」
「追っ手」
 数名の殺気立った男に、囲まれている。
 銅の谷の戦士は、片方の眉を引き上げた。
この状況には、覚えがある。
「会えてよかった……か」
 公子は、わざとらしくも、少年の頃と同じ調子で、可愛らしく言った。
「アレクは、奇麗で強くて、本当に助かるな。片付けるの、手伝ってくれるよね」
 アレクシアは、怒りに任せて、賊の一人に剣を叩き込んだ。
「お前という奴は……」
「いや、ここに来るまでには、片付けようと思っていたんだよ。一応」
 エリクは、言い訳をしながら、追っ手の一人に突き立てた剣を、引き抜いた。
口元には、人の悪い、癖のある笑みを浮かべている。
それが、追っ手どころか、助っ人をも苛立たせた。
 どうみても、無頼の男達だった。
仮にも、公子を、どうこうしようという人種には見えない。
その公子も、よく見れば、性のよくない傭兵といった風体だ。
「貴様。やっぱり、例の盗賊にかかわっているな」
「たまに、副頭目とか、参謀とかをしてる。盗賊の組織といえど、馬鹿にするものじゃない。それが、いい身分だと、勘違いする者もいる。こうして、新参者のくせに生意気だと、いびられる。何しろ、古参だから、策はなくても、参謀ができると思う馬鹿もいれば、首領にも手下にも人望がないのに、副頭目になりたがる間抜けもいるんだ」
 公子は、ご丁寧に解説した。
 その馬鹿で間抜けとおぼしき盗賊は、当然、怒り狂ってがなりたる。
 調子が、出てきたじゃないか。
アレクシアは、平穏な暮らしで、見慣れ始めていた不器用で甘い恋人の、面の皮が一枚、剥がれて行くのを見た。
そうだ。
こういう奴だった。
残酷で陽気な、屈託のない子供。
神の前ですら、傲岸不遜な態度を変えない……
 アレクシアの鼻先で、甲高い音を立て、盗賊の剣が砕ける。
同時に、懐かしい声が、大音声で叱責した。
「相手が弱いと、気がそれる。悪い癖だ」
 大柄な、長身のアレクシアより、さらに頭半分ほど、背の高い人影が、騒ぎに参戦していた。
 血族を示す赤銅の髪。
アレクシアは、遠い記憶の中から、その年長の同胞の名を捜し出した。
「ソディシア!」
「加勢する」
 今一人の銅の谷の戦士の加勢で、最後の襲撃者が打ち倒されるまで、さほどかからなかった。
 ソディシアは、汗で頬に張り付いた髪を、かきあげると、白い歯を見せて笑った。
「アレクシアが、喧嘩好きとは、思わなかったな」
 アレクシアは、剣を鞘に収め、憮然として言った。
「私ではない」
 銅の谷の戦士達の注目を浴びると、エリクは、大仰な礼をした。
「御助成、感謝致す」
 ソディシアは、年少の同胞と、道化てみせた青年を、面白そうに見比べた。
「話がある。邪魔をしてもいいか」
 アレクシアは、黙って頷いた。
「谷の外にいて生き残った者のうち、交配期にあった戦士から、祭司が生まれた。ヘイセルに新しい里をつくる。お前は、祭司長アグリスの後継として、聖洞騎士にして、最年長の祭主として、一族に戻らねばならない」
 ソディシアの言葉を聞いて、最初に反応したのは、エリクだった。
「内輪の話だな。遠慮しよう」
 穏やかにいうと、踵を返した。
 アレクシアとソディシアは、振り返らない背を、静かに見送った。
「かわいいじゃないか、若いな」
「私と、同い年だ」 
「どこを見て、選んだ。あれで強いのか」
「悪党だ」
 ソディシアは、聖洞騎士の琥珀の双眸を覗きこんだ。
剣呑な響きを帯びた声が、尋ねる。
「一族を裏切るか」
 それは、本来、さほど重い罪ではない。
銅の谷の戦士も、生身の女である以上、一族の掟よりも恋人との暮らしを選ぶ者が、少なからず出る。
その者達は、暗黙の了解の元に、追われることもなく姿を消すことができた。
そして、その血筋に祭主の才がある娘が生まれれば、祭司長の託宣により、谷へ攫われる。
 アレクシアは、頭を振った。
許されるのは、戦士であって、一族の束ねたる祭主や聖洞騎士ではない。
「ヘイセルへ、行こう。私も、谷へ戻ることは考えていた。ただ……」
 半神は、銅の女神の目覚めが、近いと言っていた。
神の時間の感覚は、把握できるものではないが、それほど、遠くない時である気がする。
女神の眠りを守る谷は、後どれほどの間、必要とされるのだろうか。
