今週のウォーキングのお伴はモーツァルトの「ディヴェルティメント」だった。曲のテンポはピッチウォークには不向き。お散歩というほどタラタラ歩きではないが、いつもよりはゆっくりめ。スピードは毎時5.96~6.12キロ。月曜、火曜と外食・飲み会が続いた関係で、少し体が重い。

§

朝刊社会面の隅にこんな記事。

見出し:オリンパス社員の勝訴確定/最高裁:内部通報後の配転無効

 上司の不適切な行動を社内の窓口に通報したため、不当に配置転換されたとして、精密機器大手「オリンパス」の社員が配転の無効確認を求めた訴訟で、最高裁第一小法廷(白木勇裁判長)は、同社と上司の上告を棄却する決定をした。28日付。配転を無効とし、慰謝料など220万円の支払いを同社と上司に命じた二審・東京高裁判決が確定した。
 訴えていたのは、浜田正晴さん(51)。2007年6月、上司が取引先から社員を引き抜くことを問題視して社内の「コンプライアンス室」に通報し、同年10月に配置転換されたことから提訴した。昨年8月の二審判決は(1)内部通報は正当なものだったのに、上司は制裁的に配転を命じた(2)配転は「内部通報者に不利益な処遇を行ってはならない」とする社内規定に反する――などと認めた。
 記者会見した浜田さんは時折ハンカチを目にあてながら、「司法を信頼してきてよかった。会社でなく、会社の『闇』と闘ってきた。これからは普通のサラリーマンとして、楽しく安心して働けるオリンパスにしていきたい」と話した。オリンパス広報IR室は「主張が受け入れられず残念。今後の対応については、今回の決定を厳粛に受け止め検討する」とのコメントを出した。

 記事には一審判決がどのようなものだったのかが書かれていない。調べてみた。一審の東京地裁は「配転の不利益はわずか、報復目的とまでは言えない、従って公益通報者保護法の対象とはならない」と浜田の訴えを退けていた。一審判決が出たのは10年1月。そして二審の東京高裁がこの記事にあるように認定、逆転判決を出したのは去年の8月31日のことだった。

 興味深いのは、大騒ぎになった「巨額の粉飾決算」が問題とされはじめたのが、去年の4月あたり、この判決の数カ月前だったことだ。月刊「FACTA」の去年8月号に「オリンパス『無謀M&A』巨額損失の怪」と題する記事が載った。その書き出しはこうだった。

 株主に説明できないM&Aを繰り返して巨額の損失を計上したにもかかわらず、ほっかむりを決め込み、高額の報酬をふんだくっている経営者にとって、シャンシャンで株主総会を乗り切った心中はどんなものだろう。
 6月29日、東京・西新宿の京王プラザホテル南館で精密機器大手オリンパスの株主総会が開かれた。菊川剛会長(70)ら経営陣首脳は内心ハラハラしていたのではないか。
 その5日前、本誌が5項目の質問状を送ったからだ。・・・(略)・・・胸をなで下ろすのはまだ早い。本誌はやらせ総会など目じゃない。調査報道のトドメはこれからだ。

 話題となったマイケル・ウッドフォードが異例の抜擢を受けて社長に就任する以前から、銀行筋はオリンパスが買収した会社について調査を始めていた。それほどに「怪しい状況」があったのだ。

 もちろん浜田の問題はこのような上層部の「財テク遊び」には一切関係のないことだ。しかし「コンプライアンスなど社外向けのお化粧のひとつ」と考えるような経営首脳が牛耳る会社の体質は、浜田の訴訟への会社対応にも自ずから現れ、なおかつ、粉飾決算問題が雑誌ジャーナリズムにも注目されるていどに疑いの眼を向けられていたことが、高裁の審理に何らかの影響を与えた可能性は否定できないだろう。

 そして菊川以下経営陣の逮捕などでオリンパスはブラック・カンパニーの烙印を押された。本来なら、企業サイドに有利な判決を出すことが「任務」である最高裁が、内部通報問題でははじめての違法判決を下したのは粉飾決算事件というハプニングがあったればこそのことと考えるのは、いささか世の中を悪く見すぎているからだろうか。浜田正晴は幸運だったのだ。そんな気がしてならない。(6/30/2012)

 きのうの日記を書いた時に見落としていた記事。

見出し:「生ぬるい処置」/大坪被告が談話

 最高検が田代検事や当時の上司を不起訴処分としたことに対し、大阪地検特捜部の証拠改ざん隠蔽事件で犯人隠避罪に問われ、一審で有罪判決を受けた元特捜部長の大坪弘道被告(59)=控訴中=が27日、弁護団を通じて談話を出した。
 談話で大坪元部長は「生ぬるく不徹底な処置。(自分たちが起訴された)大阪と比べあまりに不公平で、検察の組織防衛と隠蔽体質の表れだ」と指摘。捜査報告書をめぐる問題が昨年1月に最高検に報告されていたことを挙げ、「最高検幹部らの責任がなぜ問われないのか。強い憤りを感じる」と訴えている。談話を公表したのは、弁護団メンバーで元検事の郷原信郎弁護士。

 大坪の憤りはよく分かる。検察首脳の暗黙の指示により、民主党叩きのために企図された「やばい仕事」という点では郵便割引制度不正利用事件も一連の小沢事件も性格はほとんど変わらない。

 「なんでもいいから民主党に打撃を与えろ、でっち上げ?、ウェルカムだ」。これが東西の特捜部(じつは名古屋地検特捜部にも同様の「案件」はあったが、メイクしなかった)に対する「ミッション」だった。同じように危ない橋を渡って、一方は「犯罪人」になり、他方は「お構いなし」では腹も立とうというものだ。

 だが皮肉な見方をすれば、郵政割引制度不正利用事件はでっち上げのシナリオに致命的な欠陥があったのだ。それは格が低いとはいえ、厚労省という霞が関の一角にふれたことだ。あの事件を徹底的に意地悪く見れば、本丸であるはずの民主党の石井一につなげることができなかったことよりも、厚労省のキャリアを冤罪シナリオに加えた時点で既に「スジの悪い」ものになっていたと言える。

 霞が関ムラの中で、「縄付きを出して、おれたち(厚労省)の顔に泥を塗った以上、検察さんよ、ごめんなさいでは済まないよ」という話になってしまったのだろう。対するに、小沢事件には中央官庁は登場しない、ムラの中で落とし前をつけなければならない相手がない以上、検察庁は厚顔無恥を通すことができたというわけだ。「政治家?、手のひらが転がせば済むヤクザだよ」。「国民?、そんなものは所詮踏みつけにしていい雑草だよ」、これが霞が関ムラの常識なのだろう。(6/29/2012)

 捜査報告書というのは公文書だ。虚偽の捜査報告書を作成すれば、当然、虚偽公文書作成の罪に問われるはず。刑法156条には「公務員其職務ニ関シ行使ノ目的ヲ以テ虚偽ノ文書若クハ図画ヲ作リ又ハ文書若クハ図画ヲ変造シタルトキハ印章、署名ノ有無ヲ区別シ前二条ノ例ニヨル」とあり、前条を見ると懲役1年以上、10年以下と定められている。

 小沢一郎の不起訴処分の妥当性を審査する検察審査会に提出するため、石川知裕の取り調べ結果を捜査報告書として作成した田代政弘の虚偽公文書作成は明らか。本人の署名、捺印があるのだから、別の人物の犯行ではない。作成された報告書そのものがあるのだから、これぞ動かぬ証拠。記載されている石川の供述内容と称するものが、録音内容と異なるのだから、虚偽を記載したという犯行の事実も明白。

 万引きをした商品があり、万引きをした映像があり、カネを払わなかった事実があれば、100%、これは有罪だろう。まあ、初犯であるとか、万引きをしなければならなかった特段の事情でもあれば、「起訴猶予」ということはある。しかし、きのう最高検は「嫌疑不十分につき、不起訴とする」と発表した。「嫌疑不十分」というのは「罪を犯したか」どうか明確にできないから「起訴できない」という意味だ。田代の「犯行」は明白だ。正確には「何らかの事情がある」から「起訴猶予」にするという以外はあり得ない。

 この「でっち上げ検事」の釈明は「別の場所で聞いた内容を混同してしまった」というものだった。万引き犯が「カネを払って買った物と思い込んで持ってきてしまいました」と言い訳したら、そういうこともあるかもしれないから、「嫌疑不十分」と言ってくれるのか、我が最高検察庁さんは。

 だいたい盗賊団に手下の盗っ人の処分を決めさせるということ自体がおかしいのだ。小沢から提出された収支報告書内容の事実との違いが「ミス」ではなく「虚偽」であると決めつけてきた検察が誰の目にも明らかな「虚偽」について「単なるミス」と無理やりごまかして恥ずかしくないのか。「秋霜烈日」バッジのプライドはどこにいった。恥を知れ。

 それなら「さあ、検察審査会」だといきたいところだが、この「審査会」からして検察官僚機構にビルトインされた信用のならぬヌエのようなインチキ集団とくる。いまや、この国はもはや正義などというものはなくなってしまったような気持ちになる。

 事ここに至ると、ノダメが小川敏夫の馘首をあわてて切った理由が分かってきた。霞が関の手下に成り下がったどこまでも薄汚いドジョウ野郎、面を見るだけで腹が立つ。(6/28/2012)

 朝刊一面の見出しをふたつ。トップが「消費増税衆院通過/民主反対57棄権・欠席16/事実上の分裂状態」、そのすぐとなりに「新幹線3区間あす認可/北海道・北陸・九州総費用3兆円超」。

 社会保証を維持するためには消費税を上げざるを得ませんという一方で3兆円を超えるカネをかけて新幹線を建設しようという。民主党が「事実上の分裂状態」であると同時に、政府も「事実上の精神分裂状態」だ。

 もちろん建設費用の全額が国税でまかなわれるわけではない。記事によれば、「3区間の事業費は計3兆400億円。全体の7割程度が国と沿線自治体の負担。着工から20年以上にわたり、平均で毎年1千億円程度が税金から出される」。毎年1,000億程度のことではないかという話もあろう。ただし、この手の工事が予定金額で終わった試しはない。8面の詳説記事には「そもそも、事業費が3兆400億円で収まるかどうかもわからない。1997年に開業した長野新幹線の高崎―長野間の事業費は、当初計画の1.4倍になった。建設中の区間でも、新青森―新函館間は4700億円から5500億円に、北陸の長野―金沢間も1兆5700億円から1兆7800億円にそれぞれ増えた」とある。「ほんの少しです」という猫なで声ではじめ、「じつは・・・」といい、そんなにかかるならやめてはという意見が出ると「いまやめれば、これまで投入した**億円が無駄になります」とか、「泣く泣く土地の買収に応じた地主さんが可哀想」などといって開き直るというのが役人の常套手段なのだ。

 どこかのダム建設事業と同じで、要は戦艦大和のような無用の長物を作るのがこの国の役人の趣味なのだ。北海道新幹線ができたところで、東京から札幌に行くのに新幹線を使う人と飛行機を使う人のどちらが多いか。夜行寝台「カシオペア」などは結構の人気ではないかという声も出そうだが、それは利用者の気持ちを理解していない。彼らは豪華寝台車両でなるべく時間かをかけて移動したいのだ。新幹線によるスピードアップなど迷惑千万。飛行機よりは料金が安いなどという人も時代を知らなすぎる。来月開業するLCCジェットスターの「東京-千歳」は5千円でおつりが来る。新幹線の運賃をいくらにするつもりかは分からないが、これに対抗できる価格にすれば、建設費の回収は現実的にはできないことになろう。本四架橋以上の負の財産になることは火を見るより明らか。

 記事にもあるが新幹線ができれば、在来線は様々な影響を受ける。建設費の幾分かを負担させられる地方住民は、不便と借金のダブルパンチを食らうことになるだろう。それでも毎年1000億もの税金をドブに捨て続ける価値がどこにあるのか。よほどの低能児でも答えは分かるはず。(6/27/2012)

 消費税率を14年4月に8%に、15年10月に10%にする法案が衆議院で可決された。先週来、マスコミ報道の「センターポジション」を占め続けた民主党内の反対(いわゆる造反派)は57人だった。

 書きたいことはたんとあるが、今夜は飲み会があるので、以下、雑感、殴り書き。

 まず、三党協議なるものについて。どうやらこの国の「民主主義」というのは「ボスどもが鳩首会談の場で密議をこらした結果に子分どもが一致して従うこと」らしいということ。つまり国会論戦などは最初から想定されていない。足しあわせて過半数になりそうな党のボスだけが集まり密室会談を行うということは、それにかかわらない政党は最初から排除されているということだ。少数党と思えば、賛否を問うこともせず仲間に加えない。社民党や共産党が賛成でないことは明らかだが、みんなの党だか立ち枯れナンチャラ党が反対するとは思えない。にもかかわらず排除。こういうものを「民主主義」というのか。

 選挙結果により多数を得たら、そのとたんに「多数派」内の勢力関係ですべてが決まる。そのくせ、そのおおもとの選挙の際に上げた看板がどのようなものであっても勝手気ままに変えることができる。まるで「君子は豹変するものだ。それが悪いか」という姿勢だ。それを言うものが君子でも小人ですらもないのだから嗤いを通り越して呆れるばかりだ。

 次に消費税。いまの消費税のザルの如き仕組みに一切手を入れずに税率のみをいじろうとする姑息さがやりきれない。ヨーロッパ諸国の付加価値税はもっと高率だというが、インボイス方式の採用により厳密な課税がなされるように制度設計がきちんとできている。我が消費税は導入時に零細業者の反対をなだめるために帳簿方式という杜撰な方式を採用したために、消費税として集められた税金の一定額は、業者が勝手にイン・マイ・ポケットしている。これに輸出業者が絡むといったん国庫に入った税のうちかなりの高額が業者に還付されてしまう。ここでも業者は消費税として集められたカネをくすねている。つまり、公平性、厳密性など最初から捨ててかかっている。税率の引き上げをするに際して、これを改める論議がでてこないのは不思議の一言だ。

 なにより腹の立つことは、「一体改革」といいながら、使い方に関する話は全部棚に上げて、税率を上げることだけを最優先し、恬として恥じないその根性が腐り果てている。ふつうは、使い道はこれこれ、所要財源はこれこれ、不足分はこれこれ。故にこれこれの額の税収を望みたい、これが筋道というものだろう。途中のプロセスはいったいどこに消えたのだ。税率を上げることだけにしか関心がない腐りきった議論がまるでやむを得ない正論のように語られているのだから、もはや世も末。

 さらには可決成立しても、実施は2年後、それもおずおずと3%アップ、それから「一年有半」して2%のアップ。駆け込み需要期間を2年ほどおけば、景気が回復したように見せられるだろうという、いかにも悪党が考えそうなやり方。このみみっちい助平根性が癇に触る。

 ああ、クソ。こうなったら、まず、人と人のつながりを濃密にして「贈与経済」を育てよう。可能な限りカネのやり取りをなくする。サービスの無償交換方法を洗練されたものにする。地域通貨の交換機能を拡充することもいいかもしれない。

 オッと、5時をまわってしまった。(6/26/2012)

 できれば一週間に一回は車を使おう、バッテリーあがりにならないように。ということで、**(家内)とみずほ台の鮨屋で食事、シュークリーム屋、パンの木村をまわる。ついでにやまやでアクエリアスとサイダーを箱買いしてスタンドへ。これで32キロ走行。秋にははじめての車検だというのに、まだ走行キロは一万キロにも届かない。惰性で持ち続けている感じ。

 **さんからメール。セッティングをサボっているうちに6月、株主総会が終わったころに打診しようと思っていたところ。株主総会はあした。準備が整って時間的余裕ができたのかしら。

 速戦即決で来月26日に決定、案内を出した。メールには「会場におりますので、見かけたら、声をかけて下さい」とあった。残念ながら富士電機の株は持っていない。きょうの終値で187円。一株配当は半期ごとに2円。配当利回り2%ちょい。年にいっぺん、匂いを嗅ぐくらいの気持ちで大崎に行くのも悪くはない。このくらいの水準の時に買っておこうか。

 単元株で20万に達しないから買えるわけだが、ちょっとこれは情けない株価。複雑な気持ち。(6/25/2012)

 永青文庫で「細川忠興と香木、蒔絵香道具」展を観る。土日の混雑が嫌い。だから、いつもなら平日に行く。**(家内)のスケジュールの関係できょう。だが、永青文庫はあまり人の来るところではないらしい。他に数人の展覧者がいるていど。ゆっくり観られた。

 3階の一番奥のガラスケース。銘「白菊」となっている香木。一木四銘という説明文を読んで、記憶の霧の中に森鴎外の殉死ものが浮かんだが作品名がでてこない。最近はこういうことが多い。「アレだよ、アレ」と思い、喉元に手をやるのだがでてこないものはでてこない。情けなくなる。「帰ってから調べよう」と思い直して、展示品に目をやった。

 お茶では炉の季節に練香を使う(ふつう練香は漆器には入れないはず)が、それにかかわる展示品はなかった。茶の湯での「香」とはまた別の世界のようだ。そういえば、牛の背にカゴを背負った子どもが乗った香炉があった。どこにいったろう。ことしはリスニングルームの片付けをしなくちゃ。

 いま、インターネット検索をかけてみた。分かった。「興津弥五右衛門の遺書」。これぞインターネットのご利益。これがなければ、おそらくお手上げだったろう。いや、これを機会に鴎外を読みなおして、また思わぬ収穫を得た、そういう可能性だってあったかもしれないが・・・と、これは負け惜しみ。

 そういえば、弥五右衛門は「功利一辺倒」が「世の尊きもの」を駆逐することに異をたてたのだった。(6/24/2012)

 梅雨入り宣言があったのは先々週のきょう。だが、この間ステップボードで稼いだのは一日もない。先週の土曜は、一橋の講座のあと国立から西国分寺、新秋津から清瀬まで雨の中を歩いた。それ以外の日はだいたいウォーキングタイムには降っていなかった。梅雨とはいっても、思いのほか、歩けるものだ。それとも、4月からの降雨の反動で空梅雨気味なのか。

 朝刊、オピニオン欄「記者有論」に畑川剛毅(文化くらし報道部)が「失敗からの教訓/ミッドウェーと原発事故」が載っている。先週、土曜の夕刊の「昭和史再訪:ミッドウェー海戦」を書くために取材を続けた畑川は、「取材に応じた人たちがミッドウェー海戦と東京電力福島第一原発の事故との類似性を異口同音に指摘したこと」に驚いたと書いている。

 昔、読んだ「失敗の本質」への言及もあった。同書で事例研究2として取り上げられた「ミッドウェー作戦-海戦のターニング・ポイント」の節を読みなおしてみた。節の末尾に「ダメージ・コントロールの不備」についてこんなことが書かれている。

 ダメージ・コントロールの不備-さらに、いったん被弾した場合の艦内防禦、防火対策、応急処置なども十分な考慮が払われていたとはいえない。空母の飛行甲板の損傷に対する被害局限と応急処置に関しては、ほとんど研究、訓練が行なわれていなかったのである。このようなダメージ・コントロールに対する日米の差は、珊瑚海海戦で大破し、真珠湾における三日間の修理で本海戦に出撃し、被弾後消火に成功したばかりか、飛行甲板の応急修理まで行ない、「飛竜」第二次攻撃隊に無傷の空母を攻撃したと思わせた「ヨークタウン」の例を見るとき、とくに顕著であるといえよう。

 書き写し部分の直前には「防御の重要性の認識の欠如」について書かれている。これは「兵站の軽視」とともに旧日本軍の致命的欠陥のひとつだった。零戦というと情緒的に我が国が生んだ永遠の名機のように言う者が多いが、零戦は我が国の致命的欠陥をも代表する戦闘機だ。それを未だに理解できないのだから、ここまでくるとド阿呆の極致。(零戦の高性能は脆弱な防御性によって達成されている)

 ついでに書けば、戦後日本の自慢のひとつであるTQCなどは日本のもつ欠点の裏返し(の集大成)なのだが、いまだに「ものつくりニッポン」という「宗教」のバイブルとして流通している。大嗤いだ。

 今週、20日、東京電力は福島原発事故調査の最終報告書を公表した。核心は「事故想定の甘さ」ということにして、すべてを片づけるという内容だったようだ。しかし、「想定外の津波によりブラック・アウトが起きました、そのあとのダメージ・コントロールは何も考えられておりませんでした」というのでは、まさに「おバカな旧日本軍」なみのお粗末と言わざるを得ない。いまどき、東京電力レベル、しかもいったん発生すれば百年単位の影響が発生するプラントをもつ企業に「contingency plan」がないというのは信じられないほど杜撰な話だ。

 お粗末といえば、そのあたりの内容を精査することもなく、「設置基準を満たしているから再稼働に問題はない」と専門家(こんな論理を操る人間が本当に専門家なのか?)が言い、「電力需要が逼迫すれば我が国の経済に甚大な影響を与えるのでわたしの責任で再稼働を決断しました」と言って、「もとの濁りの原発恋しき」とばかりひたすら「復旧」「復古」するドジョウ野郎も、底抜けのオソマツくんだが。

 ところで関西電力には「contingency plan」があるのだろうか。まさか、東電の醜態をこれだけ見た現在、ありませんと言うことはなかろうが・・・どうだろう、呵々。(6/23/2012)

 消費税増税、小沢グループの造反、民主党分裂、・・・そのあたりのことばかりがニュースの表通り。だが、その裏通りで、かなり重要なことが議論はおろか意識されることもなく、さらりと既成事実化してゆく。まさに手品師の業。

 多少、陽のあたるニュースとして、おととい、原子力規制委員会設置法が成立したというニュースがあった。この法律の関連法である原子力基本法の一部も改正されていた。

見出し:疑念呼ぶ「安全保障」の文言追加/原子力基本法を改正

 混迷する国会の動きの中で、原子力規制委員会の設置に伴い、原子力基本法に「我が国の安全保障」の一言が追加された。「平和利用」の理念をうたってきた「原子力の憲法」が、十分な議論なしに手直しされた形だ。
 改正では、原子力利用について「平和の目的に限り」という言葉を残しつつ、その安全は国民の生命、健康、環境などを守るだけでなく「我が国の安全保障に資する」ために確保するとした。
 20日の参議院環境委員会の質疑では、これは核物質の不正転用やテロなどを防ぐ「保障措置」を指すと説明された。だが、英語で保障措置はふつう「セーフガード」と訳され、「セキュリティー(安全保障)」ではぴったりこない。
 そこが、軍事に使われないかとの疑念を呼ぶ点だ。
 プルトニウムをとり出す再処理政策を続ける日本が、この言葉を使えば国際社会にも懸念材料を与えることになる。
 「我が国の安全保障に資する」という表現は08年に成立した宇宙基本法にも盛り込まれた。この法律ができて人工衛星の防衛利用圧力が強まった現実もある。
 今回、有識者でつくる「世界平和アピール七人委員会」は、この改正案の撤回を求めていた。委員の一人、小沼通二慶応大名誉教授(物理学)は「保障措置のことだというなら、そう明確に書けばよい。それをわかりにくく表現して拡大解釈される恐れを残した。基本法はどさくさの中で変えるべきものではない」という。
(21日朝刊4面)

 法案を提出したのは自民党の吉野正芳とされているが、農林族などの知恵とは思えぬ。こいつを隠れ蓑に利用した「知恵者」は誰なのだろう。

 もともと「原子力発電」はアイゼンハワーの時代に核兵器製造のコストを下げるため、軍事費を使わずにプルトニウムを手に入れることを目的として、「原子力の平和利用」というメッキを施して作り出されたものだ。

 少し、寄り道。原子力発電は安いという戯言を主張するバカがごまんといるが、ウラン濃縮にはじまり核廃棄物処理までの燃料ライフサイクルコスト、原子炉の建設から維持管理、最終廃棄までの施設ライフサイクルコスト、常につきまとうリスクに対する補償コストなどをきちんと算出するならば、そのコストは安いわけがないのだ。潜在的に核武装のすそ野を支えるコストなのだから。

 寺岡伸章は「Web Ronza」に「原子力による潜在的安全保障」(2012.3.17)にそのあたりの事情をあけすけに書いていた。

 ・・・(略)・・・つまり、皮肉にも潜在的核武装の懸念が日本の安全保障に寄与しているのである。
 仮に、日本が脱原発を国是に掲げ、原子力技術を一切放棄してしまうと、周辺国は日本の核武装の可能性はゼロになったと考えて、さらに領土問題のみならず、外交でも高圧的な態度に出てくるのは間違いがないと思われる。極東地域では、冷戦はまだ終わっていないと再認識する必要があろう。日本の弱点を知りつくしている中国は日本を手玉にとる恐れがある。
 厳しい国際政治では、力の空白域に強い勢力が進出してくる。憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という訳にはいかない。
 中国のGDPの伸びを考えると、十年後には中国のGDPは日本の2~3倍に膨れ上がり、その規模は米国と対等になるだろう。日本は安全保障を米国に、経済は中国に依存しているといういびつな形である。国力が衰えつつある超大国の米国が日本をいつまでも守ってくれるとは限らないし、過度な期待をすべきでもない。自国で安全保障を確保するという意気込みを持たなくてはならないと思う。
 ・・・(略)・・・核物質に隠された威力を認識し、祖国を自ら守るという意識を涵養し、日本国民が共有すべきである。経済や社会の自立性を守るのも広い意味での安全保障であるからだ。
 石油生産減少時代が間近に迫っていることを考えると、人智に依存する原子力も自然再生エネルギーの開発も必要であるが、原子力は安全保障の手段にもなることを常に念頭においておく必要があろう。

 この指摘は部分的に正しい。その意味では、原子力基本法に追記された「我が国の安全保障」の一節にはそれなりの意味があると言える。

 ただ問題は「それ」が意味するものを「国家のグランドデザイン」として意識的に選択していないことにある。では「意識した選択」として「安全保障としての原発推進」には有効な価値があるか。議論の余地はありそうに見えるが、コストパフォーマンスを考えるならばほとんど「ない」だろう。

 なぜか。まず、経済力をはじめとする国力では中国には勝てない。多少とも機能する頭脳を持っている人間なら、このことは(腹の立つことかもしれないが)分かっているはずだ。たまたま、ここ百数十年、日本は中国の「上」にいて、きょう現在この国に生きている人間は「支那のチャンチャン坊主め」という意識を抜きがたくもっているから感情論が頭をもたげるだけのこと。このわずかな百数十年の例外期間を除けば、この国が中国の「上」にいたことはない。おそらくもう少しすればまたその状態に戻る。我々はその関係の中で独立を維持するために知恵を絞らなければならない。(目下、「江戸幕府の高官」が引き起こしている「尖閣列島」騒ぎなどはいずれ「ああ、そんなつまらないことに囚われていたんだね、あの時代の日本人は、バカだったね」という話になる、嫌でも)

 次に「核武装」そして「核兵器管理と維持」ないしは「潜在的核武装」にかかるコスト。そのためにいったいどれほどの経済力と人的エネルギーを空費することか。それを核開発ないしは核保持に蕩尽せずに別の技術開発と技術管理に振り向けることが最終的には国と国民を豊かにし、ひいては独立を維持することに寄与するはずだ。死んでも軍事的にはアメリカに勝てないように、中国にも勝てないのだということをしっかり認識して「生き方」を選択すべきなのだ。世界中で核兵器を保有している国は十カ国に満たない。それ以外の国は核兵器なしに国を存立させているのだ。

 明治のはじめ、欧米使節団が見聞し、一時は真剣に検討した「小国としての存立」を考えなければ、日本は不幸になるだけだ。大国に対抗するためにはハードウェアに頼ることなくソフトウェアをもってするのが賢明な小国の策である以上、核武装などは最悪の下策、原発による潜在的核保有もまた下策なのだ。なぜなら、無用のリスク(原発事故、それがなくとも核廃棄物処理負担による国力の疲弊など)を保有しなければならないからだ。

 持てるものが決定的に不足しているのに、ステレオタイプな成功者を夢見て見当違いの努力を重ねる人がけっこういるものだが、百%不幸な人生を送っている。とはいうものの、昨今の世の中を見ていると、身の程知らずのバカが不幸に突っ込んで行くのが眼に見えるような気がして、いささか哀しい気持ちになるが。(6/22/2012)

 週刊文春の広告。「巨人原監督が元暴力団員に一億円払っていた/女性スキャンダルで恐喝」の見出し。

 当節、暴力団との交際はもちろんのこと、金品の供与も大問題になる。文春が鬼の首でも取ったかのように報ずるのは、いまのトレンドの中では当然の成り行きかもしれない。

 このニュース、昨夜のうちからスポーツ紙では騒がれていたらしい。けさのスポーツ紙、一面トップをきのうの素晴らしいタイトルマッチにしたところと原スキャンダルをもってきたところ、半々だったらしい。(報知はどちらだったのだろう、呵々)

 朝刊には経過をまとめた記事が載っている。

 巨人軍は、2006年に原監督が1億円を支払った事実を09年に把握した。しかし、この時点で改めて被害届を出さなかった経緯について、球団側の説明と、捜査当局側の認識に違いがある。1億円という多額の金銭授受に、暴力団関係者がかかわった疑いがあり、捜査当局による真相解明を求める声も上がりそうだ。
 巨人軍は20日の会見で原監督は、09年に被害届を出すことを決心し、警視庁に検討してもらったと説明した。しかし、「2人のうち1人が事故死して真相解明が困難と言われ、被害届の提出は見送った」としている。
 ところが、当時の複数の捜査関係者は「事件化できなかったのは、原監督側から被害届が出なかったことが大きい」と朝日新聞に証言している。
 2人組の男のうちの1人は1998年ごろまで暴力団員だった。朝日新聞の取材に応じ、東京に拠点がある暴力団に所属していたことを認めた。元暴力団員は「金銭問題で組を破門になった」と話した。
 もう1人の男は07年に事故死するまで大阪にある暴力団の関係者だったという。男が所属していた暴力団で同年まで組長だった男は朝日新聞の取材に対し、「自分が立ち上げた組の舎弟(弟分)だった」と話す。元組長は「原監督と1億円の取引があったことを後から舎弟に聞いた」と話している。
 この元組長は09年12月、巨人軍側に対する威力業務妨害容疑で逮捕された。同事件での元組長の供述調書によると、元組長は96~97年にかけて、大阪市で山口組系の3次団体を立ち上げて組長になったが、07年に破門になったという。

 興味深いのは二度目の恐喝を試みて威力業務妨害で逮捕された元組長の一件。当時はどのように報ぜられたのか、その時、週刊誌を含むマスコミがどこまで背景を調査したのかということ。

 文春が原スキャンダルを今週号に掲載することは、どれほど読売がうかつでも文春の広告原稿が読売新聞の広告部に持ち込まれた時には分かっていたわけで、その前後から対応が検討されたに違いない。きのうのうちに読売球団が記者会見を開き、「カネを払った相手は反社会勢力に属する者ではない。文春を名誉棄損で提訴する」とし、あわせて原監督のコメントと称するものを発表した。原のコメントには「ファンの皆様へ」という常識的なものの他に、もうひとつ「清武さんへ」というものがついていた。

 そのコメントの書き出しは「巨人軍の選手、OB、関係者を傷つける報道が相次いでいます。たくさんの暴露が行われ、巨人軍関係者を混乱させ、選手、OBを苦しませています。私は監督という立場で心を痛めてきました。こんなことがなぜ続くのか。清武さんのほかに、いったいだれがいるのか」となっている。この短い文章は清武へのメッセージという体裁をかりて、「清武は暴露戦術という汚い手を使っているんですよ」という世間への訴えかけをしたものだが、逆に「巨人軍の選手、OB、関係者」が引き起こすダーティな問題を球団の事務屋さんが一手に引き受けてきたことをうかがわせるとともに、「こんな暴露がこれからも続くのか」という不安な組織心理をも表わしている。

