第六章 代償
右足は、僅かに後遺症が残った。 だが、獣を思わせるしなやかな動作は、少しも損なわれていない。 そして、その膂力も失っていなかった。 凄まじい斬撃を、片腕で操る剣で打ち払う。 薄い唇が引き結ばれ、酷薄な表情をつくった。 大振りの剣が、空を唸らせ、背後から忍び寄った男の首を切り裂く。 皮一枚でつながれた首が、身体もろともに地に倒れ込む。 敵味方を問わず、吹き上げる血に、たたらを踏んだ。 砂塵が舞い上がり、外套が、音を立ててはためく。 体重のないような跳躍に、気を飲まれた巨漢が、額ごと剣を砕かれた。 「アレク」 傭兵仲間が、感嘆も露に駆け寄った。 「まだだ」 低くかすれた独特の声音が、短く言った。 夜盗は、まだ生きていた。 赤銅の髪が舞う。 横殴りに繰り出された大刀の切っ先をかわし、その痩身が踏み込んだ。 次の瞬間、右手の長剣は、巨漢の大刀を制し、左手に繰り出した短剣が、心臓を抉っていた。 傭兵達は、夜盗を全て倒してしまうと、雇い主の安全を確認した。 肝の座った商人は、泰然として満足と報奨金を示し、護衛の士気を高めた。 「当然だな。最近の盗賊は、手ごわい。生半可な護衛では、勤まらないんだ。奴らも、組織的になって、軍隊並さ。噂だと、カーディーン、アーメルドを問わず、脱走兵が、そのまま、その盗賊の一味になっちまうとかで、軍機は漏れるし、物資人物ともに奪われる。盗賊相手に負け戦になったり、補給を断たれて全滅した陣もあるとか……」 アレクシアは、同僚の話に眉を顰めた。 「物騒な話だな」 「そうだよ。それに、こいつは極秘なんだが、辺境の村が、襲われているらしい」 「そんなに、ご大層な盗賊が、辺境を?」 「盗賊だけならば、まだいいさ。物資の補給を断たれた軍隊まで、当座しのぎに、辺境に手を出しているとか。そして、辺境から徴兵された兵士が、動揺して脱走する。そいつらが、また食い詰めて、盗賊へというわけだ。世も末だね」 アレクシアは、黙って頭を振った。 そういう皮肉が、好きな奴を知っている。 だが、あれが、世の末を望むとは思えなかった。 湿った風が、思いの外、強く吹きつけていた。 雨季に特有の灰色の闇が、辺りを覆っている。 ユルスノンの宿場は、砂漠の旅の終着点だった。 隊商は無事に役目を果たし、臨時雇いの人夫や護衛の傭兵は、相応の報酬を得て散って行った。 暗闇から腕が伸びた。 「アレク」 腰を抱かれて、引き寄せられた。 剣を抜かなかったのは、馴染みの気配だったからだ。 「悪党」 宿の廐に繋がれた馬が、人の気配に小さく嘶く。 「伝言もなしで、消えることもないだろうに」 「アル・カトゥーンに弱みを握られるのは、まずいんじゃないか」 悪党の公子は、詰まった。 「何だ。知ってたのか」 「お前が悪党だということは、よく知っているよ。私は、アル・カトゥーンに対する保証だった。事が決まれば、却ってないほうがいい。それに、お前、どこにいっても、狩り出すといっていたろう。当然、捜し出すと思っていたし、そうなった」 青年は、恋人の艶やかな赤銅の髪に、指を滑り込ませて囁く。 「アレク。正直言うけど、俺は、万能じゃないんだぞ。その目立つ赤銅のたてがみがなきゃ、お手上げだったかも知れない」 「そうだったのか」 手の中の、琥珀の生真面目な眼差しは、まるで悪びれない。 自分の苛立った口調は、空回りしている。 青年は、諦めて苦笑した。 「まあいい。会えてよかった」 篝火に映える琥珀の双眸を、見つめながら、そっと身を離す。 