第三章 追憶
時は、ハンナム・カーディーン大公の治世十九年 の事である。 その年は、多くの夜に、思い出を語る事になった。 やせ細った月は、爪を思わせる。 サビエ子爵の指揮する部隊は、およそ百騎あまり。 補給部隊の護衛を努めて、十日を行軍し、中継地点の水場で休息をとっていた。 平穏無事な行程に終止符を打ったのは、カーディーンの正規軍ではなく、無頼の盗賊だった。 子爵子飼いの騎士達は、荷駝と主を守って円陣を組み、部隊の大半をしめた傭兵は、恰好の気晴らしとばかりに撃って出る。 サビエ子爵は、微塵も動じていない。 豪胆だというのではない。 自分に危害が及ぶなどとは、考えていないのである。 下々の者は、笑えと言えば笑い、泣けと言えば泣く。 同様に、戦えと言えば戦い。 勝てと言えば勝つ。 そう思い込んでいるのだった。 名流の若様は、今までの人生で、たっぷりと甘やかされて来た。 たいていの物事が思い通りになると、考えていても不思議ではない。 例外は、一握りの目上の親族と、数名の有力貴族のみであった。 戦にでたのは、貴族として箔を付けるためで、大部隊を任せられないのは不満だった。 だが、もともと大きな戦功を得ようという野心もない。 それ故、危険な目に会うことの、まずない、些細な任務の小部隊の将という気楽さは、気に入っていた。 何しろ、今この場に、彼に命令する立場の人間はいない。 彼の鼻っ柱を叩いた唯一の存在は、乱戦の中、際立った戦いぶりを示していた。 それは、貴族でもない一介の傭兵である。 サビエ子爵の眠たげな、一見すると人の良さそうな瞳に、陰険な光が宿った。 矢は放たれた。 アレクシアは、風を切る音を聞いた。 敵の胴を両断すると、そのまま剣を空に走らせた。 矢を薙ぎ払う。 馬が、たたらを踏んだ。 二射目が馬の腹に、三射目が投げ出されるアレクシアの肩先をかすめた。 倒れた馬の背から放り出されつつ、一転して身構えようとする。 兜が飛ばされ、赤銅の艶やかな髪が、あらわになった。 執拗に放たれた四射目が、体勢を崩した傭兵の左肩を射ぬく。 鮮血が飛沫いた。 だが、その痩身は倒れない。 苛烈に輝く琥珀の瞳が、射手を捕らえる。 恐怖に駆られた男が、休む間もなく矢を放った。 何本かが、むやみに砂を縫い、やっと一矢が、右足を掠める。 この矢は、敵ではなく味方の中から、射られたもの。 アレクシアは、倒れることを拒んだ。 その次の矢は、心の臓に向かう。 戦友たちの何人かが、アレクシアの窮状に気づいて叫んだ。 だが、駆けつけるには、間に合わない。 「アレク!」 一陣の風が、目を眩ませる。 横合いから伸ばされた腕が、アレクシアの胴を攫った。 有無を言わせず、馬上に引き上げられる。 騎手は、手綱もなしで馬を巧みに操っていた。 「悪党」 「助けたのに、それはないだろう」 「降ろせ。襲撃して来たくせに、恩着せがましい」 黒髪の…盗賊は、声を上げて笑った。 「わかったよ。また、あとでな」 公子は、アレクシアを、ほとんど衝撃を与えず、馬から降ろした。 馬首を巡らすと、一直線に、大弓の射手に向かって走らせる。 すれ違いざまに、剣を一閃させ、射手の首を落とした。 首を失った兵士の胴体は、矢をつがえた体勢のまま、血飛沫を立てて倒れこむ。 ほどなく鋭い口笛が響き、盗賊達が、やけにあっさりと退散していく。 アレクシアは、剣を支えに立ち見送った。 「今度は、盗賊か。何を考えてるんだか……」 傭兵仲間の一人が、駆け寄る。 「アレクシア。やられたのか」 「油断したよ」 アレクシアは、苦く笑った。 あろうことか、味方の矢だった。 味方、に油断してしまったのだ。 