懐古趣味音源ガイド    其八拾四

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1329 jyake01
Angel Air
SJPCD173
1972
2004

The Magus/Third Ear Band

このところロック音楽全般をトレイに載せることは激減している(もっぱら八橋検校でござる)のだが、今回は久々に音楽産業の主流をゆくカテゴリィの上っ面を撫でてみた。おかげでちっとも進まないわ、途中であれこれ入れ替えてみたり、果てには体調を崩すわと難産極まりない結果になってしまった。慣れないことはするものじゃないね。

『マクベス(Macbeth)』の次作、4thとしてリリースされる予定だったがレーベルに拒否されてお蔵入りとなった『The Tapestry of Delights』を改題した未発表発掘CD。録音は1972年。コフ(Richard Coff)とバックマスター(Paul Buckmaster)に代わり、後に中期ホークウィンドを支えるサイモン・ハウス(Simon House)等ハイタイド組とギター、ヴォーカルのマーチャント(Mike Marchant)が加入して、内容的にはその新参者に大きく引き摺られた異色作といえよう。
タロットに凝っていたマーチャントのアイディアと歌入り呪術フォーク色を機軸に、ハウスの電気鍵盤、特に神経症的なシンセの音色が駆け巡る。イコライザを掛けているのかもしれないが、このマーチャント、名前は男名前だが声も容姿も女に見えるところが不思議だ。堂々巡りの迷宮瞑想が薄れ、比較的、歴史的調性音楽の土俵に近づいた。

タイトルの『Magus』は占星術師、あるいはゾロアスターの司祭の名称。キリスト教としてはかの東方の三博士 (Magi/Magus)の意。ラテン語風に語れば複数でマギ、単数でマグス。もちろん三博士とはカスパール(Casper)、バルタザール(Balthasar)、メルキオール(Melchior)を指す。

オーボエのミンズ(Paul Minns)に続き、とうとう今夏(2005年)には首領であるグレン・スウィーニィ(Glen Sweeny)がお亡くなりになられたそうです。ということで、おそらく第三耳団はこれにて終了したのでしょう。合掌。

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BGO Recoords
BGOCD189
1978

Rainbow takeaway/Kevin Ayers

のほほんと世知辛い現実には蓋をして、人は人、自分は自分と極めて個人的な道を行くエヤーズ中期のアルバム。時期的には比較的コンスタントにアルバムを発表していた時期にあたり、前作の『まにゃ~な』を一層コンパクトかつポップにしたようなトロピカル・レゲエ+ボサノバ路線も極まったかに思える。コプロデュースは『OUT』で客演したアントニィ・ムーア。おや、シリアスムードに復帰ですか? と思いきや、『虹をお持ち帰り(英:takeaway、米:takeout)』なるタイトルからも推察される通り、なんとも楽天的ロマンチスト丸出し。ときおり感じとれるシュールで異質なアレンジはムーアの味なのだろうが、青と白、イビサ島の浜辺に寝そべって、冷えたシェリー片手に隣のねえちゃん触りながら“あはぁ”と和んでいるようなものか。

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Virgin EG
EGCD 21
1975

Another green world/Eno, Brian

面妖ポップ路線からミニマルに傾倒し始めた三作目。現在に渡って息長くヴァラエティに富んだ音楽を量産しつづけるものの、ほぼ頂点に位置すると思われる。次作と甲乙をつけ難い内容だが、経験的にロクシーの1stと共にほぼ同時期に視野に入ったリアルタイム初イーノとして、その斬新な薄緑の空気感に悩殺された記憶があるからこちらを持ち上げておこう。演奏はイーノに加え、ロバート・フリップ、フィル・コリンズ、ジョン・ケイル、ポール・ルドルフ等々、相変わらずの豪華ゲスト陣。イーノ特有の暖かい透明感で満たされた今風に言えばミニマル・アンビエント風味のはしりに加え、以前よりはおとなしめだが奇矯なボーカル曲が1/3ほどを占める。リズムボックスを背景にしたディストーションの掛かったハイトーンのフリップ節を気持ち良く堪能できる逸品。

