第一章 前夜
半年ぶりに、外出許可が下りた。 実のところ、許可がなくても出歩いていたが、公然と遠出ができるのは、ありがたい。 カーディーン大公の嫡子にして、ティルファ伯である少年は、しばらくぶりの遠乗りで、供を振り切ってしまった。 見晴らしのいいところで馬を止め、お目つけ役を待つことにする。 『白碧の砦』・『白碧の盾』と異名をとる、東の辺境ティルファは、見渡す限りが全て、白い岩肌と碧い空だった。 公子は、眩しげに瞬きをする。 栗毛の馬は、優しい瞳で主を見守っていた。 やがて蹄の音が近づき、渋い顔の守役が、傍らに降り立つ。 「公子殿。いきなり無茶は、やめて下さい。また、寝室に押し込められたいんですか」 「もう平気だよ。そう寝てばかりもいられない」 昨年、デモナゼン城郭で負傷した公子は、攻防戦の直後に倒れ、この半年の間、医者から絶対安静を言いつかっていたのである。 一時は、血を失い過ぎて文字通り瀕死の状態まで行ってしまったのだ。 病み上がりの肌は、蒼白で、痩せた身体は、前より一層華奢に見える。 「九死に一生と言われた怪我人が、寝てばかりいなくて、何をするんです」 「あれも、これも、それも、いろいろと」 返った答えに、ウィストリクは絶句した。 どんな目にあっても、懲りない性格である。 その男は、過ぎし日にベルスンの長と呼ばれていた。 一族の技術をもって亡命し、今や、かつての敵地で、ひとかどの地位を得ている。 「ダディエン」 少年領主は、工房へ足を踏み入れると、弟子達と作業に没頭している男へ声を掛けた。 男は、顔を上げると驚いた様子もなく、片隅の椅子を手で示した。 取り次ぎに出た子供が、慌ててお茶を運んで来る。 「太守」 太守と言うのは、ティルファ伯の俗称である。 「太守。人払いが必要ですかな」 「いや、そのまま作業を続けてくれ。医者から外出許可が出たので、足慣らしに遊びに来たんだ」 ダディエンは、少し考え込んだ。 「すると、今までのご訪問は、無許可でしたか」 ティルファの太守は、悪びれもせず頷く。 工房の主は、弟子たちへ幾つか指示を出すと、自らも椅子に腰掛けた。 「ウィストリク殿には、難儀なことですな?」 かつて、ベルスンの長と呼ばれた男は、口の端で笑った。 年若い領主に、慈父の眼差しを向ける。 「そう。ウィストリクが、私の監視役にされて半年だ。一刻も早く叔父上のもとに、戻りたいだろう」 「それでは、おとなしく養生なされるべきですな」 少年は、肩をすくめた。 「おとなしくしているだろう。自分の領地から、一歩も出ていない。だから、やりたいことも、やらねばならないことも、山積みになってしまっている」 ダディエンは、興味深そうに太守を眺めた。 「この御訪問は、その山積みの用件に、係わりがあるのですか。貴方のように、お忙しい方が、ただ遊びに来たとは、解せません」 太守は、香草茶の碗を卓に置くと、ためらいがちに言い出した。 「一つは、いつもの地質、水脈の件。もう一つ…」 工房の主は、太守の言葉を、片手を挙げて切った。 「初めの件は、まだ、ご報告できるほど調査が進んでおりません。お待ちを。もう一つについては、私の予想通りのものなら、やはり人払いをさせていただきます」 少年の黒い瞳が、かすかに揺れた。 ダディエンは、振り向くと一声かけて、作業中の弟子たちを工房から追い払う。 奇妙な静寂が訪れた。 工房の主は、しばらくあって口を開いた。 「銅の谷の件ですな」 「そうだが、人払いする程のことか?」 ダディエンは、きっぱりと言った。 「場合によっては、聞かれたくありません」 「たいしたことじゃないぞ。お前の銅の谷の女戦士と、どんなふうに出会ったのかとか、どんな話を……」 少年の問いに、がっしりとした体格の男は、深いため息を漏らした。 「太守。古い話です。私の体験は、貴方の銅の谷の女戦士との交流には、役に立たないと思いますが…」 工房の裏庭に回ると、見知らぬ女と金の髪の青年が話しているところだった。 栗毛の馬が、軽い足音に気づいて鳴いた。 「ウィストリク。