第五章 逢瀬
かすかな身じろぎが、目覚めを誘った。 明かり取りから差し込む月の光と、小さな炉の火が、天幕の内を、穏やかに照らしている。 アレクシアは、傍らで聴こえる寝息に、客を泊めていたことを思い出した。 飲みさしの酒杯や、つまみの皿ごしに、横たわった人影を覗き込む。 ほの暗い闇に沈む黒髪が、寝返る拍子に、横顔に落ちた。 慣れない飲酒のためか、何処か苦しげだ。 乱れた髪は、浅い呼吸を繰り返す口元にかかっている。 払ってやろうと、何気なく手を延ばした。 その腕が、いきなりつかみとられた。 眠っていたはずの青年が、半身を起こし睨めつけている。 「すまない。起こすつもりじゃなかった」 エリクは、薄暗がりの中、赤銅の髪の戦士の戸惑った表情を見分けると、腕をつかむ力を緩めた。 「アレク、か」 「うなされていたな」 強張っていた青年の口元を、微笑らしきものがかすめた。 エリクは、つかんでいた腕を放し、覗き込んでいた女の肢体へ腕をまわす。 夜着ごしでも、柔らかな、暖かい感触が心地いい。 アレクシアが咎める様子も見せないので、抱き締めた。 そのまま赤銅の髪に顔をふせると、小さく呟く。 「さすがに、抱き心地いい」 アレクシアは、子供にでもするように、青年の背を軽く叩いた。 「私が、抱き心地いいくらい、抱き心地悪い男に、襲われた夢でも見たか。ウィストリクとか。お前、まだ、襲われてるのか」 エリクは、苦笑した。 確かに、あのごつい半神にくらべれば、アレクは、十分、華奢で柔らかい。 もっとも、アレクだったら、男でも一向にかまわなかった気がする。 しかし、残念ながら、この子供扱いでは、全く相手にされてないようだ。 「ウィストリクじゃないよ。相変わらず、情け容赦ないなぁ」 「また、別の過保護か」 アレクシアの声は、半ば、感心しているようだった。 エリクは、ため息をついた。 そっと、腕を放し、顔を上げる。 憂鬱な気分で、吐き捨てた。 「まったく。俺が、いったい何をしたと云うんだ。不細工とは言わないが、いいとこ十人並みの俺を、誰はばかる事も無い美人が、襲ってくれるんだからな。しかも、色恋沙汰じゃなく、好意、で。ありがたくって、泣けるぞ」 アレクシアは、喉の奥で笑った。 「実は、ウィストリクの気持ちは、わかるぞ」 顎が落ちた。 またしても、とんでもない言葉を、聞いた気がする。 呆然としていると、半神の祭主は、生真面目な表情で、再び口を開いた。 「例えて言えば、だ。足元も覚束無いような貧弱な子猫が、水瓶の縁を歩いてるようで、つい手がでる。猫は嫌がるだろうが、つかまえておかないと、瓶に落ちて、溺れそうな気がするんだな。つかまえる手段として、それしか思いつかないんだろう。私だったら、一度水に落として、教訓にしろというところだ」 「そういうことか。驚いた。アレクなら、そうだよな。でも、その猫、ちゃんと水から上げといてくれよ」 エリクは、思わず肩で大きな息をついて言った。 アレクシアは、指先で、青年の頤をすくい上げる。 「お前、飲んだときの記憶はあるか」 「飲んだって……」 「酒だ」 「ああ、飲んだよな。やっぱり、うまくない」 「どこまで、覚えてる」 「……何を?」 アレクシアは、納得したと言うように頷く。 「悠長な奴だな、一からやり直しか」 言われた途端、記憶が蘇った。 「大丈夫。今、思い出した。……だいたいは。アレクの答えを聞いていない……んだよな?」 アレクシアの指は、顎にかかっている。 変だった。 半神じゃなくて、アレクシアなのだから、この体勢は逆だ。 逆でなければならない。 妙な焦りが、脳裏を駆け巡る。 「お前、答えなんかいるのか。私の意志は、どうでもいいようだったぞ」 エリクは、焦った。 そんなことを、言ったろうか。 必死に、あいまいな記憶を探る。 「いる。答えは、ききたい。だけど、嫌だって言っても、逃さないと……」 言い淀む。 我ながら、あまりにも説得力がない。 アレクシアの指先から身をひくと、取り敢えず、視線を同じ高さに持って行った。 