[INDEX|物語詰合せ]

銅の谷の女神秘録

口絵1


第二章 邂逅


時は、ハンナム・カーディーン大公の治世、十八年の事である。
再会は、衝撃と戸惑いをもたらした。


大皿が床に叩き落とされ、料理が飛び散った。
ねじ伏せられた少女が、悲鳴をあげる。
ビルデ街道沿いの傭兵宿は、荒くれ者の乱闘に巻き込まれた。
なだれ込んだ荒くれ者と宿の酔客が、衝突し、騒ぎは拡大する一方だ。
やや冷笑的に傍観していた客も、ことが給仕の少女に及ぶと険しい顔になる。
本来は、荒っぽいが他愛のない素手の殴り合いだ。
だが、事態の拡大に連れ、頭に血の上った馬鹿者が、剣に手をかけ始める。
あちこちで、血飛沫があがった。
果敢にも、娘を救い出そうとした宿屋の亭主は、にやけた大男の一撃で、昏倒する。
乱暴な手が、まだ子供のような娘の衣を裂いた。
泣きわめく獲物に、無慈悲な拳が振り上げられる。
低いかすれた声が、それを止めた。
「馬鹿者」
腕を取られた男は、罵声を上げるまもなく殴り飛ばされた。
だが、一転して身構える。
そして、愕然とした。
「お前は……」
「アレク。よけろ!」
少女が、いきなり強い力で引き上げられ、勘定台ごしに帳場にほうり込まれる。
彼女が目にしたのは、赤銅の髪の流れだけだった。
宿の二階にあった酒樽が、いくつも音を立てて落下して来る。
木の樽は衝撃で弾け、強烈な芳香が、ぶちまけられた。
酒を浴びた男たちは、下敷きにならなくても動きを止めた。
上客用の階上から、皮肉な響きを帯びた声が降る。
「さて、どうしたものかな。どうせ、つまらない喧嘩で全壊するくらいなら、いっそ、乱暴者ごと火事でなくなった方が、後始末が楽だよな。亭主」
手摺りの上に揺れる燭台を見て、何人かが、宿を飛び出した。
彼らが浴びたのは、しごく良く燃える酒なのだ。
それでも、何人かが踏み止まり、階上を睨んでいる。
「勇敢なのもいるようだな。二階からだと、走って来る団体さんが、見えるんだがね。町の守備隊が、到着する前に、今夜は、お開きにしたらどうだ」
階上の声は、感心したように言い、共犯者めいた口調で付け足した。
「こんなとこで捕まるのは、くだらないよ。ここが、町の長者の金蔵か、金持ちの女の寝室だっていうなら、かえって意義があるだろうけどね」
太々しい面構えの男たちは、どっと笑った。
「捕まるようなへまは、しねぇよ」
一人が言うと、荒くれ者たちは、あっと言う間に四方に散った。
帳場にほうり込まれ難を逃れた少女は、気が付くと、外套にくるまれていた。
助けてくれた客の横顔を、そっと見上げる。
事が収まったというのに、どういうわけか苦い顔をしていた。
ぞくぞくするような低い声が、苛立たしげに呟く。
「生きていたか。悪党め」
ようやく到着した守備隊に、宿の亭主が涙ながらに、今宵の騒動を訴えている。
人気の無くなった階下に、足音が降りて来た。
赤銅の髪の傭兵も、帳場から出る。
二人は、向かい合った瞬間、絶句した。
それは、よく知っている相手のはずだった。
アレクシアは、降りて来た人物が、痩せぎすの小柄な子供でなかった事に驚いた。
何か、ひどい勘違いをしてしまったのだろうか。
しかし、彼の髪も瞳も、見覚えのある見事な漆黒だった。
身長が、歳相応に伸びただけなのだ。
人違いではない。
違和感の元は、一番強烈な記憶、あの昏い夜の幻のような少女の面影だった。
いまや、それは、きれいさっぱりない。
目の前で呆然と佇む青年は、その辺に、いくらでもいる普通の若い男に見えた。
「アレク……?」
青年が、恐る恐ると言った様子で、声をかける。
アレクシアが無言で睨み返すと、彼は安堵したように微笑んだ。
「よかった。人違いしたかと思った。ええと、俺、わかるよね?」
「酒樽を、投げ捨てたな。下戸の悪党め。どの名で、呼んで欲しいんだ?」
悪党は、懐かしいような、人の悪い微笑を見せた。
「エリク」
アレクシアは、エリクの胸を軽くついた。
「悪党。荷物が酒浸しだ。詫びにおごれ」



