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《後編》

銅の谷の女神秘録・後編表紙

第四章 警鐘
第五章 逢瀬
第六章 代償
終 章

 


世界の中央に生まれた砂漠は、緩やかに時を掛けながらも、確実に広がりつつある。
かつて、その世界を皇帝の名のもとに一つに治めていた血統は、その出生と同様、謎めいた終わりを迎え、唐突に途絶えた。
今では、伝説と迷信に埋もれ省みられることもない。
最後の皇帝の治世の後は、皇帝の両の腕に例えられたカーディーン大公一族とアーメルド公爵一族とが、残された地と人を二つに分けて治めた。
彼らの間には、元々些細な競争心と言ったものがあったが、皇帝空位の長い時に、それは、猜疑と憎しみへ、やがては戦へと育っていった。
人々が記録を逆上れる限り、すべてが戦いのなかに始まり終わる。
この果てし無い戦いは、人々にとって発端も定かではなく、また、不本意ながら日常でもあった。



そして、今一つの伝説がある。
かつて砂漠は、点在する湖と緑の樹海だったという。
それは、楽園というに相応しい地だった。
女神のただ一人の子供が、人の子に殺されるまでは…
女神の息子は、人の子を愛し、人の子の中から妻を娶った。
妻の兄は、人の子の王だった。
彼は、女神を崇拝したが、人の子の中に降り立った女神の息子を、神の子故に妬んだ。
ある時ついに、人の子の王は、神の子を手に掛けてしまう。
神の子は、それでも人の子らを愛し、祝福を送りながら死んでいった。
しかし、憎悪に狂った女神は、楽園から、ありとあらゆる恵みを剥ぎ取った。
人の子の王は、楽園から逃げ去った。
女神は、人の子を追い立てる。
楽園に生まれた死の砂漠は、女神の足跡に従って広がった。
始まりの刻、その慈愛で、楽園を生んだ女神が、憎悪と砂で、世界を覆い尽くさんとしたのだ。


一人の男が、女神の前に現れた。
女神の息子と人の子の間に産まれた、半神である。
彼は、祖母なる神を宥めることができないと知ると、父の骨から造った杖を、女神の額に打ち込んだ。
女神の絶叫は、世界を震わせた。
砂漠は、凪いだ。
消えることはなかったが、広がることを止めた。
半神は、女神を深淵に沈めた……。



時は、ハンナム・カーディーン大公の治世、十六年の、ある夜の事である。
赫く錆びた月光の下、砂原は泡立ち、デモナゼン城郭は崩壊した。
銅の女神が目覚め、再び世界に復讐の爪痕を残したのである。


今また、女神は、深淵に微睡む。
人々は、稀に見る凶事に、幾通りもの恐怖譚を創り、やがて、それを忘れ去った。
あえて、真実を語る者はいない。
銅の谷の最後の聖洞騎士は、憮然として瞑目する。
黒い血筋の末裔は、ただ微笑んだ。