肩を貸そうとした若い傭兵は、自分の事でもないのに、動転している。 「ひどいな。矢を抜くか。鏃を折って……矢羽の方か……いや、その前に軍医をつかまえないと」 「アレク。大丈夫か」 「無理するんじゃない」 何故か、自らも負傷している傭兵達まで、集まって来た。 皆で、肩を貸そう、若しくは抱きかかえて運んでやろうと申し出る。 それを、先に駆けつけた若い傭兵が、剣呑な眼差しで牽制しようとした。 アレクシアは、多少ふらつきはしたものの、自分の足で歩いて、軍医に声を掛けた。 しわがれた声の老人が、従僕に指図しながら、負傷者の手当をしている。 「お前さん。自分で歩いて来たのかい。かなり強情我慢の人だねぇ」 アレクシアは、矢を引き抜かれた時も、悲鳴を上げなかったので、磊落な軍医に、傷ついたほうの肩を叩かれた。 「めったな事では、怪我をせんで欲しいね。あの騒ぎの元は、あんたじゃろう」 「そうなのか?」 アレクシアは、首を傾げた。 先程の場所では、まだ傭兵達が、睨み合っている。 軍医は、これみよがしな、ため息をつくと、化膿止めを調合した椀を渡した。 「銅の谷の一族ってのは、強い兵じゃあるけれど、所詮は、女。しかも、極め付けに奇麗な女ときている。まぁ、騒動のもとさね。お前さん。若様に、逆らいなすったそうだね」 アレクシアは、片方の眉を引き上げた。 「その若様というのは、傭兵に向かって、寝所の護衛を命ずるならともかく、寝所での相手を命ずる馬鹿のことか」 「馬鹿じゃないとは、言わないけどねぇ。雇い主を殴り倒しちゃいかんよ」 「そうだな。お返しに、矢を食らった。契約が切れたら、返礼をしなくてはな」 軍医は、頭を振って呟いた。 「まぁ、返礼したかったら、しばらく養生しなさい」 しかし、養生する暇は、さほどなかったのである。 次の晩のことだった。 ザビエ子爵の部隊は、移動中の襲撃を警戒し、水場に留まった。 主よりは務めに熱心な参謀が、斥候を出す。 場合によっては、近くにいる友軍に、援護を依頼することになるだろう。 子爵は、面倒げに、その進言を聞いていた。 人の良さそうな芒洋とした風貌の青年貴族は、お目つけ役である参謀に言い渡した。 「騎士を出すまでもない。卑しい仕事には、使い捨ての傭兵で十分であろう」 斥候の人選など、些細な事だった。 この際、そのようなことに気を配る意図は、どんなものなのだろうか。 参謀は、首を傾げる。 分からないのも、無理はなかった。 何しろ、子爵の関心は、任務より、負傷したある傭兵を孤立させること、にあったのだから。 この行軍で、親しくなった傭兵仲間が、すべて斥候に駆り出された。 アレクシアは、負傷していたので、宿営地に止められている。 天幕に向かってくる数名の足音。 アレクシアは、目を開けた。 射抜かれた左肩は、動かない。 右足は、多少不自由でも動く。 煎じられた薬の効果は、覚め掛けている。 その分痛みは蘇ったが、感覚が麻痺しているよりはいい。 断りも無く、天幕に入り込んだ男は、鋭い琥珀の瞳に射竦められて息を呑んだ。 硬質の、だが、紛れも無く女の美貌が、仄暗い明かりに浮かぶ。 最前まで横になっていたためか、長い赤銅の髪が乱れて、熱で上気した頬にかかっていた。 左肩は、固定されて動かないようだが、右の腕は、大きな剣の柄にかかり、一歩も引かぬ戦意を見せる。 それは、世にも美しくて物騒な生き物だった。 騎士たちの内、何人かは、恥じ入るように目を伏せる。 実際、恥を知らないのは、彼らの主だけ、だったのかもしれない。 子爵は、苛立って吐き捨てた。 「剣を取り上げろ」 やや年配の騎士が、アレクシアに、懇願の眼差しを見せる。 軽率な一人が、手を伸ばした。 