懐古趣味音源ガイド    其伍拾八

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913 jyake01
ReR F1CD
1996

71 minutes of .../Faust

71~75年に録音された音源。70年代後半にレコメンからリリースされたLP『Munic & elsewhere』とリリースされなかったLP『Faust party three』に未発表曲を加えて90年代にCD化されたものと思われる。タイトル通りトータル1時間11分のいかれた曲がこれでもかこれでもかと曲間無しで隙間なくみっしりと充填されておりまする。語弊はあるかもしれないが、ファウストって取り上げられるところ(あるいはその功績)はだいたい決まっていて、意外にリリカルであるところは完璧に無視されるところが面白い。ゲージュツ的な表の壊れっぷりの裏には、うろうろと漂う如何にも欧州的で刹那的な絶望感が垣間見えてしまう。結実しないササニシキを前に今年の冬はどうすんべとか、獲れ過ぎた真いわしを前に燃料代も出ねえゼと嘆き、憤る背後にそこはかとなく忍び寄る悪魔。

914 jyake02
Ricordi
74321 974172
 
jyake02
Ricordi
74321 974182
1979

Arrangiamenti P.F.M. Vol.1 & 2/Fabrizio de Andrè

1979年初頭のボローニャでのジョイント・ライブ。リマスタされて音質はライブとは思えない良さ。もちろん内容も文句無し。美しくも豊かな地中海音楽です。サルデーニャ島に隠居していた御大をPFMが全面バックアップして引っ張り出したというかたちですが、PFMに加えロベルト・コロンボ(Roberto Colombo)、ルーチョ・ファブリ(Lucio Fabbri)ら業界の重鎮までおってたまげます。それが何の違和感もなく、10年来、一緒にやってきたように振舞えるというところが凄いというか、自然というか、当たり前なのか。もちろん主役はアンドレだから彼の歌が基本なのですが、アンドレ+バック楽団ではなくて、根っこはみんな同じなのですね、結局のところ。

ファブリのバイオリン、フラビオ・プレモリのアコーディオンが最高です。

915 jyake03
Philips
842 512-2
1976

Verità nascoste/Le Orme

『Smogmagica』の次作、通算8作目。前作同様、人は違うがギター入りでトリオ+1編成。前作のアメリカナイズされた軽めのポップさ加減は若干薄まって、タイトル曲に代表されるようなクラシカルなバロック風味も、より洗練されたかたちで戻ってきた。乗りの良いアップテンポの歌もの曲が中心だが、メロディ・メイカーとしての天性は遺憾無く発揮されているし、たおやかで心に染み入る情感は大人の余裕を感じさせる。無理してないか? みたいな部分がないとはいわないが、ちょこちょこ垣間見えるフレーズは如何にもオルメといった感じで好ましい。中期の作としては個人的によく聴いているアルバムで、それはまぁ、タイトル曲「秘められた真実」が好きだからなのだ。中身は別れた女にもう一度一緒に暮らそうよというラブソングなのだが、秘めやかに囁くような中間部の弦楽器のトーンが絶品です。

916 jyake04
Warner Fonit
3984 28327-2
1974

Uno/Uno

オザンナのイケイケ組による一発プロジェクト。英詩(カバー曲?)が半分ぐらいを占めていて英進出用のデモ・サンプル的な意味合いもあったのかもしれない。オザンナから民族色を排した方向を狙ったのだろうが成功しているとはいい難い。半陰陽なメロディ、オザンナ独特の音色のメロトロンもエリオ・ダンナの管楽器もすぐれて良いのだが、それらがぴったり嵌まるのはやはりイタリアの風土だろう。ラストの曲ではリーザ・ストライク(Lisa Strike;ピンクフロイドの『DSoM』やKevin Ayersの『Bananamour』で歌っていた女性ボーカリスト)まで使ってスキャットしているのだが、今一つしっくりこない。独特の暗く美しい刹那感を彷彿とさせるバラード調の良い曲が多いだけに、実にもったいない。

917 jyake05 1977

1313/Univers Zéro

デビュー盤でありながらいきなり高質密暗黒アコーステック・チェンバー全開に圧倒されてしまう。ディテールまでとことん突き詰められた汎ヨーロッパ的な繊細さと緻密さが、ぎりぎりの境界線の上で繰り広げる緊張感が凄まじい。曲調はバルトークやストラビンスキィを彷彿とさせる完全に現代音楽寄りの内容で、正調派パーカッション入り室内楽に近い。おそらくスコアを起して緻密に作曲された構成で、内スリーブのライブ写真にもスコア立てに楽譜が載っている。グルーブ感とはほとんど無縁だが、この変拍子と神経を逆撫でするようなアンサンブルには萌えるものがある。曲はドゥニとトリゴーによるものが半々。演奏面で意外に目立つのがベルクモン(Michel Berckmans)のバスーンで、偏執狂的にシリアスなアンサンブルの中で唯一暖かめのとぼけた味わいが出ていて面白い。