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EMI/Harvest
7243 538407 2 3
1971

...And other short stories/Barclay James Harvest

71年の三作目にあたる2002年のリマスター再発盤。デモ・ヴァージョンだろうか、荒いが生オケ、ストリングズ・アレンジを圧倒的な音圧のメロトロンに差替えたボーナス6曲入りとサービスは満点。タイトル通り、ゆったりとした田園フォークの情緒性はそのままに、楽曲はコンパクトに無駄なくまとまった。生オケときっちり使い分けのされたメロトロンの冷たく壮大な音が荒涼としたムーアを吹き抜ける風のように響き渡る。ほんのりと香るような僅かな色気が寂しくもいっそう儚さを煽るようだ。痩せたムーアにへばり付くように咲いて、枯れた灰色を彩る赤紫のヒースのように。

次作を境に若干趣が変わることを考えると、初期BJHの田園シンフォ路線の完成と捉えることもできる。前作『Once again』が長曲、名曲のオンパレードだったので、若干小ぶりに感じるあたりがタイトルの意味でもあるのだろう。もっとも、当時は6ヶ月でアルバム1作ぐらいが標準的な契約だったようで矢継ぎ早にリリースされるわりに質はきちんと保たれているあたりが面白い。まぁ、間隔を空けて余裕があっても良いものが出来るわけではないというのは昨今の現実が証明しているわけで、コンピやリミックスで薄めた何一つ関わっていないツナギを連発する“アーティスト”には食傷だ。

1333 jyake05
A&M
069 493 347-2
1975

Crisis? What crisis?/Supertramp

『危機? 何が危機だって?』というのは、灰色にくすんだ煤煙インダストリィの元にオレンジ・パラソルを広げて寛いでいる男の台詞なのだろう。如何にも70年代風の風刺が微笑を誘う四作目。極めて質的に優れた三作目も思うような評価を得られず、アメリカ西海岸への移住を目前にしての製作。もちろん本作も泣かず飛ばず。苦労が絶えなかったらしく、ブレイクするのはもう少し先のことになる。
基本的な構成は前作の延長線上。更に複雑でかつコンパクトにアレンジされた楽曲は、微妙に東洋的なメロディやトロピカルな雰囲気まで、変化を模索している部分もあるだろう。一方でネオ・クラシカル張りのアレンジに凝った路線も更に伸張してアルバム全体に彩りを与えている。皮肉でウィットに富んだ歌詞とこしゃまっくれた楽曲のバランスも良い。

1334 jyake06
MCA 8829252
1973

Camel/Camel

懐かしのキャメルの1st。一本調子が玉に瑕だが「Never let go」のメロトロンはそれなりに一般受けもしていたかな。音の隙間をすべて埋め尽くそうといわんばかりの手数の多いリズム隊、疾走気味のアンサンブルと頼りないボーカル、一部の楽曲における僅かにラテン風味の渇いた空気感が初期キャメルのキャメルたる所以か。鍵盤とギターのバランスはこの1stと4thあたりが最良だろう。若気のいたり故か盛り込みすぎで密度は高いがメリハリに欠ける。テクはそれなりだが安定感には欠ける。ボーカルはドラム以外の三人で分担。録音状態が良くなくてかなり損している部分があるのは事実だが、音のバランス、特にシンバルの音が単調で耳を突いて煩い。

一方で、後発なりの対象を見据えたしたたかさと、枠から出ようとしない保守性という意味では当初からムード歌謡みたいな安直さを内包していたともいえる。イギリス人にとって砂漠の駱駝が如何なるイメージなのか不詳だが、それなりにロマンテックな印象なのだろうなぁ。2002年のCDにはシングル・ヴァージョンの「Never let go」とライブが一曲ボーナスで追加。