 ソディシアは、訝しむように首を傾げた。
「アレクシア…お前、もしかして……」
 アレクシアは、低くかすれた声で呟き、ソディシアの言葉を切った。
「私は、アシェイルを守れなかった。アシェイルのいない谷に、『冥』の祭主の聖洞騎士として還る。それが辛い」
 ソディシアは、痛ましげに、同胞を見つめた。
そして、あることに気が付き、納得したように頷く。
「先程の男、アシェイルのように、見事な黒髪だな」
「従兄弟だ。だけど、だからじゃない。それをいえば、アシェイルの兄の方が、容姿も雰囲気も似ていた」
 アレクシアは、薄く笑った。
 半神は、人の子の王を憎んではいなかった。 
アレクシアもまた、一心同体である半神とともに、黒い血の末裔に、惹かれていた。
公子が口にしなかった、知られてないと思い込んでる悪夢ででも、半神と意識を共有していた。
 愛しくて不憫な…水瓶の縁にじゃれる子猫。
 ソディシアは、聖洞騎士の含み笑いにつられて、口元を綻ばせた。
「あまり野暮なまねは、したくなかったんだがね」
「いや、丁度いい頃合いだったよ」
「意味深だな。まあ、そう急がなくてもいいさ。どうだい、取り敢えず、これから彼氏も呼んで、再会を祝して一杯。私は、途中で消えてやるからさ」
 銅の谷の一族は、酒豪でもっても知られている。
だが、その案は、即座に却下された。
「だめだ」
 ソディシアは、目を丸くした。
「アレクシアが、酒を断った……」
「あいつは、飲めない。それに、酔わせるとまずい」
「暴れるのか」
「笑い上戸だ。それは、ともかく……」
 アレクシアは、言い淀んだ。
「酔い潰した後の寝顔が、結構色っぽいからな。ソディシアに食指を動かされるのは、嫌だ」
 これは、のろけなのだろうか。
ソディシアは、呆気にとられて、言葉もなく、生真面目な同胞の顔を見下ろした。
「明日の朝には、ヘイセルヘ向かう。それでいいか」
 ソディシアは、頭を掻いた。
「アレクシア。お前、変わったなぁ」
「そうでもないさ。新しい谷で飲もう」
 新たな祭主の束ねは、長く伸ばされた赤銅の髪を翻し、立ち去った。
青年の後を追って行ったのだろう。
 取り残された銅の谷の戦士は、その場で、しばらく所在無げに佇んでいた。



 灰色の闇を背景に、黒く塗り込められたような人影を見つける。
湿り気を帯びた風が吹き付け、体温を奪って行く。
こんな夜を、知っている。
大切なものが失われた夜。
一人で過ごすには、辛い夜だ。
 青年は、少し離れた場所で、馬をつないだ柵に寄り掛かっていた。
歩み寄るアレクシアに気が付くと、ぼんやりとしていた顔に、微笑みが浮かぶ。
「話は、すんだのか」
「ああ、明日には、ヘイセルへ向かうことにした」
「エイオン峡谷だね。銅の谷にも近い」
「元々は、ヘイセルが銅の谷だった。やはり、昔、近隣の領主と不都合を起こして、移ったといわれている」
「行きつ、戻りつだな」
 アレクシアは、青年の表情を読み取ろうとしたが、すべては、穏やかな微笑に覆い隠されている。
仕方なく、そのまま話を続けた。
「女神と繋がる祭主のいる場所が、聖洞であり、聖洞を擁する谷が、銅の谷だ。私は、谷の再建に、力を尽くさねばならない。祭主であり、聖洞騎士であり、……谷の外の考え方でいえば、谷を襲ったバイザル伯の孫だから」
 人の子の王の末裔は、小さく呟いた。
「半神は、アレクを、俺に譲るといったが……」
「わかっている。だが、戦士には、その理屈は通用しない。彼らにとっては、祭主は祭主。女神のものか、半神のものかの区別は、つかない」
 青年は、アレクシアの「わかっている」という言葉に、怪訝な表情を見せたが、すぐに、例の人の悪い微笑が、それを覆い隠した。
「アレクは、銅の谷に対する義務を放り出して、好き勝手に生きたいと、思ったことはあるか」
 あると言ったら、どうするだろう。
アレクシアが黙っていると、それを否定と取ったカーディーンの公子が、独り言のように続けた。
「俺は、あるよ。何もかも放り出してしまったら、さぞ楽になるだろうってね。でも、できない。だから、アレクが、どうしようと、それは、それでかまわない。止めるだけの力もない。アレクは、俺より、ずっと強いからな」