 清武英利は準備したかのように原監督にあてたコメントを発表した。「『巨人軍の選手、OB、関係者を傷つける報道が相次いで』いることの原因があたかも私にあるかのように『清武さんのほかに、いったい誰がいるのか』とコメントされたことについては、非常に残念でなりません」と反論した。

 真相は「藪の中」だが、必ずしも清武の反論が白々しいとも言い切れない。

 というのはさっき書いた「威力業務妨害」事件が起きた当時、おそらくマスコミ関係者はこの「恐喝事件」の根っこがどこにあるかを調べたことだろう。しかし、報ずることはなかった、できなかったのだろう。なぜなら逮捕された恐喝者の言い分しか「ファクト」がなかったからだ。昔でいうトップ屋、いまはフリーライターというのかもしれないが、いまや彼らは「清武幻想」というツールを手に入れた。

 かつて「読売スキャンダル」として浮かんだいくつかのネタは「使える」ようになった。確実な裏取りなしには書けなかったネタに「キヨタケ・スパイス」をふりかければ、「イケル」というわけだ。スネにたくさんの疵を持つ読売グループにしてみれば、新ネタが暴露されるたびに「清武の奴が」という「疑心」に囚われるが、それはただ「キヨタケ臭」のある「暗鬼」かもしれないのだ。(6/21/2012)

 夜半の風雨はかなりすごかった。朝方にはもう台風は通過。ウォーキングのころには雨はやみ風が少し強いていどだった。6月の台風上陸は珍しいとのこと。上空は晴れ上がってはいたが、台風一過の抜けるような青空というわけではなく、湿度は高めで地上近くはモンヤリと雲。富士は見えず。

§

 WBC、WBAミニマム級の王座統一選をテレビ観戦。WBC井岡一翔対WBA八重樫東。「初の日本人同士王座統一選」というふれこみにチャンネルを回した。

 ボクシング・テクニックの巧拙は分からない。テレビ局の宣伝に違わぬ見ていて心地よいなかなかの好試合で、ついに最後まで見てしまった。テレビのボクシング中継に引き込まれて観戦するなど、ずいぶん久しぶりのことだった。

 八重樫は29歳、WBAチャンピオンの座についたのは去年の秋のこと。井岡はまだ23歳、国内最速の7試合目でWBCチャンピオンの地位を獲得した。叔父は世界チャンピオン、父もプロボクサーという、いわば「サラブレッド」。身長、リーチ、そしてルックスも井岡がまさっている。

 予想は井岡有利。試合開始前の解説者、リングサイド・ゲスト(あの辰吉丈一郎と薬師寺保栄が来ていた)のコメントの端々にわずかにそういうニュアンスが含まれていた。試合は開始早々に八重樫の右目が腫れ上がりパンチドランカー的風貌の八重樫とサラブレッド井岡の涼しい顔のコントラストがクローズアップされる形になった。井岡は既にいまの重量で闘うのは難しいところに来ており、ウェイトアップして次の階級を狙う予定らしい。近ごろの世間の「小利口こそ、世渡りの極意」という風潮にしたがうならば、八重樫は無理にこんなマッチメイクに応ずる必要はなかったはずだ。なにかこれに応じなくてはならない事情でもあるのだろうか・・・ところが試合はそんなことを感じさせないほど、みごとなもの。

 パンチの応酬(素人にはよく見えない。ラウンドごとのスロービデオを見てはじめてそのすごさがやっと分かる)がすごく、だれるところのない真剣なファイト。井岡の優勢があるていど見え始めても、井岡は流そうとはしない。踏み込んだところで八重樫の逆襲に棒立ちになることもある。後半にさしかかるころにはもうどちらがどうということはなくなり始めた。

 結局、3人のジャッジが一致し、井岡が勝った。八重樫は両目を腫らし、相貌は変わっていた。対する井岡の顔はほとんど変わっていない。なるほど「ボクシング界の貴公子だ」と思わせる。その時、八重樫はこれでやめるんだろうなと思った。ああ、そうか、天才井岡に「オレが身につけたものを教えてやる。しっかり受け取って、ここを通過してゆけ」と、そんな気持ちでようよう手に入れた世界チャンピオンの座を賭ける戦いに応じたのではないか・・・そんな気がして、ちょっと目頭が熱くなった。もちろん、八重樫がこれからどうするかはまだなにも分からないのだけれど。(6/20/2012)

 降馬橋にさしかかるところで眼前をラバウルさんが通り過ぎた。彼は都大橋で折り返すコースのはず。生理現象でクルネのトイレに駆け込むつもりか。

 ウォーキングコースはほぼ黒目川遊歩道に固定された。体重、体脂肪率は安定。無理して坂道の上り下りを採り入れることもない。いきおいちょっと負担のかかる明薬コースには足が向かなくなった。遊歩道には同好の士が多い。明薬コースはほとんど住宅街。住宅街とはいっても、ふつうの道をピッチウォークするのは、それなりにストレスがあるからということもある。

 本邑橋から左岸を神山大橋まで行き、折り返して右岸のサイクリング共用道を本邑橋に戻る。おおむね6.5キロくらい、これを目標60分で歩く。

 所沢にいるころ利用していた空堀川の遊歩道は、右岸は通じているものの、左岸はところどころ切れていたが、こちらは両岸とも整備されているので、同じ側を歩かずにすむ。整備状況がいいからジョギング・ウォーキングなどは多め。人が多い分かえって挨拶を交わすほどになる人は少ない。識別ができない(歳のせいか)ので、ニックネームをつけるメンバーも空堀川に比べると少なくなった。

 このコースでムカシマドンナに相当するのはマダム・チェーホフ。ちょっと目を惹く。ダラダラ歩きの子犬連れが多い中、背筋がスッと通って姿勢がいいから、遠くからでも「アッ、彼女だ」とすぐに分かる。遠くからでもそれと分かるという点では、ペタペタオバタリアンもそうだが、あのジョギング・フォームには吹き出してしまう。どちらに会えるかによって、きょうの運勢までが決定的に変わってしまう・・・ああやっぱりオレは基本的に人嫌いなんだなぁと思う。

 台風4号が近づいている。いま雨が降り始めた。1時9分。

§

 AIJ投資顧問の浅川和彦社長、高橋成子会計担当、アイティーエム証券の西村秀昭社長、小菅康一取締役の4人が詐欺容疑で逮捕。事件が大々的に報ぜられてから4カ月、金融庁が強制調査を始めてから3カ月、ドッグイヤーといわれる時代にこの悠長な展開。大方、甘い汁にたかった大物・小物(年金運用のアドバイザーなどの肩書きで商売をしている厚労省関係のOB、監督官庁とはいいながら見逃していた金融庁関係者)が安全に逃げ切ったことが確認できて、ようやっとこの逮捕になったのだろう。結局、浅川以下、この4人が悪事のすべてを取り仕切ったというストーリーで一件落着か。(6/19/2012)

 ギリシャのやり直し選挙は中道右派・新民主主義党(略称:ND)が第一党(得票率29.7%)、急進左派が第二党(得票率26.9%)、中道左派・全ギリシャ社会主義運動(略称:PASOK)が第三党(得票率12.3%)と、順位のみは前回と同じになった。しかし、ともに緊縮策を支持するNDとPASOKの獲得議席数が議会過半数を上回ったため、なんとか反緊縮政策を掲げる急進左派連合を押さえ込むことができる見通しが立った。

 帰趨が判明したのは日本時間のきょう未明。ユーロ-円は16日ニューヨーク終値99円60銭が、シドニーの寄りつきで100円60銭、ドル-円は78円69銭が78円94銭と円安に振れた。豪ドルも久々に80円台に乗せた。東証は151円70銭あげて、我が家のポートフォリオはプラスに転じた。FXは安全のためすべて決済しておいたのだが、突っ張っていればもう少し小金が稼げたかもしれなかった。

 経済関係のニュースコメントはいっせいに、「一応の小康状態。しかし根本的な問題が解決していない以上、不安定な状態は続く」としている。解決していない問題というのは「ギリシャの財政再建プロセス」と「ユーロに内在する脆弱性」と言いたいのだろう。

 ギリシャの経済的混乱はオールヨーロッパあるいはユーロ圏の経済的混乱につながるのだろうか。素人にはそこのところのリクツがよく分からない。夕張が財政再建団体になりましたというのと、どう違うのだろう。同一通貨圏内で局所的に起きた返済不能懸念という点では同じような気がするのは素人故の妄想か。たしかに我が国の地方債とギリシャの国債とではデフォルト懸念という点に違いはあるのかもしれないが、よって来たるところをたどれば、地方債までを格付けによって振り回そうという不逞の輩がいるかいないかの違いに過ぎない。

 だいたい、ギリシャの経済規模を考慮すれば、その混乱がオールヨーロッパの経済的混乱につながるというのは「尻尾が胴体を振り回す」ような話。もっとも「尻尾が胴体を振り回し」ているのは現在の「金融経済システム」そのもの。

 いまや実態経済には獄限られた部分しか貢献していない「金融経済」という「尻尾」が右から左、左から右にふれるたびに「実態経済」という「胴体」が振り回されたり、大やけどを負ったりしている。バカな話だ。

 ニュース解説者はしたり顔をして「ギリシャという遠い国の経済状況が我が国経済にも他人事とは言えない影響を与える、それがグローバル経済なのです」などとしゃべっている。この人はいったいどこまで分かってこういうことを言っているのか知りたくなる。「裸の王様」に登場する子どものように素朴に「ヨーロッパの片田舎ギリシャの不都合と夕張で起きた不都合の違いを説明してくれますか」と尋ねたら、いったい何人の解説者がきちんと説明できるのだろう。

 とは言いつつ、「あの買い玉をホールドしていたら、同期会旅行のカネくらいは稼げたな」などと思ったりしている。つまりリアル経済とは無縁の「賭場」に出入りして小遣い稼ぎしていること事実、呵々。(6/18/2012)

 大飯原発の再稼働が正式決定した由。ここに至るまでのプロセスを見ていると、「これぞ、ニッポン」という感じがする。

 朝刊のトップ見出しを見て、「なんとまあ正直な」、いや、「なんとまあ卑しい」と思った。早速に我が政府は「節電目標を見直し」することにしたらしい。

 卑しさはこの時代のトレンドになっている。福井を地元とする自民党の国会議員はこう言っていた「何が困るといって、カネを前提に引き受けた迷惑施設が止まっているためにカネが入らないことくらい困ることはない」。

 原発マネーは覚醒剤と同じ。一度、「服用」すると、もう、それなしにはやってゆけなくなり、中毒症状は廃人に至るまで進行する。ごく稀に断とうと考える中毒患者がいても、「売人」はこうささやくだけでよい、「お前さん、いまさら、これなしでやってゆけるのかい」。

 覚醒剤の売価が徐々につり上げられるように、原発マネーは原価消却が進むにつれて減ってゆく。そうすると、中毒患者は必ずこう言うらしい、「もっと、ちょうだい」。そこで「売人」はニヤリと笑う・・・そういう仕組みだ。原発立地自治体は原発交付金や固定資産税が細りはじめると、原発の増設を「売人」に訴えるようになる、「もっと、ちょうだい」。薬物(原発)常用者の理性は失われる。

 おおい町の時岡忍町長も、福井県の西川一誠知事も、当節はやりのバカ丁寧語でご託を並べていたが、本心は「はヤク、ちょうだい」。それでも「野田総理からのご説明」を求めたのは、万一の時の責任を逃れたいからに他ならない。まあ、数百万もの死者を出した戦争を始めた時も「無・責任のもたれ合い」、終わった時も開戦詔書に署名・捺印をしたご当人をはじめとして、政府首脳一人として責任をとらずに済ませたような国柄なのだから、「これぞ、ニッポン」と思うしかないのだろう。

 大丈夫、宝くじの特等に立て続けに当ることはない。ロシアン・ルーレットだって、回転弾倉がでかければ、めったなことは起きやしない。人生はギャンブルだよ、男は度胸だ。そのかわり、裏目に出た時は一切恨み言はなしだ。フクシマの女々しい連中のように見舞金をよこせだの、賠償しろだのは言いっこなし、運が悪かったと思って諦める、約束だぜ。前渡しのカネをもらってることを忘れるなよ。

 楽しみにしていることがある。大自然が自分を利口だと思っている人間のウラをかくために、こんどはどんなことを仕掛けてくれるのかということだ。地震と津波以外のどんな趣向を用意して、小利口な人間を嘲笑してくれるか。ワクワクする。若狭湾の原発銀座あたりで起きてくれれば、じっくり腰を落ち着けてみることができる。できれば、死ぬまでに「何百年に一度」の大スペクタルショーを見たいものだ。

 フクシマは津波だった。大飯は、どうだろう、山津波なんていうのも意外性があっていいかもしれない。(6/17/2012)

 ギリシャのやり直し選挙はあした。既にギリシャの破綻は明らかであり、国債のデフォルト処理とその影響も織り込み済みだとはいえ、どのような場合でも「心理的影響」を見切ることはできない。だから、日銀を含めて各国の中央銀行はハリネズミのようになって身構えている。

 しかし、不思議なことにニューヨークダウの終値はここ二日にわたって上げ続けている。

 今月に入ってからの動きをトレースしてみると、1日に274ドル88セント下げた後、4日17ドル11セント小幅に下げて12,101ドル46セントの底をつけてから、先週は順調に上げ続けた。今週、週明け、142ドル97セントとかなりの下げをつけてからは、プラス162.57ドル、マイナス77.42ドル、プラス155.53ドル、プラス115.26ドル、ギリシャ不安などは眼中にないような感じ。

 エコノミストさんの説明は「ギリシャの選挙で急進左派連合が勝利すれば、ECBは量的緩和に踏み切るだろう。1日発表の失業率が市場予想より極端に悪く足踏みどころか経済の減速懸念が再燃した関係でFRBもこれに同調してQE3に踏み切る可能性が大きいとみているから」というもの。こうなるともう途中までは同じリクツで結論だけいいように変えられるように思えて嗤ってしまう。

§

 一橋市民講座、第3回。きょうのテーマは「暴力・犯罪と社会的排除」。講師は猪飼周平。

 我々の社会には「真人間」と「犯罪者」が混じり合うことなく存在しているという指摘、あるいは受刑者一人あたりの年間経費は250万から300万ほどかかるというデータなどは貴重な知見だった。

 聞きながら二冊の本のことを思い出していた。浜井浩一の「2円で刑務所、5億で執行猶予」、そして美達大和の「刑務所で死ぬということ」だ。美達の本は立読みしただけなので本棚にはない。

 浜井は法務省で保護観察所や矯正施設の業務にかかわった経験のある研究者。「2円で・・・」では、昨今、横行しているいわゆる「凶悪犯罪増加神話」のウソを実データをあげてひとつひとつ暴いたもので、この国に蔓延している思考停止状況がどれほど事態を悪化させているかを指摘していて、ほぼきょうの講義内容に添ったものだった。

 一方、「刑務所で死ぬということ」はLB級刑務所(再犯で刑期が8年以上)ならではの受刑者を、自身も2件の殺人(2人殺したのか、それ以上かは不明)を犯して服役中の著者が「観察」、「報告」した本。立読み時の印象では、ああ、こういう人たちとはできれば関わりを持ちたくないなと積極的に思わせる内容で、きょうの講義内容を「実感的」に否定するものだった。

 この美達大和について、蛇足。立読み時の記憶では、彼は「無期懲役囚の彼が殺人という重罪を償う術がない以上、自分は仮釈放を望まず、刑務所で死ぬことを選択する」というようなことを書いていた。「クレバーな犯罪者なんだな」、そういう印象が残った。

 彼は、既に、「世の中の常識」に阿った数冊の本(その一冊が「刑務所で死ぬということ」だ)と「自伝的」といわれる小説を出版している。最初の本の出版を考えた時、彼は、まず、幻冬舎の見城徹に原稿を送ったらしい。娑婆っ気満点のセンスではないか。あるていど「文名」が確立できたなら、彼は前言を翻して仮釈放申請をするのではないか、そんな気がする。(6/16/2012)

 ウォーキングから戻ると、**(家内)が「逮捕されたって」、「えっ?」、「高橋」。オウム特別手配、最後に残された高橋克也が逮捕されたというニュースだった。

 捕まってみるとこんども手配写真は何の役にも立たなかったことは誰の目にも明らか。菊地直子の供述がなければ、高橋はここしばらくは、川崎市内の建築会社に勤務し続け、疑いの眼を向けられることはなかったのではないか、そんな気がする。

 報道にはでてこないことで気になることがある。課税のユニーク性のことだ。

 高橋はさいたま市に住む別人の住民票を不正取得したという。とすれば、会社から支払われる「偽・櫻井信哉」に対する給与からは所得税が源泉徴収され、管内の税務署に納められていたはず。一方、本物の「櫻井信哉」も同様に所得税を納めているはずだが、税務署としては管轄が違えば、この重複はチェックされないのだろうか。

 それとも所得税というのは単純に所得があった者に納税義務が課せられるだけで、どこの誰であるかということは税務署としてはまったく問題としていないのだろうか。

 この逮捕劇は警視庁にとって、ちょっとした救いになった。先日、再審開始決定とともに刑の執行停止が決まったゴビンダ・プラサド・マイナリが、きょう、ネパールに向け帰国の途についたからだ。(6/15/2012)

 積ん読になっていた佐野眞一の「東電OL症候群」を読んでいる。彼の前著、「東電OL殺人事件」はゴビンダ・プラサド・マイナリ被告が一審無罪になるところで終わっているが、この本は、裁判の「その後」、つまり一審無罪判決に続く再勾留の決定から、控訴審・上告審までと、それぞれの決定・判決に関わった裁判官のうち高木俊夫と村木保裕という「裁判所の恥部」を代表する二人のプロフィールと彼らの「末路」の紹介からなる。

 読み始めてすぐになんとも名状し難いくだりにぶち当たった。事件のおさらいのために書かれたような一審の判決の申し渡し部分だ。

 裁判長は法廷内のざわめきがおさまるのを見計らって、公訴事実から読みあげていった。・・・(略)・・・「遺留されていた前記勤務証等により、直ちに被害者は渡辺泰子(昭和三十四年六月七日生まれ)・・・

 6月7日生まれだって?!・・・なんということだ、ゴビンダの再審決定が決まった日は被害者渡辺泰子の誕生日だったのだ。佐野眞一は前著でも繰返し繰返し被害者のある意味での「象徴性」を強調していたし、彼女の「視線」を時代の本質を射貫くものとも書いていた。平凡な読み手としてはその部分をいささか持て余しながら読んだものだったが、この「偶然」(まさか東京高裁が巧んでこの日を選んだわけではあるまい)には驚いた。

 閑話休題。おとといの朝刊にこんな記事が載っていた。

見出し:「警察に仕事紹介された」東電社員殺害、元被告の同居人証言

 東京電力女性社員殺害事件で再審開始決定を受けたゴビンダ・プラサド・マイナリ元被告(45)とかつて同居していたネパール人男性が朝日新聞の取材に応じ、「警察はゴビンダさんの人生を台無しにしたことを謝らなければならない」と語った。さらに事件当時、自らも警察から暴行を受けたと証言した。
 現在は米国で暮らすリラ・バハドゥル・ラヤさん(38)。1997年3月の事件当時、現場となった東京都渋谷区のアパートの隣のビルで、マイナリさんら4人と同居していた。
 マイナリさんが同月23日に出入国管理法違反(不法残留)容疑で逮捕された後、ラヤさんも連日、警視庁から事情を聴かれた。
 事件があったのは3月8日の夜。現場は空き部屋だったため、警察は「室内に入れたのはかぎを持っていた人物」とみていた。マイナリさんは、事件前に管理人からかぎを借りていた。
 ラヤさんによると、「ゴビンダさんに頼まれ、私がかぎを6日に返した」と説明したが、「返したのはゴビンダだ。(事件後の)10日だろう」と何度も迫られた。首をつかまれ、腹を殴られたこともあったという。恐怖心から警察の調書に署名した。「拷問だった。彼らは『ガイジン』である私の話を聞こうとしなかった」と振り返る。
 聴取後には、不法残留だったのに警察から都内の消費者金融会社の仕事をあっせんされたという。「1カ月働き、約30万円の給料をもらった。『ネパール人仲間にも誰にも会うな』と警察に言われた」と話す。
 2000年12月の逆転有罪判決は「6日に返した」とのラヤさんの説明について「信用できない」とした。
 再審開始が認められたことについて、ラヤさんは「本当に良かった。ネパールの家族のため懸命に働いていた彼が、事件を起こすわけがないと思っていた」と話す。
 捜査にかかわった警視庁関係者の一人は取材に「取り調べの際の暴力も仕事のあっせんもなかったと認識している。元被告から頼まれ、口裏合わせをしていたと、こちらはみていた」と話している。(根岸拓朗)

6月14日・朝刊・社会面

 リラ・バハトゥル・ラヤは「東電OL殺人事件」にも出てくる。この新聞記事に出てくる「警察による偽証の強要と暴行」について、リラはカトマンズまで取材に訪れた佐野に語っている。暴行の直接の証拠はない。しかし、リラは暴行後に係官が連れていった飯田橋の警察病院の診察券をもっていた。

 不法残留にもかかわらず、警察が斡旋したサラ金会社「トップリース」についても語った。佐野は帰国後にその存在を確認している。「トップリース」の営業実態を調べるために、佐野が差し向けたスタッフとこのサラ金とのやり取りはちょっとしたコメディーだ。「トップリース」なる会社は「道行く男をつかまえてでも金を貸そうとするサラ金が、必死で金を貸さないと抵抗する」世にも珍妙なサラ金だったようだ。そしてこのくだりが「新潮45」に掲載されるや、「トップリース」という会社は忽然と消えてしまった。警察筋が関わった会社としては世間一般のサラ金のようなあこぎな商売はできなかった・・・というのが、頑としてカネを貸さなかった理由と解釈すれば、これはこれなりに腑に落ちない話でもない、呵々。

 おとといの朝刊の記事によれば、警視庁関係者は「取り調べの際の暴力も仕事のあっせんもなかったと認識している」そうだが、不法残留のガイジンが飯田橋の警察病院の診察券をもっているという事実は、どのように抗弁しても、警察がそのガイジンを特別に取り扱わねばならない事情があったことを証明している。しかも渋谷署に近い一般病院に行かせるわけにはいかなかったという「特段の事情」があったことをうかがわせる以上、おのずから渋谷署での「取り調べ」に暴行があったことが強く「推認」(ミスター推認裁判官ならこう判ずるだろう)される。そういう判断ができないようなら、この警視庁関係者は捜査の第一線には向かないほどのおバカさんということになろう。ムダな公務員を削減することが大声で主張されている。まず、このいささか無能な「お方」あたりからリストラ対象にしたらいかがか。(6/14/2012)

 理屈もなければ、信念もない。矜恃もなければ、廉恥心もない。自分をドジョウにたとえたのは人間としての誇りを持ちあわせていないという「告白」だったのだと、いまにして思い当たった。

 政権交代によって、こんな人物がトップになると思っていたわけではないから、民主党に投票したことを迂闊だったと悔やむこともできない。

 貧乏人をコケにするやり方、札束で横面を張れば人は転ぶものと決めつける政治手法、あげくの果ては世の中のすべては自己責任と冷たく切り捨てる・・・何から何まで自民党が嫌いだったから、自民党以外であればどこでもよかった。ただ公明党と共産党には独善性がベッタリと張りついているし、社民党は卑弱で頼りにならない。みんなの党などは自民党の亜流で論外。亜流といえば、民主党にも自民党的な匂いがプンプンしていて好きにはなれなかったが、まあ、とりあえず多少のワルでなければ権力は維持できないのだから仕方がないか。これが民主党に投票した理由だ。

 もし、緑の党のような政党があれば、それに投票したいというのが正直なところだが、残念なことに緑の党やそれに類した政党はこの国にはない。不毛の選択は承知の上で民主党に入れたのだ。

 小沢は好きにはなれないが、やはりあれくらいのアクがなければ、いざというとき、「奴は敵だ、敵を殺せ」という政治の原理にしたがった戦いはできない。民主党の中で唯一、霞が関と渡り合えたはずの小沢がつまらぬことに躓いて(あれくらいの躓きの石を持たぬ政治家はいまの日本にはいない)活動を封じられたのが民主党の不幸だった。

 鳩山は信じられないほど理想を現実化するすべを持ちあわせていなかった。そして菅は権力の海を遊泳することにばかり神経を使って自らの軸を忘れてしまった。野田は菅とまったく同じだ。たったひとつ違うのは、菅は原発事故で横っ面を張られ「正気」を取り戻したが、野田には取り戻すべき自らの「正気」というものがまったくなかったことだ。霞が関ムラの催眠術にかかったまま。かくして民主党政権は骨の髄から卑しくなった自民党政権の末期よりもさらに卑しく醜い政権に成り果てた。

 それにしても野田はバカな男だ。消費増税を通すだけのことなら自民党は絶対に歩み寄るに決まっている。自民党は政権奪還を考えている。猫の首の鈴はつけられた状態で政権を受け取る方がいいに決まっている。民主党政権であるうちに消費増税が決まっているのがベスト。政権の座についた時にその基盤を揺るがす火種が少なくて済む。お願いをしてでも野田内閣に消費税率アップをクリアしてもらいたい。これが自民党のホンネだ。消費税問題は決着、マニフェスト放棄という全面降伏した状態で、政権を渡してくれればベスト・・・と、ここまで考えると、野田がそれくらいのことも分からない大バカなのか、一件落着の後は自民党に迎えられる寝返り分子なのか、よく分からなくなってきた。(6/13/2012)

 なぜかは分からないが常識的にはこうだということが世の中にいろいろある。「判決は求刑より軽い」というのもそういう常識(あるいは相場といった方がいいのかもしれないが)にある。

 ところが大阪地裁が求刑を上回る判決を下したニュースが朝刊に載っていた。

 大阪府警の警察官ら3人が、証拠品を捏造したとして証拠隠滅罪に問われた事件の判決が11日、大阪地裁であった。島田一裁判長は「近年、捜査機関の証拠偽造は社会問題となっており、この種の犯罪を防止する必要性は高い」と指摘。罰金20万円を求刑された元八尾署警部補の久保優二被告(54)=依願退職=を懲役3カ月執行猶予2年とするなど、全員に求刑を上回る判決を言い渡した。
 罰金の求刑に、懲役刑が言い渡されるのは異例だ。この事件では大阪区検が3人を略式起訴したが、大阪簡裁が地裁での公開裁判を決定。検察側は判決と合わせ、2度にわたって裁判所から「身内に甘い」対応を問われた形となった。
 久保被告の部下で、ともに巡査部長で起訴休職中の三好貴幸(37)、田口洋平(33)の両被告には、それぞれ罰金20万円(求刑罰金10万円)を言い渡した。
 判決によると、3人は昨年10月、事件の証拠の木刀をなくしたと思い込み、署の道場にあった別の木刀を証拠品に捏造。3人が飲酒後に同僚らと電車で騒いだことが内部で問題となっていたことから、久保被告が「紛失まで発覚したら職を追われる」と発案した。
 判決は「捜査機関への信頼に及ぼした影響は小さくない」と指摘。大阪地検特捜部の証拠改ざん事件など証拠に絡む不祥事が相次ぐ中、厳しい刑を選択したとみられる。判決を受け、府警の渡壁一次監察室長は「真摯に受け止め、再発防止に努めたい」、大阪地検の大島忠郁次席検事は「判決を精査し、適切に対応する」との談話を出した。(青田貴光)

 略式起訴を裁判に、そして罰金刑を執行猶予つきとはいえ懲役にされたのだから、検察は二重三重に恥をかいたわけだ。このくらいの恥をかかせても警察と検察の癒着は改められないだろう。

 そういえば、先日の内閣改造で更迭理由がよく分からない(一応、国会内で競馬サイトを閲覧していたという「罪状」があげられていたが)のに馘首になった小川敏夫前法相が、小沢事件において虚偽の捜査報告書を作成した田代政弘検事の「犯罪」が不起訴処分にされる見通しであることに対し「指揮権発動」を考え、野田首相に了承を求めて拒否されていたというニュースがあった。

 「指揮権発動」をタブー視するマスコミはいっせいに小川の不見識を批判したが、彼の真意についてきちんと把握することなく「反応」したに過ぎなかったようだ。そのことは7日の朝日朝刊に掲載された小川法相との一問一答を読めば分かる。

――指揮権発動を決意したいきさつは。
「石川知裕衆院議員を取り調べた田代政弘検事が実際になかったやりとりを捜査報告書に記載し、東京地裁が2月、調書の証拠不採用を決定した。『取り調べに不当な方法があった』と言い切ったのは深刻だと思った。検察が田代氏の個人的な不注意の問題にして組織的問題を幕引きしようとしている。国民の理解を得る対応をしないといけないと思った」
――検察はまだ不起訴処分を決めていません。
「法務省の事務方から田代氏の『記憶が混同した』との理由で不起訴の方向と報告を受けた。現場の検事とは一切会っていない」
――不起訴処分の場合、その是非をチェックする検察審査会があります。審査会に判断を委ねればいいのではないですか。
検察が無罪になる証拠ばかり集めているのに、検察審査会に行ってどうなるのか。あまりにも形式的な議論だ
――小沢一郎元代表グループらの発動を求める声を受けての判断ですか。
「小沢氏のため、ということはまったくない。小沢氏や石川氏、与党の幹部とも会ってないし、相談もしていない」
――想定していた指揮権発動の具体的中身は。
「発動できなかったので詳しい内容は言えないが、『起訴をしろ』という発動なんかしない。検察は無罪の証拠しか集めていないから(起訴しても)無罪になり、大変な人権問題で私も議員を辞めないといけなくなる。検事総長に会って『やることやったうえで判断しなさい』と言うことを考えていた
――5月11日に野田首相に相談した時は反対されたのですか。
「首相に潰されたという認識は持っていない。わずか10分ぐらいの話で、この話をしたのは何分かしかない。首相もそんな認識はないと思う。指揮権なんて言葉を私が言い出すとは予想もしてなかっただろう。その場では判断いただかなかったということだ」
――首相と次に会う予定は立てていたのですか。
「首相に(面会を)申し入れて6月5日に会うことになっていた。5月下旬に法務省から中間報告があり、指揮権発動の腹を決めた。万が一、首相に反対されても法相の専権事項でやると覚悟していた」
――内閣改造では再任されませんでした。
あれよあれよとクビになっちゃった。交代する理由はないと思う。あの時、首相が発動にOKしてくれればという思いはある
――50年以上発動されない重い判断です。政治介入との批判にはどう答えますか。
「政治は関係ない。検察の信頼回復のため、公表して問題提起をしたかった。国民の期待を裏切る検察の間違った捜査を正すためだ。国民は必ず評価してくれると確信している」(聞き手・高橋福子)

 この記事には「指揮権発動」についての注釈がついている。「1954年の造船疑獄事件で犬養健法相が発動。自由党の佐藤栄作幹事長が逮捕を免れ、吉田内閣が大きな批判を浴びて犬養氏は辞任した」という説明がついているが、最近の研究では無理筋を追いかけた検察捜査が行き詰まり、メンツを保ちつつ撤退を図るために吉田政権と検察首脳(佐藤藤佐検事総長・馬場義続検事正)が「談合」したものだということがほぼ明らかにされている渡邉文幸「指揮権発動」は必読書)。この「談合」は完璧に行われた。以来、「指揮権」は本来検察の独走をチェックするための仕組みであるはずが、「造船疑獄」における「指揮権発動」という「伝説」のために「抜いてはならない伝家の宝刀」のようにイメージされてしまった。