二対の剣が、冴えた音を立てて鞘走った。 無様な悲鳴が、あがる。 久方ぶりの逢瀬の途中、若者達は、それぞれ振り向き様の一閃で、忍び寄った影を両断した。 腹から喉元まで、断ち割られた男が、甲高い笛のような悲鳴を上げ続けている。 その身体が二・三歩よろめくと、篝火に突き当たり、干し草へと倒れ込んだ。 篝火は、廐の壁をなめ、大きく燃え上がる。 馬が、熱と炎に脅かされ、暴れ始めた。 廐の炎は、辺り一帯を、あからさまに照らし出す。 「悪党。これは、何だ」 「追っ手」 数名の殺気立った男に、囲まれている。 銅の谷の戦士は、片方の眉を引き上げた。 この状況には、覚えがある。 「会えてよかった……か」 公子は、わざとらしくも、少年の頃と同じ調子で、可愛らしく言った。 「アレクは、奇麗で強くて、本当に助かるな。片付けるの、手伝ってくれるよね」 アレクシアは、怒りに任せて、賊の一人に剣を叩き込んだ。 「お前という奴は……」 「いや、ここに来るまでには、片付けようと思っていたんだよ。一応」 エリクは、言い訳をしながら、追っ手の一人に突き立てた剣を、引き抜いた。 口元には、人の悪い、癖のある笑みを浮かべている。 それが、追っ手どころか、助っ人をも苛立たせた。 どうみても、無頼の男達だった。 仮にも、公子を、どうこうしようという人種には見えない。 その公子も、よく見れば、性のよくない傭兵といった風体だ。 「貴様。やっぱり、例の盗賊にかかわっているな」 「たまに、副頭目とか、参謀とかをしてる。盗賊の組織といえど、馬鹿にするものじゃない。それが、いい身分だと、勘違いする者もいる。こうして、新参者のくせに生意気だと、いびられる。何しろ、古参だから、策はなくても、参謀ができると思う馬鹿もいれば、首領にも手下にも人望がないのに、副頭目になりたがる間抜けもいるんだ」 公子は、ご丁寧に解説した。 その馬鹿で間抜けとおぼしき盗賊は、当然、怒り狂ってがなりたる。 調子が、出てきたじゃないか。 アレクシアは、平穏な暮らしで、見慣れ始めていた不器用で甘い恋人の、面の皮が一枚、剥がれて行くのを見た。 そうだ。 こういう奴だった。 残酷で陽気な、屈託のない子供。 神の前ですら、傲岸不遜な態度を変えない…… アレクシアの鼻先で、甲高い音を立て、盗賊の剣が砕ける。 同時に、懐かしい声が、大音声で叱責した。 「相手が弱いと、気がそれる。悪い癖だ」 大柄な、長身のアレクシアより、さらに頭半分ほど、背の高い人影が、騒ぎに参戦していた。 血族を示す赤銅の髪。 アレクシアは、遠い記憶の中から、その年長の同胞の名を捜し出した。 「ソディシア!」 「加勢する」 今一人の銅の谷の戦士の加勢で、最後の襲撃者が打ち倒されるまで、さほどかからなかった。 ソディシアは、汗で頬に張り付いた髪を、かきあげると、白い歯を見せて笑った。 「アレクシアが、喧嘩好きとは、思わなかったな」 アレクシアは、剣を鞘に収め、憮然として言った。 「私ではない」 銅の谷の戦士達の注目を浴びると、エリクは、大仰な礼をした。 「御助成、感謝致す」 ソディシアは、年少の同胞と、道化てみせた青年を、面白そうに見比べた。 「話がある。邪魔をしてもいいか」 アレクシアは、黙って頷いた。 「谷の外にいて生き残った者のうち、交配期にあった戦士から、祭司が生まれた。ヘイセルに新しい里をつくる。お前は、祭司長アグリスの後継として、聖洞騎士にして、最年長の祭主として、一族に戻らねばならない」 ソディシアの言葉を聞いて、最初に反応したのは、エリクだった。 