そう、今や、ほとんど身長に差がない。 子供扱いされてる場合ではなかった。 アレクシアは、少し驚いていた。 こんなに、解りやすい奴だったろうか。 あれほど手ごわくて、性の悪かった公子とは思えない。 ごく普通の、若い男のようだった。 相手の考えが、手に取るように解る。 公子から、歯痒い程の葛藤が、ふいに消えた。 あきらめたように、ゆっくりと微笑みを浮かべる。 「だめだ。何て言えばいいか、解らない。俺の取り柄と来たら、舌先三寸しかないのにな」 腕が差し伸べられた。 つかの間、迷いを見せたが、赤銅の髪を指にからめとる。 「アレク」 髪が引かれ、唇が触れた。 琥珀と漆黒の目が会う。 「アレクの方が、強い。嫌なら、俺を斬れ」 今度は、唇が唇に触れた。 長い間ではなかった。 かすかな温もりを残して、そっと、離れる。 まだ、ためらいがあった。 確かめるように、琥珀の双眸を覗き込む。 「アレク?」 アレクシアは、思いがけないほど、優しい微笑を浮かべていた。 「変だな。お前、本当に普通の男に見える」 独特の低くかすれた声が、からかうように耳元に囁く。 背筋に、震えが走った。 あまりに、近くにいすぎる。 ひどい誘惑だったが、おそらく、わかってやったわけではないのだろう。 半神の言う通り、アレクシアは、一生を銅の谷で、聖洞騎士として過ごすはずだったのだ。 エリクは、後ろめたさすら覚えながら、焼け付くような衝動に、ほんの少し耐えて言った。 「アレクが、好きだ」 「嘘つきの悪党」 抱き締めて、そっと横たえた先で、アレクシアが笑う。 傷ついた左肩を避けて、身を寄せると、背に腕が回された。 仄かな月明かりに、暖かく輝く赤銅の髪がとけ、柔らかな敷布の上に広がっている。 奇妙な縁だと思う。 長身痩躯の、鋭い面立ちの青年だったのに。 御伽噺の魔物を思わせる少女だったのに。 女神の騎士と敵。 カーディーンの末裔と、アーメルドの末裔。 剣を交えた事すらある。 穏やかな、ごく普通の暮らしの中にいると、お互いに、闘いの最中からは考えられない程、ひどく幼く不器用だ。 それでも、触れ合う素肌が、熱を帯び、鼓動が早まる。 息が詰まった。 小さく喘ぐ声が漏れる。 切なげに歪めた顔を引き寄せ、唇で触れる。 相手を意識する度に、熱は増した。 「アレク」 それから先は、声にならない。 代わりに銅の谷の戦士が、その言葉の形に、唇を動かす。 お前が好きだと、無言で伝えた。 小さな炉の火さえなかったら、凍えそうな夜。 その夜は、お互いを求める以外の何物も、遠かった。 灼熱した大気と、陽炎の立つ砂丘のただ中に、時ならぬ怒号が起きた。 湾曲した刃が、優美な曲線を空に描くと、赤黒い鮮血が吹き上がる。 疾風のごとく駆ける一群の騎馬が、迎え撃つ護衛をものともせず、長く伸びた隊列に食い込んでいた。 「荒っぽいですな」 「所詮は、無頼の者。訓練された兵とは違う。とはいえ、先陣を斬った首領格の大男は、盗賊にしては、破格に統率力がある。あちこちを、つついてみたが、これだけの人数を、まとめられる者は、他にない」 少し離れた砂丘に、身を伏せた二人の男が、戦闘を眺めている。 事が略奪に及ぶと、砂を払って立ち上がった。 年長の男は、貴族の士官という風体だったが、連れの青年は、傭兵か、盗賊かといった身なりである。 奇怪なのは、身分のある年長の男が、まだ少年の面影のある若い男に対して、しごく丁重だったことだ。 「さて、お互い行動せねば」 青年は、癖のある笑みを見せ、馬に跨がった。 続いて、馬上の人となった貴族は、青年とは逆の方向へ、馬首を巡らせた。 「おおせのままに。このまま、盗賊に補給物資の全てを、奪われるわけには、まいりませんからな」 「こちらも、首領に、退き時を注進せねば。せっかくの手駒が、全滅してしまう」 「お気をつけて。追撃は、本気でやりますぞ」 「先陣には立つなよ。こちらも、本気で戦う。貴公も失う訳にはいかんからな。