第四章 警鐘 


悪夢は、常に、密やかに忍びいる。

気が付くと、いにしえに失われた苑へ、足を踏み入れていた。
巨大な樹木が、深緑の天蓋を広げ、柔らかな木漏れ日のもと、小さな生き物が、恐れげもなく行き交う。
濃密な大気は、香しく、適度な湿り気を帯びて心地よい。
微風に誘われるようにして、そぞろ歩くと、やがて湖にたどり着いた。
緑を映す滑らかな水面に、水鳥が幾つもの波紋をつくり飛び立つ。
その姿を見送った人影が、ゆっくりと振り返り微笑む。
赤銅の髪が、暖かく輝いていた。
「ようこそ。……エリク」
思い掛けぬ、優しい出迎えを受けた青年は、片方の眉を引き上げた。
「お招きありがとう…というべきなのか。歓迎されるいわれは、なさそうだけどな。……半神?」 
忘れられた古き神は、穏やかに頷いた。
「我が母の兄たる人の子の王よ。深淵の夢は、どうです。懐かしいのではありませんか」
 カーディーン大公家の直系は、値踏みするような眼差しを森に向ける。
「俺は、ご先祖様じゃない。懐かしいより、もったいないね。これだけの豊かな緑地が、現実にあれば、俺の苦労は減るだろう。だが夢では、な」
 半神は、声をあげて笑った。
「相変わらずですね。貴方が、貴方でないなどと、信じられませんよ。でも、お望みのようですから、エリクと呼ばせていただきましょう」
 エリクは、違和感に眉を顰めた。
これは、半神であって、アレクシアではない。
アレクが呼ぶように呼ばれては、気色が悪いというものだ。
 アレクシアは、半神を宿す祭主である。
一つの体を共有していると、言うべきかもしれない。
それでも、両者の区別が容易なのは、その印象のあまりの違いのためだった。
半神は、無垢で陽気な笑みを持ち、無邪気だった。
アレクシアは、真摯で生真面目、正直なところ獰猛だった。
 そして、この夢の半神の姿からすると、外見も似て非なるものだったらしい。
アレクシアは、長身痩躯の戦士で、鋭い面立ちと思い詰めた険しい表情を持ち、なまじな男よりも男らしかったが、今や、女に、それも極めて奇麗な女に見える。
それに比べると半神は、アレクシアの輪郭をなぞりながらも、一回り線の太い、精悍な、あくまで男性だった。
その瞳は、琥珀ではなく、澄んだ赤銅である。
 面白くもない。
好きな女に憑いたものが、半分神様とはいえ、男以外の何者でもない事に、直面してしまった。
青年は、不機嫌に黙り込んだ。
 半神は、宥めるように、微笑む。
「これが最後です。この娘は、私にとって、精神的にも、血統においても、しごく具合のいい器でした。貴方に譲ることになるとは、思いませんでしたが、仕方ないでしょう。邪魔者は、深淵で眠ることにしましたから、安心して下さい。といっても、今の今まで、忘れられていたようですが」
 青年は、驚いたように瞬きをした。
「何故だ」
「女神は、幾人もの祭主を持ちましたが、私の祭主は、一人だけです。私が深淵の眠りから覚めている間は、文字通り一心同体です。だから本来、祭主は、銅の谷から出ない.。従って子供を生まない、生まれるような事態にならない、存在なのです。つまり……困るでしょう?今のこの娘のように、谷の外で、交配期を迎えたら…」
 困るより、気色が悪い。
半神にしても、叔父甥と思っている相手と、事に及んだら、気色の悪いどころではないだろう。
思わず同情して、ぎごちなく頷く。
「お前も災難だな。俺が、アレクを口説き落としてたら、叔父甥で、不気味な事態になってたのか」
 半神は、にこやかに言った。
「いえ。私としては、貴方が、気にされないのなら、このままでもいいのですが…いいのですか?」
 人の子の王の末裔は、気が付くと後退っていた。
 何だか、とんでもない言葉を聞いた気がする。
夢だというのに、冷や汗をかいた背が、大樹の幹に突き当たった。
 半神の腕が、獲物を囲い込むようにして、木に置かれる。
アレクシアよりも、さらに長身の、一回り逞しい体躯の、精悍な男の顔が迫って来た。
 硬直した公子が、抵抗することを思いついたときには、圧倒的な力で抱きすくめられていて、あまつさえ、息もできぬ程濃厚な口づけを受けていた。
夢だというのに、あまりに生々しい感触だった。
渾身の力で、身をもぎ離すと、半神に蹴りを入れた。
「このくそ馬鹿、婆々ぁっ子!これが、叔父だと思っている相手に、することかっ」
 半神は、びくともしない。
喚く獲物の腕を取って、再び虜にする。
半神の腕の中、人の子の王の末裔は、もがきながら力を込めて叫んだ。
「吐くぞっ!」
 半神は、青年を放した。
どんな振る舞いをしても、無邪気かつ、無垢に見える半神は、無念そうに呟く。
「娘はよくて、一心同体でも私は駄目とは、相変わらず理不尽な」
 こいつは、理不尽の意味を知っているのか。