エリクは、なんとか平静である振りを保った。
自分の姿が、相手を驚かすのは、分かっていたが、驚かされるとは、思っていなかったのだ。
成長期の特権で、横幅はともかく、背は魔法のように伸びた。
もともと、貧弱な背格好だったので、しばらくぶりに会う知人は、確実に目を瞠る。
赤銅の髪の戦士も、そうするだろうと確信していし、そうなった。
残念なのは、伸びたと言っても、元が元だけに、その当の戦士よりは、まだ低いということだ。
そして、公平に変化は起きていた。
十五で、すでに成人しているように見えていた、長身痩躯の戦士は、どこかが、具体的に変わったという訳ではない。
しかし、端的に言って、女に見えた。
かつて、青年にしか見えなかったものが、そして、その言動は、今もかなり男らしかったが、女に見えた。
それも、やや背は高く声は低いものの、きわめて美しい女だった。
自分の部屋に招いたものの、妙に居心地の悪さを感じて、落ち着かない。
これが、頭のてっぺんから爪の先まで完璧に女らしい女だったら、どうということもないだろう。
例えば、アル・ハウィン。
しかし、アレクである。
エリクは、小さく毒づいた。
「ライリンめ」
アレクシアが、聞きとがめる。
「何か言ったか」
「ライリンと会ってたろう」
「何度かな」
「なのに、警告なしだ。酷い奴」
極上の酒を楽しんでいた赤銅の戦士は、顔を上げた。「何がだ」
エリクは、疲れたように、力の無い声で言った。
「アレクが、女に見える」
アレクシアは、片頬で笑った。
「私は、お前が女に見えなくて、驚いたけどな」
「何だって」
「初めの女装が、強烈でな。そのイメージで覚えていたから」
「一世一代の不覚。それで覚えるのは、止めてくれ」「是非とも、覚えていてやろう」
笑い声が、響いた。
木製の扉が軽く叩かれ、湯気の立つ皿が部屋に運び込まれる。
酷い目に遭ったにもかかわらず、宿屋の娘は、もういつも通りに働き出していた。
アレクシアは、やさしく尋ねた。
「大丈夫か」
少女は、艶やかな赤銅の髪に目を奪われて、立ちすくんだ。
何度も息を呑むと、ようやく礼の言葉を絞り出す。
「ありがとうございます」
頬を上気させた娘が出て行くと、エリクはため息をついた。
「何だ。やっぱり、女の子にもてるんだな。ライリンの求婚に答えないのって、そのせいか」
銅の谷の戦士は、珍妙な表情を見せた。
「ライリンが、求婚?誰に?」
黒い血筋の公子、もとい黒髪の傭兵は、指で示しながら、投げやりに言った。
「アレクに。冗談と思ってたけど、今日わかったよ。ライリンは、正気で本気だな」
アレクシアは、杯をあおる手を止めて、しばらく記憶を反すうした。
「夜の色っぽい云々て、あれ求婚か?しかし、交配期まで、間があるし……、断ったことになるか」
「ああ、それだ。それも冗談だと、思ってたんだか、本当だったんだな。ダディエンも言っていた」
「ダディエン?」
「ベルスンの長の名だよ。彼の銅の谷の戦士と恋をしたとき、どっから見ても男、ただの戦友だったものが、ある日突然、奇麗な女に見えるようになった。恋をしたから、あばたもえくぼに見えるようになったのかと思ったら、どうも自分だけじゃ無い。まわりの男共が、色めき立って彼女に群がったっていうんだ。交配期が来たからだと、いわれたってさ。ダディエンは、冗談だと受け取った。まぁ、俺も、話半分に聞いてたんだけど……」
エリクは、実物と差し向かいにするには、きわどい話題だったような気がして、口ごもった。
生真面目な琥珀の瞳が、興味深げに自分に向けられている。
だが、銅の谷の戦士の気を引いたのは、別な事だったらしい。
「サイリアの恋人か。元気か」
「ああ。再婚するらしい」
「よかった。その方がいい。サイリアが生きていたって、結婚できるわけじゃなし」