待たせたな」 少年が声をかけると、お目つけ役は、馬を二頭、手綱を取って引き出した。 馬小屋に残された女は、上気した頬を隠しもせず見送っている。 「今日は、思ったより、遠出になってしまいましたね。ここまでですよ。早く帰って、休んで下さい」 少年は、過保護な従者を改めて眺めた。 「一人で戻れる。お前は、残ってもいいぞ」 「はぁ?」 「叔父貴一筋かと思えば、やることは、やってるんだな。しかし、ああいうのが、好みなのか。ほどほどに可愛いけど、お前のほうが、美人だぞ」 ウィストリクは、吹き出した。 笑いながら、主の勘違いを正す。 「彼女のお目当ては、ベルスンの長…じゃない、ダディエンですよ。彼を、こちらに落ち着かせる世話をしたのは、私ですからね。彼が、恋人とか妻子を、故郷に残して来てはいまいかというのが、彼女の心配事です」 公子は、ダディエンの工房を振り返った。 立ち去りかけている女の横顔を目にする。 「本当か。ずいぶん若いぞ。お前の気を、ひこうとしたんじゃないのか」 「いいえ。残念ながら、彼女は、影のある年上の男に、ほれ込んでいるんですよ」 「父親くらいの年の男に?女の子って、よくわからないよな。でも、待てよ。そうか。ダディエンは、おちるかもね。今度は、結婚祝いを持って来ることになるか。道理で、人払いするはずだ」 ウィストリクは、一人で納得をしている公子に、呆れたように声をかけた。 「わかるように、言って下さいませんか」 公子は、人の悪い微笑みを見せる。 「ダディエンに、昔の恋人の話を聞こうとしたら、弟子を追い出したんだ。聞かれたくない、新しい恋人が、いたわけだろ」 「ははぁ。そうかもしれませんね。それは、またおめでたいですね」 ウィストリクの祝福の声は、あまり熱心ではない。 楽しそうな主と並んで馬を進めながら、心中穏やかではなかった。 「何故、そんな事を聞いたんです」 「そんな事?」 「ダディエンの昔の恋人は、銅の谷の……」 ウィストリクが、不自然に言葉をきると、公子は、屈託無く後を引き取って言った。 「銅の谷の女戦士。扱い方要注意事項を聞いたんだよ。もうそろそろ、戦場に戻る事になるし、アレクに会うかもしれないだろう。へまして、叩き斬られるのは遠慮したいしね」 お守り役は、ため息をついた。 「会うのを、楽しみにしてますね」 「何だか、不満そうだな」 不満だった。 ウィストリクとしては、大事な少年に、あの危険な戦士と係わって欲しくないのだ。 氏素姓が、やっかいな上に恐ろしく強い。 「趣味が変わりましたね。前は、たおやかで女らしいのが、好みだったでしょう」 公子は、首を傾げた。 「今だってそうだよ」 「貴方の銅の谷の女戦士は、たおやかで女らしいとは、見えませんけどね」 公子は、ウィストリクを、まじまじ見つめると爆笑した。 傷に障ったにもかかわらず、収まらない笑いに苦しめられつつ言う。 「私はなぁ。ウィストリク。誰かさんに育てられたおかげで、ちょっと年上の同性に弱いんだよ。アレクは、そうか、お…女の子か。そうだった。えぇぇ、もしかして、ダディエンまで、れ…恋愛相談のつもりで、ひ……人払いし…」 ウィストリクは、冗談ではなく落馬しかけた。 砂漠では、相変わらず、戦という名の小競り合いが繰り広げられていた。 軍勢を出し、それを養う補給をし、戦をする。 それに携わる人や物資の流れが、商売人を引き付け、人の営みを戦場に持ち込む。 不毛の地と思われがちな砂漠も、戦ゆえに、また人の生活の場となっていた。 容赦の無い灼熱した陽が、沈んで間も無い頃、あちこちで篝火がたかれる。 自分を呼ぶ声を聞いて、馬の汗を拭いてやっていた傭兵が、顔を上げる。 見ると、ベルバ地方に多い明るい栗色の髪をした男が、手を振っている。 「やっぱり、あんたか。その髪は、目立つな。カルティス以来だな。ずっと、この陣にいたのか」 「いや、カルティスに二箇月、ハヴランに半年。ここには、まだ半月くらいだ」 二人の傭兵は、並んで歩きだした。 どちらも、長身で、隙がない。 傭兵隊長として自分の部下に采配を下す立場のライリンは、一見穏やかな風貌で、一兵卒にはない余裕のようなものがあった。 