918 jyake06
Musea
MP 3010.AR
1992

Prière/Bertrand Loreau

1989~1992年に録音された小品集、全14曲。予備知識ゼロのジャケ買いですが公式Webによれば、ほとんど現代音楽系の人のようだ。Patch Work Musicなる団体プロジェクトにも参加しているらしい。一応、1stアルバムにあたるようですが、ベルナール・バレー(Bernard Ballet;現音系の作曲家)とクラウス・シュルツェ(Klaus Schlze)奉げられています。グルーブ感とはほぼ無縁な可愛らしくも透明な音のタペストリィ。クラウス・ブラスキーズ(Klaus Blasquiz)の名前がクレジットされていたりもするが、全曲歌無し。キーボードとマシンのみによる電子音楽っぽくない電子音楽。感覚的には日がな一日、浜辺に座って波とか雲とか太陽とか海鳥を眺めている、ちょっと寂しげな安寧と抱擁感がとても気持ちよい。

919 jyake07
Spalax MP14244
1971

Ash Ra Tempel/Ash Ra Tempel

シュルツェ+グトシンク+エンケ+コニー・プランクという最初にして最後の組み合わせ。著名過ぎるほどの1stです。アングラ・ブルーズ・サイケでLPのA、B面各一曲というありがちなパターン。1曲目は静謐に始まってジャムセッション風の展開を経て終局に向かって怒涛の盛り上がり。シュルツェのドラムは意外に手数が多い。2曲目は今のトランス・テクノ。どちらも決して明るい曲調ではなく、黄昏た薄明で、のたくったように重暗く酩酊しております。一般的に顧みられたのがAshraに改名して以降だから、Ashra=グトシンクというイメージができあがっていますが、最初期においてはシュルツェとエンケの功績と貢献が大きい。エンケがリタイアするまでの数作の変遷を辿ってみても、目立たないながらもエンケが実質的なコンポーザであったのだろう。

920 jyake08
PLATZ PLCP-113
1981

Curiosum/Cluster

既にユニットは形骸化し、前半がメビウス(Dieter Möbius)、後半がローデリウス(Hans-Joachim Roedelius)のソロみたいな雰囲気の第一期最終盤。この後、ソロを経て90年代中期に再び合体するのだな。コニー・プランクがいないという意味では前作と同じ延長線上。極度に進んだ抽象化が形態の純粋化を生むように音響は限りなく無に近づいていく。シンプルで極度に音数の制限されたエレクトロニック・アンビエント。総じて微妙で泡沫的な(終末的ともいう)リズム感が全体を支配していて、全人類が死滅した後に電池切れるまでエンドレスで流れていそうな音だな、こりゃ。いつのまにかふっと音が切れていて、それでいてその状態がとても自然に思えてしまうような逆説的な存在感。電池が切れた後に残っているものは紛う方なきただの無なのだが。ちなみにカバーはメビウスの作。ClusterがかつてKlusterだったように、CuriosumというのはかつてのKuriosumで、未来の“珍品”とか“骨董品”という意味なのだろう。

921 jyake09 1978

Il fantastico viaggio del "bagarozzo" Mark/Goblin

Cherry-fiveを前身とするスタジオ・ミュージシャンの集合体であるゴブリンは2枚のオリジナルアルバムと大量のサウンドトラックを残しています。これはそのオリジナル2枚目で通算4作目。初めてのボーカル入りでトータルアルバムという構成になっている。これまでの忍び寄るように鋭角的で、暗い耽美を漂わせるテクニカルなインスト・ジャズ・ロックという印象は、お世辞にも上手くないボーカルの多用でかなり特異なものとなっているのだが、表面的にはメロディアス・シンフォでも通るかな。もともとメロディのセンスは超一級だし、アレンジも展開もツボを押さえた気持ちの良いもの。多彩なキーボードと安定したリズムという基本線はどちらもゴブリンということで良いと思う。