モンティール子爵」 モンティール子爵は、青年の若さと覇気に、目を細めた。 子爵とて、たいして青年より年上という訳ではなかったが、時折、あまりの無鉄砲さに驚かされる。 あれで、本当に、カーディーン大公の嫡子なのだろうか。 大公の実弟アズィー将軍と対面した事がなければ、信じられなかったかもしれない。 とにかく、あの叔父と甥は、そっくりである。 本来は敵の総大将の家系を、案じる事もないのだが、唯一の公子を捨て駒扱いにするとは不可解だ。 親と子が殺し合う黒い血筋とは、だてではないのかも知れない。 カーディーンの公子と通じたアーメルドの子爵は、そんなことを考えながら、黒髪の傭兵を見送った。 一方、乱戦の中に、駆けつけたエリクは、蛮刀を振るう首領の傍らに馬を寄せた。 「おかしら、退き時だ。モンティールの陣から、寄せ手。おそらく二百」 「なめられたな」 「先陣は、蹴散らせ。だが、次は倍が来る」 「それまで、待たん」 大柄な首領は、唸ると、吠えるようにして、号令をかける。 略奪した荷駄を先行させ、残った盗賊をまとめ、追撃を妨げる障壁とした。 盗賊たちの頬は、不敵な笑みに歪み、正規の軍に臆する者などいないようだった。 実際彼らは、少数の部隊など、歯牙にもかけていない。 隊商を殲滅し、追っ手を迎える前の一時、浅黒く日に焼けた巨漢は、白い歯を見せて笑った。 「この隊商は、お前の言うとおり、軍への補給を運んでいた。いい獲物だ。まったく、お前には、重宝する。次も頼むぜ。多少うさん臭いのには、目を瞑ろう。裏切らないうちは、な」 黒髪の青年は、泣く子も黙る盗賊の王に向けて、人の悪い笑みを見せた。 小さな緑地と水場を持つ集落では、常と変わらぬ平穏な生活が続いていた。 少女が、水を汲んでいる。 天幕の中の水瓶を充たすため、何度も往復していた。 日は傾き、暑気は去りかけていたが、少女の褐色の肌には、汗が流れている。 「シュエ。手伝おう」 「だめ。だめよ。アレク。お客様の上に、怪我人なんですもの。また、傷口が開いちゃう」 シュエは、くるりと身をかわして、アレクシアの手から、水汲み用の桶を遠ざけた。 少女は、忠告を無視し酒盛りをした怪我人に、怒っているようだ。 赤銅の髪の戦士は、苦笑した。 「心配掛けたね。もう大丈夫だよ」 褐色の小さな手から、桶を取り上げると、瓶に水をあける。 取り返そうと背伸びする少女を従えて、長身の戦士が、水場に向かう。 さすがに、身のこなしに隙がない。 シュエは、桶を取り返すのをあきらめた。 里人が、落ち着かぬ様子で、アレクシアを盗み見ている。 長く伸ばした艶やかな赤銅の髪が、夕日に映えて、とても目を引く。 シュエの年長の従姉妹なども、そうだが、里の若者の多くが、この客人に通り一遍でない興味を示している。 シュエは、自分が世話をしている客人を、とても好きだったので、それはそれで誇らしかった。 アレクシアが、誰かを気に止めたら、誇らしいなどと言っていられないが。 「アレク。あのね……」 少女は、言い淀んだ。 「どうした」 「エリクのこと。今日辺り、来るね」 「ああ、そうかな」 シュエは、意を決して尋ねた。 「恋人なの」 アレクシアは、少女を振り返った。 「何故」 「エリクを、好きな子がいるの。聞いてくれって」 嘘ではない。 そういう子もいる。 本当は、アレクを気にして、聞いて欲しいという者の方が、自分を含めて多かったが。 「そういうこと、になるかな。今のところは。悪いが、あれは、私のものだと言っておいてくれ」 「今のところ?」 何だか妙な言い回しに、尋ね返したシュエの声に、同じ言葉が、男の声で重なった。 アレクシアは、応えず、情けない声の主を、上から下まで眺めた。 シュエは、割り込んで来た青年を、恐ろしいものを見るように、そっと見上げる。 エリクは、少女の頭を軽く叩いた。 「長に、お会いしたいと、伝えてくれるか」 この集落の長は、シュエの母でもある。 少女が頷いて踵を返すと、アレクシアは、今のところの恋人に向かって、水桶を差し出した。 