赤銅の髪の傭兵は、常のしなやかな動作を欠いてはいたものの、難無く侵入者を打ち倒した。 ザビエの若殿は、目を細くした。 「下賎の者が、主に手向かうか」 アレクシアは、鼻で笑った。 「矢が放たれた時点で、そんなものは、いなくなった。遠慮はしないぞ。返礼を受け取れ」 鞘がはらわれ、抜き身の刃が現れる。 何人もの傭兵が寝泊まりする天幕は、立ち回りにも狭すぎるということはなかった。 傷ついた傭兵は、恐ろしく強い。 ほとんど一撃で、騎士達の動きを制していく。 弱った獲物をいたぶるつもりでやって来た男達は、青ざめた。 ザビエ子爵は、子供のように喚いた。 「とりおさえろっ」 できるものなら、とっくにやっている。 騎士達は、引きつった。 思い余った一人の騎士が、背後から、傭兵の動かぬ左肩を槍の柄で衝く。 銅の髪の傭兵は、うめき声を上げまいと、かみ殺す。 しかし、体勢の崩れた所に、振り下ろされた剣を、避け切れなかった。 天幕の布地に、血飛沫がかかる。 再び、左肩を切り裂かれた傭兵は、取り押さえられ、剣を取り上げられた。 芒洋とした風貌に、陰険な表情を浮かべ、ザビエ子爵が、引き据えられた獲物に近寄る。 いきなり、傭兵の傷ついた肩をけり飛ばした。 倒れたところを、更に踏みにじる。 「おとなしくしていれば、かわいがってやったものを」 銅の髪を掴み、顔を上げさせる。 琥珀の瞳に長い睫が、影をつくっていた。 傷ついた女は、意識を失い掛けている。 騎士の何人かは、目を背けた。 子爵の子供じみた残忍な微笑が、好色に歪む。 「血まみれの女を、抱くのも一興だな」 指図されるまでも無く、騎士達は、その場を辞しそうとした。 子爵は、動かなくなった女に、のしかかった。 熱をもった女の首筋から胸元へ、指を這わせる。 肩の傷口に爪を立てて抉り、女の意識を戻そうとした。 くぐもったうめき声に満足し、舌なめずりさえしながら、血に染まった布地を引き剥ぎにかかる。 子爵が、奇声を上げて飛びのいた。 女の手には、短刀があった。 「これが、返礼だ」 鼻をそがれた子爵が、天幕の中を転げ回る。 アレクシアは、襲いかかってくるだろう騎士達に向かうため、身を起こす。 だが、騎士達は、それどころではなかった。 彼らは、思わぬ敵と戦っていた。 激しく切り結ぶ物音が、天幕のすぐ外から聞こえる。 だが、援護に駆けつけてくる者はいない。 当然だった。 子爵自身が、人払いしていたのだから。 アレクシアは、立ち上がった。 剣戟の音が止む。 戸口の布を跳ね上げて、人影が飛び込んできた。 仄暗い明かりが、男の顔を青ざめて見せる。 それが、見る間に驚愕に歪む。 「アレク!」 鋭い眼差しは常と変わらず、 だが、アレクシアの姿は、血に塗れ、引き裂かれた凄惨なものになっていた。 「悪党……」 男の腕が、銅の髪の女を支える。 震えていた。 一方は、負傷のために。 もう一方は、怒りのために。 いつも、いつも笑っていた少年だったものが、剥き出しの憤怒を見せる。 「このトンマは、ザビエ子爵か。間抜け面だな」 転げ回っていた子爵は、血まみれの顔に恐怖を浮かべて後ずさる。 「矢の返礼に、化粧をしてやったのさ。お前、一人か。何しに来たんだ。盗賊の襲撃にしては、小人数だな」 男は、応えず、すでに血脂に塗れた剣を振り上げた。ザビエ子爵の片腕が落ちる。 切断された自分の左腕を見て、子爵の目が見開かれる。 絶叫が上がった。 男は、剣を一閃させると、止めをさした。 「見苦しい奴だな。アレク、主は選べよ」 「どうせ、仮の主だ。どんなでも、かまわないと思ったんだが……。そうだな。お前のほうが、だいぶましだな。悪党だが、無様じゃなかった」 男は、女に、懐かしい笑顔を見せた。 