80年代に実質分解状態でしたが、御多聞に漏れず最近ダリオ・アルジェントの新作映画で再びサントラを作っているようです。

922 jyake10 1980

Virgin oiland/Eela Craig

中心メンバーだったキーボードの一人が抜けてしまった5作目。一応、未来のアダムとイブのなれの果てを描いたトータル・アルバムなのだが、前作のような重厚長大さは無くなって、すっかり80年代なりのポップで軽めの仕上りになっております。歌ものの領域が大きくなってうっかりすると歌謡曲寸前だったりするのだが、ちょっとくぐもった感じの押さえたトーンが渋く上品に光ります。ゆったりしたものからアグレッシブなものまで、それなりに変化に富んだ出来で、クラシック趣味に走った前作に対して3rdあたりのSF路線に戻ったという感じかな。エグイSE風電子音の使い方をみているとエレポップ辺りの影響もあるのかもしれない。テーマはあまり明るいとはいえないが、音感は清楚で意外に明るくてタイトに決まる。

923 jyake11 1974

We keep on/Embryo

東洋エスニック風味アヴァンギャルド・ジャズ・ロック。Amon Düül IIにKraanに、Agitation Freeとなぜゆえにこの時期の(ちょっと語弊はあるが)非電子系クラウトは中近東(アラビア+イスラム)あるいはインドなのだろうか。実際、Amon Düül IIあたりとは相互に人脈が入り乱れてもいる。70年代初期ものとは思えない達者で手数の多い高速ドラムによる圧倒的なグルーブ感を筆頭に、管楽器もギターもバックを低く流れるメロトロンもテクニック的には申し分ない。妙にファンキィなアラビア語の変なタイトルの曲とか、めくるめく流転の堂々巡りのようなパーカッションが複雑に絡み合ったりとか、線は太くないが、なかなか野趣に富んだ奇矯な変態さが売りです。

ゲストにジャズのチャーリィ・マリアーノ(Charlie Mariano;フルート、サックス)を迎えて製作された発表順では6作目。録音は72年で4作目。CDはボーナス2曲を生かすため(?)LPのA、Bが逆に収録されているようだ。

924 jyake12
Captain Trip
CTCD-038
1995

Nada Moonshine #/Amon Düül II

復活したアモン・デュール2の唯一のスタジオ盤。この編成で96年にライブ・イン・ジャパンなのだねぇ。打ち込み風のリズムパターンまで入って、それなりに時代への追従とテクの老化を隠蔽しております。カーレル翁、マイト爺、レオポルト老、レナーテ・クナウプ・クレーテンシュバンツ婆(Renate Knaup-Krötenschwanz)とかつての中心メンバーは健在です。「Nada」はまぁ、“虚無”という意味なんだろうが、ブレイクビーツ・テクノとエスパーニャ・ムスリムに中近東呪術、中欧バロックともうゴタ混ぜの混濁で眩暈がしそうだ。ちなみに歌詞も国籍が著しく胡乱なちゃんぽん。どうみても「盆踊り」が、いつのまにかピアノをバックにクナウプ・クレーテンシュバンツ婆が高らかに謳い上げるクラシカルなバラードになってしまうのなどもう最高。

925 jyake13
ŠKODA SK0012-2
1990

Uprostr`ed slov/Uz` jsme doma

若干大陸東寄りのものを4枚ほど。東に行くにつれ言葉がお手上げというか、辞書すら売っておらぬという意味では辛い。上っ面だけ撫でるようにBGMにしてしまうのも惜しい気がするが、歌詞を含めて英語対訳付きで、かなり親切なチェコのウズ・ユスメ・ドマ。2CDで二枚目はライブ。冒頭「ウズュスメドマ!」って叫んでるから読みはこれでいいんだろう。「r」や「z」にカロン(^の上下逆)がついていて実体参照でも表示すらできないので表記は変だけど勘弁してくだされ。

「Yeah or or」
 
わたしは格差を語り始めた人々が好きだ イェーオーオー
わたしは格差を問い始めた人々が好きだ イェーオーオー
わたしは通り一遍の答えで満足しない人々が好きだ
誰が格差を語れるのだ イェーオーオー
わたしは格差を語り始めた人々が大好きだ!

「電話」
 
わたしの すみれ(菫)!

わけわからん。ヘタウマなのだ。強引な曲展開とアホバカ変態ぶりでコミカルだが、このテクは尋常ではない。異常としか言いようのない怒涛の変拍子反復リフで突っ走ってしまうという暴虐無尽、決め方が“えろ”な領域に達しておって身体的な同意を求められているようだ。このみんなで“嘘泣き”してるライブは何だ?