反対に、もう一方は、きつい目をした、いかにも一匹狼の戦士だ。 その痩身は侮られやすくもあったが、実際恐ろしく強い、容赦のない剣技の持ち主だった。 ライリンは、酒の瓶を振る仕草をした。 「どうだ。アル・ハウィンの隊商は、良い酒を運んで来たぞ」 「それはいいな」 艶やかな赤銅の髪をもった戦士は、鋭い眼差しを和ませて頷く。 ライリンは、年若い友人の肩を叩いた。 「あんたが、いるなら、アル・ハウィンにも、声を掛けよう」 「ああ、綺麗どころがいると、楽しいな。なるほど、アル・ハウィンが、目当てなのか」 ライリンは、頭を振った。 「いや、俺は、あんたと飲みたかったんだがね。アル・ハウィンも、あんたに会いたがっていたからさ」 アレクシアは、苦笑した。 「光栄だな。しかし、アル・ハウィンは、あれの消息を聞きたいのだろう。私は知らないぞ。昨年別れたきり、会ってないんだ」 ライリンは、少し考え込んだ。 「じゃあ、二人きりで飲もうか。俺は、あれの話抜きでも、いいからな。アレク」 意味ありげな視線は、あっさり空振りした。 「いや、挨拶はしておこう。気の毒に。あの悪党のために、気をもんでいるんだろうから、せめてな」 傭兵隊長は、低く笑った。 「アレク。今いくつだ」 「十七だが」 「まいったな。忘れてたよ。そうだった。見かけに反して、お子様なわけだ」 銅の谷の一族は、早熟で、十五になるかならぬかでも、二十代後半に見られるほど成長が早い。 アレクシアにしても、谷をでてから、今の今まで子供扱いされたことがない。 少々面食らった。 ライリンは、アレクシアの赤銅の髪を、大きな手でかきまぜると、言い継いだ。 「おじさんが、悪かった。今夜は、アル・ハウィンの天幕で、健全に酒盛りしよう。夜の色っぽいお誘いは、お嬢ちゃんが、お年頃になるまで待たなきゃな」 アレクシアは、面倒見の良い傭兵隊長が、三十にもならぬうちから、部下に親父呼ばわりをされてしまうわけが分かった気がした。 目下のもの、弱いもの、年下のものを、皆、自分の保護下に置いて守ろうとするところがある。 「子供といわれても、もう成人の儀礼は済ませたぞ。まあ、交配期までは、二、三年あるけど」 ライリンは、咳き込んだ。 「こ…交配期ぃ?」 銅の谷の一族は、生真面目な顔で、年長の友に言う。 「谷の外では、お年頃と、いうわけだな。子供をつくる時期のことだろう」 傭兵隊長は、神妙な顔で、アレクシアの肩を叩いた。 「この話は、その二、三年後にしよう。とりあえず、今夜は飲むぞ」 アレクシアに、異論はなかった。 褐色の女は、微笑んで極上の酒を用意し、その真紅に染めた爪は、三弦琴をつま弾いた。 ライリンにせよ、アル・ハウィンにせよ、この宴に加わるべき人間が、一人かけていると思っている様子だ。 「あいつも、十七ということだよな」 ライリンが、感慨深げに呟く。 「早いわね。歳相応に、背は伸びたのかしら。子供子供した子だったから、想像もつかないわ。あの子がいないと、寂しいわね」 アル・ハウィンは、哀しそうに言う。 傭兵隊長は、女主を慰めた。 「本当に。あれがいると、退屈しないんだがな。奴のことだ。何かに夢中になって、こちらには、うっかりご無沙汰しているんでしょう。終わったら、顔を出しますよ。けろっとしてね」 アレクシアは、沈黙を守った。 あの悪党は、最後に見たとき、酷い傷を負って青い顔をしていた。 どうせ、しぶとく生き残ると思うが、こうも長い間、顔も見せないのは、よっぽど具合が悪いのかもしれない。 それを言えば、この二人は、酷く心配するだろう。 また、もう一つ。 あれの正体をばらせば、悲しむだろうとも思った。 黒い髪の小悪魔は、悪党であるだけでなく、敵国人であり、敵の総大将の嫡子でさえある…… アレクシアは、悪党の話題に関しては、頑固に沈黙を守りつつ、杯を干し続けた。 デモナゼン砦の攻防から一年目、ハンナム・カーディーン大公の治世十七年のことである。 この年、銅の谷の戦士と黒い血筋の末裔は、出会うことがなかった。 (第二章に続く) |