「人を、化け物のように言うな」
「信じられないくらい強くて、強くて、奇麗な化け物だ。アレクが、隊商の傭兵として戦っているのを見るまで、忘れていた。例の『交配期』に惑わされてしまったけど、アレクは、奇麗な『女』じゃない。戦っている時に、一番奇麗な『生き物』なんだ」 
何を考えているのか、そういう青年の黒い双眸こそが、魔物じみていた。
 傍らに立つアレクシアの赤銅の髪を、指先で搦め取る。
幾度となく繰り返したように、口づけた。
「俺は、アレクが欲しい。いつか、バイザル伯の真似を、することになるだろう。そのことを忘れるな」
 アレクシアは、寂しげに囁かれた警告を、聞いた。
 エリクは、静かに身を引いて、馬に騎乗した。
「次に会うときは、今度こそ、アレクに、斬られるかもしれないな」
「そうだな。谷に仇すれば、必ず。だが、お前こそ忘れるな」
 青年が、訝しげに、見下ろしている。
アレクシアは、微笑んだ。
「お前は、悪巧みしているときが、一番らしい。腹は立つけど、悪党のお前が、好きなんだ。云っておくが、谷では、女が、男を選ぶ。私が、お前を選んだ。お前が、私を選んだんじゃない」
 黒い血筋の末裔は、驚いたように目を丸くしたが、すぐに、いたずらな子供のような笑顔を見せた。
「覚えておく。愛してるよ」
 アレクシアは、捨てぜりふを残して駆け去る騎影を、見送った。
 舌を打つ。
「何て疑り深い奴だ。信じてないな」
 愛している。
その言葉が、重く響き、耳に残った。
どうせなら、私も、そう言えばよかった。
いつか、この言葉を口にしてやる日が来るだろうか。
それとも、あの男を斬ることになるのか。
 だが、銅の谷の聖洞騎士が、人の子の王の末裔に再び会ったとき、そのどちらも、できなかったのである。



 悪夢は、密やかに忍び込む。
 モンティール子爵は、密談のために、商人風の装束に改めて、単身、自らの陣を離れた。 
 程なく砂丘に、人影を認める。
 挨拶の声は、風に飛ばされて消えた。
 子爵を迎えた青年が、ついてくるように、身振りで示す。
その向こうには、灰色の岩山が聳え立っていた。
 たどり着いた場所では、巨石が、唸るように吹き付ける砂を遮っている。
「ようこそ、子爵」
 子爵を待っていたのは、カーディーンの公子だった。
 案内の若者は、公子に目礼すると、その場を辞した。
「あれは、確か将軍の側近の……」
「ウィストリクです。でも、子爵が以前に会ったのは、姉のクルストリアでしょう」
「ああ、兄弟ですか。なるほど」
 子爵は、納得すると、さっそく本題に入った。
「セルサス領が、賊の略奪によって増えた戦費の負担に耐え兼ね、反乱を起こしました。ですが、すぐに鎮圧されます。その粛正を、少々過激に煽りましたので、あの地方は、生活基盤が、ほぼ壊滅しましょう」
 公子は、満足げに頷いた。
「セルサスか、工人が多い。上首尾だな」
「後は、貴方様の差配次第です」
「アル・カトゥーンからの資金は、十分か」
「もちろん。それに邪魔な人物を、絶妙な時期に堕として下さるので、大いに助かります」
「子爵。口がうまいと、裏を探りたくなるぞ。何が不都合だ」
「野心的に過ぎる女性は、好きません」
「しばらく、辛抱しろ」
「しばらくですか」
「しばらくだ。彼女の役目は、すぐ終わる」
 子爵は、少し身構えた。
この青年は、ひどく冷たい時がある。
「子爵。セルサスには、ヘイセルの谷も含まれたな」
「谷、ですか。そうですね。それが何か」
 微妙な間が空いて、公子は微笑みを返した。
そして、一刻ほどの密談を終えて、その場を立ち去った。



 ウィストリクは、養い子の微かな変化を見逃さなかった。
「何か、まずいことでもありましたか」
「いいや。早くいこう。叔父貴が待ってるんだろう」
 ウィストリクは、頷いた。
将軍が、久方ぶりに、甥の顔を見たいと言い出したので、公子を迎えに出向いたのだ。
 公子は、黙々と馬を走らせ、将軍の宿営地へ入った。
 甥っ子の肩を抱いて歓迎した将軍は、最近の首尾を聞き出した。
時折、満足げに相槌を打つ。
「叔父貴。クルスには、何だけど。アル・ハウィンに会う予定があるか」
 将軍は、屈託がない。