 ところで質問に出てくる「小沢一郎元代表グループらの発動を求める声」というのは本当のことか。どうも朝日を含めてマスコミはすべてのことを小沢がらみで判断し勝手に想像をたくましくして「発情」する傾向があるのではないか。

 それにしても野田首相のていたらくはなんだ。ノダメは霞が関(この場合は法務官僚)に弓を引くようなことは恐れ多いとでも思っているのか。いずれにしても、この背骨のない軟体動物のようなバカ首相のために「身内に甘い」検察の性根を叩きなおす可能性は摘まれてしまったというわけだ。(6/12/2012)

 午後、**(家内)と国立新美術館でエルミタージュ美術館展を観る。

 ティツィアーノの「祝福するキリスト」からデュフィの「ドーヴィル港のヨット」まで89点を16世紀から20世紀にいたる「西洋絵画の400年」として展示。

 モネの「霧のウォータールー橋」、マチスの「赤い部屋」などがあった。「ウォータールー橋」は同じ時期の「国会議事堂」に似た感じの絵で、「チャリング・クロス橋」などと並んで好きな絵。

 それなりのボリュームはあるものの、悪くいえば「軽くいなされた」のではないかという気がしないでもない内容だった。収蔵品ゼロの貸し会場「美術館」+バカ新聞社・バカテレビ局という最悪の組合せがこんな入場料(1,300円)の割に中味のうすいテンプラ美術展を生むのだ。

 ハコモノを作って「国立新美術館」の名前をつける文化度の低さは、「ナントカ美術館展」を開催するたびに嗤われていることだろう。ああ恥ずかしい。ちなみに頒布された図録の英語表記は「The National Art Center, Tokyo」となっている。さすがに外国向けには「わたしどもは美術館ではございません」と告白しているわけだ。

 帰りは別行動にして紀伊國屋にまわった。

 先日の書評で「腑に落ちる」と誉められていた水野和夫の「世界経済の大潮流」読売社会部清武班による「会長はなぜ自殺したか」などを買う。

 あの清武英利が読売の社会部次長を務め、一連の金融不祥事のドキュメンタリーをものしていたとは知らなかった。もともとは読売の紙面に載ったものを読売がハードカバーとして刊行し、その後、新潮文庫に入っていたようだ。去年から七ツ森書館が刊行しているノンフィクション・シリーズ「人間」の最新刊として収められた。

 清武が「本シリーズにあたってのあとがき」を書いている。その末尾を立読みし、生きているこの世の因果とはこのようなものかと思った。

 サラリーマンの終点は取締役ではない。まして記者は地位が上がれば上がるほど、そのポストをいつでも捨てるくらいの覚悟がなければ他人を厳しく批判すべきではない。覚悟をもたない記者の筆はたいてい、弱者に強く向かうからだ。
 あの接待社会の時代にもきっと、「餌づけ」を拒んで生きた人たちがいたはずだ。残念ながら、その記述はこの本にもない。そのような人々を社会の片隅から見つけ出したい。

 清武もいったんは「餌づけ」されたのだろう。「清武の乱」が伝えられるとおりのことであったのかどうかは分からない。なにが清武に「覚悟」を思い出させ、その境遇を捨てさせたのかは分からない。しかし、まるきり何もないところから生まれたものではなかったのだなという気がして、すぐには読まないだろうと思いつつも買ってしまった。(6/11/2012)

 オウムの菊地直子が逮捕されてから一週間経つ。オウムニュースの中心は三人目、最後の特別手配者・高橋克也になってしまったようだ。

 書くつもりでいて他のニュースにとり紛れてしまった件。「走る爆弾娘」逮捕のいきさつに、軽い違和感と疑問があるということ。

 17年は長い。菊地も高橋も、あの手配写真で「ピンと来る」ことはないだろう。菊地逮捕のニュースでは、3日の午後、警視庁に男が訪れ、「菊地容疑者に似た女が男と相模原市緑区城山の一戸建てに住んでいる」という情報をもたらしたことが逮捕につながったということだった。現在の菊地直子を見て「菊地容疑者と似ている」と判断することはかなり難しいように思う。賞金1,000万円の魅力はあるにしても、わざわざ桜田門まで出かけたのは、よほど自分の「眼力」に自信があってのことだったろう。すごい人もいるものだ。

 劇場化している現在のマスメディアが、この殊勲賞ものの市民に一切スポットライトを浴びせていないのもまた不思議といえば不思議な話。宝くじの当選者の身元を隠すのと同じような「配慮」が働いているのだろうか。下品でならすテレビ各局の「ワイドショー」が、申し合わせたように紳士的な姿勢を示すのは不自然に思えてならぬ。(菊地と同居していた男の知人で、通報に際しては菊地を含む3人で話し合いをしたという報道もあったが、なぜ過去の続報が一切ない)

 一連のオウム裁判が終結したのは去年の暮れのことだった。サリン製造に当った遠藤誠一の上告を棄却したのが11月21日、遠藤が行った判決訂正の申し立てを棄却したのが12月12日。オウムに関する世間的な関心は13人の死刑囚に対する刑の執行とオウムの後継教団に移ったと思われた。そのトレンドに変化をもたらしたのが平田信の出頭だった。そして今回の菊地直子の逮捕。

 一連の長いオウム裁判が最終決着するやいなや、その期間、逃亡を続けていた手配犯が出頭、あるいは脅威の人相看破術を発揮した市民によって逮捕されるに至ったことを「世の中得てしてこういうものだ」と見るか、「何か我々には見えない事情の結果だ」と見るか・・・ともかくオウムにはナゾが多い。(6/10/2012)

 関東甲信が梅雨入り。

 けさの「赤be」、「うたの旅人」は「遠くで汽笛を聞きながら」。懐かしい曲だ。いい曲だとも思う。嫌いな曲ではない。でも懐かしいから好きな曲か、心地よくて好きな曲かというとそういう曲でもない。

悩みつづけた日々が/まるで嘘のように
忘れられる時が/来るまで心を閉じたまま
暮らしてゆこう・・・

 悩みなら忘れられる時が来るだろうが、痛みはそうはゆかない。心を閉じていたら閉じていたで、開いていたら開いていたで、日々の暮らしの節々に「オレはここにいるぞ」と知らせてくる。それが二日酔いでジンジンする頭の芯のしびれのように心地よく変わる、そんな嘘のような時が来れば最高なのだが。(6/9/2012)

 きのうの夜のテレビは、見世物小屋だった。出し物は三つ。まず「東電OL殺人事件」であり、「大飯原発再稼働決断」、そして「福島全面撤退否定」。精神の奇形児が何人か晒し者になっていた。

 ゴビンダ・プラサド・マイナリを逮捕した当時の警視庁捜査1課長だった平田富彦がインタビューを受けていた。敗軍の将というのは難しい。語ることを拒否するというのが、安易といえば安易だが、処世としては最良だろう。最悪は一切の事実を無視して自己弁護することだ。平田は最悪を選択した。
「犯人はゴビンダだ。疑う余地などない」。最悪だったのは言葉よりも表情だった。彼は薄ら笑いを浮かべながら語った。平田に論理的に考える能力が残されているとしたら、自分の完敗は分かっているであろうに・・・。

 どのように論理を組み立てようとも、被害者の体内に残っていた精液、現場の部屋に落ちていた体毛、このふたつのDNA型が一致したこと、そしてそれはゴビンダのDNA型でも、当日、被害者が現場で売春を行う前に渋谷で行った売春の相手(この人物の血液型と精液・体毛により判明した血液型が一致していたのでDNA鑑定を行わなかったというのが警察・検察のいいわけになっている)のDNA型でもなかったという事実が明らかになってしまった以上、捜査上の欠くべからざるポイントを確認し損ねたという事実からは逃げられない。つまり、捜査責任者であった平田の捜査指揮に致命的な欠陥があったために、まず検察を、そして裁判を誤らせたということ。何より罪が重いのは、平田の致命的な過失により、真犯人は逃げおおせることができたということだ。照れ笑いをしながら「犯人はゴビンダだ。疑う余地などない」という平田を見て、真犯人は大嗤いをしたことだろう、「バカな捜査一課長もいたものだよ」と。

 ドジョウ宰相が夕方の記者会見で大飯原発の運転開始を政治決断した旨、語った。いまのところ、この男は「敗軍の将」にはなっていない。しかし野田佳彦が敗軍の将になることはほぼ間違いがないだろう。それはちょうど開戦時には当然のことながら敗軍の将ではなかった東條英機が数年を経ずして敗軍の将になったことに似るに違いないからだ。福島にさえ備えられていた免震重要棟もなく、津波への備えも無いに等しく、非常用電源の容量は足りず、電源車の駐車スペースも足りず、周辺道路状況は劣悪、・・・ないないづくしで何もないにもかかわらず、「福島を襲ったような地震と津波があっても事故を防止できる対策と体制が整った」とはよくも言えたものだ。「必勝の心構えがあれば、必ずや英米をも撃滅できる」として戦争に突っ込んでいった東條英機と何も違わない。

 野田や原子力村の詐欺師どもは「宝くじの一等が続けて当ることはない」と高をくくっているのだろうが、我々人間の足元をすくうのは「かつてあったこと(この場合は地震と津波)」ばかりではない。「想定外」があっても引き受けられるリスクにとどめておくのが一国の宰相の最低限の心構えでなくてはならぬはずだが、彼はそのリスクについてほとんど何も知らないか、考えが及ばないのだろう。

 そして「福島全面撤退否定」について。既に確定している「敗軍の将」は清水正孝東京電力前社長。将来の「敗軍の将」候補が黒川清事故調査委員会委員長。

 「敗軍の将は兵を語らず」と思い定めていても、査問の場に立てば語らなくてはならぬこともあろう。しかし、「全力を尽くさなかったわけではありません、微力は尽くしたのです」などと釈明するような指揮官では最初から結果は見えていたような気がする。そもそも、「『撤退』とは言っていません、『待避』と言いました」などという話、なにやら「『退却』などしていない、『転進』したのだ」とふんぞり返った大日本帝国陸海軍の言葉遣いを連想させて哀れを誘いはしまいか。それにしても、この男、肝心なことになると「記憶がよみがえらない」という。記憶力が悪くて東電の社長が務まるわけはないのだから、根が狡猾で卑怯な男なのだろう。東京電力という会社が狡猾で卑怯であるのも頷ける。

 あちこちからの批判に耐えきれず、やっと清水の参考人招致をすることにした委員長の黒川だが、清水の証言だけで「官邸と東電の相互の信頼がない中で生じたコミュニケーションミスだ」と断ずるのはいささか軽率、あるいは異常。この男も、軽率で医学界のボスが務まるわけはないとしたら、一方的に東電の肩をもちたい特別の事情があるのかもしれぬ。

 せめて、菅直人、枝野幸男、武黒一郎、清水正孝を証人喚問して、それぞれの証言内容を闘わせるくらいのことをして判断すべきではないか。当然、ウソを言った奴の刑事責任は問うことを前提にするのだ。立行司は小刀を帯びていた。差し違いをしたときには切腹する決意を表わしたものと聞いたことがある。黒川にはそういう気迫はいささかも感じられない。「なあなあ」で落とし処に落とすのだろうという「ぬるさ」ばかりがちらついている。

 見世物になっていたのは「論理、そっちのけ」の無惨な奇形児たち。(6/8/2012)

 ウォーキングから戻ってJAFを呼んだ。去年の冬はずいぶんてこずったが、暖かい季節のバッテリーあがりだったせいか、すぐに始動。システムの再立ち上げにも「警告」は出なかった。そのままエンジンを切らずにミニドライブ。小金井から所沢のいつものスタンド。ここは申し訳なくなるくらいに丁寧に洗車してくれるので、多少遠くとも必ずここに来る。シャンプー洗車をしてもらって、愛泉道院へまわり、帰宅5時。二日連続で昼間の読書はゼロ。

§

 東電OL殺害事件の再審請求に対し東京高裁は再審を認めるとともに刑の執行停止する決定を弁護側に伝えた由。検察側は即事に異議申し立てを東京高裁第5刑事部(再審決定を行ったのは第4刑事部)に対し行い、あわせて職権による身柄の拘束を求めたが裁判所の同意が得られなかったとのこと。

 再審の開始のみならず、同時に刑の執行停止を決定したことから考えると、今回の請求の根拠となったDNA鑑定結果がゴビンダ受刑者の無実をほとんど「証明」してしまったと考えてよいだろう。

 地検担当がなおも身柄拘束にこだわるという醜態を晒しているさなか、高検はあっさり釈放手続きをとり身柄は入国管理局に移送(入管法違反の有罪は確定しているため)された。これで近日中にネパールに強制送還される見通しになったと夜のニュースは伝えている。検察首脳としては、仮に再審が開始され杜撰な捜査と起訴の実態が明らかになっても、冤罪を憤る主役の不在により大恥を晒さずにすんだと胸をなで下ろしているのかもしれぬ。

 この事件は警察の捜査・検察の起訴についてだけではなく、裁判所の手続き、あるいは関わった裁判官たちの質の悪さまで、まあ、じつにいろいろあった。捜査・起訴が杜撰だったことは既に佐野眞一の「東電OL殺人事件」に詳述されている。それ以上に醜態を晒したのは裁判所であり、関わった裁判官たちだった。まともだったのは「立証不十分」を理由に無罪判決を出した一審くらいのものだった。

 一審無罪に基づき釈放されるはずのゴビンダに対し、検察は勾留継続を主張、結局、東京高裁はこれを認めた。このときの担当裁判官だった村木保裕はのちに児童買春により有罪となり、弾劾裁判によって罷免された。買春事件の判決を下した裁判官は村木に向かい、「単なるスケベおやじ」と評した。

 さらに裁判所の醜態は続いた。最高裁までもが「下級裁判所の判決は上級裁判所の疑念の前には無意味である」という、およそ法治国家とは思えぬ珍無類の決定を下したからだ。秋葉原殺傷事件の控訴審(4日)のニュースで知ったのだが、控訴審では被告に出廷の義務はないという。つまり出国を理由に無罪判決の出た被告の勾留を続ける根拠は薄弱だということ。

 また、逆転有罪判決を下した二審の裁判長は、足利事件控訴審の裁判長、狭山事件第二次再審請求の裁判長も務めたあの「高木俊夫裁判官」だった。有名な冤罪事件二件を「みごとに」裁いてみせた高木の「技量」については特筆しておくべきかもしれぬ。自らの仕事の無惨な結果を見ずに既にこの世を去ったのはよほど運がよかったということになろう。陋巷の民としては、せめて高木が浄玻璃の鏡の前で脂汗を流しているところを想像したいものだ。(6/7/2012)

 たいした降りではないのだが、朝から雨。久しぶりに「相棒」を見ながらステップボード。昼前に雨が上がったのでウォーキングで3,000歩ほど補った。

 気温が上がらないからだろう、ムシムシした感じはない。昼食どきということもあってか、遊歩道にはほとんど人を見かけなかった。

 家に戻ってシャワーを浴びる前に洗車。2ヶ月半乗らないうちにまたバッテリーがあがってしまった。JAFを呼ぶにしても汚れが激しく少し恥ずかしいので。

 鳥の糞やら巣作りの木ぎれなどがワイパーやすき間に入っている。向かいが畑だった所沢より、こちらの方が車の汚れがひどい。スズメ、鳩、カラス、鳥が多いためらしい。高圧洗浄機を使う。このままスタンドに持ち込んだら、また、大変でしたとこぼされただろう。

 ついでに書斎の**さん側の窓も圧力水を吹きかけて洗った。一仕事を終えいつもよりは2時間遅い昼食をとって二階に上がったとたん猛烈な睡魔。なれない「労働」のせいだ。携帯電話にアラームをセットして30分昼寝。起きるともう4時前。ほとんど何もしない(懸案の洗車と窓・網戸掃除をやったわけだが)うちに小半日が終わってしまった。

 こうなると少しばかり「自責の念」が頭をもたげる。まあ、世のために働くことはなく、本を読み日録を書いて、それで終わりという一日と、どこが違うということもないのだけれど。(6/6/2012)

 録画したままになっていた「未解決事件file2オウム真理教」を見た。同期会旅行のあった先々週26・27日の両日にわたってNHK特集としてオンエアされたもの。

 見終わっての印象は「ちっとも『未解決事件』じゃないじゃないか」というものだった。番組のふれこみは「社会に衝撃を与え、多くのナゾを残した事件を徹底検証。未来への教訓を探る」ということになっている。しかしこの番組は完全に「看板に偽りあり」だ。

 一連のオウム真理教事件にはまったく手つかずになっている「多くのナゾ」がある。

 たとえば「國松孝次警察庁長官狙撃事件」。これはおととし3月30日時効になってしまった。その日、警視庁が開いた記者会見はじつに無様なものだった。その会見で警視庁は「特定することはできなかったが、犯人はオウム教団元幹部および元信者8名の中にいる」とした。「狙撃事件」そのものもナゾだが、かくも奇っ怪な「敗北宣言」をした警察の姿勢もまたナゾだった。

 衆目監視の中で発生した「村井秀夫刺殺事件」。たしかに下手人(山口組系羽根組構成員の徐裕行)は逮捕されたが、教団ナンバー2ともナンバー3とも目されていたオウム幹部を殺害する動機と背後関係は、一部マスコミが騒いだだけで、公式にはなにも解明されていない。なにより最重要人物をあっさりと殺されてしまうということ自体(発生は95年4月23日。つまり上九一色村の総本部を一斉捜査した1カ月後)が信じられぬ警察側の大失態であった。村井が教団内でどのような働きをしていたかもナゾであると同時に、國松狙撃事件同様、これほど「ぬるい捜査」がなされた理由もまたナゾだ。

 誰の目にも見えるこうしたナゾ以上に大きなナゾもある。

 麻原彰晃が同好会レベルのヨガ道場を始めたのが84年。当初たった15人でスタートした「オウム神仙の会」は「わずか一年で千五百人に急増し」(一橋文哉「オウム帝国の正体」による)、2年と経たぬうちに本部を世田谷に移転、87年には「オウム真理教」と改称、ニューヨークに本部を作り、88年には「静岡県富士宮市に約千七百五十平方メートルの土地を購入」、89年には「上九一色村に七千平方メートルの土地を買い」、東京都からは宗教法人として認証されるに至る。

 一介の鍼灸師、それも怪しげな漢方薬の販売により薬事法違反で摘発された(82年)ていどの男が、数年足らずで億単位の資金を獲得し、数千人を超える信者を擁する宗教法人を組織したというのも、ナゾといえば大きなナゾだろう。また、一時期マスコミを賑わしたロシアコネクションを利用して、入手ないしは入手しようとした軍用ヘリコプター、戦車、大量の自動小銃などは、結局、どうなったのだろう。そもそもオウムの海外展開と一連の軍事化との関係もナゾのままだ。

 一橋文哉の「オウム帝国の正体」という本は必ずしも信頼のおける本ではないが、その中にこんな部分がある。

 また、政治家の中にも、オウム事件に対する政府や捜査当局の取り組み方に疑問を抱いている人たちがいた。九五年六月、超党派の国会議員二十六人で結成した「オウム問題を考える議員の会」のメンバーである。この会は「オウム真理教事件の徹底的な真相究明に加え、この事件が投げかけたさまざまな問題を取り上げ、政治の場で追及していこう」という有志が集まってできたグループで、霊感商法による被害者救済に当たってきた弁護士出身の議員や、宗教問題や教育問題に取り組んできた議員たちが参加。九五年十月には、当時の村山首相に対し、「オウム事件の解決に広い視野で取り組み、特に新法の制定が必要である」と申し入れたり、海外の専門家らを招いてヒヤリングを行うなどの活動を行っている。
・・・(中略)・・・
 同会が編纂した本の中の議員同士の座談会でも、石井はこう言い切っている。
 《オウム真理教は、宗教法人制度をうまく利用してアンダーグラウンドで儲けようという要素を非常に強くもっていたのだと思います。それが暴力団と結びつき、国際的に密貿易をしたり、薬物を流したりしたのはいったい、何のためだったのか。不可解なことを不可解なままお蔵入りさせようとしているとしか思えないのです(中略)警察はなぜオウムの国際的活動について、あるいは、さまざまな関係人脈について調査や事情聴取をしないのか。政府はどうして、オウム事件について何もしないのか。これらはすべて、単に麻原の異常さや宗教的理由などでは説明がつかないのです……》

 ここで「石井」というのは「議員の会」の代表世話人である石井紘基のこと。石井は02年に山口組系右翼団体代表の伊藤白水に刺殺されてしまうことを考え合わせると、オウム追求の件も彼の殺害の遠因だったのではないかという気さえしてくる。(一橋の「オウム帝国の正体」は2000年の刊行)

 NHKがこうしたところまで「徹底検証」するはずがないことは承知しているが、麻原の残した700本の説法のテープを根拠に「かなり早い時期から麻原は無差別テロを考えていた」、あるいは「警察には何度かオウムを摘発する機会があったが、部内に宗教法人であることを理由に慎重姿勢をとるべきという意見が出て結果的にああなってしまった」ていどの指摘で、いろいろのナゾが存在することにすら一切ふれようとしなかったのは、残念を通り越して、どこか事件そのものが秘めていた問題を隠蔽する作為さえ感じさせた。(上祐史浩を登場させ番組のシナリオに沿った部分だけの証言を使ったのはいかがなものか)

 いずれにしても、放送の一週間後に特別手配犯の菊地直子が逮捕されるとは、あまりにタイムリーで、いささか気持ちが悪い思いがするほどだ。・・・気持ちが悪いのはじつはそれだけではないのだが、それについてはあしたにでも書くことにする。(6/5/2012)

 あさからオウム真理教事件関連で特別手配されていた菊地直子逮捕のニュースでもちきり。オウム特別手配の3人のうち、去年の大みそかに警視庁に出頭した平田信に続いて2人目。残るのは高橋克也のみになった。

 特別手配とはいうものの、テレビニュースが流した「おさらい」を見る限り、さほどの中心人物という印象は受けない。オウムにはもっと「ナゾ」の部分がある。その部分を解明するために不可欠の人物というわけではないように思えるからだ。

 ニュースはこれが中心になった感があるが、きょうは野田内閣の改造があった。消費税法案の可決に向けて自民党の協力を取り付けることが狙いといわれ、問責決議を受けた田中直紀防衛相と前田武志国交相の2名に加えて、先日の中国大使館1等書記官に機密文書を漏らしたのではないか(具体的にどんな機密文書なのかは報ぜられていないのだが、相手が「中国」となるともうとたんにこの国のマスコミは「発情」してしまうのが嗤える)といわれている鹿野道彦農水相、国会内で競馬サイトを見ていたとかの「容疑」がかけられている小川敏夫法相、党内事情で大臣経験者を増やしたい国民新党の自見庄三郎郵政・金融相など計5名を一気に交代させることにした。問責を受けてすぐに交代させずに1カ月以上引っ張ったのがいかなる理由による者かは分からない。単なる意地だったとすれば「お嗤い」そのもの。

 後任などどうでもいいようなものと思っていたら、なんとノダメは改造人事の「メダマ」のつもりで防衛相に森本敏を選任した。こんな人物をあてることがサプライズ人事としてマスコミ受けすると思っているのかしらね。もうノダメ民主党は自民党以下だ。こんな民主党なら消えてなくなってかまわない。

 それにしてもこのバカ宰相のセンスの悪さはどうしたことか。それほど消費税法案、自民党の協力が必要なら、なぜ、輿石東党幹事長を更迭しなかったのか。まあ、このくせ者を残してくれたことは、消費税増税に反対の立場からは多いにありがたいところだが、この「不作為」は「ナゾ」、いや、「ナゾ」というよりはただの「優柔不断」にしか見えぬが。

 それとも小沢との仲立ちをしてくれたことへの「感謝」なのか、いやいや、対小沢「密約」でも取り交わした「功労」ないしは「密約履行の保証」という意味でもあるのか。もしも、そうだとすればたいしたものだということになるが・・・そこまでのタマとは思わない方に一票。(6/4/2012)

 留守番をしていると、いろいろな電話がかかってくる。

 平日に多いのは「野村証券、所沢ですが・・・」。このあいだはなんだか分かりにくいデリバティブのようだった。「仕組債の一種ですか?」と訊くと、拍子抜けするほど素直な女性(きっと彼女自身、勧誘した商品を正確に理解していないのだろう)で「そうです」と答えた。「分かりにくいものはやりません」と言って切った。するとこんどは外国債券の案内がきた。たしかにこちらは分かりやすい。しかし一発で撃退した。「外貨預金と外国債はやりません。FXをレバレッジ1でやる方が使い勝手がいいから」。まあ、いくら何でもレバレッジ1(2くらいまで)ではないが、「FXをやっています」とは言いにくい形の利用。しかし、こういう使い方だって「あり」だ。

 「みずほ銀行、清瀬ですが・・・」というのもある。投信の買い増しの案内。これも一発回答。「いま、みずほさんに保有している投信はマイレージクラブの特典資格のためです。評価額が50万をキープできているうち、買い増しは考えません」。虫の居所の悪いときには「ネット証券ならば保有額見合いでポイントバックがあるけど、おたくにはないでしょ」などと言うこともあるが、これは言い過ぎ。

 平日・土日にかかわらないのは「なんとか黒酢」、「かんとかニンニク」などの健康食品やサプリ。それなりに丁寧な売り込みに対しては「結構です、ご苦労さま」。いちばん嫌いなのは、やけに狎々しい口調の売り込み。こいつにはできる限り事務的かつ冷たく対応して差し上げる、「いらない」、ガチャン。

 「互助会」の案内も多い。多言は無用、「けっこうです」の一言にする。

 最近、特に多いのが霊園の案内。「こんど、どこどこに・・・」、おしまいまでは聞かない。「うち、お墓あります」。ただ、すぐには切らない。こういうセールス電話にも二通りあって、「アッ、それは大変失礼いたしました」と丁寧に応ずるものと、無礼千万にも何も言わずにガチャンと切るものがある。それを確認するのが「趣味」なのだ。たしかに電話は通りすがりの勧誘に等しい。どこのなんという業者だったかなどということは憶えていない。だからといって自分から勝手に電話をしておいて、商売にならぬと分かるや挨拶もせずに切るという業者が丁寧な商売をしているとは思えない。つまりこの「ガチャン」は「わたしどもはカネのみが目当てのダメ業者でございます」と告白しているに等しい。

 稀というほどではないが、なおも「お墓はどちらの方でございますか」と尋ね返してくるところもある。「地方ですと、何かとご不便なことは・・・」。要するに改葬してはどうかということ。「自分一代で勝手にしていいこととは思っていませんから」と返しても、なお、ねばろうとする時はそのまま切る。

 通勤していたころ、電車の車内広告に英会話学校と霊園の広告の多いことに気がついた。どうやら、当節、英語が話せて、埋葬される墓があれば、よほどハッピーなようだ。(6/3/2012)

 **(家内)は還暦記念の同期会。会場は「観洋」、一泊の予定。じつに静か。

 ゆっくり時間がとれそうだと思うときに限って、予想もしなかったトラブルに見舞われる。

 確定したVISAカードの支払い明細のページを印刷しておこうと思い、「ファイル」→「印刷」をクリック。すると「プリンタをインストールする必要があります」ときた。そんなわけは・・・と思いつつ「プリンタとFAX」を見ると、あるはずのプリンタアイコンがPDFソフトプリンタアイコンともどもなくなっている。

 まず試みたのは「システムの復元」。これは空振り。ドライバの再インストールかぁと思い、エプソンのサイトからドライバをダウンロード。注意書きがあって「旧プリンタドライバ」を削除してから新たにインストールするようにとなっている。ところがインストールプログラムのリストから削除を選んでも「アンインストール可能なプリンタはありません」とのご指摘。それはその通りとダウンロードしたプログラムを実行。すると「インストール中に問題がありました。RPCサーバーを利用できません」というアラームで終了してしまう。こんなところでわけの分からないことを言われて投げ出されても困る。

 思案投げ首でいると「プリンタとコンピュータが接続されていない」のではないかとのご指摘。さてはUSBポートの不良かと思い、接続口を変えてみてリトライ。結果は同じ。もうこうなると素人には何がなにやら分からない。「RPCサーバー」で検索をかけ、あれこれ読みまくる。

 「ファイヤーウォールの設定」から果ては「NetBIOS関連」まで。さんざんウロウロさせられて、やっと「プリンタスプーラ」にたどり着いた。

 「コントロールパネル」→「管理ツール」→「サービス」のリスト中の「Print Spooler」を見ると、スタートアップ時の指定は「手動」、状態は「空白」。右クリックリストから「プロパティ」を選択し、「自動」に変更、「開始」をクリックして、再インストール。こんどはすんなり完了。

 「プリンタとFAX」を確認すると、「PX-G930」、「Adobe PDF」のアイコンが復活。その横に見慣れない「Microsoft XPS Document Writer」というアイコンがある。こんな奴、知らんぞ。ひょっとして、このお邪魔虫、MSアップデートか何かで勝手に自動インストールされ、その時に「Print Spooler」の設定をミスったのではないか。こいつが真犯人という確定的な証拠があるわけではないが、有力な容疑者であることは事実。こうなると、無性に腹が立ってくる。下らないツールを勝手に押しつけて、だからマイクロソフトは嫌われるんだよ。余計なお節介よりは的確で分かりやすいエラーメッセージを出す(RPCサーバーを利用できないというアラームメッセージより、プリンタスプーラが利用できないというメッセージの方がよほどピンと来るだろう)ようにしろよ、バカ野郎。

 おかげで3時間くらい、貴重な時間が吹っ飛んでしまった。(6/2/2012)

 もう6月。早い。どんどん加速してゆくように思えるほどに早い。

 小学校何年くらいのことだったか、記憶が曖昧だが、南明町にいたころだから2年生か、3年生のころだと思う、「一年って、どれくらい長いんだろう」と思って「実験」することにした。机にその時の日付と時刻を彫り込ん(**(母)さんにはこっぴどく叱られた)だ。そして、毎日、毎日、それを見続けた。

 一年後のその日はなかなか来なかった。長かった。ほんとうに長かった。ようやくその日がきた時(それも南明町の家だったから、どんなに遅くとも、その時が4年生)、「一年って、こんなに長いんだ」と「実感」した。自分が**(父)さんや**(母)さんの歳になるなどというのは想像もできなかったし、次にハレー彗星が来る1986年などは気の遠くなるような未来に思われたものだった。

 あの「気が遠くなるほどゆっくり過ぎてゆく時間」はいったい何だったのだろう。

§

 20日か、27日と思っていた「梅雨の晴れ間を期するお食事会」は**さんのところの都合がつかず見送り、暑熱の夏は避けて9月ということにした。一月・二月くらいはあっという間に過ぎるから、さしたることではない。先週、同期会だったことを思えば、かえって良かったようにも思える。(6/1/2012)

 同期会の近況報告に「最近の趣味は『意地の悪い眼で、衰退に向かいつつある、日本を見ること』になりました、哀しいことですが・・・」と書いた。気取ったわけではない。正直なところだ。

 最近、安田浩一の「ネットと愛国」を読んだ。著者の心地よいまでの公正さが伝わるドキュメンタリーであるにもかかわらず、読み続けるのが辛くなる本だった。その気持ちがどこから来るか、それを考えることさえしたくない・・・そういう気持ちだった。