1335 jyake07
Repertoire
REP 4501-WY
1976

Blind dog at the St.Dunstans/Caravan

『Cunning Stunts』の次作、スタジオ盤通算7作目のアルバム。70年代前半、栄華を極めた百花繚乱のプログもこの時期既に下り坂で、倦怠と形骸化、結果としての愚作の連発があちらこちらで散見された。キャラヴァンにとっても不遇の時代の始まりで、おそらく弱小レーベルに移籍を余儀なくされたものの、何故か意気軒昂、最初のコンセプト+トータル・アルバムのリリースと相成った。鍵盤のデイブ・シンクレア(David Sinclair)がヤン・シェルハース(Jan Schelhaas)に交替。ヘイスティングズがほぼ主導権を握り、フリージャズ的な即興要素は根絶、コンパクトで歌曲中心の1stの発展形のような構成に戻っている。脇を固めるハイテク職人のセンスと豊かな素養が相まって、如何にも英国風の滋味に溢れたカンタベリィ・ポップの優れた完成形を呈しているだろう。

1336 jyake08
Blueprint
BP297CD
1991
1999

The complete BBC sessions/Fish

100円セールだか300円セールで購入した新品CD。蓋を開けたら2CDだったのでお買い得感は更に高い。特に期待して買ったわけではないが中身は予想以上に良かった。通称フィッシュは初期マリリオンのコンセプト・メイカー兼歌手。プログ死滅後ポンプの旗手としてジェネシスのゲイブリエルとあらゆる面で常に比較されてきた人でもある。見栄えは柔道着だか空手家風の衣裳に身を包んだ禿頭の巨体でゲイブリエルとは似ても似つかない体育会系なのだがねぇ。ソロ転向後については正直追っかけているわけではないが、大半がマリリオン時代の曲でバックバンドの演奏力はマリリオン本体には及ばないものの及第点だろう。タイトル通りBBC-TVでのライブセッションで、おそらく映像付きのリリースもあると思われる。BBC(英国国営放送)は税金で運営されているのだから当然ですが、その膨大なライブラリの大半を無料で視聴することができます。ちなみに予算権と人事権を他者に握られつつも自らをインディペンデントと称する某公共放送は阿漕な値段でライブラリを売り捌いておるなぁ。感服いたしたぞ。

1337 jyake09
WB HKP-11389
1976
2000

The song remains the same/Led Zeppelin

76年に公開された同名映画のDVD。撮影は73年のアメリカでのライブに若干の映像を加えたもの。素直にライブだけを撮っていれば良いものを、つまらないPV風演劇フィクションを加えるものだから印象は良くない。特に「Rain song」は映像が歌詞とまったくそぐわないロバート・プラント主演のださださ騎士物語に差し替えられており逆上するかと思った。J.P.ジョーンズがメロトロンを弾いているところが見たいがために買ったのに酷すぎるじゃないか。

馬に乗って荒涼としたムーアを闊歩する騎士役のプラント、お決まりの城、塔に幽閉された姫、バッタバッタとなみいる敵兵を斬りまわし、駆け上がった石塔の階段の最上階で姫を助けあげるのだが、振り返った姫がどうみても40過ぎの下品な厚塗元AV女優にしか見えなくて爆笑したわ。変なところで予算をケチるな。

まぁ、メロトロンは別曲で演奏映像があるのだが、総じて編集が稚拙で見るに耐えない。妙な振り付けで胸毛から汗を振り散らせながら歌うプラントのみならず、ジミー・ペイジも滑稽で笑える。ストラップをずろっと長く伸ばして、ズボン落っこちそうなDQN中高生みたいに何も暴れながらギター弾かなくても良いのに。純粋に幻滅したわ。こういうのが格好良い時代というのもあったのだなぁ。おまえが歳くっただけだろって? ごもっともで。

