5月7日

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◆Special Column◆
「スポーツと生きる日々」

2.ベッカムとランチ

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 ロンドンからハイウエイで約1時間走ると、広大な牧場が広がり、レンガ造りの家々が点々と丘に向かって伸びていく風景に変わった。八重桜の並木を抜けると、ゆったりと流れる川で、休日の朝からボートを楽しむ人々が艇庫に向かって船を引き上げている。

 ロンドンでは珍しく、青空が重い灰色の雲を押しのけた日、イングランドに4つあるスポーツのナショナルトレーニングセンターのひとつで、サッカーのイングランド代表のキャンプ地でもある「Bisham Abbey」に向かった。ここは東京ドーム約15個分の広さとなる土地の中心に、800年以上の歴史を持った尼僧院の建物を置き、自然の川をそのまま引いたボート場、ゴルフ場、テニスコート10面、ホッケーのための人工芝グランドが3つ、体育館2つ、トレーニングジム、ゴルフ場、宿泊施設と食堂、400人の宴会が可能な部屋、これらすべてが競技者のために整えられている。

 何よりも、サッカー代表のために作られたピッチ──これは砂を土台としてその下に最新で独特の排水システムを持ったもので──は、イングランド・スポーツ環境にとってひとつの頂点とも言えるものだろう。

 イングランド代表のピッチは3面取れる中のひとつで、ここをセンターに勤務するグランドキーパーは「ザ・ピッチ」と呼んでいる。付けられた名前も「No.1ピッチ」。どんな豪雨でも、決してぬかるむことのないピッチは、彼らの基準によって、どこも寸分の狂いもなく「1インチ」に刈られている。

 中には一歩も入ってはいけない、と注意をされ触ると、刈り込まれた芝の下は固くもなく、ぬかるむこともない、絶妙の感覚が横たわっている。

「この一番手前がNo.1ピッチで、ここはイングランドの代表以外絶対に使えません。たとえ合宿がなくても、毎日キーパーが管理と手入れをします。365日です」

 センターのマネジャーの女性は、笑顔で説明する。No.2ピッチは、プレミアリーグのチームの練習のために貸し出すこともあり、No.3ピッチもまたラグビー代表のためだけに使用され、こちらの芝はやはり「2インチ」に定められているという。

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 イングランドは今、これまでのスポーツ省(日本の旧文部省のような役割)にあった「スポーツカウンシル」の役割を、もっと納税者にわかりやすく、また目に見える形で生かして行こうというキャンペーンが張られている。カウンシルの名前そのものを変更するキャンペーンでもあり、「スポーツ・イングランド」と呼ばれ、この名がこうした公共の施設、サッカー関係の基金などすべてに描かれるなど、競技スポーツ、生涯スポーツ、その両方での見直しと拡充に変化がもたらされている。また施設運営の一握りの部分を、こちらの「サッカープール」(くじ)が担う。

 しかし、このような国立施設、しかも一握りのトップストリートのための施設が素晴らしというハード面での充実以上に、これが、一般の市民スポーツ愛好家たちに開放されている事実のほうに、より深い羨望を感じる。ビッシャム・アビーに居住する人々はもちろん、誰でもが予約をし料金を支払えば、年齢、性別、競技レベルに関係なく、広大な土地で、代表クラスの選手たちと同じ環境を享受できることになる。

 体育館ではちょうど、今年夏の柔道世界選手権(ミュンヘン)に向けた代表チームが、欧州選手権のために招集されていた。その奥にあるトレーニングセンターで、案内の女性が茶目っ気たっぷりに声を潜めて、教えてくれた。
 トレーニングジムでもまた、マシンが適度に揃い、選手も一般の愛好家も関係なくその人に合ったデータが管理されている。彼女の声と目線の先を見ると、エルゴメーター(自転車)がある。

「この前もベッカムが来ました。彼は休暇や代表の試合のとき、必ずここでトレーニングをするんですね。なぜかというとロンドン市内のスポーツクラブや、自分のところでやるよりも、はるかにリラックスできるからだそうです。それで、終わると、その場所で一緒にトレーニングしていた人たちを誘って、隣の建物でランチをするんです」

 マンチェスターユナイテッドで、あるいはイングランド代表のサッカーチームで、デイヴィッド・ベッカムほど知られた選手はいないだろう。マンチェスターやロンドンでは窮屈なことも、このセンターならできる。トップ選手が遠くまで車を飛ばしても価値のある静寂もまた、ハードが完璧に整えられたこのセンターの、目に見えない財産である。

「誰も気にしないし、騒ぎたてたりもしない。子供もここにはたくさん来るけれど、決して分別のない態度はとりません。ここがどういう場所かわかっているから。ですからみんな誘われれば、サインも写真もなしに普通にランチをする」

 日本でトップ選手、たとえばサッカーの代表が限られた人々が集まるようなトレーニングセンター以外で、一般の人たちと並んで自転車をこぐことはないだろう。ましてやそうした練習が、実は肉体的な効果をもたらす以上に、メンタルでの落ち着きを与えるのだということも考えにくいのではないか。終わって一緒にランチをすることなど言うに及ばないはずだ。むしろ、楽しんできているのがベッカムのほうだということは簡単に理解できる。

 広大な土地と施設、そして環境の整備。サッカーくじの登場で、これらは何十年か後に果たされるに違いない。しかし、トップ選手と普通のスポーツ愛好家がともにトレーニングをして同じテーブルを囲んで食事をするような風景を実現することは、それよりもはるかに難しく、時間が必要になる。

 イングランドでもっとも環境の整った施設のひとつを取材し終えたとき、このセンターの表現しがたいほど荘厳で、しかも明るく、活力がみなぎった静寂の理由がわかるような気がした。それは、建物の立派さや周囲を取り巻く自然なのではなくて、スポーツをあたり前に、競技レベルの差も区別もなく楽しむ人々が醸し出す空気によるものだと。



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