「その前に、顔を洗って着替えろ。ここは、戦場から遠い。血まみれ砂塗れでは、失礼だ。馬の世話は、私がやる」 青年は、苦笑を浮かべた。 「着替えを、忘れて来た」 アレクシアは、生真面目に頷いた。 「ああ、私のでよければ、貸すぞ。着られるだろう」 確かに、身長も体格も、そうは、違わない。 エリクは、沈痛な表情に、ならざるを得なかった。 かつて、ウィストリクが、アレクシアに、礼装を貸したことがあった。 あまりに支障なく、着こなされてしまって、頭を抱えていたのを覚えている。 はっきり言って、他人事だと笑える。 他人事ならば、だ。 「時間がない。このままいくよ」 「そうか。あまり、長を煩わせるんじゃないぞ」 目をそらせていた青年の唇に、柔らかな物が触れて、去って行った。 驚いて視線を戻すと、口づけを掠め取った恋人は、すでに水を汲み終えて、天幕へ向かっている。 「アレク、後で、行くよ」 「時間がないんだろう」 「なくても行く」 アレクシアは、振り返って笑顔を見せた。 「待ってるよ」 人払いをした後、アル・カトゥーンは、客人と差し向かいに腰掛けた。 戦場からやってきた青年からは、強い血臭が漂って来る。 アル・カトゥーンの黒目がちの目が、油断のならない強い光を帯びた。 薬師の長は、隊商の女将の遠縁にあたが、その容貌も気性も、まるで似ていない。 化粧気のない、いかつい印象の女性である。僅かに共通するものと言えば、その褐色の肌の色だ。 「昨今は、以前にもまして、裏面工作に、お忙しいご様子。十年一日の戦況に、変化があるとは、思えませなんだが、それとも、何がしかの変化を、起こそうとなされているのでしょうか」 「アル・カトゥーン。名の知れた薬師の頭領が、しがない若造に、丁重にすることはないぞ。アル・ハウィンのように、孫扱いも何だが」 「アル・ハウィンは、野心のない女。貴方様を、ただ恋人の可愛い甥と、扱いもしましたでしょう。ですが、私には、できかねます。カーディーンの若殿」 アル・カトゥーンは、青年を、カーディーン大公に反逆する有力貴族の子弟、と考えている。 カーディーン唯一の公子は、女の強い眼差しを受けて頷く。 この些細な間違いは、女の命取りとなり得るだろが、正してやるほど、親切ではなかった。 「薬師の長には、野心があるというわけだな」 「この地が、カーディーンにも、アーメルドにも、煩わされぬこと。そして、力を得ること」 カーディーンの公子は、癖のある笑顔を見せた。 「アル・カトゥーン。話す前から、見当をつけているようだな」 「銅の谷の方を、お預かりいたしましたことから、だいたい大筋は、読んでおるつもりです。銅の谷人と薬師に御用、となれば、緑妖花にございましょう」 「聡いな。薬師としての良心は、どうか」 アル・カトゥーンは、淀みなく答えた。 「庶民には、関係のない麻薬でございますな。莫大な遊興費を支払える人種が、如何様な地獄に堕ちたところで、痛む良心など、持ち合わせておりません」 「まったくだ。では、緑妖花は、貴方にまかせよう。こちらからの要求は、貴方が、それを以て、カーディーンにも、アーメルドにもよらない、強大な力を得ることだ」 緑妖花は、莫大な利益を生む麻薬の名だった。 公子は、原料の希少な植物の調達を、申し出たのだ。 しかも、その代償は、アル・カトゥーンの野心の成就そのもの。 あまりにも、都合のいい話だった。 「それだけ、ですか」 「今は、強い駒が欲しい。動かしたいときは、そのとき、その術を考える。貴方が、誰の手駒にもなりたくないなら、俺の思惑を上回るほど力をつければいい。悪くない取引だろう」 公子の黒い双眸が、アル・カトゥーンを、値踏みするように見つめた。 薬師の長は、承諾の印に深く頷くと、尋ねる。 「緑妖花の調達は、銅の谷だけですか。少々、品薄ということに、なりますな」 「いや、まずは、既存のカーディーン領のものからだ。ある程度独占させてやる。その代わり、あの谷に手をつけるのは、最後だ。