「それに、三度目の正直だ。今度は、男に襲われたのは、アレクで……、ああ、でも、助けるのには間に合わなかったか。アレクは、さすがに強いな」 アレクシアは、笑った。 「いや、助かった」 エリクは、アレクシアに、自分の外套を羽織らせると、剣を収めた。 その前に、子爵の衣の裾で、剣から血を拭う。 かすかに嫌悪で顔を歪めながら、ザビエ子爵の死に顔を眺めた。 「アレクシア。もう、ここには、いられないだろう。俺と来ないか」 「盗賊になれと?」 「奴らとは、昨夜別れた。しばらくは、会わない」 「何を企んでる。今の私は、足手まといになるぞ」 うつむいていた青年が、顔を上げる。 漆黒の瞳。 懐かしい人と同じ血筋の、同じ髪と瞳。 アレクシアは、アシェイルの面影を見た。 儚げな悲しい眼差し。 だが、それは、すぐに溶けて消えた。 人懐こい微笑みが浮かび、手が差し伸べられた。 「是非とも、足手まといの気分を、味わって欲しいね。次に俺がお世話になるとき、お手柔らかにして貰えるだろう」 星明かりを頼りに、進路をとる。 風のない夜だった。 見渡す限りの砂原は、しんと静まりかえり、二人きりの旅人の影を映していた。 馬の背に揺られながら、ほとんど意識のない赤銅の髪の戦士を気遣う。 熱をもった躯が、浅い呼吸を繰り返している。 青年は、女を支えていた腕に、さりげなく力を込めた。 「苦しいのか」 低いかすれた声が、夢見心地に応える。 「いや、そうでもない。薬が、効いている」 「アレク。何だか、小さくなったな」 アレクシアは、喉を鳴らして笑った。 「お前が、でかくなったんだ。だいたい、それは、年老いた親にいう台詞だぞ」 「アレクは、ずっと年上に見えてたからな。今は、真っすぐすぎて子供みたいだ」 「失礼な奴。お前、いっきに、じじいになったな」 じじいにされた公子は、言った。 「認めてくれてありがとう。本当は、ずっと前から、大人だけど……、ね」 鼻をそがれるほど、行儀の悪いまねはしないから。 エリクは、そんな言葉を呑み込んだ。 弱っているアレクシアの前に、胸糞の悪い男のことを、持ち出すこともあるまい。 外道で、悪党。 だいたい、自分とあの男は、どれほどの違いがあるのか。 違うと、断言できない後ろめたさがある。 「……どこへ。行くんだ」 赤銅の髪が、頬をかすめる。 熱で潤んだ琥珀の瞳が、自分を支えている男の黒い双眸を、覗き込んでいた。 青年は、うろたえた。 わざとらしい、陽気な調子で答える。 「どこへでも、安全な所へ。傷を癒せるように、安全な巣穴に潜り込んでしまおう。どこか、行きたい所はあるか」 うつろな声が、小さく呟いて応えた。 「巣穴なんかもうない。銅の谷は、もう……」 「アレク?」 無意識なのだろうか、赤銅に輝く髪の頭が、青年の胸にもたせ掛けられる。 「もう、誰もいない」 いつでも、信じがたいほどの強さを見せた銅の谷の戦士は、弱音も、怒ったように吐き捨てる。 「誰もいない。私は、まだ生きながらえなければ、いけないのか。お前が言ったんだぞ。あのデモナゼン城郭の最後の夜。死ぬなら、戦って死ねと」 それは、主にセイランにいった言葉だった。 あの従兄弟は、妹を失って死にたがっていた。 同じように絶望していたとしても、銅の谷の戦士は、さほど表情に出さなかった。 では、あの言葉は、思った以上に大切な役割を果たしたのだ。 「そうだ」 エリクは、言葉を探して言い淀んだ。 「アレクに死なれると、困る…」 アレクシアが、気のない声で尋ねる。 「何だって?」 探していた言葉を見つけて、青年が、ふいに微笑みを浮かべた。 「だって、アレク。せっかく、貢ぎ物を用意してるのに。