「内輪の話だな。遠慮しよう」 穏やかにいうと、踵を返した。 アレクシアとソディシアは、振り返らない背を、静かに見送った。 「かわいいじゃないか、若いな」 「私と、同い年だ」 「どこを見て、選んだ。あれで強いのか」 「悪党だ」 ソディシアは、聖洞騎士の琥珀の双眸を覗きこんだ。 剣呑な響きを帯びた声が、尋ねる。 「一族を裏切るか」 それは、本来、さほど重い罪ではない。 銅の谷の戦士も、生身の女である以上、一族の掟よりも恋人との暮らしを選ぶ者が、少なからず出る。 その者達は、暗黙の了解の元に、追われることもなく姿を消すことができた。 そして、その血筋に祭主の才がある娘が生まれれば、祭司長の託宣により、谷へ攫われる。 アレクシアは、頭を振った。 許されるのは、戦士であって、一族の束ねたる祭主や聖洞騎士ではない。 「ヘイセルへ、行こう。私も、谷へ戻ることは考えていた。ただ……」 半神は、銅の女神の目覚めが、近いと言っていた。 神の時間の感覚は、把握できるものではないが、それほど、遠くない時である気がする。 女神の眠りを守る谷は、後どれほどの間、必要とされるのだろうか。 ソディシアは、訝しむように首を傾げた。 「アレクシア…お前、もしかして……」 アレクシアは、低くかすれた声で呟き、ソディシアの言葉を切った。 「私は、アシェイルを守れなかった。アシェイルのいない谷に、『冥』の祭主の聖洞騎士として還る。それが辛い」 ソディシアは、痛ましげに、同胞を見つめた。 そして、あることに気が付き、納得したように頷く。 「先程の男、アシェイルのように、見事な黒髪だな」 「従兄弟だ。だけど、だからじゃない。それをいえば、アシェイルの兄の方が、容姿も雰囲気も似ていた」 アレクシアは、薄く笑った。 半神は、人の子の王を憎んではいなかった。 アレクシアもまた、一心同体である半神とともに、黒い血の末裔に、惹かれていた。 公子が口にしなかった、知られてないと思い込んでる悪夢ででも、半神と意識を共有していた。 愛しくて不憫な…水瓶の縁にじゃれる子猫。 ソディシアは、聖洞騎士の含み笑いにつられて、口元を綻ばせた。 「あまり野暮なまねは、したくなかったんだがね」 「いや、丁度いい頃合いだったよ」 「意味深だな。まあ、そう急がなくてもいいさ。どうだい、取り敢えず、これから彼氏も呼んで、再会を祝して一杯。私は、途中で消えてやるからさ」 銅の谷の一族は、酒豪でもっても知られている。 だが、その案は、即座に却下された。 「だめだ」 ソディシアは、目を丸くした。 「アレクシアが、酒を断った……」 「あいつは、飲めない。それに、酔わせるとまずい」 「暴れるのか」 「笑い上戸だ。それは、ともかく……」 アレクシアは、言い淀んだ。 「酔い潰した後の寝顔が、結構色っぽいからな。ソディシアに食指を動かされるのは、嫌だ」 これは、のろけなのだろうか。 ソディシアは、呆気にとられて、言葉もなく、生真面目な同胞の顔を見下ろした。 「明日の朝には、ヘイセルヘ向かう。それでいいか」 ソディシアは、頭を掻いた。 「アレクシア。お前、変わったなぁ」 「そうでもないさ。新しい谷で飲もう」 新たな祭主の束ねは、長く伸ばされた赤銅の髪を翻し、立ち去った。 青年の後を追って行ったのだろう。 取り残された銅の谷の戦士は、その場で、しばらく所在無げに佇んでいた。 灰色の闇を背景に、黒く塗り込められたような人影を見つける。 湿り気を帯びた風が吹き付け、体温を奪って行く。 