やっかいなモノが、巣くっているんでね」 今まで、明らかに、悪巧みに興じていた公子が、不快な表情を見せる。 アル・カトゥーンは、それ以上追求せずに、事の詰めに入った。 アレクシアは、シュエが入れた炉の火を、見つめていた。 そろそろ、この心地よい温もりの中から、動かねばならないだろう。 かすかに空気が動いて、焔がゆらめく。 天幕に人影か、滑り込んで来た。 「アレク」 乾いた血と砂に塗れたままの青年は、汚れた外套を肩から滑り落とすと、傍らに腰掛ける。 アレクシアは、青年の横顔に、濃い疲労の影を見た。 「また無茶をしているな。お前、本当は、こんなことしている暇は、ないんじゃないか」 悪巧みに東奔西走中の公子は、肩に回した腕をつつかれて、人の悪い笑みを見せた。 「悪巧みの合間に、暇をつくるために、身内には、ご無沙汰している。無駄にしたくない」 アレクシアは、難しい顔をして呻いた。 「うかつだった。もしかして、過保護一同の、恨みを買ってるのか……」 ウィストリクとか、アル・ハウィンとか、ライリンとか、ああ、もしかして、ピリス男爵も数に入るんだろうか…… 「アレクを、恨むって事もないだろう。俺が、色惚けしたとかくらいは、言ってそうだけど。どのみち、会わなきゃ、恨まれてても、どうってことないって」 面白がっている声からすると、罪悪感のかけらもないのだろう。 しかも、眼が誘っている。 「悪党」 半分本気で睨みつけると、懲りない青年は、昔なじみの笑顔で応えた。 「異議はないよ」 アレクシアも、笑ってしまった。 悪党の髪に触れる。 「濡れているな」 「着替えられなかったんで、せめて顔を洗って来た」 「正解だな。実は、お前の髪は、気に入ってるんだ」 「顔は」 「ほどほど」 若者達は、どちらも長身だったが、子犬がじゃれあうようにして戯れた。 甘ったるい笑顔を、指先でつつく。 ほどけた髪が流れ落ち、視界を遮る。 青年は、恋人の琥珀の双眸を見つめると、溜め息をつくように言った。 「ずっと、アレクと、こうしていたいな」 「嘘つきめ。お前は、悪巧みで、忙しいのが好きなんだよ」 「うん。でも、最近は、アレクの容赦ない言葉を聴けないと、物足りなくて……」 「何だ。何か言って欲しいのか」 公子は、力の抜けた声で笑い、アレクシアの顔を引き寄せ、唇をふさいだ。 「今はいい」 残された時間は、短かい。 この夜明けも、そう遠くはない。 銅の谷の聖洞騎士は、己の運命に、いずれ帰らねばならぬと知っていた。 この心地よい温もりは、今だけのものなのだ。 黒い血筋の末裔は、警鐘を聴いていた。 どちらもが、感じていた微かな焦燥は、深い口づけの中に消えて行った。 今は…… |
幕 間
カーディーン大公の実弟アズィー将軍は、あらぬ方向に目をそらせた。 口元は、微かに震え、笑いをかみ殺している。 双子の側近の声は、それぞれに、怒りと困惑を含んでいた。 「将軍。何とか、言って下さい」 将軍は、二人の罵声を、手を振って押さえた。 「仕事はしているじゃないか。大目に見てやれ。それは、お守りや、叔父の機嫌より、女が大事だろう」 クルストリア・バーンは、吐き捨てた。 「将軍は、甘すぎる。半年も雲隠れしやがって。ここまで、大ぼけ野郎だったとは。」 ウィストリクは、激高する姉に相槌を打ちながらも、小さな声たしなめた。 「全くです。でも、姉さん……姉上、口が悪い。将軍の御前ですよ」 バーン氏族の女長クルスは、弟を黙殺した。 問題の人物は、軽く肩をすくめると口を開いた。 「ご心配おかけしまして、申し訳ありません。また、留守にしましたティルファへのご配慮、ご尽力、まことに、深く感謝致します」 貴様の慇懃無礼な振る舞いも、半年ぶりとなれば、いっそ懐かしい。 クルストリアは、そこまでいうつもりだったが、思い止どまる。 その前に、将軍が、甥の肩に手を掛けたのだ。 「元気でよかった。働き者の放蕩息子よ。事態の報告をしてくれ。間諜の連絡だけでは、全体像が把握できない。