叔父貴の言うには、なかなか呑めない逸品の酒らしいぞ。無駄にするのは、もったいないだろう」 アレクシアは、瞬きをした。 苦笑しながら言う。 「それを早く言え。早く。ところで、お前、その図体で、まだ呑めないのか?たまには、付き合えよ」 青年は、声をあげて笑った。 自分で言い出した事ではあるが、酒に負けたような気がして、たぶんに、やけくそになっている。 「呑めるとは言わないけどね。呑む努力くらいは、してみようかな」 こうして、二人は、酒盛りに臨む事になる。 しかし、その夜が来たとき後悔したのは、意外にも、アレクシアの方だった。 その集落は、小さな緑地と井戸を持っていた。 長は、年配の女性で、一族は薬師だという。 エリクは、アレクシアを預けると、その足で、すぐに出て行った。 以来、二、三日おきに顔を見せ、また戻って行く。 「今日あたり、また来るわ。よっぽど、心配なのね」 シュエという娘は、アレクシアの包帯を替えながら、からかうように言った。 年の頃は、十歳前後。 ませた口調が、可愛い子供だった。 長の娘で、アレクシアの世話役ということらしい。 「エリクが、怪我人を連れてくるのは、初めてじゃないの。でも、こんなに頻繁に顔を出すのは、珍しいわ」 「そうだな。私が、何かの企みに必要なんだろう。死なれたら、困ると言っていた」 褐色の肌の小さい顔が、困ったように傾げられた。 「ええと。そうじゃなくて、ええと……そう言うんじゃないと思うの」 考え込んでしまった少女の黒髪を、背後から伸びて来た腕が軽く叩く。 「シュエ。お話中、邪魔してもいいかな」 シュエは、頭をかばいながら、青年を見上げた。 「入る前に声を掛けて。無作法だわ。エリク」 「話に夢中になってたな。声は掛けたぞ。聞こえなかったのか。何の話だ」 アレクシアは、少女がその背で、青年の視線を遮ろうとしている間に、悠然と上着を羽織っていた。 「お前が、よく来るのは、何の悪巧みの為かって話だ」 エリクは、意味ありげに微笑んで答えた。 「もちろん。怪我人と酒盛りしようって、悪巧みだよ。今夜あたりどうかな」 「よかろう」 シュエは、あせって、微笑み合う二人に言う。 「待って、待って。母様に、聞かないと……」 青年は、隠し持っていた包みから、酒と杯を取り出して並べた。 「長は、お出掛けだよ。狙って来たんだ」 怪我人は、赤銅の髪をかきあげ、物憂げに尋ねる。 「つまみは、なしか」 「まさかね」 別の包みを解くと、魔法のように食べ物が出てくる。 湯気の立つのを見ると、どうやら、ここの厨房で用意したものもあるらしい。 「待って。待ってったら」 シュエは、柔らかい敷布の上で、小さな足を踏み鳴らした。 いい年をした若者達は、幼いお目付け役の制止にかまわず酒盛りの準備をしている。 ややあって、息を切らせた少女の口に、甘い木の実が詰め込まれた。 「買収された方がいいよ。アレクってば、どんな時でも、飲む機会だけは、はずさない奴なんだから」 「目をつぶってくれたら、明日から、ちゃんと養生するよ。シュエ」 赤銅の髪の戦士は、少女に向けて、柔らかく微笑んだ。 幼い少女の頬は、褐色の肌の上からも、はっきり分かるほど上気した。 小さく頷くと、踵を返して天幕から出て行く。 エリクが、呆れたように言う。 「相変わらず、女にもてる」 「さすがに慣れて来た。有効に、つかえるようになったろう」 「本当に、すれてきたなぁ。アレク……」 お目つけ役がいなくなったので、さっそく酒の封を解く。 芳醇な香りが、天幕の中に広まった。 差し向かいに座り、杯を空けては、注いで注がれる。 下戸だという青年は、いかにも苦しそうに、極上の酒を喉へ流し込んだ。 