こんな夜を、知っている。 大切なものが失われた夜。 一人で過ごすには、辛い夜だ。 青年は、少し離れた場所で、馬をつないだ柵に寄り掛かっていた。 歩み寄るアレクシアに気が付くと、ぼんやりとしていた顔に、微笑みが浮かぶ。 「話は、すんだのか」 「ああ、明日には、ヘイセルへ向かうことにした」 「エイオン峡谷だね。銅の谷にも近い」 「元々は、ヘイセルが銅の谷だった。やはり、昔、近隣の領主と不都合を起こして、移ったといわれている」 「行きつ、戻りつだな」 アレクシアは、青年の表情を読み取ろうとしたが、すべては、穏やかな微笑に覆い隠されている。 仕方なく、そのまま話を続けた。 「女神と繋がる祭主のいる場所が、聖洞であり、聖洞を擁する谷が、銅の谷だ。私は、谷の再建に、力を尽くさねばならない。祭主であり、聖洞騎士であり、……谷の外の考え方でいえば、谷を襲ったバイザル伯の孫だから」 人の子の王の末裔は、小さく呟いた。 「半神は、アレクを、俺に譲るといったが……」 「わかっている。だが、戦士には、その理屈は通用しない。彼らにとっては、祭主は祭主。女神のものか、半神のものかの区別は、つかない」 青年は、アレクシアの「わかっている」という言葉に、怪訝な表情を見せたが、すぐに、例の人の悪い微笑が、それを覆い隠した。 「アレクは、銅の谷に対する義務を放り出して、好き勝手に生きたいと、思ったことはあるか」 あると言ったら、どうするだろう。 アレクシアが黙っていると、それを否定と取ったカーディーンの公子が、独り言のように続けた。 「俺は、あるよ。何もかも放り出してしまったら、さぞ楽になるだろうってね。でも、できない。だから、アレクが、どうしようと、それは、それでかまわない。止めるだけの力もない。アレクは、俺より、ずっと強いからな」 「人を、化け物のように言うな」 「信じられないくらい強くて、強くて、奇麗な化け物だ。アレクが、隊商の傭兵として戦っているのを見るまで、忘れていた。例の『交配期』に惑わされてしまったけど、アレクは、奇麗な『女』じゃない。戦っている時に、一番奇麗な『生き物』なんだ」 何を考えているのか、そういう青年の黒い双眸こそが、魔物じみていた。 傍らに立つアレクシアの赤銅の髪を、指先で搦め取る。 幾度となく繰り返したように、口づけた。 「俺は、アレクが欲しい。いつか、バイザル伯の真似を、することになるだろう。そのことを忘れるな」 アレクシアは、寂しげに囁かれた警告を、聞いた。 エリクは、静かに身を引いて、馬に騎乗した。 「次に会うときは、今度こそ、アレクに、斬られるかもしれないな」 「そうだな。谷に仇すれば、必ず。だが、お前こそ忘れるな」 青年が、訝しげに、見下ろしている。 アレクシアは、微笑んだ。 「お前は、悪巧みしているときが、一番らしい。腹は立つけど、悪党のお前が、好きなんだ。云っておくが、谷では、女が、男を選ぶ。私が、お前を選んだ。お前が、私を選んだんじゃない」 黒い血筋の末裔は、驚いたように目を丸くしたが、すぐに、いたずらな子供のような笑顔を見せた。 「覚えておく。愛してるよ」 アレクシアは、捨てぜりふを残して駆け去る騎影を、見送った。 舌を打つ。 「何て疑り深い奴だ。信じてないな」 愛している。 その言葉が、重く響き、耳に残った。 どうせなら、私も、そう言えばよかった。 いつか、この言葉を口にしてやる日が来るだろうか。 それとも、あの男を斬ることになるのか。 だが、銅の谷の聖洞騎士が、人の子の王の末裔に再び会ったとき、そのどちらも、できなかったのである。 