苔むした緑の大地に、へたり込んだ青年は、憮然として半神を見上げる。
「さっさと、寝ちまえ」
 半神は、憂いを含んだ眼差しを返した。
「人の子は、目がよく見えない。いつもいつも、貴方は、我々が、手を引き懐に抱え込んで、守ってやろうとすると、それを嫌って、我々を憎む」
「守ろうだと?」
 半神の云いたいことは、理解できなかったが、この言い草は、度々聞いたことがある。
無理強いしておきながら、好意からなのだからと、悪びれるどころか、嫌がる者をたしなめにかかる手合いがいる。
夢のせいか、感情の抑制がきかない。
積もり積もった鬱憤を、目の前の半神に叩きつけた。
「放って置いてくれ。善意だか好意だか、そんな物があるというなら、黙って見ていろ。俺が、どんな目に会おうと、手出しするな!」
「いつもいつも、傷だらけで、痛め付けられ、大事なものを、次々に失う運命でも?」 
 神の子を殺し、親子で殺し合う、黒い血筋の末裔は、歪んだ微笑を見せた。
「放って置け。そんな事には慣れている。我慢ならんのは、善意や正義を掲げれば、何をしても許されると思う奴らだ」
 半神は、小さく呟いた。
「神の子たる父を殺したのは、そのためですか」
「それは、俺じゃない。だが、俺にそっくりだというなら、そうなんだろうさ。悪党だからな」
「父は、貴方を好いていて、貴方のために、女神を動かし、人の子を楽園に招いた。荒野で、猛々しく強かった人の子は、楽園で守られ甘やかされて、穏やかな、弱々しい存在になってしまった。貴方が父を殺さなければ、人の子は、はるか昔に滅びていたでしょう。だから、私は、貴方の行為を、そう悪く思わなかったのですよ」
「人は、今でも滅びかかっている。人の子の王は、楽園で眠りながら滅びるか、砂漠で戦う内に滅びるかを、選んで見せたが、悪あがきだったというわけだ。それとも、飼い馴らした神と、飼い馴らされた人の双方を憎んで、破滅させたかったのかもな」
 半神は、青年の憎まれ口を無視した。
「そのついでに、貴方は、父の友情も、女神の愛情も、煩わしくて、切り捨てたと云うのですか」
人の子の王の末裔は、突き返された言葉に唖然とする。
「友情に、…愛情?」
 あの憎悪に狂った女神の、どこに愛情があったというのか。
「神と呼ばれる我らは、とても単純だ。憎い者は苦しめ、愛しい者は守りたい。裏切られれば、愛した分だけ、憎しみが深くなる。我々は、貴方を愛していましたよ」
 青年は、冷ややかに、楽園の幻を眺めた。
「楽園の柔順な愛玩動物に裏切られた、可哀想で物騒な女神様か。永遠に眠っていて、欲しいものだな」
 半神は、眉を顰めた。 
「貴方は、いつだって、強くて、もろくて、悪い……。女神も、その子である父も、半神半人である私にすら、貴方の考え方は、不可思議です。愛した者を殺し、憎んだ者を助ける。守られる事を嫌悪し、戦うことを喜ぶ。愛してなどいないくせに、人の世を守ろうとしている…その力もないのに。何故、貴方は、我々の力を、神を望まないのです。いったい、貴方は、何という生き物なのです」
 人の悪い笑みが、半神に向けられる。
「それは、俺じゃない。俺は、ただの人間だ。俺は、私は、大層なことを考えているわけじゃない。カーディーンの公子がなすべき事を、しているまでだ。御言葉通り、力が足りない分は、手段を選ばないことで補ってる。それだけだ」
 半神は、そっと、青年の黒い双眸を覗き込んだ。
「神頼みも、手段の内ではないのですか」
 黒い血筋の末裔は、思案するように首を傾げる。
「一度、破綻している手段だな。同じことの繰り返しに、なりそうだ。それに、今更だろう」
 その冷静な物言いに、半神は苦く笑った。
「今、私は、貴方を守りたいと思います。そして、それを、貴方は拒絶するんですね」
 人の子の王の末裔は、ゆっくりと頷いた。
 半神は、その指先を、青年の頤に掛けて、顔を上げさせた。
「せめて、警告を受け取ってください。神の子たる父の器は、ほどなく現れるでしょう。敵となされるも、味方となされるも、ご自由ですが、覚えておきなさい。父は、貴方を許し、そして好いていました。そして、もう一つ。私が離れれば、娘の命運は、あの娘一人の物となります。そして、銅の谷の女との恋は、高くつくと云ったのは、貴方自身なのですよ……」
 今度は、肉親に、ふさわしい抱擁だった。
 不意に、地面が喪失してしまったような酩酊感に、襲われる。
 それが、楽園の夢の最後だった。



 時は、ハンナム・カーディーン大公の治世、十九年のことである。
密やかに、警鐘が鳴らされた。

(第五章へ続く)

 


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