926 jyake14 1989

Stone land/Autograph

70年代終りのスタートでこれが2ndアルバム。タイトル、曲名は英語だけど歌詞はすべてロシア語。「ダー」と「ニエット」と「ハラショー」ぐらいしかわからんので意味不明ですが、なんかプログ・ハードってところです。ソ連時代のものですが、技術的にも中身においてもオリジナリティは別として、特に“古臭い”ということはない。むしろU2あたりをよく研究しているなという感じです。この手の(俗称)辺境系って売れないせいか価値を知らないところだと意外に投げ売り状態で、これも新品で300円という破格値だったのだ。レーベルはMuseaである程度の予想はつくのだけど300円ならハズレでも悔しい思いはしないよなぁ。

結果は上々で、産業化した欧米の量産プログ・ハードよりもずっと面白く変てこりんなものが手に入った。どっかで聞いたことのある微妙な雰囲気を、ロシア民謡と伝統のクラシックで味付けして、琴線に響く演歌ポップスになっておるではないか。

927 jyake15 1993

Alma alma/Yulduz Usmanova

中央アジア、ウズベキスタンの国民的歌姫らしいユルドゥズ・ウスマノーワ。ディジタリィで非常にポップな作りだが、ベースは中央アジア・イスラムの典型的な民族音楽。もっとも、メロディや節回しはほとんど演歌だったりもするので聞き易いし、きれいだ。けっこういい歳のようだが御尊顔を拝見するまでもなく(遺伝子的にも)根っこは近そうだ。一見立派そうな骨格ですが身長155cmと、わぁ、可愛い。公式Webを見る限り、インターナショナル盤とウズベク国内盤があるみたいですが、これはインターナショナル盤の1stにあたる。で、ほんのちょっとしか見えないのだけれど、手がね、働く女の人の手なのだな。端的にいってごつくて指が太い。近所の八百屋のお姉さんの手も大きいが、手に生活が滲み出てしまうのだ。自分の手の方が小さくて一瞬ちょっと恥ずかしかった。生活を完全に隠蔽することを“洗練”というらしいが、そういった“洗練”からは生まれないものがここにはある。

928 jyake16
フランス盤
PRIK063
 
jyake16
ウクライナ盤
LAVINA
LM-CD 401
2002

Прикосновение(Prikosnovénie)/Flëur

ウクライナのオデッサのユニット。名前(読みは適当)から判断するには女性4人、男2人のスラブ系アコースティック・チェンバー。表記がキリル文字じゃ完璧にお手上げだが、フランスのレーベルから出ているようで、中身はアルファベット表記だし、曲名にいたっては英語になっておる。歌詞はロシア語かウクライナ語(多分ロシア語)なのでお手上げ。もっとも、「Flëur」が何語(ウクライナ語?)なのかすら、いたって不明だが「花」の意なのだろうなぁ。内スリーブは中央アジアの彩色仏教宗教壁画風だったりして、なんだか世界は広い。

最近(2004年)2ndと共に手に入れたウクライナ盤は6面デジパックですべて花の加工写真が使われている。インナーも花。名前はすべてキリル文字になるのだろう、当然。ミックスは同じだと思うが、音から受けるイメージとしてはこちらが適当だろう。

公式Webには写真、試聴を含めてかなりの情報があります。なんだかイメージ通りで、ステージ写真などアマチュアの学芸会のレベルだけど、変に俗化しないことを切に願いたい。『Prikosnovénie』というのはアルバム・タイトルであると同時に、レーベルの名前でもあるらしい。何語かよくわからん(フランス語じゃないよ、もう)のだが、意味は直訳すれば《十分適切に優しく触れる》ということらしい。

Olga Pulatova(オルガ・プラトーワ);ピアノ、ボーカル
Elena Voynarovskaya(エレーナ・ボォワナロフスカヤ);ギター、ボーカル
Julia Zemlyanaya(ユリア・ゼムリャナーヤ);フルート
Katherina Serbina(カテリーナ・セルビーナ);チェロ
Alexey Tkachevsky(アレクセイ・トカチェフスキィ);パーカッション
Vitary Didyk(ビタリィ・ディデュク);ダブルベース

その他、若干のゲストがキーボードを入れているようだが、中心人物は上の女性二人。偶数曲をオルガ・プラトーワ、奇数曲をエレーナ・ボォワナロフスカヤが交互に作っているようで、リードボーカルもそれに合わせて交互に取っているようだ。声質と曲想に個性が出ていて非常に面白い。そして何よりも特筆すべきはそのロマンティックな美しさ。近年、稀にみる耽美だな。分厚くないピアノ、フルート、アコギ、チェロの単音の響きにかぶる清冽なアルトとソプラノ。巧いというのとは少し違うのだが、耳元で囁かれているような線の細い、生々しくも甘く肉感的なボーカルはスラブ語系の音感と相まってエロティックですらある。最近の新しい音楽にはもうまったく触手が動かないのだが、こういうのは“畳んだ店の片隅でメンテのために細々と営業してます”という感じで、唯一追っかけている路線になってしまった。

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最終更新日 2004/05/12