悪夢は、密やかに忍び込む。 モンティール子爵は、密談のために、商人風の装束に改めて、単身、自らの陣を離れた。 程なく砂丘に、人影を認める。 挨拶の声は、風に飛ばされて消えた。 子爵を迎えた青年が、ついてくるように、身振りで示す。 その向こうには、灰色の岩山が聳え立っていた。 たどり着いた場所では、巨石が、唸るように吹き付ける砂を遮っている。 「ようこそ、子爵」 子爵を待っていたのは、カーディーンの公子だった。 案内の若者は、公子に目礼すると、その場を辞した。 「あれは、確か将軍の側近の……」 「ウィストリクです。でも、子爵が以前に会ったのは、姉のクルストリアでしょう」 「ああ、兄弟ですか。なるほど」 子爵は、納得すると、さっそく本題に入った。 「セルサス領が、賊の略奪によって増えた戦費の負担に耐え兼ね、反乱を起こしました。ですが、すぐに鎮圧されます。その粛正を、少々過激に煽りましたので、あの地方は、生活基盤が、ほぼ壊滅しましょう」 公子は、満足げに頷いた。 「セルサスか、工人が多い。上首尾だな」 「後は、貴方様の差配次第です」 「アル・カトゥーンからの資金は、十分か」 「もちろん。それに邪魔な人物を、絶妙な時期に堕として下さるので、大いに助かります」 「子爵。口がうまいと、裏を探りたくなるぞ。何が不都合だ」 「野心的に過ぎる女性は、好きません」 「しばらく、辛抱しろ」 「しばらくですか」 「しばらくだ。彼女の役目は、すぐ終わる」 子爵は、少し身構えた。 この青年は、ひどく冷たい時がある。 「子爵。セルサスには、ヘイセルの谷も含まれたな」 「谷、ですか。そうですね。それが何か」 微妙な間が空いて、公子は微笑みを返した。 そして、一刻ほどの密談を終えて、その場を立ち去った。 ウィストリクは、養い子の微かな変化を見逃さなかった。 「何か、まずいことでもありましたか」 「いいや。早くいこう。叔父貴が待ってるんだろう」 ウィストリクは、頷いた。 将軍が、久方ぶりに、甥の顔を見たいと言い出したので、公子を迎えに出向いたのだ。 公子は、黙々と馬を走らせ、将軍の宿営地へ入った。 甥っ子の肩を抱いて歓迎した将軍は、最近の首尾を聞き出した。 時折、満足げに相槌を打つ。 「叔父貴。クルスには、何だけど。アル・ハウィンに会う予定があるか」 将軍は、屈託がない。 「ああ、ポレセスで、二・三日後に。そうだ、お前の盗賊団に、ポレセスを襲わないように云っておけよ」 公子は、力無く頷いた。 「それより、アル・ハウィンに、従姉妹に会いに行かないように、伝えてくれ」 アル・カトゥーンは、切らねばならない。 「それは、いいが。お前、疲れているのか」 「いいえ。そう見えますか」 天幕の布が跳ね上げられた。 血相を変えたクルストリア・バーンが、天幕へ踏み込む。 いつもは張りのある声が、震えていた。 「馬鹿者が、この大馬鹿者が」 公子はどこか、無気質な表情で、女将軍の顔を見上げた。 将軍は、驚いて恋人に声をかけた。 「クルス。何事だ」 「こいつは……」 クルストリア・バーンの声が、途切れた。 「姉上?」 ウィストリクが、唖然として、姉の形相を見つめた。 気性の荒さには定評がある姉だが、これ程、本気で怒っているのを見たのは、初めてだった。 「何故、セルサスへの粛正を、止めない」 将軍は、呻くように云ったクルスを、抱き抱えるようにして尋ねた。 「どういうわけだ。