「ああ、ポレセスで、二・三日後に。そうだ、お前の盗賊団に、ポレセスを襲わないように云っておけよ」
 公子は、力無く頷いた。
「それより、アル・ハウィンに、従姉妹に会いに行かないように、伝えてくれ」
 アル・カトゥーンは、切らねばならない。
「それは、いいが。お前、疲れているのか」
「いいえ。そう見えますか」
 天幕の布が跳ね上げられた。
 血相を変えたクルストリア・バーンが、天幕へ踏み込む。
いつもは張りのある声が、震えていた。
「馬鹿者が、この大馬鹿者が」
 公子はどこか、無気質な表情で、女将軍の顔を見上げた。
将軍は、驚いて恋人に声をかけた。
「クルス。何事だ」
「こいつは……」
 クルストリア・バーンの声が、途切れた。
「姉上?」
 ウィストリクが、唖然として、姉の形相を見つめた。
気性の荒さには定評がある姉だが、これ程、本気で怒っているのを見たのは、初めてだった。
「何故、セルサスへの粛正を、止めない」
 将軍は、呻くように云ったクルスを、抱き抱えるようにして尋ねた。
「どういうわけだ。クルス」
「セルサスには、こいつの恋人が、いるはずなんだ」
 ウィストリクは、杯を取り落とした。
「馬鹿な……そんな。何故」
 何故、姉が、それを知っているのか。
そして、公子は、何故、恋人を見殺しにするような真似をするのか。
 公子は、穏やかに微笑んだ。
「多くの者を、犠牲にする計画を立てた。自分の女が、その計画に引っかかりそうだと中止するのか。自分勝手な話だな?それができるようなら、こんな面倒すべてから、とっくに逃げてる」
「だが、アル・ハウィンのことは……」
「アル・ハウィンは、叔父貴の恋人だ。悪党の、ではない。英雄のご機嫌の維持は、重要だ。だから、いい。それに、アレクは、……強い。大丈夫だ」
 憎まれるだろうが、そんな事には慣れている。
 クルストリア・バーンは、顔を背けた。
「馬鹿者が。無理だ……彼女は、今…」
「クルス?」
 男たちは、思いもかけぬ涙を見て、愕然とした。
 クルストリア・バーンは、泣いていた。
「私は、お前が嫌いだ。悪党のくせに、まるで保身ができない。見ていたくない。ウィストリクに、全部押し付けてやる。だけど、たまには何かしてやろうと、思うこともある。ウィストリクが、お前の恋人は、傭兵だといったから、調べた。公妃にはできないだろうが、せめて、私の手元に置こうと思って……」
 公子は、クルストリアの告白に苦笑した。
まるで、あり得ない夢物語だ。
 ウィストリクが、優しく姉に声をかけた。
「姉さん……」
 クルストリア・バーンは、将軍の胸に顔を埋めて、話を続けた。
恐ろしい結末を。
「彼女は、動けない。もう産み月だ。お前の…」
 子供。
 銅の谷の戦士は、子供を産むために谷へ還る。
 ウィストリクは、衝撃に凍りついた。
 公子は、湯気の立つ香草茶のカップを、ゆっくりとした動作で、小さな卓に置く。
乾いた音がした。
「そう。では、もうアレクとは、会えないんだな」
 音という音が、死に絶えたような沈黙が続いた。
 将軍は、恋人を慰めるように、強く抱き締めると離した。
甥に向き直る。
「間に合わないのか」
「ええ。たぶん」
「では、駆けつけろ。間に合うかもしれん。計画を中止できないのは、当然だ。だが、お前が単身、自分の力で、一人を救っても、事態に影響はないはずだ」
「将軍!」
 双子の側近は、主の正気を疑って、叫んだ。
いかに、無鉄砲な公子といえど、そこまでの捨て身が、許されていいわけがない。
 将軍は、まったく力を加減せず、甥の頬を打った。
「惚けている間に、行け。それでお前が死んだら、俺が、お前の役目を引き継いでやる」
「叔父貴は、英雄であって、悪党は似合わないよ」
 公子は、ふらつきながら立ち上がり、苦笑いをした。
「行け。でも戻れよ。できれば、悪党には、なりたくないからな」
 公子は、小さく頷いて立ち去った。
「私も…」
 ウィストリクが追おうとすると、将軍は制止した。
「一人で、行かせてやれ。それに、あれの個人的な事情で、お前を失う訳にはいかない。あれが、望まないだろう」
「でも、お一人では……」
「あれは、大丈夫だ。こんなことは…大切な者を失うのは、初めてじゃない。これで、自分の役割を放り出す奴じゃないんだ。必ず戻る」