 朝刊の論壇時評で高橋源一郎がずばり指摘してくれた。書き出しで高橋は卯月妙子の「人間仮免中」というコミックをサラリと紹介した後、こう続ける。

 この本を読んでいた、ちょうどその頃、テレビでは、連日、「河本準一母・生活保護不正受給問題」がとりあげられ、ネットでは、熱狂的に「河本とその母」が叩かれていた。ぼくは、なんだかすごくイヤな感じがしたのだった。なんというか、卯月さんの本の底に流れているものとは正反対ななにかが、この「事件」の周りには漂っているような気がした。要するに、それは「悪意」ということなんだけど。

 そして高橋も安田の「ネットと愛国」を取り上げ、在特会なる集団についてざっとまとめている。

 組織の勃興期にはネガティブな精神がどっかり腰を据えるということはない。ネガティブな精神が主役になるころには組織は衰退期に入っているものだ。国も同じだろう。

 見出しは「漂流する悪意」、「『奪われた人々』が標的探し」とある。しかし「奪われた」というのは正確ではない。なにがしかの理由で「獲得できなかった」、ないしはそもそも「夢想した」という方が正しい。そうだ、一昔前に(いや、「今も」かもしれないが)はやった「自分探し」というのが分りいい。自分は「探すもの」ではない。自分は「見つけるもの」でもない。自分は「作り上げるもの」なのだ。自分を作り上げることをしなかった人々が「被害者意識」という精神的な病にかかり、健康な人を嫉んで抱く徹底的にネガティブな精神が充満しているのが、いまのこの国なのだ。そしてそのネガティブな精神に阿るポピュリストが橋下徹であり、河本叩きで喝采を浴びようとした片山さつきだったというわけだ。

 閑話休題。

 年金の仕組みを「若い世代からカネを取り上げて高齢者を食わせている制度だ」という指摘がある。たしかにその通りだ。しかし一方に「親が生活保護を受ける前に子が面倒を見るのが当然」という「常識」があるのなら年金の仕組みもさほど違ってはいないような気がする。

 要するに「はい、これ、今月の生活費」と親に渡すか、「畜生、こんなに年金分、天引きしやがって」と給与明細を見てつぶやくか。もちろん、将来的に自分が給付を受けられる保証があるかないかの違いは大きいけれど。(5/31/2012)

 この二日間は朝のうち好天(だからウォーキングには支障なし)、午後になると、雷雨ないしはところにより雹という天気だった。やっとのこと、きょうは、少し安定した。偏西風の蛇行が原因とのことだが、この5月は荒れた天気が多かった。

 投資環境も荒れ模様で、株も、投信もみごとに下がり続け、年度初めの含み損はたった2カ月たらずで3倍になった。ゴールデンウィーク明けの下げは去年、一昨年と同じだが、ことしは連休入り前、既に下げていた。

 ついこの間まではしきりに「ギリシャ」を連呼していたが、今週に入ってからは「スペイン」を理由にあげる話が聞かれるようになった。ギリシャの再選挙は来月17日。ギリシャの選挙結果だけで市場をかき回すには力不足と判断したヘッジファンド勢が、点かず消えずの火種候補をスペインにすることにしたのだろう。

 ユーロに不安のタネを残しておくことがヘッジファンドにとっては絶対に必要なことなのだ。なぜなら不安の出し入れによって彼らは収益を上げているからだ。ただ頭で考えたこと(ヘッジファンドのもくろみ)がいつでも想定の中だけで推移するとは限らない。「ブラック・スワン」が現れる確率は低くてもゼロではない。「上手の手から水が漏れる」、そういうこともままあるものだ。

 もしかすると先日のJPモルガン・チェースの「想定外」の損失劇などはその最初の躓きかもしれないし、ヘッジファンドの「煽り」が効き過ぎてスペインからイタリア、フランスの国民までがいっせいに取り付け騒ぎを起こすとか、アイルランドの国民投票が思わぬ結果に終わることもあり得ないことではない。また、あまりクローズアップされていないのが不思議でならないが、イギリスの財政赤字は単年度でもGDP比で8.3%(去年は9.3%だった。話題のギリシャの2012年度の見通しは6.7%だ)、累積はGDP比66%にも達していて、ユーロではなくポンドがこけることだって十分にありうる。

 ヘッジファンド(とこれとつるんでいる格付け会社)は主にアメリカとイギリスの隠れた「金融兵器」だが、PIIGSが彼らのコントロール範囲を越えて想定外の転び方をすれば、イギリス経済は簡単に吹っ飛び、アメリカ経済も中国との競争において回復不能のダメージを受けるに違いない。

 火遊びが過ぎると往々にして大やけどをするものだ。個人的には絶対にそのようなことが起きないように祈っているが。

 ニューヨーク株式市場のもたつきが単にヨーロッパ問題にあるのか、アメリカ経済の現況にあるのかを判別する手がかりになると思った「フェイスブック」だが、日本時間のけさ時点(29日)の終値は先週末(今週28日はメモリアルデーでお休み)より3ドル7セント安の28ドル84セントだった。公募価格は38ドルだったのだから24%もの下落。これは「期待外れ」などという話ではなく「異常事態」と受けとめて然るべき数字だろう。(5/30/2012)

 国会が設けたフクシマ事故に関する調査委員会がきのう菅直人前首相を参考人招致し質疑を行った。昨夜は夜のテレビニュースが、けさは新聞各紙がそれを取り上げている。例によっておもしろおかしく仕立てることに力が入っているようで、見るにつけ、読むにつけ、腹が立つばかりの報じ方。

 春先だった。民間事故調(福島原発事故独立検証委員会)が調査報告書を発表した。マスコミは、その中のある部分を大々的に取り上げた。かなりのボリューム、論点も多数あるにもかかわらず、まるで申し合わせた如くにテレビ各局、新聞各紙が取り上げたことがらがあった。全電源喪失したフクシマに対し、投入することになったバッテリーについて首相が「大きさ、重さ、ヘリコプターで輸送できるのか」と担当者に問うた。その場面にいた人物が「そんなに細かいことまで首相が訊くのかと思い、ぞっとした」というエピソード。たしかに「一国の総理がそんなことを気にしてどうするのだ」、誰しもがそう思ってしまう話には違いない。

 ところが「ぞっとした」エピソードは、その後、思わぬ展開をすることになった。「ぞっとした」と証言した人物が、自らツィッターで、その前後の状況と自らの発言の真意を語ったからだ。十年、二十年経ってから、フクシマ事故を振り返ることがあったら、この「ぞっとした」エピソードこそが、この事故を惹起した背景、事故への対応の拙劣さ、事故をめぐる報道や原因調査がどれほど愚かしいものであったかを雄弁に語る象徴的なエピソードであることを知ることになるのではないかと思うので、記録しておくことにする。

 「ぞっとした」と証言した人物は下村健一内閣審議官。「内閣審議官」などというと分からなくなるが、TBSの「報道特集」などでキャスター、レポーターを務めていたと書けば、顔も思い出せるはず。下村は3月4日から9日にかけて以下のようなツィッターを発信した。

【原発・民間事故調報告書/1】400頁以上の大部、日々少しずつ精読中。3章「官邸の対応」、4章「リスクコミュニケーション」、付属資料「最悪シナリオ」の部分を中心に、コメントしていきたい。目的はただ一つ、微力ながらも《本当に有効な再発防止策》に近づく為。立ち会った者の責任。

【民間事故調/2】まず、大きく報道された、《電源喪失した原発にバッテリーを緊急搬送した際の総理の行動》の件。必要なバッテリーのサイズや重さまで一国の総理が自ら電話で問うている様子に、「国としてどうなのかとぞっとした」と証言した“同席者”とは、私。但し、意味が違って報じられている。

【民間事故調/3】私は、そんな事まで自分でする菅直人に対し「ぞっとした」のではない。そんな事まで一国の総理がやらざるを得ないほど、この事態下に地蔵のように動かない居合わせた技術系トップ達の有様に、「国としてどうなのかとぞっとした」のが真相。総理を取り替えれば済む話、では全く無い。

【民間事故調/4】実際、「これどうなってるの」と総理から何か質問されても、全く明確に答えられず目を逸らす首脳陣。「判らないなら調べて」と指示されても、「はい…」と返事するだけで部下に電話もせず固まったまま、という光景を何度も見た。これが日本の原子力のトップ達の姿か、と戦慄した。

【民間事故調/5】それが、3・11当日の総理執務室の現実。確かに、こういう張り詰めた時の菅さんの口調は、慣れていない者を委縮させる。それは30年前の初対面の頃から感じていた問題。しかし、「だって怖かったんだもん…」という幼稚園のような言い訳が、国家の危機の最中に通用していいのか?

【民間事故調/6】この部分、他の証言も総合して、報告書はこうまとめている。「菅首相の強い自己主張は、危機対応において物事を決断し実行するための効果という正の面、関係者を委縮させるなど心理的抑制効果という負の面の両方の影響があった。」 この評価、私も同感。《以下明日以降》

【民間事故調/7】報告書P.77「官邸が電源車を用意手配したにも関わらず、11日夜から12日にかけて電源車に繋ぐコードが無い等の報告があり…」⇒これ、私も見ていた通り。この文から2つの事が判る。つまり、総理室詰めの技術陣は電源車の手配にも即応できず(だから「官邸」が手配)、更に…

【民間事故調/8】「電源車が現場に到着したら、電気を原発側に送るコードが要る」ことにも前もって1人も気付かなかった。この後も、こうしたトホホは信じ難いほど続く。当時の私のノートの走り書きより:「うつむいて黙り込むだけ、解決策や再発防止姿勢を全く示さない技術者、科学者、経営者」

【民間事故調/9】一方でノートにはこんな殴り書きも。「Kに冷却水が必要」…Kとは菅さんのこと。危機が刻々募る中、技術陣の無様さに、次第に総理のテンションが高じていったのも事実。あそこは優しく彼らの硬直を解いてあげるのがリーダーの務め。…私がその立場でも、それができた自信は無いが。

【民間事故調/10】自分だけ冷静だったように振り返るのはフェアじゃないから、正直に言う。私自身、あの時は人生最大の緊張状態にいた。眼を合わせない専門家さんに、「頼むから、1つの作業が始まったら、次に何を備えなきゃいけないか、先回りして考えて下さい!」と懇願したのを覚えている。

【民間事故調/11】当時の激動の渦中で、私を含む当事者は皆《自分が体験したアングル》だけであの時の出来事を一面的に認識し、それが真相だと銘々に信じている。しかし、仮に1人も嘘をついていなくても、その証言は至る所で食い違う。我々は誰もが、全貌が見えぬ相手と闘う蟻でしかなかったのだ。

【民間事故調/12】だから、色々な立ち位置にいた“蟻”達の証言を後で総合し全体像をつかむことは、《何があったのか》を知り再発防止策を作る上で、決定的に重要だ。私が事故調のヒアリングに全面協力したのも、今こうしてツイートで補完しているのも、そういう理由から。続いて報告書P.79⇒

【民間事故調/13】震災翌朝。福島の現場では、東電本店との電話で「吉田所長が首相の突然の訪問予定に…『私が総理の対応をしてどうなるんですか』と激しいやり取りをしていた。」これは、来る菅への怒りか?(世間の見方) “総理対応はそっちの役割だろう”と本店を怒ってたのか?(私の見方)

【民間事故調/14】なぜ私が後者の見方をするかと言えば、それが当時官邸にいての実感だったから。目の前にいる面々にいくら訊いても情報も判断も出て来ないなら、直接現場に行くしかない。で、実際、菅・班目氏らと現場に行って感服した。吉田所長は、総理を迎える態勢など、何も取っていなかった。

【民間事故調/15】この視察は儀式ではなく、状況把握作業だ。どうか本末転倒な歓迎準備になど人手を割いていませんように、と案じながら到着してみると、歓迎の人垣の代わりに建物内で総理を迎えたのは、毛布にくるまって廊下にゴロゴロ転がる疲れ切った人の群れだった。我々は、その隙間を進んだ。

【民間事故調/16】間近な最前線での闘いから時間交代で戻って来て、ぐったり仮眠しているその人達は、10cm横を今総理が歩いていることなど、全く気付いていなかった。その《総理扱いの放置ぶり》に、「ああ、これなら作業のお邪魔は最小限で済んでいる」と私は安堵した。そして会議室へ。

【民間事故調/17】報告書P.79◆福島の会議室で東電副社長が、ベントできぬ理由を「電力が無くて電動弁が開けられないと説明すると、(菅首相は)『そんな言い訳を聞くために来たんじゃない』と怒鳴った」…確かに、Whyに答えたら“言い訳するな”と叱られた、というのは理不尽にも見えるが⇒

【民間事故調/18】やはりあの場面は、「電力が無くて電動弁が開きません」オワリ、じゃなくて「だから次は○○という方法を試みます」と続けるのが、責任ある者の答だろう。あの緊迫の数日、前者のような、次の一手の提示を伴わない単なる「出来ません」発言を、どれだけ技術系から聞かされたか…

 きのうの国会における参考人質問の主なやり取りをデジタル版で読んでみた。明らかにした方がよいことがらがいくつもある。たとえば、海水注入に関する話、全面撤退に関する話などは、原発の再稼働を前提にすれば、政府・東電のいずれに責任があったかという「戦犯論」としてではなく、原発に致命的なトラブルが発生した場合にどのような体制をとるべきかを明確に決めておくために、フクシマで起きた事実は白日の下に晒しておかねばならない。

 しかし、委員長の黒川清はそのあたりをきちんと調査する気がないようだ。海水注入を中止するように吉田昌郎所長に命じたといわれた武黒一郎フェローを再招致しないのはなぜか。全面撤退を申し出たといわれる清水正孝社長を招致しないのはなぜか。じつに不思議な話だ。黒川は「週刊誌的な興味」に応えるばかりで、ほんとうの意味の調査などどうでもよく「テキトー」な報告で逃げる気ではないのかと疑いたくなる。きのうのような「政局的」なやり取りで終わるのならば、下村のツィッターの方がはるかに核心に至ることがらがあるようにさえ見える。

 下村のツィートから、もうひとつ書き写しておく。

今日の文春は凄い。私のツイート【3】を明らかに読んだ上で、尚も「ぞっとした」発言を菅批判の如く確信犯的に誤用。更に【9】も、ラストの「私でも出来た自信ない」だけを切り捨てて、これまた菅批判の材料に。いずれこの記者を教室に招いて対談したい。これが正義感でやってたりするんだよナ。

 きょうの新聞各紙の菅証言に対する報じ方も文春と同じ。証言にはこんな部分があった。国民の目と耳がこの言葉に向けられることのないように、ミスディレクションすることをどこかから命じられているのではないかと思う。

 スリーマイル事故、チェルノブイリ事故に関心を強く持っていた。また、(1999年に茨城県東海村で起きた)JCO事故のとき、なぜ臨界事故が起きたのか理解ができなかったから、色々と関係する人に当たり、原因などを私なりに調査し理解をした。私も長く市民運動をしていて、仲間の中には原発について強い疑念を持っていた人も数多くいた。原子力は過渡的なエネルギーという位置づけをし、「ある段階まで来たら脱却」ということも当時私が属した政党では主張していた時期もある。
 私自身、民主党の政策を固める中で、安全性をしっかりと確認するという前提の中で原子力を活用することはあっていいのではないかと、考え方をやや柔軟にし、許容する方に変わった。「3・11」を経験して、考え方を緩和したことが結果としては正しくなかったと、現在は思っている。
・・・(略)・・・
 私は3月11日までは安全性を確認し、原発を活用する立場で首相としても活動した。しかし、この原発事故を体験する中で、根本的に考え方を改めた。かつてソ連のゴルバチョフ氏が回顧録で、チェルノブイリ事故は我が国体制の病根を照らし出したと述べている。今回の福島原発事故は、我が国全体のある意味で病根を照らし出したと認識している。
 戦前、軍部が政治の実権を掌握した。東電と電事連(電気事業連合会)を中心とするいわゆる「原子力ムラ」が私には重なって見えた。東電と電事連を中心に原子力行政の実権をこの40年間、次第に掌握し、批判的な専門家や政治家、官僚は村八分にされ、多くの関係者は自己保身とことなかれ主義に陥って、それを眺めていた。私自身の反省を含めて申し上げている。
 現在、「原子力ムラ」は今回の事故に対する深刻な反省もしないまま、原子力行政の実権をさらに握り続けようとしている。戦前の軍部にも似た、原子力ムラの組織的構造、社会心理的構造を徹底的に解明して、解体することが原子力行政の抜本改革の第一歩だ。原子力規制組織として原子力規制委員会をつくるとき、アメリカやヨーロッパの原子力規制の経験者である外国の方を招請するのも、ムラ社会を壊す上で一つの大きな手法ではないか。

 それにしても・・・と思う。ほんとうに、面白い、不思議で、奇妙な国だと思う、この国は。

 前の戦争に関する「責任論」に関する調査・追求は公式には行われなかった。戦争は終わり、原爆の惨禍を別にすれば新たな被害の拡大、緊急にとらねばならぬ対策措置はなかったにもかかわらず。

 逆に、フクシマの被害は現在進行形。緊急にとらねばならぬ対策措置は目白押しの状態だ。事故調査委員会のやり取りを見ているとなんだか「責任追求」の匂いばかりがする。そんなお暇な論議にカネをかけている時なのだろうかという素朴な疑問が浮かぶ。

 同期会旅行でテレビ映像は見ていないが、さきおとといには4号機建屋の状況が公開された。どういうわけか、アメリカ上院ワイデン議員を中心とする上院エネルギー天然委員会のメンバーは先月初旬に現地視察を行い、4号機核燃料プールが新たな地震などにより倒壊する危険を指摘する報告書を発表している。こちらの方がよほど「急いだ方がいい報告書」になっているのだから、嗤うに嗤えない。

 他国の議員が現地調査しているのに、この国の議員は「菅直人は万死に値する」などという口ばかり過激で何の意味もない発言をして自己満足している。これほど不健康な話があるだろうか。

 ほんとうに、面白うて、やがて哀しき、我が祖国よ。(5/29/2012)

 吉田秀和が亡くなった。22日のことだったそうだ。

 リスニングの書棚にある全集は第一期のもの10巻で終わっている。仕事以外の時間はほとんどレコードを聴くことと本を読むことに費やしていた独身の頃のいわば「青春の抜け殻」のようなものだ。

 設計室から技術部に移り、結婚し、そういう時間の使い方ができなくなってからは、夕刊に載る「音楽展望」を読むきりだった。続いて出た第二期以降の全集は我が家にはない。

 書斎には会社生活の「晩年」になってから出された「永遠の故郷」シリーズがある。サブタイトル「夜」から始まり、「薄明」、「真昼」と続き、昨年の正月に「夕映」で完結した。

 「夕映」のカバーにはクレーの「忘れっぽい天使」が選ばれていた。紀伊國屋で見つけた時には思わず笑いがもれたのを記憶している。一見こどもの落書きに見えるこの「天使」の書き順を考察した「クレーの跡」と題するエッセーがあったことを思いだしたから。末尾はこんな文章になっている。

 何もない白紙に直面した彼は、画面の造形から出発する。いやその造形も、最初の線の進行と完成から、つぎつぎと呼応してよびおこされた運動の軌跡として、展開される。線が、純潔な線がひかれるにつれて、画面が表情を生んでくる。天使は、はじめにあったのではない。これは、思いもかけない線の展開が呼びだした姿なのだ。だからこそ、これは、《天使》であって、ほかのなにものでもないのである。
 線が天使になったのである。ちょうど、彼の好んだモーツァルトの音楽におけるように。
 これが、彼の芸術であった。彼の美しい言葉をかりれば、「芸術は、見えるものを再現するのでなく、見えるようにする」行為なのである。
・・・(略)・・・
 両目をふせ、両手の親指をたてて、自責の念をみせた天使。これが『忘れっぽい天使』であるのを理解するには、おそらく、これがかかれた1939年という年を思ってみる必要があるだろう。
 第二次世界大戦はこの年にはじまった。哀れな人間たちは、忘れっぽい天使が、ついうっかりしている間に、大変なことをおっぱじめ、幾千万という同類たちを殺戮しだしたのである。

 刊行の準備が進められたおととしの秋頃には、まだ、「忘れっぽい天使」がうっかり見過ごしてしまったものが他にもあることなど想像もつかなかった。たぶん、吉田秀和も。

 朝刊に朝日新聞編集局の吉田純子による「評伝」が載っている。それによると、連載の最後となった「音楽展望」(昨年6月)にこう書いていたという。「あの事故をなかったかのように、朝日の読者に気楽に音楽の話をするなんて、ぼくにはできない。かといって、この現実に立ち向かう力は、ぼくにはもうない」。悲痛なモノローグだ。

 「永遠の故郷」は吉田が「私に与えられるであろう生命の刻」(「永遠の故郷-薄明」のあとがき)を計るようにしてまとめた最期のエッセーで、本を読む喜びを存分に味わわせてくれる逸品だが、譜面の読めない者にはいささか恨めしいところがあった。「『永遠の故郷』の歌曲のCD集が、来月、出るらしいよ」、アフタヌーン・ティーした時、**が言っていた。実物を見てからと思っていたが、予約をしておく方がいいかもしれない。(5/28/2012)

 久しぶりに覗いてみた「産経新聞愛読者倶楽部」。トップは「東京都町田市の主婦Yさんからの投稿」。今週20日付け7面コラム「日曜日に書く」に編集委員・安本寿久が書いた「国民医療費から考える尊厳死」、これにえらくご立腹なのだ。

 そのコラムをざっと読んでみた。話はまず「尊厳死協会」の会員証から始まる。権威主義コリコリのサンケイ新聞編集委員のことゆえ「見せてくれたのは倉敷紡績の元社長・会長、真銅孝三さん(81)だ」と会員証の主が「裏町のただの爺さん」ではないことを明らかにし、真銅の体験と意見を紹介する。

 彼は健保組合の理事長をしていた。「腐心したのは医療費をいかに抑えて組合財政を安定させるか。そのために定期健康診断の受診を奨励し、早期治療を促し、健康増進のイベントにも知恵を絞った。これだけ苦労して黒字を維持しても時折、それを一気に吹き飛ばすレセプト(診療報酬明細書)が舞い込む。毎月100万円単位での請求額。社員の家族が終末医療に入ったことを示すものだ。『早い方で半年で亡くなり、請求が来なくなるが、終末医療とは金がかかるものだと実感したね』」。

 ここで安本は、本人が意思表示できないままにカネのかかる終末医療に突入することがどれほど健保財政を圧迫するかを訴えるために、具体的な数字を上げる。「健保財政を圧迫しているのは、65歳以上の高齢者医療を支えるために負担する納付金・支援金である。健康保険組合連合会の収支見通しでは今年度、その額は3兆1355億円に上る。前年度より2566億円増え、保険料収入に占める割合は過去最高の46%に達する。現役世代が収める保険料の半分近くは、高齢者のために使われているのである。日本の国民医療費は平成21年度で36兆円を超す。そのうちの32.6%、11兆7335億円は75歳以上の後期高齢者にかかっている。この数字を押し上げる大きな要因が終末医療費でもある」。

 問題の終末医療費が高齢者医療費の何%を占めるのか、終末医療費そのものがどれほど健康保険財政を悪くしているのか、それにはふれないまま安本はこう続ける。「老齢になれば病気がちになり、医療を必要とするのは自然なことである。そのための負担を現役世代が担うのは、社会を支えてくれた先達への礼の意味でも当然のことである。が、一方で、その額を抑える努力をしなければ、国民皆保険制度が危ういことも現実だ」。そして安本は尊厳死宣言をした真銅に話を戻す。

 「尊厳死は本来、人間らしい安らかな死を遂げるために、患者本人のための権利として提唱されたものだ。日本で同協会ができたのは昭和51年で、その主張には36年の歴史がある。本来の意味合いに若い者に必要以上に面倒をかけたくないという気持ちを加えたのが真銅さんの選択である。『終末医療をほどほどに、なんて誰も言えない。マスコミでも書けんやろ。でも、どこかで区切りをつけないと団塊世代が高齢になるほど、国民医療費は際限なく増える。だから、高齢者自身であるわしが言うとくんや』。非常に真摯で、かつ重く、ありがたい老人からの一石である。波紋が広がるように努めたい」とコラムは結んでいる。

 意識してか無意識かは分明でないが、終末医療と高齢者医療をゴッチャにしているところがいかにも頭のよろしくない(あるいは悪意むき出しの)サンケイ編集委員らしくて嗤える。

 そこで町田市の主婦Yさんのお怒りの弁をもういちど読み返してみた。

 尊厳死は「自己決定権」という変形左翼思想に基づいて出てきた概念です。「売春するのは個人の自由」というあれです。その「自己決定権」を生命に関する問題に持ち込んだのが尊厳死です。保守として到底認めることはできません。日本は「そうなったら死にたいと本人が事前に表明しているんだから死なせてやれよ」という国ではありません。その理屈を認めれば、子供たちに「死ぬな」と教えることはできません。
 しかも筆者の安本寿久は尊厳死を国民医療費という金銭に結び付けて論じています。左翼・フェミニストが主婦の家事(セックスまでも)を金銭に換算したりしていますが、それが生死にまで発展した異常な記事です。
 もっとはっきり言うと、この安本寿久の言っていることは、障害者を殺していったヒトラーに通じる思想であり、スターリン、毛沢東、ポル・ポトと同じ生命軽視の全体主義の狂気を感じます。簡単な言葉で言うと気違いです。
 こんな気違い記事を読んだのは初めてです。日本の新聞史上かつてなかった記事です。安本寿久だけでなく、この記事を通した編集者も正常ではありません。恐怖で体が震えます。

 これはこれで筋が通っている。「ネオコン」がもともとは「冷戦リベラル」と呼ばれる左翼だったという話を思い出させる。戦争大好きのサンケイ新聞がネオコンびいきであることは周知の事実。

 ふたつを読み比べて思ったのは新自由主義と保守主義がみそくそ抱き合わせになっているこの国の「保守まがい主義」の不幸だ。保守的と称しながら原発推進を主張することができる人の「保守主義」とは「自殺を許容するカトリシズム」のようなものだと思うが、これを怪しむ人は案外少ない。(5/25/2012)

 使用済み核燃料の再処理を今後どのようにするのかを検討してきた内閣府原子力委員会内の小委員会がまとめる報告書最終案を、いわゆる原子力村の住民のみで構成される秘密会で事前チェックし、再処理続行プランの評価が高くなるように書き換えていたと、毎日が朝刊トップで報じた。

見出し:核燃サイクル原案秘密会議で評価書き換え/再処理を有利
・・・(前段略)・・・
 小委員会は修正後の総合評価を踏襲して取りまとめ、(5月)23日、「新大綱策定会議」(議長・近藤駿介原子力委員長)に報告して事実上解散した。近く政府のエネルギー・環境会議に報告される。
 毎日新聞はA4判79ページの資料を入手した。表紙右上に「4/24勉強会用【取扱注意】」、表題は「原子力発電・核燃料サイクル技術等検討小委員会(第13回)」で、4月27日に論議される予定の報告案の原案だった。
 秘密会議は4月24日午後5時過ぎから約2時間、原子力委の入る東京・霞が関の中央合同庁舎4号館で開かれた。鈴木達治郎・原子力委員長代理や内閣府原子力政策担当室職員のほか▽エネ庁原子力立地・核燃料サイクル産業課の森本英雄課長▽電力10社で作る電気事業連合会の小田英紀原子力部長▽青森県六ケ所村の再処理工場を経営する「日本原燃」の田中治邦常務▽高速増殖原型炉「もんじゅ」を運営する「日本原子力研究開発機構」幹部▽東京電力や日本原子力発電など電力会社社員ら約30人が参加。小委員会のメンバーは鈴木代理だけだった。
 小委員会では使用済み核燃料の「全量再処理」、「全量直接処分」、「再処理・直接処分併存(併用)」の3政策について議論していた。関係者によると、日本原燃幹部は秘密会議で六ケ所村再処理工場存続を要請。小委員会座長の鈴木代理が「プロジェクト(再処理工場)に影響を与えない併存が一番良い」と応じた。トラブル続きの再処理工場の現状などから全量再処理は賛同を得にくい一方、全量直接処分では工場閉鎖につながるためとみられる。
 総合評価の表記は、仮にウラン価格が30倍に上昇しても全量直接処分が経済的に優位であることから、原案では「(再処理や併存より)総費用において優位」と言い切っていた。しかし、変更後は「ウラン価格が現状のままなら」などと条件付きで「優位になる可能性が高い」と後退する一方、併存について「全量再処理より経済的に多少有利」などと利点を強調する記述が増えていた。報告案は4月27日は時間切れで審議できず、5月8日に論議された。
 近藤委員長は「(報告案を配っているなら)度を越えている。私の監督責任にかかわる問題」と述べた。鈴木代理は「出席したかもしれないが、結果的に小委員会の議論に影響はなかった」と話した。【核燃サイクル取材班】

 原発は暴力団の助力なくしては運転も、事故処理もできず、その周辺事業も違法な手続きなしには決定できないらしい。それにしても、こうなると原子力村というのはウラ社会そのもの、暴力団並みかそれ以上の「反社会勢力」だ。

 この「犯罪者たち」(原子力村のマフィアさんたちのことだ)が恐ろしいのは報道機関をコントロールしているとおぼしきこと。その一例を記録しておく。NHKはお昼のニュースで「最終報告書案が決定前に原子力関係者で作る『勉強会』に提出されていました。これに関して近藤委員長は『わたしは知らなかった、事実とすれば、問題がないとは言えない』としています」とのみ報じた。形式的に「ちょっとまずい取扱い」がありましたというニュアンス。

 こういうニュースが悪質なのは、露見した「犯罪」のほんの一部を先に報道することによって「不祥事があった」という印象を広範にもたせ、その後、ないしは別に報ぜられている悪意による「犯罪」の実際の姿を見落とさせる効果を発揮しているところにある。受信料を取る報道機関がこんな情報操作に荷担している。ひどいね、これは。(5/24/2012)

 きょうのグーグル検索ページのバナーは「ロバート・モーグ生誕78周年」。あのモーグ・シンセサイザーの開発者。(亡くなったの05年8月21日の由)

 “「Moog Synthesizer(当初は「ムーグ・シンセサイザー」と言っていた)”を知ったのは冨田勲の「月の光」というLPによってだった。この「楽器」はドビュッシーにはベスト・フィットだった。ドビュッシーはミッシェル・ベロフやサンソン・フランソアでなじんでいた。だが、しばらくの間、ベロフの演奏ですら聴く気にならないほど、冨田のドビュッシーは魅力的で衝撃的だった。

 たぶん「FM fan」で、「レコ芸」ではないと思う、シンセサイザーの前に座る冨田の写真を見た。彼の背後にあるのは「楽器」などではなく、レコーディングスタジオのアンプラックと調整卓といった風情の代物、しかもお値段は一千万を下らない額ということだった。

 まだiPodは当然の話、ウォークマンさえ出ていないころ。とにかく、帰宅してから深夜、あるいは休日の昼間、ひたすら「円盤(disk)」を回し、繰返し繰返し聴いた。受験勉強中の智則のことを思って、STAXのイヤースピーカーを使った。

 そうだった、当時、通勤途上、電車の中、あるいは歩きながら、聴くなどというスタイルを頭の中に思い描いている者など誰一人いなかったはずだ。あれから40年ほど。世の中も、生活のスタイルも、これほどに変わってしまうものなのだ・・・まさに「思えば遠くに来たもんだ」。