クルス」 「セルサスには、こいつの恋人が、いるはずなんだ」 ウィストリクは、杯を取り落とした。 「馬鹿な……そんな。何故」 何故、姉が、それを知っているのか。 そして、公子は、何故、恋人を見殺しにするような真似をするのか。 公子は、穏やかに微笑んだ。 「多くの者を、犠牲にする計画を立てた。自分の女が、その計画に引っかかりそうだと中止するのか。自分勝手な話だな?それができるようなら、こんな面倒すべてから、とっくに逃げてる」 「だが、アル・ハウィンのことは……」 「アル・ハウィンは、叔父貴の恋人だ。悪党の、ではない。英雄のご機嫌の維持は、重要だ。だから、いい。それに、アレクは、……強い。大丈夫だ」 憎まれるだろうが、そんな事には慣れている。 クルストリア・バーンは、顔を背けた。 「馬鹿者が。無理だ……彼女は、今…」 「クルス?」 男たちは、思いもかけぬ涙を見て、愕然とした。 クルストリア・バーンは、泣いていた。 「私は、お前が嫌いだ。悪党のくせに、まるで保身ができない。見ていたくない。ウィストリクに、全部押し付けてやる。だけど、たまには何かしてやろうと、思うこともある。ウィストリクが、お前の恋人は、傭兵だといったから、調べた。公妃にはできないだろうが、せめて、私の手元に置こうと思って……」 公子は、クルストリアの告白に苦笑した。 まるで、あり得ない夢物語だ。 ウィストリクが、優しく姉に声をかけた。 「姉さん……」 クルストリア・バーンは、将軍の胸に顔を埋めて、話を続けた。 恐ろしい結末を。 「彼女は、動けない。もう産み月だ。お前の…」 子供。 銅の谷の戦士は、子供を産むために谷へ還る。 ウィストリクは、衝撃に凍りついた。 公子は、湯気の立つ香草茶のカップを、ゆっくりとした動作で、小さな卓に置く。 乾いた音がした。 「そう。では、もうアレクとは、会えないんだな」 音という音が、死に絶えたような沈黙が続いた。 将軍は、恋人を慰めるように、強く抱き締めると離した。 甥に向き直る。 「間に合わないのか」 「ええ。たぶん」 「では、駆けつけろ。間に合うかもしれん。計画を中止できないのは、当然だ。だが、お前が単身、自分の力で、一人を救っても、事態に影響はないはずだ」 「将軍!」 双子の側近は、主の正気を疑って、叫んだ。 いかに、無鉄砲な公子といえど、そこまでの捨て身が、許されていいわけがない。 将軍は、まったく力を加減せず、甥の頬を打った。 「惚けている間に、行け。それでお前が死んだら、俺が、お前の役目を引き継いでやる」 「叔父貴は、英雄であって、悪党は似合わないよ」 公子は、ふらつきながら立ち上がり、苦笑いをした。 「行け。でも戻れよ。できれば、悪党には、なりたくないからな」 公子は、小さく頷いて立ち去った。 「私も…」 ウィストリクが追おうとすると、将軍は制止した。 「一人で、行かせてやれ。それに、あれの個人的な事情で、お前を失う訳にはいかない。あれが、望まないだろう」 「でも、お一人では……」 「あれは、大丈夫だ。こんなことは…大切な者を失うのは、初めてじゃない。これで、自分の役割を放り出す奴じゃないんだ。必ず戻る」 将軍の言葉に、双子の側近は沈黙した。 その日、カーディーン大公の実弟、アズィー将軍の陣から、一人の青年が、ヘイセルの新しい銅の谷へ向けて、馬を駆った。 悪夢の結末を、見るために。 あちこちに、どす黒い血溜まりができている。 これは、過去の再現だ。 アレクシアは、ぼんやりと考えていた。 流した血が乾き、剣の柄が、手に張り付いてしまった。 