 将軍の言葉に、双子の側近は沈黙した。
 その日、カーディーン大公の実弟、アズィー将軍の陣から、一人の青年が、ヘイセルの新しい銅の谷へ向けて、馬を駆った。
 悪夢の結末を、見るために。



 あちこちに、どす黒い血溜まりができている。
これは、過去の再現だ。
 アレクシアは、ぼんやりと考えていた。
 流した血が乾き、剣の柄が、手に張り付いてしまった。
今度は、皆に死に遅れることもないだろう。
 何人倒したか、どのくらいの時間を戦ったのか、分からない。
一族は、どれほど残っているのだろう。
 常態であれば、もう少し働けただろうが、間が悪かった。
生き延びてくれる者がいるといいが……。
 粛正という名の、虐殺と略奪は地方全土に及び、立ち直りかけたばかりの銅の谷をも襲った。
 そして、もはやアレクシアは、真っすぐに立つこともできぬほど弱っていた。
血脂にまみれた剣と木の幹を支えに、襲撃者と対峙している。
 男は、なかなか動かない。
いや、その敵兵は、すでに事切れていた。
ようやく、そのことに気が付いたアレクシアは、膝をついた。
「だが、もう、ここまでだな」
 新たな気配が、足早に近づいてくる。
これで、終わりだ。
ゆっくりと目を伏せる。
「アレク?」
 こんなところで聞くはずのない声が、聞こえる。
 抱き起こされた。
不審に思って何とか目を開けると、いるはずのない男の顔が、見えた気がする。
「悪党」
 随分いいところで、現れるじゃないか。
話があったんだ。
もう少し、生きていなければならない。
「アレク」
 繰り返し名を呼ぶ声が、震えを帯びた。
「……子供」
 アレクシアは、最期の力を尽くして、唇を動かした。
「お前に……やる。でも、お前は、育てるな……」
 黒い血筋は、親子で殺し合うという。
せっかく産んだのに、それはもったいない。
アレクシアは、かすかに笑った。
愛していると、云ってやるつもりだったのに、もう、それだけの力がない。
せめて、目がかすんでいければ、お前の顔が見えるのに。
あの懐かしい、人の悪い微笑が…
「アレク……」
 死にむかう恋人を見守る青年の顔には、どんな感情も現れていない。
ただ、アレクシアの最期の一息まで、自分こそが死にかけているように、息を詰めていた。
アレクシアの身体から、すべての力が抜けて落ちた。
 青年は、恋人を抱き締めて、艶やかな赤銅の髪を指で梳く。
こびりついた血の固まりが、指に触る。
 泣けば楽になる。
 だが、涙はでない。
 分かっていた。
こんなことには、慣れている。
失うことには、慣れていた。
別の道を選べないのだから、これは、当然だ。
しかも、特別な女だった。
 銅の谷の女との恋は……
 知っていた。
高くつくと、知っていたのに……
 胸を抉られるような痛み。
これが代償なのか。
 それとも……
 青年は、恋人の遺体を横たえると、立ち上がった。
ヘイセルの谷を、ゆっくりと見回す。
 かすかな泣き声が、近くの小屋から聞こえた。
ずっと聞こえていたのかもしれないが、耳に入り意味をもったのが、今だった。
 空の水瓶に隠された、小さな赤ん坊だった。
 水瓶の縁で遊ぶ子猫、水におとして教訓に……
 青年は、我が子を抱き上げると、苦く笑った。
 男の子だった。
黒い瞳、おそらく黒髪になる。
「銅の谷の女との恋は、高くつく。黒い血筋に生まれたお前は、父を殺すことになるのか。それとも、銅の谷の末裔として、神の器となるのか……」
 その判定には、いささか時を要するだろう。


 ハンナム・カーディーン大公の治世、二〇年の事である。
 この年は、セルサスの粛正を始め、多くの略奪と虐殺が行われた。
そして、それらは、すべて、各の政治的な判断によって、歴史の闇に葬られたという。
何も起こらなかった。
何も失われなかったと……。
 だが、実に、多くのものが失われたのである。
その年に、銅の谷は、最後の戦士を失う。
このとき、深淵に眠る女神は、まだ目覚めの時を迎えていなかった……

(終章へ続く)

 


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