§

 朝刊、社会面(とはいっても、主にニュースのその後を扱う「第三社会面」)に小さく、こんな記事。

見出し:原発復旧工事に違法派遣の疑い 福島、組幹部を逮捕
 東京電力福島第一原発の復旧工事に労働者を違法に派遣したとして、福島県警は22日、指定暴力団住吉会系幹部で自称人材派遣業、大和田誠容疑者(33)=福島県二本松市=を労働者派遣法違反の疑いで逮捕し、発表した。郡山、双葉両署によると、大和田容疑者は昨年5~7月、配下の組員ら約5人を、栃木県の会社が請け負った福島第一原発の工事現場に派遣し、ケーブル敷設などに従事させた疑いがある。

 福島県には暴力団排除条例はないのだろうか。「栃木県の会社」は暴排条例違反ではないのか。発注元の東京電力に対して暴排条例に基づく「勧告」は出されないのか。

 「暴力団などの反社会勢力」の助力なしにフクシマの「後片付け」はできるのだろうか。いや、そもそも、「暴力団などの反社会勢力」の助力なしに原発がフツーに稼働することはできるのだろうか。全国の原発立地道県と原発所有電力会社本社のある都道府県の警察は見解を明らかにして欲しいものだ。(5/23/2012)

 いまやすっかり影の薄くなった「サミット(主要国首脳会議)」(ロシアが加わってからは「G8」と呼ばれるようになった)が日本時間のおととい閉幕した。

 第38回を数える今回の首脳宣言もここ数年と同様に格別の話はない。「まあ、この時点においてふれておかなければねというものは一応盛り込みました」というだけ。だからどうした、だからどうするという緊張感はゼロだ。象徴する記事が朝刊に載っていた。こちらの方がよほど記録に値しそうだ。

見出し:プーチン外交、東向き/「儀礼に疲れ」G8欠席
 米キャンプデービッドで開かれた主要国首脳会議(G8サミット)に、ロシアのプーチン大統領の姿はなかった。「返り咲き」で注目を集めるはずが、「タンデム」(双頭体制)を組むメドベージェフ首相を送り込んだ。儀礼より実利を重んじて動き出した外交戦略がのぞく。
 「プーチン氏は外交儀礼に疲れた」。クレムリン(大統領府)の高官はG8を欠席した理由をロシア紙にこう述べた。物事を決めるより意見調整の色合いが強いG8には、メドベージェフ氏の方が適任だと判断したという。 
・・・(略)・・・ 
 プーチン流の外交は、7日の大統領就任直後からの対外行事に見てとれる。
 最初の「首脳会談」は、親欧米政権の旧ソ連グルジアからの独立をロシアが承認したアブハジアと南オセチアの大統領だった。11~12日、冬季五輪を開くロシア南部の保養地ソチに招いて、国としての基盤強化に協力を約束した。15日には旧ソ連の11カ国でつくる独立国家共同体(CIS)首脳会議をモスクワで開催。加盟国の間に不協和音もある中で全大統領が顔をそろえ、結束ぶりをみせた。
 プーチン氏は昨年秋、旧ソ連圏を経済統合する「ユーラシア連合」を提唱。すでに統一経済圏となったロシア、ベラルーシ、カザフスタンの関税同盟を軸に、「東」の中国とも渡り合える足場を築く構想だ。最初の外遊も31日のベラルーシとなりそうだ。6月初めには、「西」で最も経済関係が深いドイツを訪れる見通しで、同6、7日には中ロと中央アジアでつくる上海協力機構(SCO)首脳会議で中国を訪れる。訪中の前後にウズベキスタンやカザフスタンを訪れるとの情報もある。
 旧ソ連を固め、経済で結びつくドイツと中国から外に向かう――。そんな外交戦略だが、NATO首脳会議は、米軍が欧州に配備する戦術核の削減を検討することで合意した。これにどう応じるか。「西」との間にも重い課題が横たわる。
 それでも、モスクワ国際関係大学のバラバノフ教授は欧州の経済危機が引き金となり、「欧州はもはやロシアにとって見本でなくなった」とみる。「東」志向がいっそう強まるとの見立てだ。(ワシントン=副島英樹)

 「欧州はもはやロシアにとって見本でなくなった」というより、これからの世界経済が軸足を置くのは欧米ではなく新興国市場、就中、アジアであり、そこにどのような道筋をつけておくべきなのかが、これからを切り開こうという国の直近の課題だということ。そしてそういうパースペクティブがプーチンにはあるということだろう。「緊張感の失せた『先進仲良しクラブ』の集まりなどに時間を費やすほどヒマではないよ」というリアリストの冷笑が聞こえてきそうな気がする。

 閑話休題。

 スカイツリーがきょう開業。とは言いつつ、主業務のテレビ放送業務は来年1月から。一般公開の開業ということ。

 きのうの金環日食の日にあわせての開業の方がよかったのではないかと思うが、きのうは仏滅、きょうは大安の由。大安にこだわったばかりに雨の開業になってしまった。さて、これは吉か、凶か。(5/22/2012)

 金環食。天気予報は芳しくなかったが、それなりには見えたらしい。日食グラスなるものが必要と連呼されると、かえって「ハイそうですか」と素直に買う気にならなくなる。ついに買いそびれた。

 小学校何年の時だったろう、日食騒ぎがあった。インターネット検索をかけてみた。1957年4月30日と1958年4月19日のどちらかのようだ。名古屋での食分は前者が0.26、後者が0.88。かなり暗くなった記憶があるから58年のことだったのだろう。とすると、小4だ。日食グラスなどはなく当時の小学生はガラス片をロウソクの外炎にかざしてススをつけたものを使った。あれではダメなのかしら。

 「どうせ曇り空で無駄な投資になる」という方に賭けていたが、そこそこ見えたと聞くと平静は装いつつもシャクにさわる。金環食騒ぎが終わってから「来月6日には金星の日面通過が見られるので日食グラスはまだ捨てないで」などと聞くと「それを早く言ってくれ」という気分になる。

 まあそれでもテレビ中継の画面を追いかけて「ベイリー・ビーズ」なる現象も見ることができた。

 次に日本で見られる金環食は2030年6月1日に北海道、皆既食は2035年9月2日に北関東の由。かねて長生きするならケネディ暗殺関係資料の公開(2039年)までと思ってきたから十分目標レンジには入っている。問題はそれまで視力を維持できるかどうか・・・かな。(5/21/2012)

 きのうの朝の経済ニュースの見出しは「フェイスブック上場は期待外れ」だった。初値は公募価格の1.5~2倍になるのではといわれながら初値は42ドル5セント。その直後に45ドルまで上がった後は38ドルの公募価格を割り込みそうなところまで下落。幹事会社の買い支えによりかろうじて38ドル23セントで終わった。NASDAQは34.90ポイント下げ、ダウも73ドル11セント下げた。超大型上場で頭上の雲をはらうはずが、曇模様は継続中。

 日経ヴェリタスは「初日から想定外のトラブルに見舞われた。『注文を出しても約定の連絡が返ってこない』――。原因不明のシステム障害で朝方からトレーダーらは悲鳴を上げ、取引開始は11時30分と予定より30分遅れた」と伝えているが、レスポンス遅れが価格の下落理由になるとは限るまい。むしろ飢餓感は価格の上昇を呼んでもおかしくはなかろう。何か真の原因を見たくない市場関係者の心理が反映しているようで納得できない・・・どうもいまのアメリカ事情には言い訳が多すぎる。

 ずいぶん前に読んだ小幡績の「すべての経済はバブルに通じる」によれば、投資家は「バブルだと気づかないからバブルに乗る」のではなく、「バブルであることを十分に心得た上で、バブルだからこそ投資する」。しかも「バブルがはじける寸前で降りれば、儲けは最大になる」からと、積極的にチキンレースに参加する。しかしプロ中のプロでさえバブルから逃げ損ねる。なぜなら「みんながいっせいに下りる、そのタイミングまで突っ張る」からだ。

 その前提で見ると、CDSを絡ませたバブル(詳細は分からない)があり、JPモルガンとその模倣者たちはそれがバブルであることを承知しながら取引を行っていた。その時、ギリシャの総選挙と連立政権作りが「想定以上」にこじれた。いかにもありそうな話。かなりの金融機関に影響があるのではないか。そういう疑念が払拭できないのが最近の状況だとすると、ニューヨークの連日の下げにはそういう投資心理がバックにあるのではないか。まだ単なる恐れのレベルに止まっているが、なにかしら大きな音がした時、それが「逃げろ、降りろ、売れ」の号砲に聞こえれば、まったく不合理としかいいようのないパニック(不合理だからこそ「パニック」なのだが)が起きる可能性はある。

 そうそう、サブプライム・ショックの初っぱなで倒産したベアー・スターンズをニューヨーク連銀の肝いりで救済買収したのがJPモルガン・チェースだった。もしかすると、後々、「あれは奇妙な暗合だったね」ということになるかもしれない。(5/20/2012)

 一橋の社会学部連続市民講座、第2回。きょうのテーマは「スポーツによる社会的包摂-愉しみとしての暴力と都市貧困をめぐって」。講師は鈴木直文。

 内容は鈴木が博士号を取得のため研究に従事したグラスゴーのイーストエンド(ロンドンの「イーストエンド」に対する「常識」と同じ)における年少ギャンググループの実情紹介とこれに対するスポーツを利用した改善プロジェクトについての考察。ファクトの紹介はそれなりに貴重なものだったと思うが、資料の中に用意しながら「時間の関係で」(鈴木はこう言った)詳しくふれなかったアマルティア・センによる「潜在能力アプローチ」からの展開についての説明をもっと聞きたいと思った。

 市民講座の受講生の理解力は一般の人々のアベレージより低くはない、むしろ高いと思って欲しい。貧困地区の不良少年・少女への対策プログラムの概要は配付資料でおおよそ理解できる。むしろ、そのプログラムの有効性を支える思想について、もう少し踏み込んだ紹介をしてもらう方が知的刺激度は高いし、受講後の受講者の視野を広げることに役立つと思う。残念な気がした。

 次回のタイトルは「暴力・犯罪と社会的排除」となっている。こちらの方で再びふれてもらえるだろうか。期待したい。(5/19/2012)

 ニューヨークが下げ止まらない。けさ(17日)の終値は156ドル6セント下げて12,442ドル49セントだった。5月10日に19ドル98セント上げたのを唯一の例外として、5月2日以来1勝11敗(6連敗-1勝-5連敗)。この間836ドル83セントも下げている。

 その状況を受ける形になった東証は265円28銭、ことし最大の下げで終値は8,611円31銭になった。ゴールデンウィーク入り前、前日(4月26日)から40円94銭下げて終わった4月27日の終値から、トータルで909円58銭も下がっている。

 国内短期公社債セグメント以外の投資信託は、先進国株、先進国債券、国内REIT、海外REIT、新興国株、すべてのセグメントが大幅に下げ、我が家の投資勘定は2月3日以来の「なにもせずにいた方がましだった」状態に戻ってしまった。

 手もと資金率は高めているので、仕入れのチャンスといえばチャンスなのだが、どうも「その気」になれない。新聞、テレビ、メルマガ、・・・みんなギリシャ問題の影響と解説している。その解説を信じるならば、いまが仕入れ時だ。しかし、どうにも気が乗らない。

 なぜか。まずユーロクラブに入るルールは明文化されているが離脱するルールは明文化されていない。つまり「離脱」を実現するためにはルール作成というポテンシャルエネルギーが必要。一方、「ギリシャ国民の7割から8割がユーロから離脱すべきではない」としており、「ドイツもフランスもユーロの崩壊につながるギリシャの切り離しはしたくない」と考えている。仮に「いずれ、切り離そう」と思っているとしても、いまがその時だとは絶対に考えていない。

 とすれば「ギリシャ国民が受け入れ可能な緊縮策」を探る方向で決着する確率が高い。たしかに100%といえるわけではない。リーマンショック直後のアメリカ下院(共和党のバカ議員どもが金融安定化法案を否決した)のように「ブラック・スワン」を招き寄せる愚行をやらかす可能性は常に存在する。だとしても、この株安がギリシャだとかヨーロッパの信用不安ていどのことならば、最適・最良のポイントかどうかは別にして、安値圏での仕入れを外さないという一点に賭けることはできる。

 だが、どうもギリシャはブラフ、先日のJPモルガンの失敗こそが真の原因ではないかという気がしてならない。「保険」の「再保険」、「再保険の証券化」、「証券化によるリスクの不可視化」、・・・(もうこうなると何をやっているのか誰にも全体像はつかめない)・・・そんな複雑化した「CDS派生商品」取引の破綻もしくは破綻の予感がウォール街を崖っぷちに追い込んでいるのではないか。そういう疑心暗鬼が市場心理にもぐり込んでいるのではないか。

 今晩、話題のフェイスブックがNASDAQに上場される。これが前評判通りの高値取引に終始して、指数を相当に押し上げるようなら、ここ数週間の株価のダレはギリシャ問題という説明で足りるが、相当のインパクトがあるとされるフェイスブックの上場でも火がつかないとなると不安心理の根幹がいわば想定済みのギリシャ問題にあるわけではないという見方が浮上することになる。(5/18/2012)

 夕方のニュース、白石の保育園での「覆土」作業の様子がオンエアされていた。放射能汚染土を除去する方法ではなく、汚染土の上に汚染されていない土を被せるというやり方を「覆土」というのだそうだ。

 その映像を見ながら思い出したことがある。

 スペインのパロマレス。地中海に面した田舎町。2007年、スペイン政府は町のあるブロックを放射能汚染があるので立ち入り禁止とする措置をとった。原因は41年前にさかのぼる。1966年1月17日、クロムドームという作戦任務(ソ連とのミサイルギャップに対応するため、当時、アメリカは水爆搭載機を常時ヨーロッパからトルコの上空を飛行させていた)に就いていたアメリカ空軍の戦略爆撃機B52が空中給油機と接触して墜落した。墜落機には1.1メガトンの水爆が4個搭載されており、このうち1個は海に、2個はパラシュートにより軟着陸したが、残り1個は大地に激突した。幸い爆発は免れたが大きく壊れた水爆から大量のプルトニウムが飛散した。

 アメリカは汚染度の高い2.2ヘクタールについて5~10センチの深さで汚染土を回収、4,810本のドラム缶につめてアメリカ本国に持ち帰り「一件落着」とした(海中に落ちた水爆は探査船により発見、サルベージした)が、試算によると汚染土の回収量は多めに見積もっても7割で残りの処理は「覆土」によって行われた。

 では、なぜ、それが数十年も経った今世紀になって汚染源として「復活」したか。90年代から2000年代はじめにかけてスペインは不動産バブルにわいた。パロマレスも別荘地として再開発され、各所で土地利用が進んだためらしい。

 人間の記憶など、このていどのものなのだ。汚染土に覆土すれば大丈夫と考えて処置しても、半世紀も経たないうちに「放射能汚染土を見えないところに隠しただけ」ということをきれいに忘れてしまう。それが人間という動物の特性であることくらいは認識しておきたいものだが、そういう洞察を欠いた「浅知恵」こそがアメリカに特徴的な「合理主義」の特性なのだろう・・・ニュースを見ながら、これから福島やら隣接地でこれからはやるであろう「覆土処理」の記憶がいつまで保たれるものか怪しいものだと思った。きっといくつかの場所では何年かしてから放射能汚染という「お化け」に遭遇する不幸な被害者が出るに違いない。この国の人間のことだから、その時も「想定外」と言うのかなと思って苦笑いをした。(5/17/2012)

 **(家内)とよみうりホールへ。秋の秋のヨーロッパ河川クルーズの説明会。**(家内)がどうしてもノイシュヴァンシュタイン城へ行きたいというので、ことしはドナウ河を捨てて、ライン河クルーズを選択。

 旅行資金はREIT投信にしてある。定期預金よりはましと思ったからだったがJ-REIT、W-REITいずれも基準価額が相当に下がっていて、かろうじてプラス。夏くらいまでの間に少し戻してくれるといいのだが、昨今の状勢では期待薄。むしろ、わずかでも浮いているいまのうちに買取請求をかけるか、どうする。悩ましいところ。

 きのうエネファームの「補助金申込受理通知書」なるものが届いた。注釈欄にはしっかりと「本通知は補助金交付申請を受ける資格が与えられたことを意味するもので、正式な補助金交付は『補助金交付決定通知書』によって決定されます」と書いてある。要するに工事完成後の状況が確認されて決まるんだよということなのだろう。

 この支払いも必要。居間の床暖房を電気からガスに切り替える工事もある。投資勘定には手をつけずにゆけそうだが、ウフィツィ、プラドまではカバーできても、エルミタージュまでは難しいかも。そろそろあまり乗らなくなった車を処分するか。(5/16/2012)

 先週、報ぜられたJPモルガン・チェース銀行の損失について。夕方、配信された田中宇のメルマガから。タイトルは「米金融バブル再膨張のゆくえ」。

 ロンドンにあるJPモルガンの投資部門が、債券投資のリスク回避のためにやっていたはずのCDS(債券破綻保険)の指数デリバティブの取引において、逆にリスクを取りすぎる投資をやって大損した。JPモルガンは、ヘッジファンドから逆方向の売り浴びせ攻撃を仕掛けられ、賭けの対象だったCDSの指数が急変動した結果、40日間で20億ドルの大損をした。
 JPモルガンは四半期ごとに50億ドルずつの利益を出している。それと比べ、20億ドルは大した額でない。だが同行の首脳は、発表した損失は全体の一部であることを会見で示唆している。加えて、CDSを使った債券先物投資について、米国の大手銀行の多くが、以前からJPモルガンの投資のやり方を真似て自行の投資の方針を組んでいることも、危機が拡大しそうだとの懸念につながっている。
・・・(中略)・・・
 JPモルガンは1991年、CDSの仕掛けを発明したケンブリッジ大学の数学専攻の学生ブライズ・マスターズ(Blythe Masters)を雇用した。彼女はその後一貫して同行でデリバティブ取引を行うコモディティ部門の最高責任者として働き、CDSという金融派生商品(デリバティブ)と、その市場を創設するとともに、CDSの取引を主導し続け、自行に多大な貢献をしている。JPモルガンは、CDS市場という賭博場の運営者(胴元)であるとともに、賭博場における大手のお客である。
 このような経緯を見ると、米国やその他の諸国の大手銀行や機関投資家の多くが、CDSの投資をする際に、JPモルガンと同じ投資戦略(ポートフォリオ)を組みたがるのが当然だとわかる。CDSのような複雑な金融商品は、仕組みの本質が見えにくく、本質を最も良く把握するのは商品と市場を創設したJPモルガンであると考えられるからだ。CDS関連の金融商品の多くは同行が発行元であり、CDS相場を動かす力を最も持っているのもJPモルガンだ。
・・・(中略)・・・
 そのJPモルガンが、CDSの取引で短期間に多額の損失を出し、自らの失敗を認めたことは、米国と世界の金融界の先物関係者にとって大きな衝撃であるはずだ。賭博場で胴元が大損することは、ルーレットの動きが統制(八百長)不能になっていることを意味する。賭博(市場)の先行きが見えなくなってしまう。大手の投資家の多くが、CDSの取引を手じまいにして市場(賭博場)から早めに引き上げることを検討し始めていることが懸念される。
 CDSは、今や債券取引に不可欠な機能である。JPモルガンの事件によって、その機能に懸念が生じたことは、債券市場全体の信用が短期間に収縮するバブル崩壊への引き金(トリガー)になりかねない。マスコミで再びギリシャのユーロからの離脱が騒がれているが、JPモルガンの事件がこじれた場合、世界の金融システムに与える悪影響は、ユーロ危機よりも大きくなる。

 ロイターの記事にはこんな解説がなされている。

 JPモルガンが損失を出した根本的原因は、マークイットCDX北米投資適格指数(CDX.NA.IG.9)として知られるCDS指数に絡む取引にあるとみられている。北米の投資適格債127銘柄を参照債務とする同指数には、ターゲット<TGT.N>やホーム・デポ<HD.N>、クラフト・フーズ<KFT.N>、ウォルマート<WMT.N> 、ベライゾン・コミュニケーションズ<VZ.N>などの社債が含まれている。
 JPモルガンのポジションは、この指数を使って社債の信用力低下と上昇の双方に賭ける取引が幾重にも積み上げられ、ある取引が別の取引の損失を埋め合わせたり、相互に中立化するよう想定されていた。ところがトレーダーによると、取引の層が増えていくにつれて、意図したようには機能しなくなってしまうのだという。

 素人にはすんなり理解できない「解説」だが、ふたつの記事からはいつか嗅いだことのある「匂い」がする。ロイターの記事からはノーベル経済学賞受賞者ふたりが関わっていたことと華麗な転び方によって伝説となったLTCMの手法の匂い、田中宇のメルマガからはあの「十分にリスク回避がなされたサブプライムローン」が焦げ付いて燃え上がった時の匂い、さらにいえば、LTCMの成功を見て一斉にそのマネをし、LTCM同様の転び方をしそうになった多くの金融機関があったという事実。

 週明けのニューヨークダウの終値は12,695ドル35セント、125ドル25セント下げた。

 市場関係者のコメントは一にも二にも「ギリシャ」に原因をもとめているが、そもそもギリシャの混乱はとっくに織り込み済みだったのではないかモルガンのCEO自らが「完全に解消するためには20億ドルの損失にとどまらないかもしれない」(別の報道では30億ドルていどとか)と、未だ損失額が確定していないことを表明しているこちらの事態の方が、ここ数週間続く下げの根本原因のような気がする。(5/15/2012)

 おおい町議会が大飯原発3号機、4号機の再稼働への同意を賛成多数(賛成11人、反対1人)で決めた由。時岡忍町長はインタビューに対し、「原発の安全性に関する県の原子力安全専門委員会の報告を見て」という留保条件を付けたものの「今月いっぱいには判断する」と言っていた。電力需要が高まる7月に稼働させるためには数週間と言われる準備期間を考慮すると今月中にはOKを出さないと無意味と「その筋から」教えられているのだろう。

 「同意」とはいうものの実質的には「再稼働のおねだり」。理由は簡単、カネだ。原発立地自治体はシャブ中毒者だ、原発マネーが切れそうになると「お手!」でも、「チンチン!」でも、何でもやるのだ。おおい町には既に原発マネーで建てたこども家族館、ホテルうみんぴあ、うみんぴあマリーナ、フィットネスセンター、スポーツロッジ栄光、イベントワークステーション悠久館、・・・などなど、大都市も真っ青になるくらいのハコモノがある。これらの維持運営に関わる費用はひとたび原発マネーが滞るとたちまちにして「血流障害」を引き起こす仕掛けになっている。

 原発の再稼働には賛成できない。しかし、おおい町が町民をあげて「原発を運転して下さい」と懇願なさるのならば、運転して差し上げたらいかがかとも思う。ただし、その時には町として誓約書を出していただきたい。「想定内、想定外を問わず、原子力発電所で何らかの事故が発生し、おおい町が死の町になっても、大井町も町民も一切の補償を求めません。関西電力様、当町住民以外の国民の皆様にはおおい町を従前の状態に戻すために発生する費用に対し税負担をお願いすることは絶対に致しません」というような内容の誓約書を書いていただくことを条件とするのだ。

 フクシマにおける「想定外の」の事故により発生した損害と復旧費用が天文学的な額に達することは満天下に知れ渡った。つまり原発にシビアな事故が起きればどのようなことになるのかは、よほど頭の不自由な人を除けば、知らないとはいえない状況にある。事故がまったく未知の原因で発生したとしても、被害と復旧のためにしなければならないことはかなりの範囲まで既知となった。それを承知で原発の再稼働を求めるというのだから、リスクは稼働を要求する者が100%負うのは当然であろう。

 基地の騒音補償などは元から居住する住民に対して行われる。騒音があることを承知で後に居住した住民は、居住開始の時から格段に異なる新規の事情が発生しない限り、対象外となる。それと同じだ。もらうものはもらって何かあったら補償しろというのはモラルハザードではないか。(5/14/2012)

 気持ちよく晴れ上がった中をいつものようにウォーキング。学芸大付属特別支援学校(「養護学校」というのは「不快用語」だそうだ)では運動会。このコースにはもうひとつ「よしきり橋」のところに都立の特別支援学校があるが、付属の方がかなりいろいろな行事があって、積極的な印象。

 ここを通るたびに**さんのことを思い出す。養護教員(この変換にはアラームが出ない、「特別指導教員」ではかえって妙な憶測を生みかねないからか。ならば「特別支援学校」も同じではないか?)をめざして学芸大に入り、卒業と同時にここに勤務していると聞いていたが、同期の中でも早くに亡くなった。眼のぱっちりした、色白の美人だった。夭折した人は、皆、男なら限りなくいい奴、女ならとびきりの美人に思えるのかもしれない。

 それはそうだ、「命長ければ則ち辱多し」というのが相場。永らえるにしたがって男ぶりも女ぶりも落とすのだ。そう、きのうのあれ。「・・・生命ばかりが長く・・・月日は流れ、わたしは残る」。詠ったアポリネールは先に死に、残ったのはローランサンだったとか。

 自分を知ってくれている人がいるうちに死ぬ方が一人残されるよりはるかにいい・・・もっとも「知己」をいったい何人得ているかとなると溜息三斗。(5/13/2012)

 起きてすぐにニューヨークダウとオーストラリアドルを確認。ダウは34ドル44セントの下げ(時間内では75ドルくらい)、オーストラリアドルも底が79円90銭、振れ幅は73銭と今週で一番小幅、思ったほどのことはなかった。ただ、ダウの方は週明けどう動くかは分からない。株価はショック翌日よりは2日目の方が、思いの外、変動が大きいということがあるものだ。

§

 さて、きのうのこと。アフタヌーン・ティーは御苑近くの(店の名前が出てこない)で。シャンソンは四谷の蟻ん子で、田嶋陽子・翔ユリ子のジョイント・コンサート。

 シャンソンを生で聴くのははじめて。田嶋陽子の方はテレビに出ているあのまま。途中で歌い直すなどというのは言語道断、そのあとで、「お金返してって言わないでね」とくる。ところが、腹が立つより先にハラハラさせられるというのはなんなのだろう。生得的キャラクターなのか。

 翔ユリ子の方は、あたりまえだが、立派にプロ。プログラムの中に「ミラボー橋」があった。

流れる水のやうに恋もまた死んで逝く
   恋もまた死んで逝く
  生命ばかりが長く
希望ばかりが大きい

   日が暮れて鐘が鳴る
   月日は流れわたしは残る

 希望ばかりが胸の中でいや増すのは、あのころもそうだったし、それからもずっとそうだった。命ばかりが長いかどうかは、これからいやになるほど実感するのだろう。

 西日の強烈に射し込む部屋を思い出しながら、「日が暮れて 鐘が鳴り 月日は流れ わたしは残る」というリフレインを記憶に重ね合わそうと耳を澄ましたが、よく聴き取れなかった。あのころに帰りたいわけではないが、もう一度、あの音楽のような朗誦を聴きたいとは思う。(5/12/2012)

 先週2日水曜以来、6営業日連続下げ続けたニューヨークダウだったが、日本時間のけさの終値は12,855ドル4セントとわずか19ドル98セントあげて終わった。

 しかし、どうもこれはほんの気休めになりそうだ。取引終了後にJPモルガン・チェースがとんでもない発表をしたからだ。

 本稿執筆時点(日本時間11日午前6時)に、JPモルガン・チェースが、本年3月末時点で社内部門のチーフ・インベストメント・オフィスが42億ドルの損失を出すことがreasonably possible(合理的可能性あり)とダイモン最高経営責任者(CEO)が電話会議で発表。同部門は「リスク管理として預金の一部の金利リスクなどをヘッジ売買する」役割を持つ。平たく言うと行内のヘッジファンドのような存在で、実質的に自己勘定取引と見なされるような売買に従事していた。当該四半期に、マーケットのボラティリティー(価格変動率)が高まった影響で10億ドルの損失が生じているともいう。
 売買の実行がpoor(貧弱)で、社内モニタリング(監視)もpoorで十分に機能していなかった、と述べ、社内検査部門が社内ポートフォリオのリストラクチャリングに乗り出しているという。執筆時点でも続いているコンファレンスコールで、ダイモンCEOが質問攻めにあっている。
 本件は、米国主要経済紙の通報から発覚したという。時間外の同社株価は、40.74ドルから38.90ドルまで急落中だ。現在のマーケットのリスク回避を更に加速させるような出来事ではある。今回の一件は、銀行の自己勘定売買の規制に直接関わる事態であり、リスク管理の適正な実行が改めて問われることになろう。(日経「NY特急便」:担当筆者は豊島逸夫)

 別の記事によると、チーフ・インベストメント・オフィスが投資していたのはCDSらしいが、保険の対象がなんなのかは分からない。

 内容によってはオーストラリアドルあたりにオーバーシュートが発生してくれそうなのだが、こういう日に限ってアフタヌーン・ティーとシャンソン喫茶での約束が入っている。じつに残念。(5/11/2012)

 ウォーキング中はこれで本当に雷雨になるという天気だったが、終わって戻るやすぐに暗くなり始め、あっという間に降り始めた。稲光が見える。数秒して雷の音。まだ遠いようだ。日曜日の竜巻もそうだったが、どうもこのところの天気は不安定だ。

 とかくなにごとも「異常気象」と騒ぎたがるのは「近ごろの若い者は」という老人の口癖同様の「思い込み」という気もしないではないが、大陸からの寒気のせり出しの頻度が高いことが原因らしい。温暖化ばかりが意図的に騒がれているが、太陽活動は不活発期に向かいむしろ寒冷化サイクルに入りつつあることを意識した方がいいのかもしれない。

 もっとも原発推進派の人びとは、この夏がおととし以上に、できれば近年まれに見るほど暑い夏になってくれることを切望していることだろう。先月の天声人語にこんなくだりがあった。

いま原子力発電の信奉者が恐れる呪文は、忌むべき13の音で構成される。〈なければないでなんとかなる〉(4月25日)

 5日深夜、北海道電力泊原発3号機が止まり、現在、我が国は原発稼働ゼロ状態になった。

 原発に「異常な愛情-または私は如何にして心配するのをやめて原発を愛するようになったか」を抱いていらっしゃる方たちは、現在、関西電力大飯原発の再稼働にしゃかりきになっている。なぜなら、もし、大飯の再稼働が実現しないままにこの夏を迎え、まちがってそのまま乗り越えでもして、「な~んだ、なければないでなんとかなるじゃん」という呪文が力を持ちかねないからだ。

 それに関連してこのところ繰り広げられているのが関西電力と経産省による「バナナのたたき売り」現象。もしおととし並みの猛暑になら不足する電力量は4月のはじめには19.6%だった。ところが中頃には16.3%になり、つい最近は14.9%になった。このまま進むと、そのうちに「さあ、持ってけ、ドロボー」となるかもしれぬ、呵々。

 夕刊にはもっと嗤える記事が載っている。関西電力はきょう政府の需給検証委員会に対して「大飯原発が再稼働すると、関電管内の今夏の電力需給は再稼働しない場合の14.9%の不足から、わずかにプラスになるとの試算」を報告したというのだ。

 なぜこれが嗤えるか?