NTSC、リージョン2。

1338 jyake10a
UK盤
 
jyake10a
US盤
Clumbia
CK 32425
1973

Mott/Mott the Hoople

6作目にあたるスタジオ盤。邦題は『革命』だったかな。インナーにD・H・ロレンス(Lawrence)の詩「A Sane Revolution(健全な革命)」が全文掲載されている。
後にバッド・カンパニーを作るミック・ラルフス(Mick Ralphs)の在籍はここまで。取り上げている音源のなかでもかなり異質な部類という指摘もあるかもしれないが、末期グラムの頽廃感と不思議に郷愁を誘うなんともいえないリリカルさが屈折したR & Bに乗っかる様は例えようもなく美しい。ちっとも上手くないイアン・ハンターのボーカルと安っぽいホンキートンク風ピアノも切なく染み渡る。MtHはもちろん、70年代初期のブリット・ハードロックにはゼッペリンやパープルも含めてイングランドのトラッドの影響が深く感じ取れるところが面白い。ゲストで目を引くのはロクシーのアンディ・マッケイ、電気チェロを弾くポール・バックマスター(TEB)あたりか。不思議な取り合わせだ。

どうしようもないセンスのジャケットはアメリカ盤。英盤は随分とまし。

1339 jyake11
Columbia
CK 66081
1973

Birds of fire/Mahavishnu Orchestra

イギリス人マクラフリン(John McLaughlin)を首領とし、鍵盤にヤン・ハマー(Jan Hammer)、ヴァイオリンにジェリィ・グッドマン(Jerry Goodman)を擁するマハビシュヌ・オーケストラの2ndアルバム。極めて著名な凄腕人材で構成された超絶疾走ジャズ・フュージョンとでもいえばいいのか。奇数拍子のオン・パレードをこなすリズム隊も驚異的な正確さと躍動感を誇る。全曲インスト、比較的コンパクトにまとまった楽曲ではあるが、攻撃的でありながらも華麗、緻密でありながらも疾風怒濤と洗車機に入れられてフルコース防滴加工までされる車のような感触を味わうことができる。ユニゾンとソロを交互に取るギター、ヴァイオリン、鍵盤の三つ巴は筆舌に尽くし難い。『火の鳥』といえばストラヴィンスキーであるが、こちらの『火の鳥』も敢えてその名に恥じない快作であることは何を今更、異論を待たない。

1340 jyake12
SPV
084-92962
1993

One more road/Pentangle

バート・ヤンシュ(Bert Jansch)とマクシー(Jacqui McShee)に若手? 三人を加えた再編五芒星。先鋭ジャズ色は薄まって、まったりとしたトラッドのリアレンジと味わい深い電化ブルーズ、あるいはかつての名曲のセルフカバーの電化ヴァージョンが中心で、どちらかというと昔懐かし電化フォーク・ロックの趣。マクシーもそれなりの年齢で、かつての結晶格子のような研ぎ澄まされた厳格さは感じられないものの、円熟した(し過ぎかな)懐の深さと蕩けそうな柔らかさに包まれていると、すべての物事がどうでもよくなってしまうというのは自らが社会の脱落者であるということの証でもあるか。ラストはヤンシュが歌うS&Gの「Scarborough Fair(元々はイングランド・トラッドだが、S&Gは自作曲として発表した)」のカバー。うん、それはそれで良いよね……と思えてしまうところを喜ぶべきか、悲しむべきか。かつてのもう一人の相方であるレンボーン(John Renbourne)とのデュオでもアルバムが出ているようです。ドイツのSPVからのリリース。

1341 jyake13
Virgin EG
EEGCD40
1985

The kiss and other movements/Nyman, Michael

ナイマンのコンピ・アルバムのようなもの。グリーナウェイの短編映画『Water Dance(水の協奏曲)』のサウンドトラックを含むものの、大半を占める楽曲は音楽のための音楽であって、この種のものとしてはナイマン三作目にあたる。ポップ・ロックでCDを出すのは当たり前のことだが、この領域では純粋な音楽CDを出すことはそれなりに困難を伴うことなのだろう。