何故、こんな話題になってしまったんだろう。
エリクは、後悔していた。
ここで止めないと、まずい気がする。
しかし、泥沼に進んで浸かるような質問が、口から滑り出てしまった後だった。
「何故、結婚できないんだ?」
「銅の谷では、男と女のことは、子供、それも女の子をつくる以外に、意味はないんだ。それは、結婚じゃないだろう。いっしょに暮らさず、子供に会わせずというので、満足する男はいないというが、違うのか。遊びとかなら、男にも都合がいい状態だろう。だが、ベルスンの長は、多分、前者だ。サイリアが、サディアを生んでから、谷の外へ出なかったのは、彼に会うのを恐れたんだろう」
「恐れる?」
「彼に会って、谷から逃げ、親子で暮らす。一族を裏切る事になる。そういう例もあるんだ」
泥沼は、ますます深くなる。
「ライリンは、また求婚するつもりだよ」
アレクシアは、遅まきながら、話題の妙な進行に気づいた。
戸惑いながら答える。
「ライリンが、本気なら、却ってだめだ。大家族の父親になりたいとか、いってなかったか。まぁ、遊びのつもりなら……なんで、こんな話になるんだ?」
エリクは、咳払いした。
「お年頃なもんで。遊びなら受けるのか」
「さぁ?私は、交配期になってないんだ」
「相手くらい、選べるんじゃないか」
「といってもな。自分より強い男か、それが、いなければ、適当に気に入った男でいいと……」
「アレクより…強い男?」
「いないんだ」
黒髪の青年は、疲れたように目を閉じた。
「そりゃ、いないだろうねぇ」
銅の谷の戦士は、思いついたように言い返す。
「お前のお守り役とか、従兄弟とかは、結構、強かったがな」
「ウィストリクは、何のかんの言っても、叔父貴一筋の頑固物だし、セイランは、今や、うれしそうに、奥さんの尻に敷かれて、幸せに暮らしている。波風立てるなよ」
「何の話だ?」
「子供の父親の話だろ」
「剣術の話のつもりだったが」
エリクは、慌てて目を見開いた。
戸惑ったような琥珀の瞳と、視線がぶつかる。
「ごめん。どうかしてるな」
「変だな。お前、普通の男みたいだぞ」
青年は、絶句した。
「アレク。もしかして、俺、普通の男で無いわけ?」
銅の谷の戦士も、絶句した。
「何言ってるんだ。お前、酔っ払ってるのか」
「は?飲んでないのに、酔うはずないだろう」
とてつもなく、きまずい沈黙が流れた。
「飲んでないだと、貴様、子供じゃあるまいし、まだ飲めないのか」
「え?ああ、飲めないっていったろう」
赤銅の髪の傭兵は、不吉な笑いを浮かべた。
形だけ杯をもっていた青年の腕をつかむ。
「飲ませてやろう」
「ア……!!」
卓ごしに、強引に引き寄せられて、かなりきつい酒が、喉に流し込まれる。
むせるのと、首筋まで真っ赤に染まるのが、ほぼ同時だった。
「何だ、本当に飲めないのか」
下戸の青年は、椅子代わりの寝台に突っ伏して、咳き込んでいる。
だが、赤くなったのは、酒を飲んだせいというより、酒を飲まされたせいだった。
口移しだったのである。
「悪かったな。子供に無理強いして」
銅の谷の戦士は、まったく頓着していない。
もう手酌で、酒を楽しんでいる。
悪党の公子は、非常に傷ついていた。
もっとも効果的に子供扱いされ、そんな事くらいに、傷ついてしまったことに、傷ついた。
場合によっては、子供の振りくらい、茶番と心得てやっていたのに。
これは、やっぱり、あれだろうか。
恨みがましい目で、アレクシアを見上げた。
赤銅の暖かな輝きが、腰まで伸ばされている。
琥珀の瞳の眼差しが、振り向いた。
「何だ?」
「アレク……。交配期は、いつ?」
アレクシアは、苦笑した。
「しつこいな。来年あたりかな」
「じゃあ、そのころ、また会いに来るよ」
「見物か」
「いや」
エリクは、何とか微笑んで見せた。
「できれば、参加」