 先週4日、関西電力は大阪府・大阪市統合本部エネルギー戦略会議に石根茂樹副社長を出席させ、「原発が再稼働しなければ2010年夏並みの猛暑だった場合、一定の節電をしても8月に495万キロワット(16.3%)の供給不足になるとの資料を提示。福井県の大飯原発3・4号機(各118万キロワット)が再稼働しても安定供給は困難だ」と説明した。その場に出席していた古賀茂明府市特別顧問から「夏が近いこの段階で大飯原発が動いても足りないという需給計画を平然と出すのは信じがたい話だ。それなら、まず先に謝罪の言葉があってしかるべきではないか」と叱責されるという一齣があったからだ。

 あれから6日経って、さっそく帳尻をなんとか合わせたのがきょうの報告とすれば、舞台裏は見え見えということになる。「数字などいい加減でよい、電力不足という言葉で脅せばなんとでもなるんだから」というのが安っぽい関電首脳の腹のうちらしい。まず、こんな無能極まる関電首脳を全員馘首にすること、関電から地域独占権を取り上げ、「非常時」に見合った特別体制をとること、さらにその運営組織から原子力に色気を持っている人間を徹底的に排除すること、そのあたりから手をつけない限り、問題の真の解決はないだろう。(5/10/2012)

 先月26日に無罪判決が出て、控訴期限は2週間後、つまりあした。きょう、指定弁護士大室俊三、村本道夫、山本健一の三人が協議して、一致して控訴を決めた由。

 この裁判では聞き飽きるほどに「市民感覚に照らして」とか、「市民常識から言って」という言葉が使われてきたが、虚偽の捜査報告書により検察審査会がミスリードされて強制起訴が決まったこと、調書の捏造が露見した結果、石川調書などかなりの調書が証拠採用されず無罪判決が出たことを考えると、控訴はそれこそ「市民感覚」、「市民常識」に反するのではないのか。まことに不思議な判断だ。

 「限りなくクロに近いグレー」と評された判決文は、あれほど諸事を小沢に不利なように判じても「有罪」にできなかったということで、指定弁護士側が推定無罪原則を覆すだけの決定的な事実をなにひとつ提出できなかったということを、逆に、証明していると解するべきではないのか。

 小沢弁護団の弘中惇一郞は「弁護士の感覚からすれば」と言っていたが、まあ、大室以下三名は「検事」としてやっているのだからそれを言っては可哀想かもしれない。しかし、彼らは「職業検察官」のように月給をもらう身ではない。通常の弁護士活動同様に業務報酬をもらうだけだ。いったい、いくらもらうのか。最高限度額で120万円だそうだ。既に報ぜられたところでは、彼らが一審にかけた時間から割り出すと時給は二千円ていどという話。

 成り立てほやほやの弁護士ではない。それなりの経験とスキルのある弁護士が選任されているはずだ。時給二千円では割に合うはずはない。とすると、この控訴は法曹にたずさわる者の「意地」から出たものなのだろうか。しかしそれもいささか不自然だ。素人は、マスコミが煽るせいもあって、先月の判決を「惜しい!」と見るが、玄人は、マスコミに重用されている検察出身者を除けば、そう思っていないようだ。検察出身でも郷原信郎はあの判決を評して、ばっさり「無罪」と切って捨てるのではなくかなり丁寧に「無罪」の説明をしているというようなことを言っていた。

 指定弁護士三名は控訴にあたって何を「積み増す」つもりなのだろう。一審の準備の焼き直しだけで二審に臨み、一審の「手間賃」を多少とも取り戻す・・・そんなことは考えたくもないが、もし、そうだとしたら(最高裁までやるのだろうから)我々の税金はこれから720万ほど彼らに空費されることになる。それとも、彼らには「サル筋」あたりから官房機密費あたりを財源にウラ報酬の申し出ででも受けているのだろうか。そんな空想をしたくなるような不思議な「控訴」だが、彼らがどれだけの「積み増し」をし、推定無罪原則をひっくり返すようなめざましい証拠を見せてくれるかどうか、それが眼に見えるかどうかで彼らの真贋も分かる。彼らが瞠目するような「ファクト」を提示してくれることを心から期待することにしよう。(5/9/2012)

 夕刊の「人脈記」、きょうからのシリーズは「最後の一葉」。

 「最後の一葉」と言えばO・ヘンリーの有名な短編。研究社か何かの原典シリーズで読まされて、あの洒落たグリニッジ・ヴィレッジ紹介を訳するのに頭が腸捻転を起こした記憶がある。素直に読んで素直に訳せばいいだけの話だったのだが。

 しかし十分に感動的で一読忘れがたい傑作だった。そして今晩のこのコラムも。

 東京五輪1万メートルは38選手中9人が途中棄権した。スリランカ、当時セイロンのカルナナンダ・ラナトゥンゲは遅れた。他の選手のゴール後、1周、2周、3周した。冷ややかだった7万の観衆は、トラックを一人走るゼッケン67に吸い寄せられ、優勝をも上回る拍手でゴールに迎えた。

 このレースを「人生を生きてゆく燃料」にした男、鈴木康允が今夜の「人脈記」の中心人物。完走するカルナナンダ選手に感動した鈴木はすぐに自分の宝物(一年ほどかけて作っていた「西洋の砦の模型」)をもって面会した。しかし、その後、二人が再び会うことはなかった。手紙のやり取りはあったがそれも途絶える。カルナナンダはオリンピックの10年後に事故で水死する。

 縁がつながったのは鈴木がたまたまスリランカの少女に「車、危ないよ」と声をかけたことから。彼女の父がカルナナンダとその親戚を知っていた。鈴木は人生の燃料源、彼にとっての英雄の娘と会うことができたという話。その娘の言葉、「父のことを話して鈴木さんは泣きました。どれだけ父を大事に思ってくれているかがわかりました。鈴木さんとの出会いは、父の思い出とともに私の中にあります」。

 濃密な話ではない。しかし、人生には因縁、奇縁が絡みついている。もしかしたら、始めて女子マラソンがオリンピックに採用されたロサンゼルス大会。あのときのアンデルセンの姿に感動し、それを「人生の燃料」にした彼または彼女がどこかにいるかもしれない。「最後」かどうかは別にして、人は常に自分の「一葉」を記しながら生きてゆくのだから。(5/8/2012)

 ゴールデンウィーク明けの東証は下げて始まる。ことしも下げた。きょうの終値は9,119円14銭、261円11銭はことし最大の下げ。去年は6日が金曜、土・日を控えた谷間だったせいか、145円ちょうどの下げだったが、おととしは6日に361円71銭、7日に331円10銭とダブルパンチから始まった。

 フランス大統領選でサルコジが負け、ギリシャの総選挙で連立与党が過半数を割り、またまたユーロの弱みがヘッジファンドの攻撃に晒されそうな雲行き。ドイツ、フランスの株価指数は2%ていど、スペイン、イタリア国債の利率は急上昇、株・債券・為替のトリプル安状況とか。

 たぶんそれを反映したのだろう、投資信託も我が家所有のもので基準価額が上がったのは新興国株セグメントだけで、株・債券・REITすべてが下がった。一喜一憂することではないと思っていても、日に百万も評価額がダウンすると明るい気分にはなれない。

 ニューヨークダウは2日から三連続で下げていた(10.75ドル、61.98ドル、168.32ドル)から、週明けとなる今晩から明日朝、どんな反応をすることか。しばらくの間、下落相場になりそうだ。3月来、手もと資金率を高くしてある。ものは考えようで、安く仕入れができると思えば少し楽しみ。

 オーストラリアドルがもう少し円高に振れていればもっと面白いのだが80円半ばまでしか下げてくれていない。したがって、こちらのほうは家の分ではなく、小遣い分をチマチマ。まだ京都筍パーティ参加費用までは稼げていない。(5/7/2012)

 週刊ポストの広告から。このバカ週刊誌もたまには眼が覚める時があるらしい。

「暗黒裁判」総決算
「小沢氏一郎は無罪でも消えろ」/暴走検察と併走する巨大メディアの大罪
無罪でも「判決文を読む限り黒に近いグレー」と書く。
無罪でも「秘書は有罪」と必ず付け加える。
無罪でも「検審の民意」を強調し制度の問題点は無視。
無罪でも「街頭の声」を根拠に「国民は納得していない」と書く。
無罪でも「説明責任は果たされていない」と国会喚問を煽る。
「陸山会事件そのものがメディアが作り上げた事件だ」ジャーナリスト鳥越俊太郎

 小沢一郎を支持するわけでも、小沢ならばうまくゆくだろうなどと考えているわけでもない。ただ「陸山会事件」なるものがいかにお粗末なものかということ、こんなことがまかり通るようでは、この国の歪みはひどくなるばかりだと危ぶんでいるだけだ。

 まず検察庁の持つ絶大な権力をもってしても、小沢が違法なカネを受け取っているという事実の一部すら掴むことができなかったということをきちんと認識しなくてはならない。絶対に小沢は潔白だと考えているわけではない。選挙の時に物を言うようなカネを何らかのシステムで集めているのではないかとは思っている。しかし違法性を立証できない以上、法治国家としては、単なる疑いで騒ぎまわるわけにはゆかないのは明らかであろう。

 大方の国民は忘れてしまっただろうが、当初、マスコミは「検察にとっての難題は職務権限の有無になるだろう」と報じていた。つまりゼネコンから違法なカネを受け取っている事実を暴くことに検察が失敗するとは考えていなかったのだ。ところが大山は鳴動したがネズミ一匹、いやそのネズミすら出て来なかった。(真偽は不明だが、自民党議員の何人かにカネが渡った事実を検察はつかんだそうだ)

 検察はここで潔く敗北を認め一件落着とすればよかった。しかし政権交代前夜、なんとしても小沢民主を叩きたい自民党筋のリクエストを、裏金問題(三井環が告発しようとした件)で弱みを握られている検察庁は断ることができなかったのだろう。公金のコソ泥を長年繰り返してきた検察庁の身から出たサビが新たな「検察犯罪」のもととなったと思うと、まことに因果の報いとは恐ろしいものだ。

 検察は「西松建設のダミー団体と知りながら政治資金を受け取ったことが問題」という話をかろうじて立件した(大久保隆規を逮捕・起訴)。この時点で検察は「贈収賄という実質犯事件」から「政治資金規正法違反という形式犯事件」へ縮退せざるを得ない「敗北」を喫していた。ところがこの公判すら検察は維持できなかった。他ならぬ西松建設の元総務部長が「ダミーとは思っていなかった」と証言するなどしたからだ。

 ボロボロになった検察がメンツのためだけに新たに作った事件が政治資金収支報告書の虚偽記載だった。敗色濃厚だった検察は大久保に対する訴因変更を行うという奇手を用いて「転進」を図った。それが「陸山会事件」だ。もともとの容疑からすれば、なんとまあチンケな話か。あろう事か、その過程で検察自身が捜査報告書に虚偽記載をするというお嗤いの一幕までが付け加えられた。虚偽記載事件をでっち上げるために虚偽記載をする、これを笑わぬ者は頭のネジが一、二本抜けている。

 流れをずっと見てきた観客から見ると、もう検察・法務官僚のあがきは哀れを誘う。また、目前の事実だけに幻惑され通して報ずる眼を持たぬマスコミの醜態も目を覆うばかり。新聞もテレビもいったい何をやっているのだ。週刊ポストの揶揄に苦い思いをしているマスコミ関係者はどれほどいるのだろう。

§

 筑波ですごい竜巻。家ごと巻き上げられたところがある由。一人死亡。**のところが心配でメールしてみた。被害地はつくば市の北寄りで、土浦は雹が降ったていどとのこと。(5/6/2012)

 立夏。暦通りの陽気。少しピッチを上げて歩くと暑いくらい。

 川岸のそこここに木々の葉が茂り、ついこのあいだまでは久留米西高校あたりから落馬橋のたもと小金井街道を渡る歩行者信号が見通せたのだが、ところどころしか見通せなくなった。冬のあいだは歩行速度をうまく調整して横断待ちがないようにできるのだが、これから半年は多少技巧を要するようになる。それだけ遊歩道沿いの花をゆっくり楽しむ気にはなるけれど。

 そうそう、馬酔木だろうって言われた白い小さな花、ドウダンツツジと京都で教わった。教えてもらうには現物を見るか、写真でも送らないと確実というわけにはゆかないようだ。ドウダンツツジは紅葉を楽しむものと思い込んでいたところが、植物音痴の植物音痴たるところ。

 まあ、マルクスは「わたしはマルクス主義者ではない」と言っていたそうだ。ネーミングをしたらそれでおしまいというものではなく、その花を愛でて、思ったこと感じたことを添えられる、そこから始まるのだということも、ほんの少しわかりはじめたところだけれど。

 いつものように神山大橋で折り返す。きょうは久々に時速換算で6.5キロ。右足の甲が少し痛くなり、復路はピッチを落とした。見上げる空は気持ちよく晴れ上がり弁天堀橋から下田橋まで富士が見えた。気温が高めで湿度も高いせいか、くっきりはっきりではない、薄がすみの中にポッと浮き上がるような見え方だった。

 端午の節句。「粽(ちまき)解いて芦吹く風の音聞かん」(蕪村)。(5/5/2012)

 きのうの日記を読み返してみて、違うのかもしれないと思った。ドジョウ宰相のバカさ加減のことではない。ノダメはノダメのままだ。

 「何と何が劇的に変わっているかということを見る力」はともかく(それくらいはなくては困る、陋巷の民ですらある)、「その変化がもたらすものにどう向き合うのかという構想力」がないことを嘆いて、それを有する者の現れることを待望する心理にはいささか問題があるな、と思った。この心理は「民主主義」への「飽き」、「あきらめ」から来ている。「どうせ世の中の半分はバカ、話の通じない奴ばかりだ」と思って、そこから先のことをあきらめてしまうから、この閉塞感の中にとどまってしまうことになる。

 この国の歴史の中で民主主義的なるものが生きていたのは幕末から帝国憲法ができるまでの間だったのかもしれない。甲論乙駁とはいうものの、最低限「オレはこう考える、オヌシはどう考える」という武士のエートスに支えられた論議はあったろう。もちろん、こうしか考えられないという手合いはテロリストにもなったのだろうが。彼らにあった危機感は武士である以上プライドを失うことであった。支那のようになったらどうする、政体はできたものの二流、三流の国に甘んずることになったらどうする。それは「恐怖」を裏付けとする「危機感」だった。議論の収束は計りやすいものだったのでないか。

 いまはどうか。まず民主主義のおかげで議論に参加する人びとの敷居は低くなった。エートスなど持ちあわせない手合いが主要メンバーだ。もはや危機感は「矜恃」にはない、「食えるか・食えないか」だ。そして、まだ、少なくとも「まだ」、「食えない恐怖」はない。恐怖に支えられない「危機感」は言葉の上での「危機感」でしかない。だから、議論は甲論乙駁のレベルにすら達しない。議論の収束などはただの理想に過ぎない。真剣さも格段に足りないし、議論の質を保つ枠も期待できない。

 考える前に「答えは何?」という「教育」を受け、日々、皮膚感覚こそビジネス感覚と思って生きているのだから、適切に危機感をあおり、これしかないでしょという洒落た答えを掲げられた奴にフラフラとついて行く、そんな「民衆主義」が現在のこの国の「民主主義」だ。

 いまこの国の政界に、官界に、財界に、知的なデシップリンが行き届いている人物がどれほどいることか。近いところ、浅いところにしか眼の利かぬ水先案内人が 圧倒的に多いとしたら、遠いところ、深いものへの感覚を持つ者は疎外される。パイロットが役に立つのは港の中だけで、外洋を航海するためには別の能力が必要なのに。「新大陸」をめざすための資質を持つ人物は、まず、新聞が叩き、テレビが囃し立て、週刊誌が貶める。裏で糸を引くのはせいぜいが水先案内人しかできぬ手合いなのだろう。(5/4/2012)

 恥も外聞もなく自画自賛できるというのは政治家の必要条件だから、笑って見過ごしてあげるのが正しいやり方なのだが、「こいつ、口ばっかりで、何にも考えていないんじゃないか」と思わせるのが我が宰相の「人徳」。

見出し:「訪米に確かな手応え」野田首相、ブログで自賛
 「今回の訪米には確かな手ごたえを感じている」。オバマ米大統領との会談を終え、2日に帰国した野田佳彦首相は早速、同日付の自身のブログに書いた。
 首相は、日米同盟をアジア太平洋地域の平和と繁栄の「礎」だとし、防衛協力の強化を盛り込んだ共同声明について「日米同盟が新たな高みに達したことを示す」と自賛。旧東京市からワシントンに桜が贈られて100年となることにちなみ、「百年先にも花を咲かせる役割の一端を担えたのならうれしい限りだ」と記した。
 消費増税法案の審議に思いをはせてか、ケネディ元大統領を尊敬する政治家として挙げつつ、大型連休の後半を「先達の政治家たちの一生にも思いを寄せながら、この先に向けて、静かに想を練ろうと思う」と締めくくった。

 「ハイハイ」と苦笑いするだけ。先日書いた「北朝鮮の政治」そのもの。かつて引かれた線をそのまま将来に向かって延長するだけ。何と何が劇的に変わっているかということを見る力がない、その変化がもたらすものにどう向き合うのかという構想力がない、・・・企業で言えば「管理職」であって「経営職」ではない。まさに「役人」そのもの。それも「高級官僚」ではない。もっとも最近は霞が関にも真の意味での「高級官僚」はいなくなったそうだが。

 オバマはじつにシビアに野田を評した。「彼は地味だが着実に仕事をこなす人物だ」。痛烈な寸評だったが、遇し方もシビアだった。続けて開催された夕食会にオバマの姿はなかった。宴の主催者はクリントン国務長官。ずいぶんは低く見られたというか、バカにされたものだ。

 社長同士の話し合いの後、「彼は地味だが着実に仕事をこなしてくれる人だ」と語ることが許容されるのは、親会社の社長と系列子会社の社長といった関係くらいだろう。出資関係がない会社どうしであれば、経営規模のギャップが大きくとも、発言した社長の部下は「ダメージ・コントロール」(先日憶えたばかりの言葉)に追われることになろう。ところが、現在、日米の出資関係は逆である。(5/3/2012)

 品質屋さんならば誰でも「ハインリッヒの法則」を知っている。「1件の重大事故の背後には29件の軽微な事故があり、さらにその背後には300件のヒヤリ・ハッと(「ヒヤリ・ハット」と書くことが多いが、「ハット」は「ハッとすること」だから、気取って「ハット」などとするのは間違い)事故がある」という経験的法則をいう。

 総務省が貸し切りバスの運転手を対象にした調査を実施したところ、約9割の運転手が「睡魔に襲われたことがあり、ヒヤリとした経験がある」と回答していた由。この調査は09年に行われ、翌年9月、総務省は「運転手の健康面を考えておらず、運転手や有識者らの意見もくんでいない」と指摘し、行政評価に関する権限を定めた総務省設置法に基づいて国交省に改善を勧告した。ところが国交省はバス業界との私的懇談会での協議結果を根拠に「運転手1人1日670キロ」基準は「見直す必要はない」と突っぱねたのだそうだ。興味深いのは同様の調査を国交省も実施し、同様の結果を得ていたこと。

 07年2月に大阪府吹田市でスキー客ら27人が死傷したバス事故後、国交省は670キロの基準をつくる一方、総務省は運転手500人を対象に勤務実態などを調査。回答した136人のうち122人(89.7%)が運転中に睡魔に襲われたり、居眠りをしたりしたと答えた。ヒヤリ・ハット体験も9割を超える130人(95.6%)が認めたという。
 調査では安全運行できる乗務距離についても質問。高速道と一般道の両方を走る場合、昼間が平均「531キロ」、夜間が平均「439キロ」で、国の目安を大きく下回っていた。

 ハインリッヒの経験則にてらせば、今回の事故は起きるべくして起きたと言える。まあ、国交省の役人にとっては、「業界団体の要望」と「国民の生命」とでは、前者の方がプライオリティが高かったということ。なぜか。税金から給料をもらえるのはあたりまえに保証されていることだが、業界団体に天下りポジションを確保することは必ずしも保証されていないからだろう。

 せいぜいこのていどの「忠実義務」なのだね、この国の役人の義務感というのは。コイズミ的感覚からすれば、「安い運賃に飛びつくバカな利用者の自己責任の問題だよ」というところだろうか。(5/2/2012)

 最近は日記を書く方に力が入り、ホームページの更新に時間を割く気になかなかならない。またまた、溜まってしまった。

 書く方に力が入るのは「云わずば、腹膨るる思い」のすることがあまりに多く、たとえ数人足らずの限定メンバー相手でも思いをぶちまけたいと思うからだ。しかし更新がされなければ、ただでさえ少ないアクセス数はいっそう減少する。いっそのことアクセスゼロになれば、「書く」ことに力も入らずあっさりした日記になるはずで、よほど暇になることは必定。なんたる矛盾、なんたる不合理。

 京都の筍パーティがあさって。帰ってからでは月をまたがってしまう。夕方になってから、更新に取りかかった。単純にコピー&ペーストするだけなのだが、カリカリしながら書いている日記故、悪文も悪文、そのままというわけにはいきそうもない。どうしても手を入れることになる。

 結局、あしたの準備をする時間を食い潰してしまった。昼過ぎの「ひかり」だから、ウォーキングはできると思っていたが、あしたの午前中は無理そうだ。(4/28/2012)

 尖閣の島々のいくつかを東京都が購入するという石原発言にたいして、先週来、いろいろなコメントを眼にした。その中で一読に値すると思ったのは、ウェブロンザに掲載された佐藤優の一文だった。その核心部分を書き写しておく。

 日本にとって領土問題とは、実効支配することができず、他国によって不法占拠されている領土係争を指す。ロシアによって北方領土、韓国によって竹島が不法占拠されている。従って、日本にとって領土問題は、北方領土と竹島の2つしかない。
 尖閣諸島は、日本が実効支配している日本領だ。尖閣諸島をめぐる領土問題は存在しないというのが日本政府の立場だ。裏返して言うと、中国の外交戦略としては、尖閣を領土問題として国際的に認知させることが当面の目標となる。石原氏のワシントン講演により、尖閣諸島をめぐる領土問題が日中間に存在することが、国際的に定着した。この点で、中国は口先では石原氏を激しく非難しても、内心では「尖閣を領土問題化してくれてありがとう」と感謝している。

 つい最近読んだ孫崎享の「日本の国境問題」にはこんなことが書かれている。

 中国には今「日本何するものぞ」という高揚感がある。「本来中国に属すべき島が、これまで不当に日本領になってきた、これを取り返したい」という高ぶりがある。これが尖閣諸島への領有権主張として現れる。他方、日本には、「中国は力をつけてきたから、かさにかかって、不当に領土要求を行っている」という感覚がある。
 さらに、尖閣諸島周辺に眠る石油資源。領土紛争の過去の経緯からみると、尖閣諸島は紛争の起こりやすい事例である。
 従って尖閣諸島を巡り、いかに紛争を起こさないかが日中外交の重要な課題であり、周恩来、郡小平主導の下に、次の合意(暗黙の合意を含む)が成立していた。
 2010年、管直人政権は、理解しているのか埋解していないのか、この原則を次々と破っていくこととなる。
 ある信頼できる政治家が、菅政権の責任ある政治家に対して「尖閣諸島で今政府の採用している政策は、緊張を低めようとするこれまでの日中関係を根本的に変えることになる」と警告したのに対して、「十分、認識している」と答えたということである。ちなみに、答えたその政治家は日米関係強化を最も強く主張している。

 ここで、警告した「ある信頼できる政治家」が誰であるかは分からないが、「十分、認識している」と答えた「責任ある政治家」が誰であるかは想像できる。前原誠司であろう。

 孫崎の同書には「日米同盟は役に立つのか」という章がある。この国には「日本は北方領土、竹島、尖閣列島を抱えている。これらを守るためにも強固な日米関係が必要である」と考えている人が多い。日露・日韓・日中間で武力紛争が発生した場合には米軍が「同盟」義務を果たしてくれるだろうという期待だ。このうち、前二者は相手国が実効支配しているので、こちらから武力侵攻することがない限り火がつく可能性はゼロに近いが、尖閣のみは可能性としてはあり得る。ではその時、米軍は・・・。

 尖閣諸島に在日米軍は出るか、この問題を最初に提示したのは日本人ではない。何とモンデール駐日大使(1993年から96年)である。モンデールは1977年から1981一年までカーター政権で副大統領を務め、1984年の大統領選挙では、共和党レーガン大統領に対する指名候補者となった民主党の重鎮である。
 1996年9月15日ニューヨーク・タイムズ紙は「モンデール大使は、米国は(尖閣)諸島の領有問題にいずれの側にもつかない。米軍は(日米安保)条約によって介入を強制されるものではない」と述べ、同じく10月20日付ニューヨーク・タイムズ紙は「モンデール大使は常識であること、つまり(尖閣)諸島の(中国による)奪取が(安保)条約を発動させ米軍の軍事介入を強制するものではないと示唆した」と報じた。(出典:Mark Vlencia著「The East China Sea Dispute」(学術誌Asian Perspective 2007年第1号156頁)
 モンデール大使はとんでもないことを言及した。多くの日本人は、「在日米軍は日本の領土を守るために日本にいる」と信じている。日本の領土の中には尖閣諸島も入っている。もし米軍が尖閣諸島を守らないのなら、日本人の中から「米軍は何のために日本にいるか」という疑問を抱かせる。即、日米双方はモンデール大使発言のダメージ・コントロール(損傷の制御)に入った。米国は次の原則を日本側に知らせる。
 それ以降幾度となく米国はこの立場を日本側に知らせている(外務省ホームページ1996年11月6日付外務報道官談話等)。
・・・(中略)・・・
 同じように、2010年9月24日時事通信は、「前原外相はクリントン米国務長官と会談した。クリントン長官は尖閣諸島について“日米安全保障条約は明らかに適用される”と述べた」と報じた。
 ここで非常に重要な論点が残っている。「尖閣諸島が安保条約の対象になる」ということと、「尖閣諸島での軍事紛争の際に米軍が出る」ということは同一ではない。
 安保条約第五条を見てみよう。第五条は「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」としている。
 尖閣諸島が日本の施政下にある。それは正しい。だから第五条の対象になる。これも正しい。では、それが「米軍の介入になるか」というと、それはモンデール大便の言うように自明でない。
 米国は条約上の義務を負っていない。第五条で述べているのは「自国の憲法上の規定に従って行動する」と言っている。では米国憲法の規定とは何を意味するか。
 米国憲法第八条[連邦議会の立法権限]の第11項に戦争宣言が記載されている。他方大統領は軍の最高司令官であり、戦争の遂行の権限を有する。こうして戦争実施に関し力を分散させたのは、米国が突入する危険を少なくするためと見られている。議会の戦争宣言権と、軍の最高司令官の間の権限調整は、法的にさまざまな議論があるが、大統領は戦争に入る際には政治的にできる限り議会の承諾を得るように努力する。
 この中「主権は係争中。米国は主権問題に中立」としている尖閣諸島の問題に議会と相談なく軍事介入することはありえない。従って米国が安保条約で約束していることは、せいぜい「議会の承認を求めるよう努力する」程度である。
 米国が自国の軍隊をどこまで使うかは、日米安保条約と北大西洋条約を比較すれば、より鮮明になる。
 北大西洋条約第五条は「締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。武力攻撃が行われたときは、個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋弛感の密会を回復し及び経線するために、その必要と認める行動(兵力の使用を食む)を直ちに執る」としている。日米安保条約では「自国の憲法上の規定に従って行動する」である。北大西洋条約は「必要と認める行動(兵力の使用を含む)を直ちに執る」としている。
 日本の多くの人は「尖閣諸島が安保条約の対象である」ことと、「米軍が尖閣諸島に軍事的に介入する」とは同じであると思っている。ここには大きな隔たりがある。

 同書によれば、文藝春秋2011年2月号に掲載されたジョセフ・ナイとリチャード・アーミテージの対談で、アーミテージはこう語っているそうだ。「日本が自ら尖閣を守らなければ(日本の施設化ではなくなり)我々も尖閣を守ることができなくなるのですよ」。

 単に尖閣諸島の領有権についてだけのことならば、最悪でもフォークランド「紛争」レベルにとどまるであろう。そのレベルでの「紛争」であれば、我が方が圧倒的に不利であるとは思わない。しかし、つまらない流血の事態は回避すべきであり、それこそが外交の使命である。

 とすれば、「領土の主権をめぐる争いを当面棚上げ(外交関係で領有権を主張しあわない)に」し、現在の我が国による「実効支配」の状況を保全しつつ、漁業権、資源権について妥当な二国間(台湾を暫定的に関与させることも「あり」とする)協定によるウィン・ウィンを図ることだけが最良の道であって、いたずらに自己満足的な行動を取ることにより中国や台湾の領有権主張を国際的に広く認知させるようなことは最悪の下策ということになる。

 もちろん石原のような近視眼の下衆にとってはほんとうの意味での「国益」などはどうでもよく、「政府に吠え面をかかせること」の方がはるかに大事なことなのだろうが。

 なお、石原が講演を行った場が「Heritage Foundation」の主催するシンポジウムだったことには留意しておくべきだろう。ヘリテージ財団が右派系のシンクタンクであるため石原とは相性がいいということを指摘する人もいるが、ヘリテージとて中国と正面から事を構えることを夢見ているとは思えない。単純に「日中間に適度な火種がある方がいい。米軍の極東における所用軍事費を日本側がなるべく過大に負担してもらうためには」ていどのことだと思う。石原本人が我が国の国益なるものをどこまで考えているかは分からないが、知恵の働かぬおバカさんを使いこなすのも「シンクタンク」の役割の一つなのだ。(4/27/2012)

 ウォーキングから戻って「小沢、無罪」を知った。御身大事の裁判長にして、それでもどうにもならなかったのだろうというのが第一印象。夕刊に掲載された判決文の要旨などを読むと、未練たらたらの体で嗤ってしまった。指定弁護士が「ここまで指摘するなら、なぜ有罪にしないのだろう」といったのも頷ける。要するに「本件が法廷に持ち込まれたことに問題はない」、そのことを一生懸命「立証」したということ。そのように読めた。いまやこの国の裁判は検察のメンツを潰さないためには、「論理」をそれにしたがわせるようになったようだ。

 これから何十年か先、この「事件」を懇切に調べる人が現れるとしたら、これほど無内容の裁判が提起されたことに驚くにちがいない。

 テレビ番組に「クイズ百人の人に聞きました」というのがあったが、いま、街頭でこの裁判に至るまでの小沢一郎に対する疑惑がどのような経過をたどったかを尋ねたら、何人くらいが正確に答えられるだろう・・・そう思うと薄ら笑いがこぼれる。

 そもそものスタートは「小沢一郎金権疑惑」だった。「西松建設のダミー団体であることを知りながら受け取った政治献金は違法」、これで秘書の大久保隆規が逮捕された。しかし、同じダミー団体からパーティー券代および別途現金を受け取った二階俊博の会計責任者はいったん不起訴、その後、略式起訴処分になった。小沢事務所と二階事務所への処分が異なったのはなぜか、マスコミは不問にした。

 不完全燃焼に終わった西松建設ルートに変わる形で登場したのが水谷建設ルートだった。結論から書くと、水谷建設による小沢一郎へのヤミ献金は検察が法人税脱税で服役中の水谷建設元会長・水谷功と取り引きをしてメイキングした事件(他に前福島県知事・佐藤栄佐久への「贈賄」もある)だった。出所した水谷はやがて公判廷で「水谷建設が小沢に裏金1億を提供することは了解したが、カネを渡したかどうかは立ち会っていないので知らない」というなんとも興味深い証言をするに至る。もっと興味深いのは、検察が「小沢の秘書にカネを渡した水谷建設元社長・川村尚を受け渡し場所のホテルまで送った人物」と主張した、当のその運転手が「よく憶えていないのに、検察官にサインしろと言われた。何度言っても訂正してくれなかった」と、検察に「偽証」を強いられたかのように証言したこと。