クラウゼ(Dagmar Krause)、グリーヴズ(John Greaves)といったRIO-レコメン人脈のゲストと現音作家兼プロデューサ、カニンガム(David Cunningham)によるコプロデュース。歌曲、スキャット、インスト曲とバラエティに富んだ特異な楽曲の数々は美しくも刺激的である。「Water Dance」はブリブリ唸る電気ベースののりのりのグルーブ感が楽しい。映画は水中での人間の動態を捉えたもの。三部構成で「掻いで泳ぐ、滑るように泳ぐ、シンクロ」の三態を覚醒的にあるいは夢幻的に捉えた映像。浮いていたり潜っていたり、滑稽だったり妖しかったり。リリースはロック系のEGから。

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London
3984 28194 2
1999

The greatest hits collection/Bananarama

『超馬鹿受け楽曲集』というあまり品のないタイトルだが、妙に納得できる80年代イギリスのガール・ポップ・トリオ、バナナラマのコンピ。当時、ユーロビートといわれたディスコの定番、大衆ぶんちゃか可愛い舞曲の連発でバブルのきざ端が見え始めたころ、夜の六本木を支配したものだ。当時はあまり考えたこともなかったが、意外に辛辣な歌詞のギャップが面白い。

「荒っぽい正義(Rough Justice)」
 
若者は成長せずに
彼らの人生に満足もしない
でかい口と金だけが
いつもものをいわせてきた
少年は少女を殴りつけ
卑劣で悪意に満ちたやりかたで
すべての金を巻き上げて
プライドをずたずたにする
 
無垢な人々は死ぬまで
笑うことなしに歩み続ける
そんな正義はお呼びじゃない
街路の子供たちは飢え、
毎週のように絶望が繰り返される
そんな正義はお呼びじゃない
 
一日だけ王に成りえたとしても
王国は既に冷え切って
良い方向に向かうことはない
遅かれ早かれ老いを食い止めることはできない
わたしは痛みを忘れない
その屈辱を忘れない
そして奴等に荒っぽい正義を味遭わせてやる
かつて彼らがやったように

わけわからん屋号はTVの幼児番組「The Banana Splits」とロクシーの楽曲「Pyjamarama」から合成されたものらしい。要員の変遷もありトリオからデュオになっているものの、2005年現在Webもあるし現役であるあたり、ある意味驚きというか賞賛を禁じ得ない。

1343 jyake15
Reprise
927 196-2
1970

Trout mask replica/Captain Beefheart & his Magic Band

この世には難解な音楽というものがあるらしい。難解な音楽が存在するならば、逆説的に簡単な音楽というものも存在するわけだが、その線引きが不定であることは自明としても、なんとも物事の本質を完璧に無視した凄い形容詞の使い方をするものだと感慨深い。

難解な楽理という概念は、専門には疎いが確かに特定の理論に基づいた作曲技法やアレンジの理論などはあるだろうし、ルネサンス以前ならばほとんど数学並みの厳密さをもって一音が決められていたというのもわからないではない。が、それはその理を理解すれば逆にすべてが芋蔓式な明晰さをもって構造が露呈されるわけで、そこに至っては作曲者の意図や演奏者の表現技法は実に率直かつ直截的に明示されていると考えるべきだろう。もちろんそこには難解さの欠片もあるはずがない。数学の無限論のように、理解したら多分死にたくなるような理論だって論理の積み重ねだから、積み重ねの努力を厭わなければ難解というわけではない(はず、きっと)。