裏表紙からカット


幕 間


世界の中央に生まれた砂漠は、神の悲嘆と共に広がったという。
しかし、その神が、安らかな微睡みの中にあっても、やはり広がるのをやめていなかった。
世界は、緩慢な死へと向かっている。

歩哨が交替する時刻にしては、まだ早い。
天幕の外に、不審な気配がある。
クルストリア・バーンは、剣をとった。
無言で、寝台から抜け出ようとした女を、恋人の腕が、そっと引き留める。
男は、殺気立つ女を宥めるように、屈託のない微笑を浮かべた。
将軍は、半身を起こすと、女の素肌の肩に布をかけ、天幕の外に呼びかける。
「いいぞ。入ってこい」
人影が、音も無く滑り込んで来た。
クルストリアの蒼い瞳が、大きく瞠られる。
「公子か」
しばらく、会わないうちに、随分背が伸びた。
こうしてみると、叔父と甥は、よく似ている。
二人とも、年齢や体格こそ違え、黒い髪、黒い瞳、頬から顎にかけての線、鼻梁にいたるまで、先祖代々の特性を、同じように、すべて受け継いでいる。
「久しぶり。叔父貴。クルス」
女将軍は、かつての養い子の顔を確認しても、緊張を解かない。
「我らが悪党の公子殿には、妙な時間のご訪問だな。刺客かと思ったぞ。それとも、そうなのか」
公子は、頭を振って、剣を差し出した。
「今のところ、その予定はないよ。信用できないなら、これを預けようか」
物騒な成り行きに、苦笑した将軍が割って入る。
「お前たち。もう少し、穏やかに挨拶ができんのか」
公子は、肩をすくめた。
「叔父貴は、もうちょっと、緊張感を持った方がいいね。長生きしないと、泣く女性が多いんだから」
クルストリアは、やっと笑みを見せた。
「皮肉まで、完治か。それにしても、でかくなった」
公子は、ため息をつくと座り込んだ。
「まだまだ。あと一声、大きくならないとな」
「何だか、疲れているようだな。クルス。飲み物を用意してくれ」
叔父と甥は、差し向かいにすわり、クルストリアは、夜着を羽織って、茶の用意を始める。
ややあって、将軍が尋ねる。
「それで?どうなんだ」
「ダディエンとバグラムの調査では、地質は申し分なし、潅漑工事が必要だけど、開拓不可能ではない」
「やれば、できる。誰が、やるか、が、問題だな」
長い時をかけてではあったが、砂漠化は進み、人は増える。
人々の生活圏は、狭められつつあった。
開拓地は、切実に必要とされていたが、人々は、故郷を離れたがらない。
問題は、代々、先送りにされ、今や、破綻の時は近かった。
実のところ、カーディーンの末裔にとって、戦や権力争いなどは、二の次だった。
「女神様の置き土産か。伝承だと、砂漠化は止まったことになってるけどな。実際は、年ごとに土地を失っている。手段を選ぶべきではない。戦のどさくさに紛れて、ある程度まとまった地域を、徹底的に破壊するんだ。住民が、覚悟をきめて荒野に飛び出してくれるぐらいに。それから先は、さりげなく誘導して、件の地で働いて貰う」
将軍は憂鬱そうに、呟いた。
「うらまれるぞ」
公子は、人の悪い微笑を見せて頷いた。
「役割分担だ。うらまれてやるさ。大公は、聖人。叔父貴は、常勝将軍。公子は、悪党、だろう」
「アーメルド側は?」
「モンティール子爵が、軍の中枢に潜り込む。すぐに、連動できる」
「誘導は、どうする」
「裏社会を利用する。商売になるとなれば、何とでもできる。資金源は、例の秘薬で」
クルストリアは、黙って香草茶を注ぎわける。
将軍は、唸りながらカップを受け取った。
よく似た容貌の甥は、悪魔のように容赦がない。
「もう次代には、持ち越せない。土地が、足りなかったら、人のほうを減らす」
「苦しい選択だな。先祖代々のつけを回してすまん」
「あやまってる場合か。いっとくけど、事半ばで、私が、正義の刃に倒れたら、次代の大公は、叔父貴なんだからな」
「……嫌だな。お前、さっさと子供つくっとけよ」
カップに口をつけていた公子が、むせた。
クルストリアが、公子の手からカップを取り上げる。
「婚約者が、いるだろう。シリア姫。最近、ご機嫌伺いにいってないな。可哀想に……」
「いやいや、それより、お前、恋人がいたろう。バイザル伯令嬢か。そうとう、じゃじゃ馬みたいな……」
叔父と、その恋人は、好き勝手言っている。
公子は、暗くため息をついた。
悪党以外に、人の世を気遣うものがいなければ、いっそ滅びてみるのも、一つの手ではないだろうか。
「シリアには、避けられてるし、多分嫌われたし、バイザル伯令嬢は、競争相手いるし、それより本人が数倍手ごわいし……」
「シリアが?あんなおとなしい子に、何したんだ?」
「シリアの好きな奴が、間が悪くて、私のせいで死んだのがばれた。おとなしいだけに、悪党は、怖かろう」
将軍が、心なしか引きつった。
「もう一人の方は……」
「彼女は強いから、呆れてはいても、怖がりはしない。ただし、強すぎて、挑戦するつもりだけど、競争相手を皆殺しにしても、本人が、確実に私より強い」
クルストリアは、半ば感心したように言う。
「何だか、色恋沙汰の話に聞こえないな」
カーディーンの末裔は、小さく呟いた。
「色恋沙汰に持ち込めるか、どうかが、問題だよな」


 ハンナム・カーディーンの治世、十八年の事である。
世界は、密やかにある転換期を迎える。
しかし、その立役者は、やや些細な悩みを抱えていた。

(第三章へ続く)

 


前頁次頁


[INDEXページトップ物語詰合せメニュー]