 村木厚子冤罪事件以来、日本の検察官には嘘を平気ででっち上げる輩がいるらしいということが常識化してしまった。どうやら水谷建設ルートがついに立件できなかったのは、証拠不足だったのでなく、そもそもそんな贈収賄がなかったからと考える方が合理的なような気がする。

 きょう判決された事件は、もともとは、水谷建設からのヤミ献金という収賄事件の状況証拠として使うはずのネタ、たったそれだけを対象としたものだ。以前の日記にも書いたが、人を殺して逃走中に信号無視をしましたというなら、「道交法違反」などではなく「殺人」で起訴しなくてはウソだろう。検察が思い描いていた「1億円の収賄事件」はどこにいったのか。マスコミはこれも不問にしている。竜頭蛇尾とはこういうことを言うのではないか。

 収支報告書の04年版と05年版を通覧すれば、4億円のカネの出入りも、取得した土地もきちんと書かれている。だから夕刊の「判決要旨」にはこう書かれている。

 土地の所有権は、売買契約に従って、04年10月29日に陸山会に移転したと認められる。政治資金規正法の下では、不動産の取得を収支報告書に計上すべき時点とは、所有権を取得した時点を基準とすべきだ。
 陸山会は04年10月29日に土地を取得したと認められ、土地の取得と取得費の支出は、05年分ではなく、04年分の収支報告書に計上すべきだった。04年中に支出した取得費を、05年分に計上して提出したことは、虚偽の記載または、記載すべきことの不記載に当たる。
 元代表が石川元秘書に渡した4億円は、土地の購入資金に充てるため、陸山会が使うことを許容して石川元秘書に渡したものであり、陸山会の元代表からの借入金とすべきだったと認められる。04年分の収支報告書で、元代表からの借入金として4億円が計上されなかったことは、虚偽の記入にあたる。

 判決が「所有権を取得した時点を基準とすべきだ」と書いているのは、「所有権移転登記の完了を待ってやるつもりだった」という抗弁を退けるために書いていると思われる。サラリーマンが宅地を購入するような場合には代金の支払いと移転登記申請は同日に行われるが、対象の土地の地目が「農地」である時は簡単にはゆかないことがある。農業委員会の許可が必要だからだ。世田谷区のような都市部の農業委員会が毎日メンバーを集めて、許可作業を遅滞なく処理しているとも思えない。

 カネの収支についても同様で政治資金規正法の収支報告書が求めているのは、対象期間における資金および資産の増減であって、その期間内のブラス・マイナスゼロになるような資金移動のすべてを最大漏らさず克明に報告する義務があるというのは非現実的な気がする。

 購入した土地の所有権移転登記が完了した時に、それとセットになる銀行借入金を記載するのが自然で対外的に説明しやすいのでそうしたという抗弁があれば、それでも厳格な「発生主義」でまとめなさいという指導をすべきていどのもので、それを鬼の首でも取ったように「犯罪だ」、「犯罪だ」と騒ぎ回るのは常軌を逸している。

 たったこのていどのことに何億もの裁判費用を蕩尽するほどに、当時のこの国の財政は豊かであったのかと、将来この時代の歴史検証を行う人びとはいぶかしく思うだろう。(4/26/2012)

 日本原子力発電の敦賀原発2号機直下の断層帯が活断層である可能性が否定できない(精一杯日本原電に有利な書き方にしてみた、呵々)ことが判明したとか。

 別にいまになって分かったことではない。いままで誤魔化されてきたこと、隠されてきたことが、誤魔化しきれなくなったか、隠しきれなくなったために、ぼつぼつとまるで最近になって分かったこと、再度検討してみて分かったことのように、伝えられるようになったというだけのことだ。

 化けの皮が剥がれたのは、「ファクト」だけではない。化けの皮が剥がれた「ヒト」も出てきた。

 ちょいと気の利いたことをいうと思われていた学者タレント、ああだこうだの洒落た小理屈でうけていたテレビタレント、一発芸ならぬ一発本でスポットライトを浴びるに至った手合いが、いい小遣いをくれるというので原発ヨイショをやってきた。もともと背骨(なにより脳みそがない)のない連中だから、はやりの「なんとか神話」が崩れたとたんに右往左往し始めた。

 裏町の少年野球チーム、ミットもない。(4/25/2012)

 きょうのグーグル検索のトップページは洒落ている。ページの真ん中にジッパーが描かれ、スライダーをドラグするとページが左右に開かれ、中から「ギデオン・サンドバック」の検索結果が現れるという趣向。きょう4月24日はジッパーを改良し、いまの形に完成させた技師ギデオン・サンドバックという人物の誕生日なのだそうだ。

 あさからすっきりと晴れ上がった。スタートが少し遅れたため、見えるかどうか微妙だった富士もなんとかうっすらと。そこに見えると分かっていて、はじめて見つけられるくらいに霞んでいたけれど。

§

 アイスランドの前首相が弾劾裁判で有罪になった由。

 アイスランドの特別法廷は23日、金融危機への対処を巡って弾劾裁判にかけられたゲイル・ホルデ前首相(61)に対し、問題が深刻になった時に閣僚らと十分に協議しない怠慢があったとして有罪とする判決を言い渡した。AP通信などが伝えた。ただ、罰金や禁錮などの具体的な処罰は科されていないようだ。
 一方、危機を深めた銀行の肥大化に対処しなかった責任などを問う三つの罪については無罪とした。ホルデ氏は「形式的な罪で、銀行危機とは全く関係ない」と判決を批判し、欧州人権裁判所に提訴する方針を示した。
 アイスランドは2008年の金融危機で大手銀行が軒並み破綻、国有化され、通貨は暴落した。議会が06~09年に首相を務めたホルデ氏の責任を問い、弾劾裁判にかけることを決めた。(ロンドン=伊東和貴)

 この訴追が適正なものなのか、怠慢行為を認定する明確な証拠があったのか、それに至る金融業界の肥大化に本当に責任がなかったのか、すべてが藪の中だが、こうして内閣の長の責任が問われることがあるということに驚く。

 宣戦の詔書に署名・捺印しながら責任を問われなかった君主、その無答責を引き受ける者さえいなかった国に住む者としては、特に。(4/24/2012)

 雨が降っている。またステップボード。

 で、きのうの続き。青beの人気投票では我がシャーロック・ホームズに100票近くの差をつけて首位になったコロンボは親近感の持てるキャラクター。どうでもいいことだが、コロンボの口癖である「ウチのカミさん」は「男はつらいよ」のタコ社長のカミさん同様、ついぞ画面に彼女は登場しない。ある意味でミステリアスな存在。

 コロンボ・シリーズは、よんどころない事情で邪魔者を殺さねばならなくなった男(あるいは女)が殺人を決行するところから始まる。いわゆる「倒叙スタイル」。倒叙ミステリーの登場は意外なことに本格ミステリーの黄金期である1920年代以前だ。つまり「本格推理小説」の行き詰まりからこのスタイルが生まれたわけではない。倒叙ものの嚆矢はフリーマンの「歌う白骨」登場する探偵は法医学者であるソーンダイク博士。ホームズのような奇矯な言動はなく、相棒を小馬鹿にしたような発言もない。英国紳士そのもののような人物である分、かえってインパクトが弱い。そのため、推理小説好き以外にはあまり知られていないのが残念だが、短編集「歌う白骨」には粒ぞろいの名作が並んでいる。どのような人にも犯罪願望はあるはずで、倒叙ものを創案したフリーマンはすごい。しかし、登場は早いものの倒叙ものが全盛を極めることは黄金期にはなかった。

 テレビの推理ドラマ、こいつが犯人で決まりと思わせる展開にさしかかると時計を見る。「まだ30分もあるか、こいつは犯人じゃないね」。あるいは、新聞のテレビ欄であらかじめ容疑者の範囲を絞ってから見始める。そういうすれっからしの視聴者を飽きさせないためにうってつけなのが「倒叙スタイル」だ。ドラマ「刑事コロンボ」の制作スタッフの選択は正しい。フリーマンはテレビもなく、映画すらも形の定まらない時代に、じつにいい仕事をしておいてくれた。フリーマンは彼らの恩人だ。

 「人生で必要な知恵はすべて推理小説で学んだ」者にとって、ソーンダイク博士にはもう少しファンがいてくれてもいいと思うが、世の中の大部分を占める地道に仕事をする人びとの憧れが、自分同様の地味キャラということは・・・ない、か。(4/23/2012)

 きのうの青be「ランキング」は「心に残る名探偵」。ベストファイブのトップは「コロンボ」。以下、「シャーロック・ホームズ」、「金田一耕助」、「明智小五郎」、「エルキュール・ポワロ」と続く。おなじみのメンバーで異論はないが、20位まで紹介されながら、その中に最初に出会った名探偵「オーギュスト・デュパン」(小学校の3年だったと思うが、強烈な記憶になった)と個性豊かな「ブラウン神父」がいないのがいささか残念。

 やはりベストはホームズだろう。他の4人が自らの推理法について、ほとんど何も語っていないのに対し、ホームズはそれを意識的に明確に語っている。ドイルの第一作「緋色の研究」は1886年に書かれている。推理小説の黄金時代に先んずること数十年、そんなときにホームズは自分のどこに名探偵の資質があるかを十分にしっかりと書いているのだ。

 二部構成の「緋色の研究」の第一部の最後の方でホームズはこんなことを言う。

 諸君には、すべてが不思議にみえるにちがいない。それはなぜかというと、諸君は最初の出発点で、真の手がかりが一つだけ、眼の前にころがっていたにもかかわらず、それを見落としてしまったからです。・・・(略)・・・諸君の頭を混乱させ、事件をいやがうえにも不可解なものにしたことがらが、私にとっては啓発ともなり、また結論を強調してくれるものともなったのです。いったい不思議と神秘とを混同するのはまちがっている。もっとも平凡な犯罪が最も神秘的に見えるものです。つまり、推理を引き出すべき斬新な、または特殊な材料が見あたらないがためです。

 原書で読む英語力がないから新潮文庫・延原謙の訳を引いたが、おそらく「不思議」は「wonder」、「神秘」は「mystery」ではないかと思う。ホームズが言いたいのは、事件を前にして、眼前の「事実」を解き難い「謎」と思い込むことと「どうして・・・なんだろう(I wonder・・・という感じ)」ということとは違う、そんなところではないか。

 まあ、ここでは読者を第二部まで引っ張ってゆかねばならないから、ホームズの物言いもいささかもったいぶったものになっているが、物語の最後、第二部になると、ホームズはワトソンに向かって、もっと明晰な言葉で自分の推理法について語っている。

 いつかも話したとおり、異常な事がらというものは手がかりにこそなれ、けっして障害になるものじゃない。こうした事件を解くにあたって大切なのは、過去にさかのぼって逆に推理しうるかどうかだ。これはきわめて有効な方法で、しかも習得しやすいことなんだが、世間じゃあまり活用する人はない。日常生活のうえでは、未来へ推理を働かすほうが役に立つから、逆推理のほうは自然なおざりにされるんだね。総合的推理のできる人五十人にたいして、分析的推理のできる人はせいぜいひとりくらいのものだろう。・・・(略)・・・あるできごとを順序を追って話してゆくと、多くの人はその結果がどうなったかをいいあてるだろう。彼らは心のなかで個々のできごとを総合してそこからある結果を推測するのだ。しかし、ある一つの結果だけを与えられて、はたしてどんな段階をへてそういう結果にたち至ったかということを、論理的に推理できる人は、ほとんどいない。これを考えるのが僕のいう逆推理、すなわち分析的推理なんだ。

 こうして「種明かし」をされてみると、コロンボからポアロまでの名探偵の推理術の大部分はこれであることがよく分かる。すべての手品同様、タネを明かすと、ほとんどの人は「なんだ、たいしたことじゃない」とつぶやくに違いない。しかし、ホームズだけが第一作において、種明かしをしている。じつにフェアだと思う所以だ。

 ・・・ここまで書いてきて思った、ブラウン神父は「別格」だと。(4/22/2012)

 一橋の社会学部連続市民講座、第1回。8月を除いて12月までの第3土曜日の開講。きょうのテーマは「なぜ戦争の時代と向きあうのか-アジア・太平洋戦争期を中心に」。講師は吉田裕。

 配られたレジュメと資料集のなかで印象に残ったのは、「日本人はなぜ戦争に向かったのか」に紹介されている世論調査結果と、「セキュリタリアン」に掲載された宮嶋茂樹の「不肖・宮嶋 陸上自衛隊『究極の戦争ごっこ』に突撃」という記事。

 NHKが行った世論調査の結果、若い世代ほど「戦争の責任は戦後世代も継承すべき」という意識が強いこともわかっています。つまり、いまの日本人は過去の戦争の歴史について、自分なりに納得のいく認識を得ることが難しいにもかかわらず責任は感じざるを得ない、そんな負荷を課しながら国際社会と接しているということになります。

 「へぇー、そうなんだ」と思う反面、ネットでのやり取りやオフライン・ミーティングでの経験からするとにわかには信じがたい。調査における質問の形、あるいは調査元を意識しての偏りがあるのではないかと思わせる。

 さてこのFTC(富士訓練センター)、何がそんなにすごいのかというと、よく言えばバーチャル・ハイテク戦場、批判的にいえば究極のサバイバルゲーム場である。早い話が演習場が今までと比べものにならん程、実戦的環境下になっているのである。しかも参加部隊の戦闘力が客観的かつ計数的に評価できるのである。
 実戦との唯一の違いといえば、実弾の代わりにレーザ光線が使われることだろう。部隊の全員が全身に15個のレーザ受信装置を取り付け、火器から発射されるレーザが命中すると、胸元の装置に「ジュウショウ」「シボウ」などの損耗状況と、射撃した火器名が表示される。

 所詮、命のやり取りがない戦争ごっこじゃないかという批判をする気はない。逆だ。これを読んで思ったのは「下部構造」の「実力」を正確に反映した「図上演習」が可能になっているという驚きだ。

 旧軍では一般社会を「地方」と呼んだ。軍と一般社会がアイソレートされることは、「地方」における学歴差別や階層差別がいったんリセットされる感覚を生み、「地方」での待遇がよくなかった人びとにとっては、軍隊はよほど「民主的」に思えたに違いない。

 しかし自衛隊は違うようだ。訓練センターでの「下部構造要員」の演習データはそのまま「上部構造」に精度の高い管理データとして供給され、利用される。つまり自衛隊の中にも一般社会における階層の上下構造が平行移動している。「日本軍」はすっかり「アメリカ思想」によって構成された組織になっているということだ。(4/21/2012)

 インドが射程5,000キロ(ICBMにはわずかに及ばないというところが絶妙)の弾道ミサイル実験に成功というニュース。朝刊にはこんな記事が載っている。

見出し:安保理、容認の理由は―― 技術不拡散を評価・原発市場を見込む
 国連安全保障理事会は、インドが行った核弾頭搭載可能な弾道ミサイルの発射実験について、対応を協議する予定はない。北朝鮮による「人工衛星」打ち上げの際に、発射から15時間余り後に緊急会合を開催したのとは大違いだ。
 安保理の議論をリードするのは、拒否権を持つ常任理事国の米英仏ロ中。核不拡散条約(NPT)で核兵器を持つことを認められたこの5カ国が問題視しない限り、国際社会からの非難や制裁の対象にならないのが実態だ。
 インドはNPTに加盟しない一方で、核やミサイル技術を他国に拡散してこなかったことは評価されてきた。北朝鮮は、ミサイル技術をイランやパキスタンなどに輸出していると指摘され、安保理は国際社会の安定を脅かしていると問題視している。
 常任理事国の多くが、インドの政治的、経済的な役割に期待していることも、対応の差に影響している。
 米国はインドを「世界最大の民主主義国家」として、中国に対抗する大国に育てようとしている。1998年の核実験には制裁を科したものの、2008年には原子力供給国グループ(当時は日本など45カ国)に働きかけ、民生用の核関連技術や核燃料の輸出を認めさせた。冷戦時代からの友好国ロシアも、インドを事実上の核保有国として容認。伸びるインドの原発市場を見込み、米英仏ロがしのぎを削る。
 インドのミサイルが向けられる可能性がある中国も、落ち着いた対応だ。外務省の劉為民報道官は19日の定例会見で「中国とインドは競争相手ではなく、協力のパートナーだ」と語るにとどめた。もともと中国は、自国がかかわる国際的な論争を国連に提起することは避ける傾向にある。
 日本は、安保理の対応を追認している。藤村修官房長官は19日の記者会見で「インドは国際社会において、弾道ミサイル開発を何ら禁じられているわけではない」。北朝鮮との違いについては「北朝鮮は安保理で弾道ミサイル開発が禁じられている」と述べた。

 要するに核開発もミサイル開発も「こういうこと」なのだ。

 北朝鮮が戦争行為としてミサイルと核を用いたならば、おそらく数時間を経ずしてこの地球上から蒸発することだろう。インドの国土、人口、経済力を考えれば、その継戦能力は北朝鮮などとは比較にならない。

 北朝鮮は暴発しようとしても暴発できない国であり、インドは宗教ファクターにより状況によっては暴発する国であり暴発できる国だ。どちらがどのような危険性をもっているかを考えると、安保理で問題にされていることが「平和の維持」などではないことがよく分かる。(4/20/2012)

 朝刊の「社説余滴」、きょうのテーマは「水俣病補償の政治決着」だ。

 政府はこの7月末に被害者からの救済申請を打ち切ろうとしている。水俣病と認定されれば、補償一時金(1,600~1,800万円)・年金・医療費が支給されるが、認定基準は医学的な根拠以外の条件を含めるもので非常に厳しい。認定制度は、ある意味で、「未認定をたくさん作る仕組み」として機能した。その不当を訴える訴訟が相次ぎ、これを処理するために「救済」という「政治決着」が登場するに至る。

 コラムの記事によると、政府はこれまで二度にわたって「政治決着」を図ってきた。最初が95年、いま打ち切られようとしているのが二度目で10年に決められた。いずれも解決金(95年は260万円、10年は210万円)と引替えに「認定申請」を取り下げることが条件となっている。

 こんな政府の「政治決着」で思い起こすのは、原因企業のチッソが59年に患者と交わした見舞金契約だ。それは死者30万円、生存者は年金3万~10万円という当時でも低い額だった。そのうえ、苦しい生活にあえぐ患者の足元を見て、チッソの責任が明らかになっても追加補償を求めないと誓約させた。水俣病訴訟の73年の判決が「公序良俗に違反し、無効」と断じたひどいものだった。
 あのチッソ見舞金と、二度にわたる「政治決着」は「これっきりだ」という姿勢がダブって見える。

 水俣病は一代では終わらなかった。胎児性水俣病。汚染された海でとれた海産物を直接食べなかった者にも被害は及んだ。

 常識的な想像力を働かせれば、「ただちに健康に影響はない」と連呼されたフクシマでも、今後、事故なかりせば、なかったはずの健康障害が発生することが予測される。フクシマだけにとどまるかどうかも分からない。メチル水銀が及ぼした影響とフクシマ原発がこれから引き起こす災厄が比較できるのかどうかも本当のところはよく分からない。人間の「知恵」などそのていどのものなのだ。

 原子力村の詐欺師のみならず、その応援団員も「あれだけの事故でありながら、一人も死んでいない」と薄っぺらな唇をペラペラと動かしてしゃべっている。彼らはわずかな「現実」に居座って、小賢しい理屈を垂れ流しているが、地獄の釜のフタが開くのはこれからかもしれない。たかだか数十年しか生きることのない人間に「それ」と分かることがあるのかどうかだってたしかではない。

 化学反応のレベルで起きた事故と原子のレベルに手を突っ込んで起きた事故の違いが、どれほど我々と我々が生きる世界に影響を与えるかは神のみぞ知るだ。・・・またまた、「想定外」と説明するような事態に、きっとなるだろう。

 ようやく東京電力の新会長人事が決まった。原子力損害賠償支援機構の運営委員長・下河辺和彦。弁護士出身、企業法務、とくに損害賠償関係の専門家の由。この人事案が報ぜられたのはお昼前。お昼のニュースにはコメントを求められた経団連の米倉弘昌が「財界人ではないが・・・」と問われる姿が映っていた。彼はこう答えた。「そりゃ、引き受ける人はいないでしょう」。

 米倉は「国有化して、ちゃんとした経営になった企業は見たことがない」と言って、民間による経営を主張していたのではなかったのか。枝野に「国に資本注入など求めずに経団連でお金を集め、民間が出資をしていただければ、ありがたい」と逆襲され満座の前で「無見識」を晒す醜態を演じたが、それでもこのコメントはなかろう。なんのことはない、「民営」でやりたいというのはただのつぶやき、責任も根性もないはやりの「ツィート」だったとは情けない。

 経団連としては「カネは出さない」、「ヒトも出さない」、そのくせ「一刻も早く原発を再稼働せよ」というわけだ。かつて「政治は三流だが、経済は一流だ」とふんぞり返っていた我が国の財界だが、いまや「見識」も「覚悟」も三流以下であることがよく分かった。この国の「人材」は劣化の一途をたどっているようだ。(4/19/2012)

 もう、そろそろ花粉の季節も終わったのではと思い、先月7日以来のウォーキング。お伴はZARD。先週の赤be「うたの旅人」に取り上げられていたから・・・だろうな。

ビルのすき間にふたり座って
道行く人をただ眺めていた
ときが過ぎるのが哀しくて
マイ・ドリーム・ユア・スマイル

 シャッフルモードでスタートしたら、じきに「心を開いて」がかかった。テンポのよいメロディ、なつかしいフレーズ。ちょうど新宿から東京工場に戻ったころだった。

 ウォーキングコースは花の盛りに向かっている。サクラ、ソメイヨシノは既に終わり、八重桜。可愛い小さな、スズランのような白い花・・・馬酔木だろうって、さっき、メールで教わった。

§

 夜のニュースは東京都が首都直下地震の被害想定を大幅に見直したニュースでもちきりだった。焼失倒壊家屋は30万、死者は9,700人。避難民は300万人を超える由。まあ、地震想定が震源・東京湾北部でM7.3、空気の乾燥する冬の夕方6時の発生というのは最悪中の最悪条件には違いないが、こちらの都合に先様が合わせてくれることはないのだから、「あれは想定外でした」といういいわけで逃げるようなシミュレーションでは無意味。

 きのうのノーテンキな都知事さんの顔を思い浮かべた都民は多かろう。足元にこれだけのリスクが眠っているのに「国に吠え面をかかせる」ことが目的で大枚の税金を南海の無人島の購入に使おうという話なのだから。本当に都税は余って困っているのですか、老害都知事閣下。(4/18/2012)

 「幕府でも開く口振り都知事選」。もう十数年も昔、石原慎太郎が都知事に立候補したころ、新聞に載った川柳だ。石原にとって二度目になる都知事立候補(一度目は自信満々立候補し美濃部亮吉に惨敗した75年の都知事選)の際、彼は「横田基地の返還」を公約した。「国がちゃんとしないから、国の鼻をあかしてやる」。そんな動機で掲げた公約だった。99年のことだった。以来、既に13年。石原は都知事の職にあるが、いまだに横田基地はアメリカ軍が使用している。どうやらあの公約は冗談だったようだ。

 その石原が訪米先のワシントンで行った講演で「東京都として尖閣列島を購入する」とぶちあげた。夜のニュースで講演後の記者会見の様子を見た。「いまの国の姿勢では危ない、国に吠え面をかかせてやる」と言っていた。横田返還公約の時とさして変わらぬ言い様だから、それほど驚きはしない。

 驚いたのは、東京都はよほどカネが余っているらしい・・・そのことだ。まず、銀行を作って千億ぐらいのカネを焦げ付かせた。わざわざ土壌汚染されている土地を選定し築地から移転する話があった。汚染処理にはカネがかかる。河岸を瑕疵のある土地に移すなんざぁ、洒落てるじゃねぇーか。てぇーした根性、見上げたもんだよ、屋根屋のふんどしと嗤っていたら、オリンピック開催に手を上げて数百億の招致活動費をドブに捨てて見せた。いままた性懲りもなくオリンピック招致に名乗りを上げている。

 それほど余って困る税金の捨て場所に苦労しているのなら、集めすぎた税金を過疎の地方自治体に回して差し上げたらどうかと思うが、そういう真っ当なことはしたくないのが石原という男で、なりたくてなれなかった総理大臣に「吠え面をかかせる」という私怨を晴らすことに使うつもりらしい。

 そういえば、東電の向こうを張って発電所をつくるという話はどうなったものか。せめて、それくらいなら多少は役に立つカネの使い方のように思うが、実際の役に立つ用途に税金を使うのが死ぬほど嫌いだというなら是非もない。(4/17/2012)

 朝のラジオで日経BPの渋谷和宏が興味深いデータを紹介していた。

 ノダメ政権は今年の夏の電力不足をちらつかせ、原発再稼働に向けて画策している。とくに関西電力は自社のだらしなさを棚に上げて、おととし並みの暑さになれば電力が16.3%(この数字、当初経産省が発表した値は19.6%だったはず。いったいどこでどのような根拠で修正されたのだろう、おかしな話だ)も不足すると脅迫的な言辞を弄している。

 渋谷の紹介したデータというのはこういうもの。

 関電の今年夏の供給能力は原発の運転なしで2,600万キロワット。これを昨年夏7月1日から9月22日までの使用電力実績に当てはめると、ピーク電力がこれを上回るのは全体で19時間、0.9%に収まる。

 去年はかなり強力な節電キャンペーンが展開されたことは事実だが冷夏だったわけではない。そのシーズンにおいて、原発依存度45%という最悪の関西電力にして、原発運転ゼロで夏場トータル19時間しか供給不足が発生しないというのだ。つまり、たった1%にも満たない時間帯のために、フクシマ・リスクを犯して原発を運転しようというのだから、極論すればこれは一種の狂気に近い。

 渋谷の主張は原発再稼働の是非を論ずるその前に、まずピークカットについてきちんと考えて工夫してはどうかというもの。

 北九州市にある新日鉄系の東田コジェネという電力供給会社は地域230世帯と70事業所に電力を売っているが、この4月1日から「ダイナミック・プライシング」という社会実験を開始した。これは需給が逼迫したら電力料金を上げる、余裕が出てきたら電力料金を下げるというもの。
 電力供給のピークに近づくと電力料金が上がる。需要家が緊急度の低いものを後回しにすることでピーク需要を抑えることができる。電力供給に余裕が出てくれば電力料金が下がる。需要家は単価が安い時間帯に緊急度の低い電力消費をすれば、電力会社は不要に過大な発電設備をピーク対策のためだけに抱え込まずに済み、需要家はトータルな電力コストを下げることができる。
 これを実現するためには、その時その時の電力料金を表示する機能を持ったスマートメーターが必要になるが、これは世界的には普及する方向にある。これに興味を示さないのは地域独占と総括原価方式にあぐらをかいている日本の電力会社くらいのものだ。

 じつはこの基本事項の半分は既に現実の電力契約には盛り込まれている。一般家庭ならば契約最大電力をオーバーするとブレーカーが落ちて終わりだが事業所はそういうわけにはゆかない。電力会社は需要家の30分間の平均消費電力量(デマンド)を監視し1年間の最大値を契約電力としている。したがって、大口需要家はデマンド監視器を設置して契約電力所定値に至る前に負荷制限をかけ、契約電力ランクが上がらないようにしている。つまり、電気代を下げる方向の話はないが、電気代を上げる方向の仕組みはできているというわけ。

 東田コジェネがトライしている仕組みこそ、ほんとうの意味での低炭素社会に向けた試みといえるだろう。オール電化という電気ジャブジャブ(シャブ:覚醒剤かな、呵々)中毒患者から搾り取るだけ電気代を搾り取ろうという原発電力会社にとっては絶対に実現させたくない試みだろうが。(4/16/2012)

 北朝鮮についてのコメントのあれこれを聞きながら思う、この国にそっくりではないか・・・と。

 金正恩の権力世襲はたしかに世界的には珍しく、異常だ。だが、世界に冠たる世襲制度は我が皇室であり、国会議員の世襲が異常に多いのも我が国。じつによく似ているではないか。

 「主体年号」を定め、その使用にこだわる北朝鮮と、本家本元の中国が既に廃止している元号制度をいまだに維持し、官公庁ではその使用を暗黙のうちに強要している我が国との距離は、世界各国との距離よりはむしろ近いではないか。

 代替わりはこれまでの国策を見直す絶好の機会であるはずなのに、金正日の遺訓だとして衛星の打ち上げにこだわり、従来路線の先軍政治をそのまま踏襲し、北朝鮮はますます世界の潮流から離れてゆく。だが、その姿は、止めどない軍隊の拡大に国策のすべてをかけた大日本帝国にも、自然の猛威の前には原発がどれほど脆いものであるか、いったん制御不能になればどれほど深刻な被害を及ぼすものかを目の当たりにしながら、まるで昭和高度成長至上主義路線に戻ることこそが唯一の道であると考えているらしい現在の我が国にもよく似ている。どちらも、眼前の現実をきちんと見据える「勇気」も「智恵」も持ちあわせていないという点ではそっくりそのまま。

 世襲君主を称える君が代を国歌とし、きちんと歌っているかどうか、口元の動きをチェックして服従心の点検をしてはばからないこの国の現状と、体制維持のために密告制度を活用しているといわれる彼の国の内情は、基本においてさしたる違いはない。いつでも同じような国に転換しうるだろう。

 まさに目くそが鼻くそを嗤っている。秋成は「どこの国でもその国の魂が国の臭気」と書いたが、人は他人の口臭には気がついても自分の口臭には気がつかない。多少はそのあたりの事情を心得てから、北朝鮮を嗤うかあるいは「人の振り見て我が振り直せ」を実践するがよかろうに。(4/15/2012)

 反原発本ばかりを読んでもと思い藤沢数希の「『反原発』の不都合な真実」を読んでみた。

 どうやら原子力村の住民同様、原発擁護派のレベルもパワーも相当に落ち込んでいるようだ。はやりの言い回しとなった「不都合な真実」というタイトルをつけてはいるが、「反原発」はというよりは既に知られている代替エネルギーの力不足を指摘するレベルにとどまっていて、重箱の隅をつついてはケチをつけている「いじましさ」ばかりが目立つ内容になっている。

 のっけの章は「原子力で命を守りたい」というタイトル、どこかの国の首相の施政方針演説のような言い回しで嗤ってしまったが、気持ちは分かる。たしかに潤沢なエネルギーが先進国の国民の生活水準を維持するとともに平均寿命を延ばしていることは事実だ。そのことは反原発派の頭目のように見なされている小出裕章の「隠される原子力・核の真実」にも、反原発派と原発派の論争を不毛なものと指摘し現実策を訴えた石井彰の「エネルギー論争の盲点」にも、念頭に置くべきこととして、この本よりはよほどしっかりと書いてある。

 ただあたりまえの話だが、一人あたりのエネルギー消費量と平均寿命が単純に比例するものではない。発展途上国の国民の何十倍ものエネルギーを消費しているアメリカ人の平均寿命が群を抜いて長寿ではないことがそれを証明している。とすれば、原子力発電によって過剰にエネルギー供給されても、さして平均寿命を延ばすわけではない。だいたいが、深夜電力の販売に血道をあげ、エコアイスを奨励し、調理にまで電気を使うことを宣伝するのは、エネルギーを過剰に生産しているために発生した「不都合な真実」そのものだ。藤沢にはこのあたりのことが見えないらしい。眼が不自由なのか、頭が不自由なのか、きっとその両方なのだろう。