今度は、皆に死に遅れることもないだろう。 何人倒したか、どのくらいの時間を戦ったのか、分からない。 一族は、どれほど残っているのだろう。 常態であれば、もう少し働けただろうが、間が悪かった。 生き延びてくれる者がいるといいが……。 粛正という名の、虐殺と略奪は地方全土に及び、立ち直りかけたばかりの銅の谷をも襲った。 そして、もはやアレクシアは、真っすぐに立つこともできぬほど弱っていた。 血脂にまみれた剣と木の幹を支えに、襲撃者と対峙している。 男は、なかなか動かない。 いや、その敵兵は、すでに事切れていた。 ようやく、そのことに気が付いたアレクシアは、膝をついた。 「だが、もう、ここまでだな」 新たな気配が、足早に近づいてくる。 これで、終わりだ。 ゆっくりと目を伏せる。 「アレク?」 こんなところで聞くはずのない声が、聞こえる。 抱き起こされた。 不審に思って何とか目を開けると、いるはずのない男の顔が、見えた気がする。 「悪党」 随分いいところで、現れるじゃないか。 話があったんだ。 もう少し、生きていなければならない。 「アレク」 繰り返し名を呼ぶ声が、震えを帯びた。 「……子供」 アレクシアは、最期の力を尽くして、唇を動かした。 「お前に……やる。でも、お前は、育てるな……」 黒い血筋は、親子で殺し合うという。 せっかく産んだのに、それはもったいない。 アレクシアは、かすかに笑った。 愛していると、云ってやるつもりだったのに、もう、それだけの力がない。 せめて、目がかすんでいければ、お前の顔が見えるのに。 あの懐かしい、人の悪い微笑が… 「アレク……」 死にむかう恋人を見守る青年の顔には、どんな感情も現れていない。 ただ、アレクシアの最期の一息まで、自分こそが死にかけているように、息を詰めていた。 アレクシアの身体から、すべての力が抜けて落ちた。 青年は、恋人を抱き締めて、艶やかな赤銅の髪を指で梳く。 こびりついた血の固まりが、指に触る。 泣けば楽になる。 だが、涙はでない。 分かっていた。 こんなことには、慣れている。 失うことには、慣れていた。 別の道を選べないのだから、これは、当然だ。 しかも、特別な女だった。 銅の谷の女との恋は…… 知っていた。 高くつくと、知っていたのに…… 胸を抉られるような痛み。 これが代償なのか。 それとも…… 青年は、恋人の遺体を横たえると、立ち上がった。 ヘイセルの谷を、ゆっくりと見回す。 かすかな泣き声が、近くの小屋から聞こえた。 ずっと聞こえていたのかもしれないが、耳に入り意味をもったのが、今だった。 空の水瓶に隠された、小さな赤ん坊だった。 水瓶の縁で遊ぶ子猫、水におとして教訓に…… 青年は、我が子を抱き上げると、苦く笑った。 男の子だった。 黒い瞳、おそらく黒髪になる。 「銅の谷の女との恋は、高くつく。黒い血筋に生まれたお前は、父を殺すことになるのか。それとも、銅の谷の末裔として、神の器となるのか……」 その判定には、いささか時を要するだろう。 ハンナム・カーディーン大公の治世、二〇年の事である。 この年は、セルサスの粛正を始め、多くの略奪と虐殺が行われた。 そして、それらは、すべて、各の政治的な判断によって、歴史の闇に葬られたという。 何も起こらなかった。 何も失われなかったと……。 だが、実に、多くのものが失われたのである。 その年に、銅の谷は、最後の戦士を失う。 このとき、深淵に眠る女神は、まだ目覚めの時を迎えていなかった…… (終章へ続く) |