クセナキスを聞いていると、うへ~、音減らせよとか、音しないじゃん、え? CD壊れた? と思うものだが、非調性音楽におけるお約束的展開のような意図は明らかに見て取れる。モーツァルトのピアノ・コンチェルトを聴いていると惚れ惚れするような難解な技巧をいともそこらに転がっている(いないか)ような楽しげでアッパラパぁなメロディに聴かせてしまう、というかよくそんな楽譜書けるよねと心底驚嘆を禁じえないという感慨をすぐに抱くことができるという意味において、極めて簡単でわかりやすい音楽であるとしか云いようがない。

一方、童謡「かごめ」は少し難解だろう。何故って意味がわからないから。子供がこの歌詞を歌う歴史的な解釈に関してはいろいろな説があるがどれも決め手に欠けている。おそらく丸くなって踊る舞曲の一種だったのだろうが、それも想像の域を出ないという意味においては、神を称えてアーメンしている西洋ルネサンス・ポリフォニィ歌謡に比してはるかに意味付けが困難であろう。

そして、今のところ最も難解なのは日常的にTVや街中で聞こえてくる猫泥棒系列に代表される末端ユーザーをなめきった切り貼り舞踏音楽であることに異論はないだろう。この歌を歌うこの一見固有名詞の意図は何だろう? 歌詞、歌唱法、アレンジ、アンサンブル、作曲、録音、はたまた主張のありそうな外面から振り付け、うるうるした目付き、表情の演出まで、そのすべてにおいて“アーティスト”の意図がわからない。その歌詞で何を伝えたいのか、その○○風のアレンジやらアンサンブルの必然性、十分性、アイデンティティ、民族性、風土、歴史、メロディ、リズムやその表現意図に至るまで、コントローラーなのか単なる奏者なのか、それとも職人なのかサラリーマンなのか、書割なのか着ぐるみなのか。操り人形なのか黒子なのか、何故わからないのかがわからない。いやぁ、クリエイティブなアーティストの音楽ってほんっと難しいッすね。

『鱒面傀儡』とは恐れ入った牛肉核心隊長の初期、四作目にあたるLP二枚組、今は1CD。多くの後付けの伝説が生れたらしい形而上音楽の一種。ポップスの領域から観てのメタフィジックスはほぼ20Hz~20kHzの領域に固着された、量子化されたような特定のリズムとメロディを包含した可聴音波である。流していると模している方向性みたいなものは意外と綺麗に浮かび上がるように思う。

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Metal Blade 3984-14188-2
1998

Still life/Fates Warning

98年の欧州公演のライブ2CD。前半CD1は前作『A pleasant shade of gray(心地良い灰色の陰)』のパートIからXIIまで全編50分強に及ぶ通し演奏。CD2は各アルバムから抜粋された単曲のライブ。

基本はボーカル、ギター、ドラムのトリオ構成。鍵盤とベースは外注処理が原則。ライブでは+サポートギター。テクは上々、欠点はない。それでいて誰一人でしゃばらないかっちりとした緻密なアレンジとアンサンブルが最大の特質であり、持ち味でもある。陰翳と淡く暗い彩り、「陰翳礼賛」的な嗜好性には意外に近しいものを感ずる。炸裂する重くタイトな変拍子のループに囚われるとそこはもう迷宮のさなか。歌詞も絶望的なまでの諦観に囚われて実に救いがない、というかむしろ透明で明晰な突き抜けた境地に達しているし、ふっと途切れた瞬間に零れ落ちる生ピアノの鮮烈なまでの儚さは表現する言葉をもたない。地味で暗鬱ですらあるが、おどろおどろしさはまったく感じられず、クール。クロムとモリブデンを添加した鉄のように強靭で硬質な金属質感は正に純粋な美の境地に達している。観客もピーピーキャーキャー煩いし、一緒になって歌っているのだが、聴かせどころでは凍りついたように静まり返っているあたり「お主等! なかなかできるな」といった按配。

しかしこれ、本当にアメリカ人なの?

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最終更新日 2005/10/13