「これ、うまいのか」 「まずいのか」 「わからない……くらくらする」 アレクシアは、軽く笑った。 「慣れれば、うまくなる」 「その前に、潰れそうだ」 「薬師の村だ。誰かしらが、介抱してくれるさ」 「アレクは、介抱してくれないのか」 「怪我人だからな」 ここには、敵もなく争いもない。 二人とも、くつろいでいた。 次から次へと、軽口が続く。 天幕の外では、欠けた月が、辺りを皓々と照らしていた。 小さな集落のあちこちから、人々の営みの物音が、かすかに聞こえている。 静かな夜だった。 「アレク。本当に今、交配期なの」 「しつこいな。そうだよ。だから何だって」 青年は、真っ赤な顔で口ごもった。 「もしかして、だって、じゃぁ……、交配期って、発情期とは、違うのか」 銅の谷の一族は、喉の奥で笑った。 「馬と一緒にするな。子供を生むのに、最適の時期という意味だ」 「それだけか?詐欺だ。詐欺っ」 「どこが、詐欺だ。だいたい、お前に何の関係がある」 エリクは、ため息をついた。 「アレクが、誰を選ぶか知りたい。アレクより、強いんだろ。一見の価値はあるじゃないか」 アレクシアは、酔っ払いの度合いを、見定めようと、青年に目を向けながら答えた。 「といってもな。見当たらなくてな。銅の谷では、自分より強いのがいなければ、よく笑わせてくれる奴がいいと言ってたな」 酔っ払った青年が、空の杯を弄くりながら、思いついたように言う。 「ダディエンは、どっちだろう」 「誰だって?」 「ベルスンの長」 「ああ、サイリアの……。サイリアは、強かったぞ」 「じゃぁ、笑いをとって、おとしたのか」 青年の肩が、震える。 アレクシアが口を挟む間もなかった。 酔っ払いは、爆笑した。 「あの顔で……あの……ダディエンが!」 「おい。妙な想像はよせ。何も、漫才のうまい奴というわけでは……」 銅の谷の戦士は、剣の師の名誉のため、馬鹿笑いを止めようとした。 だが、それは、だめ押しになった。 「漫…才!」 青年は、敷布に突っ伏しながら、身を震わせて笑っている。 「おい……よさないか。貴様、笑い上戸か」 酔っ払いが、それでも、アレクシアの低い声に脅され、笑いを収めようとした。 どうにか、表情を引き締め、顔を上げる。 その黒い瞳が、鋭い琥珀の双眸に出会った。 「は……」 奇妙な呼吸とともに、再び爆笑する。 今度は、アレクシアも巻き込まれた。 「やめろと……いうのに」 天幕の外を通りかかった者がいれば、楽しそうにやっていると言うだろうか。 狂騒的な笑い声が響いた。 「アレクまで、笑うなよ。これは、笑わせようとした訳じゃないぞ」 銅の谷の戦士も、呪われた血筋の公子も、憮然としながら笑うという、器用なまねをしていた。 「うつしときながら、何て言い草だ。馬鹿者」 こんな奴に呑ませるんじゃなかった。 アレクシアは、しみじみ思った。 漫才か。 面白い話、といえば。 やけくそになったのか、ものはついでというか、酔っ払いは、笑える話を列挙し始めた。 「だから…、あのセイランが、もう一人の従兄弟のヴィスと、妹自慢をしてたんだよ。可愛いかどうかじゃなくて、それが、いかに変なことをするかというんだ。まあ、落ちは、自分だけには、素直で可愛いって事なんだけどね。美少年で有名なのが、二人で真剣に話し込でるもんだから、おかしくって。添い寝をしてやったら、寝ぼけた妹が鼻の穴に指を突っ込んだとか、菓子を、兄にも食べさせようとして、顔面に……」 「……よせ。一方は、アシェイルなんだろう」 「そう、イメージ違うんで、おどろいた。あれじゃ、面影なかったんじゃないか。てっきり、愛嬌のあるお転婆娘だと思ってたもんな」 アレクシアは、頭を抱えたくなった。 