援護のしようがなくなって、困る」 公子は、素直に将軍に肩を抱かれたまま、天幕へ導かれて行った。 ウィストリクは、まだ怒気を帯びている姉に、恐る恐る声を掛けた。 「姉上……将軍に、気を使わせましたね」 「甘い。甘すぎる。尻を叩くぐらいで丁度いいんだ」 「公子殿も、いつまでも子供じゃないですよ」 クルストリアは、鼻で笑うと、将軍の後を追った。 ウィストリクは、陣中の喧噪へ耳を傾ける。 明け方の、澄んだ空気が熱を帯び始める前の、せわしない一時。 馬の嘶き、天幕の布がはためく音、点呼に答える兵の声。 いつもの通りだった。 でも、今日は、養い子が、ようやく帰って来た。 姉のように怒ることもできたが、それより、無事を喜ぶ気持ちの方が大きい。 ウィストリクは、緩んでしまった口元を引き締め、姉たちの後を追った。 将軍は、床几に腰を降ろすと、甥に尋ねた。 「首尾は」 「上々。薬師、盗賊、アーメルドの人脈を揃えた。後は、駒を動かす段に入る」 「人手は足りているのか、疲れているみたいだが」 公子は、頭を振った。 「まっとうなカーディーンの士官を、使う訳にはいかない。それより、赤光殿の情報が欲しい。どうも、俺の情報網だと、足元が一番弱いんだな」 赤光殿は、大公の居城である。 その中には、公子宮があり、婚約者のシリア姫も、そこにいる。 しかし公子は、今までの人生の大半を、戦場とティルファ伯領の館で過ごしていたので、本来我が家であるべき宮廷には、一番馴染みがなかった。 「たまには、赤光殿にも顔を出したらどうだ。兄上にも、義姉上にも、まして、シリアにも、五年くらい会ってないな。どうだ、骨休めに、『公子』をしてくるというのは」 「お言葉は、そっくり、叔父上に返します。だいたい、骨休めで、宮廷作法なんかやってられませんよ」 「それもそうか。で、首尾は?」 「は?だから、駒はそろったと……」 公子は、つかつか天幕に入って来た女将軍に、頭を小突かれた。 「女は、どうしたんだと、聞いている」 「クルス。そんなこと関係ないだろうが」 公子の抗議は、叔父と養い親の双子に無視された。 「振られて、戻った」 「落として、安心して戻った」 「相手にされなくて、諦めた」 さて、どれだ?という視線に囲まれて、公子は思わず後退りする。 「関係ないだろう」 クルストリアの笑顔は、不吉を感じさせた。 「待ちぼうけさせられたんだ。関係あるね。どうしても、口を割らないなら、こちらにも、考えがある。ウィストリク」 弟に声を掛ける。 残りの視線が、金の髪の青年に集まる。 瓜二つの貴族的な容貌を持つ姉は、非情かつ、優雅に言い渡した。 「許す。襲ってもいいぞ」 呆気にとられた公子は、叔父に助けを求める。 だが、叔父も、無邪気かつ、酔狂な性だった。 「口を割るなら、止めてやってもいいぞ」 ウィストリクは、深々とため息をついた。 彼が、この場で一番、公子に同情的だった。 「そんなに脅えなくてもいいですよ。こんな人前で、するわけないでしょう。安心しなさい」 人前でなかったらするのか。 前科があるだけに、善意の発言が、一番の脅迫になった。 公子は、渋々白状した。 「分かった。言うよ。囲っていたとこから、逃げられたんだよ。これでいいのか」 興味深々で聞いていた三人は、唸った。 「落とした…んだな。で、逃げたということは……賭けは、誰の勝ちになる?」 公子は、頭を抱えた。 一度、そんな賭けをする余裕のある人生を送ってみたい。 こちらは、薬師の里から、姿を消した薄情者の行方も知れず、悪党の公子という役割を果たすため、粉骨砕身で働いているというのに。 このときばかりは、自分が可哀想になった。 さっさと、正義の味方に倒されて、楽になりたい。 ちらりと、そんな考えがよぎった。 時は、ハンナム・カーディーン大公の治世、二十年の事である。 戦いは止まず、砂漠は、緩やかに広がりつつあった。 その年は、表立っての事件は起きていない。 だが、多くのものが失われた。 とても、多くのものが…… (第六章へ続く) |