「その辺で止めないと、今度こそ叩き斬るぞ」 「笑いながらいわれてもな」 「貴様。本当に酔っているのか」 青年は、馬鹿笑いを引っ込めた。 代わりに、怪しげな微笑を見せる。 「アレクは、奇麗だな」 脈絡がない。確かに酔っていた。 「二・三杯で酔えるとは、器用だな。いい子だから、おとなしく酔っ払えよ。私は笑うと、傷に響くんだ」 下戸の公子は、敷布の上に転がると伸びをした。 「アレクシア」 「何だ。悪党」 「そう、俺は、悪党だからね。アレクの相手を知りたい。誰であろうと、そいつを始末する」 アレクシアは、杯を傾ける手を止めた。 「何だって」 横たわった青年は、自分の腕で顔を覆うと言った。 「冗談だよ」 アレクシアは、その絶望的な口調を聞き、遅まきながら、真実に気づいた。 呆然として呟く。 「ちょっと待て。お前、今までずっと、私をからかっていたんだろう。単細胞な奴ほど、からかいたくなるって言ってたよな。何だって、今更、冗談だと断るんだ」 いつも、いつも、かわされてきた。 今、その敗因が分かった。 調子に乗って、からかいすぎたのだ。 悪党の公子は、情けない声を出す。 「からか……ってない」 「それこそ、冗談だろう。私に気があるって言うのか」 追求された青年は、はた目にも、こわばった。 「おかしいか」 今度は、アレクシアが沈黙した。 公子は、覚悟を決めて、ゆっくりと身を起こした。 いっそもっと酔っていれば、よかった。 または、もう少し素面だったら、よかったのに。 今の今まで言うに言えなかった言葉が、口から滑り出していた。 「初めは、気が付かなかった。初めからじゃなかったかもしれない。俺が、アレクに選ばれたい、とはいわない。だけど、アレクが、他の男のものになるのは、絶対に嫌だ。俺は……」 黒い双眸が、昏い輝きを帯び、幻の少女を思い起こさせる。 アレクシアは、ふいに気が付いた。 実のところ、自分は、その幻に魅入られ続けて来たのだ。 どうかすると、この青年に、あの幻の面影を探している。 アシェイルとは、違った意味で特別な人間だった。 紛らわしいが、あの少女が、この青年である以上、特別な男といってもいいかもしれない。 青年は、皮肉な口調でささやいた。 「ザビエ子爵が、先を越さなければ、俺も、奴と似たような事をしたろうさ。アレクを手に入れるには、他にどんな方法がある?」 「お前に、あれが、できるものか」 「いくらでもできる。子供じゃない。しかも、悪党だ」 「そう…じゃない」 アレクシアは、からかうように笑った。 「エリク。公子殿。可愛そうに。あの騒動には、お前のほうが、よっぽど傷ついたみたいだな。それもその筈だったよ。無理強いされることも、襲われることも、他人事でなく、知っているんだものな」 公子は、恨みが増しい目で、女を見た。 「アレク」 「お前、本気なのか?遊びでということなのか?」 「残念ながら、本気だよ。子供ができれば別れるなんて、都合のいい気分じゃないな。どこに隠れても、狩り立てて逃さない」 アレクは、困ったように、頭を振った。 「もう今夜は寝てしまえ、酔っ払いが」 ついと腕をとって、もう一度横たわらせる。 公子は、逆らわない。 深くため息をつくと、覗き込む女の髪を指にからめた。 横になると、重くなった瞼が、自然に降りてくる。 「アレク。俺は……」 「明日になったら、もう一度言え」 赤銅の髪を、軽く引く。 唇が触れた。 「何度でも」 青年が寝入ってしまうと、銅の谷の末裔は、その若い顔を改めて見つめた。 「悪党……め」 かつての銅の谷の聖洞騎士は、かつての御伽噺の魔物に、そっと口づけた。 あれから、何年が過ぎたのだろう。 今はただ、女と男だった。 |