 藤沢は単位発電量あたりの死者数というかなりトリッキーな概念を持ち込んで、こんなことを書いている。

 日本は年間1,100TWh程度の電気を生み出します。これの3割が原子力によるものなので、原子力の発電量は330TWh程度です。これを火力発電に置き換えた場合、先ほど計算した火力発電の犠牲者数21人を使うと、約6,900人の人が毎年亡くなります。一方で原子力の方は、平均値で考えると、330TWhでは10人ほどの死者が見込まれます。これはあくまで平均値なので、原子力発電の性質上、ほとんどゼロで、事故があった年だけ死者数が増えるということになりますが、6,900人の増加に対して、原発を止めることにより潜在的に10人の犠牲者を減らせます。10人は誤差の範囲なので、日本で急進的な脱原発が進んだ場合、年間に6,900人も死者が増えてしまう可能性があります。

 前提となる数字の仮定も、どこで死者が発生するかも、永年にわたる放射能被爆がどのていど影響するかも、そういう面倒なことをこのていどの本に対し指摘しても始まらない。藤沢の屁理屈をまねてこちらも屁理屈を書いておくことにする。

 藤沢はここで「(6,900人に対して)10人は誤差の範囲」だと書いている。6,900人対10人は0.145%だ。日本の総人口は1億2千万を超えている。仮に1億として6,900人がどのていどの割合を占めるかを計算すると0.007%。藤沢の論法に従えば「誤差の範囲」にも達しない屁のような数字だ。

 「QOL」という言葉がある。Quality of Life、医療の現場では、いたずらに生命を保たせることが必ずしも患者にとって幸せとは言えないという考え方もあるとして、末期の患者の治療を見直す動きにつながっている。フクシマ事故により故郷を離れた人びとの現実を考えると、社会のQOLのようなものも考えて然るべきだろう。いったん原発事故が発生すれば社会の「質」はとんでもなく悪化する。火力発電による大気汚染で年に7千人あまりが死ぬという藤沢の主張を100%受け入れたとしても、彼の論法にしたがえば、それは国レベルで考えるならば「誤差の範囲」にすらも遠く及ばない微量であるのだから、社会のQOLのためには火力発電は許容範囲になってしまうなぁ・・・と思って、独り嗤いをした。

 藤沢が「『反原発』の不都合な真実」らしいことを書いたのは中盤までで、そのあとは昔、子ども向けで読んだ「すばらしい原子力」のような安直な啓蒙パンフレットになっている。最後は「核融合炉」で終わっていると記録しておく。これでこの本のレベルがどのようなものか、どこかにいってしまっても思い出せるだろう。

 「あとがき」に至って、彼は「日本は『原発との戦争』を始めてしまった」と主張し、「このような愚かな『原発との戦争』を回避したいという思いで、僕はあらゆるバッシングを覚悟してこの本を書きました」と結んでいる。噴飯物の被害妄想。

 大丈夫だよ、藤沢くん、キミは立派な「体制派」だ。カネもたんまりもらえるし、隠れてバッシングする側にまわることはあっても、バッシングされる心配などすることはないさ・・・と思いつつ、どんな経歴で、どんな顔をしているのかと思って、裏表紙を見た。新潮新書の裏表紙には、ふつう、著者の写真とともに略歴などが載っている。ところが写真がない。経歴もなんだか奥歯が挟まったような書き方で、いったいどのていどの知的デシップリンを受けた人物なのかは皆目分からない。本棚に新潮新書が10冊くらいはある。だが、著者の写真がないのはこの本だけだ。この藤原数希という人物は「然るべき筋」に依頼を受けた「ゴースト・ライター」なのかもしれない。本の半ばから、どこか電力会社か何かのパンフレットみたいだなという印象を受けたのはそのせいだったようだ。

 せめて石川迪夫くらいの詐欺師に書かせないと迫力がないよ、いくら新潮新書でも。呵々。(4/14/2012)

 北朝鮮が「人工衛星打ち上げと称する長距離弾道ミサイルを発射したらしいが、我が国としては発射を確認していない」というやけに回りくどいニュースが流れたのは朝8時を少しまわったころだった。

 実際の「発射」は7時39分だったが、発表があったのはそれから1時間ほどしてからだった。その間に韓国やアメリカからのニュースが報ぜられ、政府発表は事実の追認のようにしか聞こえなかった。だいたい、テレビニュースも新聞も「失敗」、「ミサイル失敗」と報じているが、何に失敗したのかが分かりにくくなっている。

 オッカムの剃刀を用いてみればよい。話は簡単になる。「北朝鮮はロケットの打ち上げに失敗した」。これですべてが言い尽くせる。北朝鮮の保有するロケットは、人工衛星の打ち上げ用としても、弾道ミサイルとしても、必要な技術水準を獲得するに至っていない。たったこれだけのことだ。

 それを「衛星打ち上げと称する事実上のミサイル発射実験」と公表し、「万一、その一部が落下した場合は迎撃用ミサイルで打ち落とす」などと宣伝するから、「ミサイルと確認してから政府発表を行う」などということになってしまう。「ロケット(ミサイル)を発射した」、「上昇を確認できない」、「失敗した模様」の三点を抑えれば、「混乱」など起きようはずはなかったのに。

 シンプルなとらえ方をした後は、失敗の原因がどこにあったか、どこで躓いたのか、それが衛星用ロケット、軍事用ミサイルという用途に照らしてみて、どこまで「実用」の域に達しているのかを判定することが問題となる。

 発射後1、2分で空中爆発したと伝えられるから、推力を上げるためにつけたブースターロケットとの協調に失敗したか、複数本束ねられたロケットの燃焼がアンバランスであったか、そんな原因といわれているようだ。とすると、衛星打上げ用としての失敗の確率が高いと思われるが、このことをもって軍事用ミサイルとして実用にならないということにはならない。ブースターの付加も束ねることも不要ならば、ハードルはぐんと低くなるから。だが、燃料の充填に時間がかかるようなら、軍事用には向いていないことは明らかで、そのあたりを「現地」で確かめればよかったような気がする。そういう意味ではJAXAへの「招待状」をムダにしたのは惜しかった。拉致問題もそうだが、なぜか我が政府には、自民・民主を問わず、外野から遠吠えをするだけで「虎穴に入る」勇気がないようだ。

 なにより、今回、驚いたのは失敗から数時間、お昼のニュースで北朝鮮があっさりと「軌道進入は成功しなかった」と失敗を認めたこと。まあ、各国のジャーナリストを招いた手前もあるのだろうが、四の五のと言い訳しなかったのは意外。こんな北朝鮮を見たことがない。

 それにしても13日の金曜日の打ち上げ。日が悪かったのか、実力がなかったのか、呵々。(4/13/2012)

 水処理OB会。今年も盛況。**さんの挨拶にもあったとおり創成期の苦労を味わったメンバーの結束力は固い。だが何といってもそれは成果のあった組織について言えること。その証拠に同様の創成期に所属したシステム事業本部にOB会などない。組織そのものも雲散霧消してしまった。成功体験の共有は不可欠の条件なのだ。「天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず」とはいっても、人の和を生むものは、やはり天の時、地の利があって成果を得た時なのだ。そういう時代に水処理という組織にいることができたことは本当に幸せなことだった。

 四国の**さん。水墨画をやっているとか。携帯に入っていたいくつかの作品を見せてもらった。味のある絵でビックリ。意外な人に意外な趣味がある。

 銀座からの帰り池袋の本屋へ。先日読んだ孫崎享の「日本の国境問題」がなかなかよかったので、孫崎の「不愉快な現実」、みすずから出たばかりの「貧乏人の経済学」など、新書を8冊とハードカバーを4冊ほど。先日送られてきたばかりの朝日の読者モニターの謝礼図書カードを半分ほど使ってしまった。(4/12/2012)

 一時持ち直したかに見えた株価がまた下がり続けている。今月に入ってから前日よりあげたのは新年度最初の取引日2日のみ。以来、きょうまで7営業日連続の下げ。それも59円48銭、230円40銭、52円38銭、79円16銭、142円19銭、8円24銭、そしてきょうは79円28銭と、あっという間の9,500円割れ。ニューヨークも3日以来、連続6営業日下げ続けている。日本時間のけさ終わった10日は213ドル66セントも下げた。

 去年も、一昨年も、3月から4月くらいまでは比較的高値で推移し、5月を迎えるや悪くなった。今年は暗転するのがいささか早いということか。しかしアメリカの状況は理解しがたい。雇用者数は改善しているというのに、失業率は顕著には改善していない。住宅価格指数は一貫して下げ続けている。しかし、株価は気まぐれとしか思えないアップダウンを繰り返している。なにか「いじられている」ような感じ。

 閑話休題。

 自由が売り物のアメリカ合衆国もじつは自由なわけではないというニュースを夕刊から。

 大リーグのマーリンズは10日、キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長を「尊敬する」と発言したオジー・ギーエン監督を5試合の出場停止処分にする、と発表した。ギーエン監督も記者会見し、「誤った発言をした」と謝罪した。
 マイアミはキューバからの亡命者が多く、カストロ氏に対する反感が強い。マーリンズは昨秋、球団名を「フロリダ」から「マイアミ」に変更。「リトル・ハバナ」と呼ばれる、キューバ人が多く住む地域に新球場を開いて新しいファンの獲得を目指しており、地元感情を考慮しての処分となった。
 ベネズエラ出身で、大胆な発言で知られるギーエン監督は、米タイム誌の最新号に掲載されたインタビューで「カストロ氏を愛している」「彼を尊敬している。この60年間、多くの人が殺そうとしたが、まだ健在だ」と発言。10日の会見では「スペイン語で考え、英語で表現する時に間違えた」と説明。カストロ氏を「尊敬していない」と明言した。(ニューヨーク=中井大助)

 「自由ではないと思われている国に自由がない」ことと、「自由だと思われている国に自由がない」ことのどちらがより悪質か。答えは書くまでもない。(4/11/2012)

 朝刊のトップ見出しを見て大嗤い。「大飯『おおむね適合』」。

 3面にはじつにタイムリーな経産省の発表が乗っている。

見出し:関電、最大20%不足 今夏の電力、経産省試算
 経済産業省は9日、関西電力管内で原発がすべて動かない場合、今夏の電力はピーク時に最大19.6%不足するなど3通りの試算を示した。関電の大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働を判断する関係閣僚会合で示した。
 試算では、原発が1基も動かないと仮定し、一昨年夏並みの猛暑の場合はピーク時の需要に対して供給力が19.6%不足▽2006~10年の平均的な需要ではピーク時に17.2%不足▽家庭の節電や企業の土日操業などで電力使用を昨夏と同じくらい抑えた場合は7.6%不足、になった。
 経産省は関電に対し、電力使用を抑えたら料金を割引する「需給調整契約」の顧客を増やしたり、ほかの電力会社からの融通を増やしたりするよう指示した。
 原発が12年度を通して止まった場合、原油や天然ガスの燃料費がどれだけ増えるかの試算も示した。11年度並みの燃料価格なら関電で約7千億円、原発がある電力9社全体で3兆1千億円。価格が2割上がれば、それぞれ8千億円、3兆8千億円という。

 要するに、原発を再稼働させないと真夏の暑い盛りに電力が足りず大停電になるよ、電気のコストも上がるよという脅しをかけているのだ。

 原子力村のみならず、原子力関連業界にある経産省の利権がいかに大きいものであるか(夕刊には関電への天下りの事実が報ぜられている)がよく分かる。経産省に限った話ではないが、彼らは天下・国家のことを考えるふりをしつつ、実のところは何も考えてはいないのだろう。先日、東電柏崎刈羽原発6号機が定期点検に入り、日本に54基(そのうち4基はジャンクになった)ある原発できょう現在動いているのは北海道電力の泊原発の3号機だけになった。

 原子量利権屋さんたちにとって原発稼働ゼロは何としても避けたいことに違いない。「な~んだ、原発なんてなくてもいいじゃん」ということがあたりまえの事実として証明されてしまえば、オマンマの食い上げになってしまうからだ。一度、「王様は裸だ」という声が上がれば、「王様は裸なんだ」という事実はそのまま受け入れられてしまう。

 なにもフクシマ・リスクを犯してまで原発を動かす必要はないと判明すれば、それに連なる「子どもや孫の世代にツケを回している放射性廃棄物処理」、「ヤクザ屋さんによる人集めを必要とする原発業者」、「税金を食い潰すだけで永久にできない高速増殖炉」、「いい加減な審査を通して金をせしめている曲学阿世学者」、「CO2を出さないクリーンエネルギーのアピールでギャラを稼いでいる似非文化人」、・・・いまやケツが割れてしまった有象無象の痩せこけた姿が露わになってしまうからだ。

 さあ、最後の恫喝だ、「電気がなくなると、この世は闇夜になるよ」。ウソだ、単純にピークを乗り切りさえすれば、原発が一基も動かなくとも電気は余っているのだ。ピークはあくまでピークに過ぎない。何時間も続くわけではない。年に何日どころか、何時間、いや、何分しかないピークのために、過剰な施設投資をするのは、通常の経済原理ではあり得ない話だ。「総括原価方式」という野放図を許容するから、原発などの出る幕が出てくるのだ。(4/10/2012)

 北朝鮮が12日から16日の間に打ち上げを予告している人工衛星本体を海外メディアに公開した。ニュース映像で見ると、高さはいっしょに映っている説明者の半分くらい、太陽電池パネルが表面を覆っている。我がマスコミはしきりに「人工衛星と称する事実上の弾道ミサイル発射」と繰り返しているが、人工衛星の打ち上げロケットと弾道ミサイルは実際にはほとんど同じものなのだから、あまりヒステリックに言うとかえって見えるものが見えなくなる。

 衛星打上げ用ロケットと兵器としてのミサイルに、もし違いがあるとすれば、「即応性」だろう。打上げ用ロケットはあらかじめ予定した時刻に使えればそれでよいが、兵器となると必要と判断されてすぐに使えなければ意味がない。つまり、固体燃料なのか、液体燃料なのか、液体燃料の場合、どのようなものなのか(安全だが毒性のあるタイプのものか、安くて毒性がないかわりに打上げにあわせた燃料の充填が必要なタイプのものか)・・・、そのあたりが問題になる。

 先週、月曜(2日)、JAXAは北朝鮮から「人工衛星打ち上げへの招待状」を受け取ったそうだ。JAXAは政府と協議するとしつつ、「打ち上げの中止を求めているのだから、基本的に応ずることはない」としたようだが、あえて招待に応ずるという選択もあったように思う。

 「ご招待だから、伺います」と回答するや、「いや、本気にされては困ります」と言ってきたら、やはり衛星の打ち上げは見せかけだったことを白状することになる。「どうぞ、どうぞ」と言うなら、専門家が発射を見に行けばよい。そうすれば、燃料がどのようなものか、弾道ミサイルとしてどのていど実用になるものかが判断できるであろう。

 北朝鮮は「農業に役立つ気象観測衛星だ」と主張しているそうだが、そのような実用度の高い衛星の打ち上げには最終段にアポジモーターが必要だ。我が国も当初はこれをアメリカから「ブラックボックス」として購入していた。国産化するためにはかなりの時間を要したはずだ。そのような技術がいまの北朝鮮にあるだろうか。そうでなくとも南方向に打上げる極軌道をめざすなど、あえて難しい道を採っている。成功の確率は低いだろう。

 北朝鮮が、今回、相当のカネを使うことは間違いない。これが兵器開発というのなら「先軍政治」のお国柄だ、失敗しても国内に表立った不満は現れまい。しかし「宇宙の平和利用の失敗」となると彼の国でも不満が無視できなくなるのではないか。

 ・・・まあ、こういったことをしっかり見るためには、わざわざことさらに「人工衛星と称する事実上の弾道ミサイル発射」などと回りくどい表現を連発して色眼鏡をかけて「見る」と、観察眼を曇らせる結果をまねくことになる。でも、いまのこの国にはそういう冷静さがないのだね。(4/9/2012)

 朝刊に「財務省、審議入り求め自民に攻勢」、「小沢氏判決までに少しでも」の見出しでこんな記事が載っている。

 消費増税法案の成立に向け、財務省が自民党に攻勢をかけている。26日の小沢一郎・民主党元代表の判決までに衆院で法案審議に入るよう求め、同氏の影響力排除を画策。自民党内には「財務省は政治的に動き過ぎだ」との声も出ている。
 関係者によると、自民党の谷垣禎一総裁に最近、旧知の財務省幹部が会い、法案について「26日までに衆院での審議入りに応じてもらえないか」と要請した。民主党の馬淵澄夫元国土交通相も7日の講演で「民主党の修正に対し、財務省が元に戻そうと自民党議員の所へ行き、国会で取り消して下さいと言って回っている、と自民党議員から聞いた。官僚支配の流れが起きつつある」と語った。
 動きの背景には、消費増税に反対する小沢氏に無罪判決が出た場合、同氏の影響力が強まって、すぐには法案審議に入れそうもないことへの懸念がある。判決前に審議入りし、少しでも衆院通過への流れをつくる狙いがあるとみられる。
 ただ谷垣氏は「与党が国会審議をどうしたいのかわからないなかで、協力できるわけがない」と拒んだ。党幹部の一人も「財務省が政治的に動くほど、党内の反発が強まる」と話す。

 小沢一郎は真っ当な法治国家であれば「無罪」である。そもそも有罪・無罪を問うことすらもがバカバカしい単なる「期ずれ」(おそらくは売買された土地の一部が農地であったために起きたことに起因すると思われる)なのだから、小沢秘書を含めて裁判になったことそのものがあり得ないほどおかしなことなのだ。しかし、小沢秘書は「推認」という「論理のアクロバット」により有罪にされた。(ミスター推認、こと登石郁朗が「推認」という耳慣れぬ日本語を用いたのは「推定」といえば、「推定無罪」というあまりにも有名な言葉に抵触することを恐れたからだろう、呵々)

 世の中では小沢はカネで政治を動かす政治屋、ないしは、政治屋稼業で私腹を肥やすカネに汚い人物だということになっている。その見方を否定はしない。だが消費税率を引き上げることに、財務官僚がここまでこだわるところを見ると、彼らも「カネに汚い」ことにおいては小沢に勝るとも劣らない手合いなのかなと嗤いたくなる。

 小沢判決によって、この国の官僚支配がどのていどに強力なものであるかが知れる。このニュースはそれを教えてくれている。はたしてこの国は「法治国家」の看板を守れるだろうか。多くの国民は北朝鮮をバカにしているが、判決によっては北朝鮮以下の国であることが判明するかもしれぬ。(4/8/2012)

 旭丘の花見、なんと井の頭公園とのこと。井の頭公園は花見のロケーションが限られていて狭い。おととしの印象が悪くて、どうにも気乗りしないので、花見はパス、夜の宴会のみの参加にした。

 とはいえ、この季節はなんとなく人恋しい、というか、花恋しい。目黒川沿いを歩こうかと思いつつ家を出た。だが目黒川沿いも有名コースになった。最近はかなりの人出になる。人をよけながら歩くのでは同じことだねと思い直し梅ヶ丘に行くことにした。「梅祭り」で有名な羽根木公園でサクラを観ようというのは、我ながらやはり「相当のへそ曲がりだよね」と笑いつつ。

 もくろみ通り適度な人出。混雑は嫌いだが、逆に閑散としているのも花見としては寂しいもの。ブルーシートを敷いているグループもいることはいるが、近隣の人たちのような風情。会社関係と思われる連中がいない。なにより大騒ぎするバカがいないのがいい。

 サクラはほぼ満開。青空をバックにほんのり薄いピンク。ゆっくり園内を散策するうちにかなり体が冷えてしまった。喫茶店で暖まりたかったが、時間がない。冷えた体は電車内で温めることにした。下北沢では乗り換えず新宿まわりで吉祥寺に向かった。

 30分ほど延着。同期会の宴会はすでに始まっていて、ようやっと隅に座った。夜だけの参加者もけっこういたようで、まあそれなりの盛り上がり。(4/7/2012)

 ご都合主義が横行した旧日本陸軍でさえ裸足で逃げ出すだろうといういきおいなのがノダメ内閣。

 関西電力の大飯原発3・4号機の再稼働が焦点になっている。再稼働に向けて、先月中旬から首相(野田佳彦)、経産相(枝野幸男)、原発相(細野豪志)、これに官房長官(藤村修)で「密談」を繰り返している。いよいよ「見切り発車」を確定させると予測されたおとといの「密談」では野田は「福島第一原発事故の原因を踏まえた安全対策の暫定基準を整備して提出するように」と原子力安全・保安院に命じたということだった。「暫定」という言葉には引っかかるものの、少なくとも半月や一月はかかるだろうと思っていたら、驚くべきことに件の暫定基準はきょうの「密談」に報告され了承されたという。

 夜のニュースによれば、この暫定基準、①電力会社は福島事故の時のような地震や津波があっても炉心と燃料棒の冷却が行えるような設備計画を立てなさい、②国はその計画内容をチェックします、③計画内容が妥当であれば、仮にその施設が現在できていなくても再稼働していいですよ、というものだというから恐れ入る。

 無免許運転をする人がよく言ういいわけはこうだ、「時間(あるいはカネ)があれば免許を取るつもりはあったが、その時間(カネ)がなかった」。この主張をこのおバカ4人組は認めるのだろうか。

 「野田佳彦」で検索をしていたらこんなブログにぶち当たった。

 彼は高校の先輩にあたるが、面識はない。ただ、駅頭によく立っていたことは覚えている。
 一度落選したことがあるせいか、ある程度、知名度をあげてからも駅頭挨拶をかれはよくしていた。2005年の総選挙では首都圏の民主党は壊滅的な打撃を受けたが、南関東で小選挙区の議席を守ったのは武蔵野市の菅直人と船橋市の野田佳彦だけだった。結局、選挙に弱い政治家には指導者としての説得力が欠ける。彼が急速に民主党内で頭角を現したのはあの小泉郵政選挙を経て生き残ったからだろう。
 私が普段利用している駅は船橋市と習志野市の境にあり、政治家はよく駅頭に立っているが、国会議員で野田ほど、頻繁に見かける人は他にいない。習志野市は例の堀江メール問題で自殺することになる故・永田寿康の選挙区だったが、彼なんかはまったく見かけることはなかった。
 船橋市にあっては野田は県船の卒業生で、一見、学縁があるように見えるけれども、もともと船橋の人間ではないため、後援会活動もそれほど活発とは言えない。野田が持っている選挙の強さは地道に市民に語りかけてきた結果である。東京から1時間かからないという地の利があるにせよ、幹事長の時もよく駅頭にたっていた。内閣に入ってからはさすがにその頻度は少なくなったが、それでも稀に見かけた。
 私は選挙権を得て以来ずっと野田佳彦に投票してきたのだが、2005年の総選挙の後、一度だけ街頭に立っていた野田に声をかけて、県船の後輩であること、ずっと投票してきたこと、今回も当選で来てよかったですねということを伝えた。彼は例のにこやかな顔で、ありがとうございます、本当にありがとうございます、と言った。そう言う時でも、普通の政治家のようには両手を握って挨拶はしないのだなと思った。
 ずっと野田に投票してきた私だが、実は野田の政策はほとんど知らない。野田は政策は全く語らないからである。
 野田の駅頭挨拶の特徴はまったく演説をしないことにある。
 「いってらっしゃいませ。野田佳彦です。よろしくお願いします」
 支持者が言うのはそれだけであり、野田はそれすらも言わない。微笑みながら何度も何度もお辞儀をするだけである。ただ景色のように、そこにあるのがあたりまえのように、鎮座する大仏のように。
 早大の政経を出て、松下政経塾を出た彼に政策や見解がないわけではないと思う。ただ、主張は必ず敵を作る。選挙活動家としての野田は、「とにかく船橋市は野田」というイメージを市民に与えることのみを留意して、政策はまったく語らなかった。船橋市民で野田に心酔する人はほとんどいないだろうが、彼を批判する人はまったくいない。熱狂はないが好感がある人を野田が目指したのならば、それは成功した。
 政策的には野田は財政再建派として知られている。しかし彼は政策提言者である前にまず野田佳彦なのであって、市民はそれはそれとして、例えば息子がロックに凝っているとしてもロックは嫌いでも息子は息子であるように、野田は野田という印象を持っている。これは政策党としての性格が強かった松下政経塾的な時代の民主党の中では特異なことであり、それが野田の選挙力につながっている。
 右だ左だ増税だ景気対策だと政策対立でまとまらない時に、野田のような人は案外、首相に向いているかも知れないと思う。
 右だ左だ与党だ野党だと言う中で実利をひたすらとってきた野田はうすぼんやりとしながら、なんとなくひとつの方向性を出してゆくのではないだろうか。

 去年の8月30日の記事。つまり野田が前原を抑えて決選投票に持ち込んで民主党代表にのし上がった翌日の記事。

 野田佳彦という人物の特徴を恐ろしいほど的確に書いている。なるほど「和を以て貴しと為す」というのがこの国だった。「敵を作らない」のが政治の要諦という政治家が、積極的な支持ではなく消極的な支持によって選ばれ、「知識」という小賢しいものはもちろんのこと「知恵」も働かせることなく、単なる成り行きを「天命」と思い込んで「政治生命」を賭けるというわけか。ああ、恐ろしい、じつに恐ろしい。(4/6/2012)

 朝刊に新幹線着工の見出し。

 国土交通省は4日、整備新幹線の未着工3区間(北海道、北陸、九州・長崎ルート)の着工への最終手続きに入ることを決めた。これからJR各社や沿線の自治体と話し合って正式に着工を決めるが、同意を得るのは確実な見通し。総額3兆円を超える建設費はJR各社も負担するが、最大7割ほどが国民の税金から出される可能性がある。
 3区間は、北海道新幹線の新函館―札幌(211キロ)、北陸新幹線の金沢―敦賀(113キロ)、九州新幹線・長崎ルートの諫早―長崎(21キロ)。開通は九州が着工から10年後、北陸が14年後、北海道が24年後の見通しだ。建設費は合わせて約3兆400億円。うち最大7割ほどを、国と沿線自治体が2対1の割合で負担する。残り3割ほどは、整備新幹線の線路などをつくる鉄道・運輸機構にJR各社が支払う線路使用料から出す。使用料は今、JR東日本とJR九州が年400億円ほど払っている。未着工区間が開通して使用料の支払いが増えれば、国などの負担は減る可能性がある。
 民主党政権はもともと国の財政難を踏まえ、3区間の着工には五つの条件を示し、慎重に判断する方針だった。「採算性」「投資効果」「安定した財源確保」「JRの同意」「並行在来線の経営分離への自治体の同意」だ。このうち、採算性と投資効果について、学者らでつくる国交省の小委員会が3日に「妥当」と結論を出した。これを受け、4日に大臣や副大臣が参加する検討会議を開き、JR各社と沿線自治体との調整に入ることを決めた。
 しかし、投資効果と採算性は疑問も残る。小委員会は「(乗客数など)低めに見積もっている」と言うが、新幹線は今後、より厳しい環境に置かれる。格安航空会社(LCC)との競争が激しくなるのは確実だからだ。全日本空輸系や日本航空系のLCCが今年、相次ぎ成田―新千歳など国内線に就航する。小委員会はこの影響を「想定が困難」として、考慮していない。3区間と競合する路線でLCCが乗客を集めれば、投資効果などの前提は大きく崩れる。国は新幹線建設にこれまで毎年約700億円の公共事業費をあててきた。3区間が着工すれば今後も出し続けることになる。「財政が厳しい」と言って消費増税を求める一方、3区間が必要かどうか、議論を十分積み上げたとは言えない。
 沿線でも北海道の一部自治体に不安の声がある。建設費の負担に加え、新幹線開通でJRから分離される並行在来線を、第三セクターなどで運営しなければならないからだ。国は一部の費用を支援する制度をつくったが、乗客も減っており、自治体の財政を苦しめるおそれがある。(南日慶子、稲田清英)

 もはや精神分裂病(いや、いまの呼称では統合失調症か)だ、これは。消費税を導入しなければ破綻する。超高齢化社会を迎えて、歳出は増加の一途をたどることになる。キーポイントは社会保証をどれだけ削れるかだ。・・・そして、殺し文句は「日本もギリシャになってしまうぞ」という話、あれはウソか?、ただの冗談か?

 フーテンの寅は新幹線には乗らない。少なくとも乗っているシーンはない。時間を惜しむ稼業ではないからだ。高齢化社会では交通網の利用者の構成は変わるだろう。鉄道の利用は仕事で乗る人より観光か趣味で乗る人の比率の方が高くなる。移動に費やされる時間を惜しむ人は飛行機を利用する、よほど効率がいいからだ。それ以外の人にとっては移動時間もまた楽しみの対象。とすれば、在来線が廃止になったり、三セク運営のために活力を失うことの損失は大きい。何も考えずに赤字を作る愚かさを嗤うばかり。

§

 東京ガスからエネファームの説明を受けた。補助金が認められれば設置することにした。エコ・フリークを気取りたいわけではない。東京電力が電気料金を大幅に値上げすることは避けられないだろうが、それを考えて光熱費を安くできると思ったからでもない。現状の燃料電池には電解質膜の耐用性などの問題があるはずで、10年間の無償保証があったところで、たかだか10%ていどの電気料金の値上げではペイするところまでゆくことはないだろう。しかし東電に払う電力料金を一円でも減らせるなら、そちらを選択する。できるならIPPから購入して、東電なんぞにはびた一文払いたくない、これがホンネ。(4/5/2012)

 政権交代がなにももたらさなかったわけではない。少なくとも、この国のガン細胞がどこにあるかということを明確に教えてくれたことは政権交代があってはじめて分かった。諸悪の根源が自民党にあったわけではなく、自民党の影に隠れていた霞が関の高級官僚こそがガン細胞そのものであることを政権交代は教えてくれたというわけだ。

 ガン細胞同様、霞が関の高級官僚に明確な「犯意」があるわけではない。「悪意」があるわけでもないのだろう。ただ、彼らの自己増殖願望と自己保身、おかしな形容だが「小市民根性」こそが、彼らの悪性の淵源なのだ。彼らは大日本帝国の軍官僚に似ている。精一杯軍官僚に好意的に書けば、皇軍の威光がますます増大することにより大日本帝国はよりいっそう理想国家に近づくと考えた彼らの非現実的楽観論、辛辣に書けば、極まろうとしていた西欧による世界支配をそのまま模倣すれば自らの理想を実現できると考えた彼らの貧弱な発想法が、大日本帝国を破綻させた。

 同様のことが霞が関の高級官僚にも言える。彼らと自民党が一時代を築いたことは確かだが、それはけっして彼らに意識的な思考があったわけではなく、たまたまアメリカへの盲従を大前提にして、派生する些事にのみ彼らが戦略と信ずるていどの改善提案を盛り込めば、それなりの成果が上がった良い時代だったというだけのことだった。

 たとえば、もうあまり見向きもされなくなった岡崎久彦などはこのことを「我が国はアングロサクソンと同盟していれば安泰なんです」と主張していた。このていどの安易な考え方を岡崎は「戦略的思考」だと言っていたっけ。ここまで来ると、頭の使い方をケチっているのか、最初からケチな頭しかもっていないのか、にわかには判じがたい。

 「信じていれば安泰」。まさにこれだ。アジア各国を植民地化すれば、大日本帝国はアジアの盟主としてウハウハだと大言壮語し、植民地経営の課題研究などはそっちのけで派兵を繰り返したあの帝国陸海軍となにも変わるところはない。無責任主義もそのまま踏襲されている。

 日清・日露の戦争に勝てた要因と背景を無視して「戦争は儲かる、だから軍備は常に拡張するにしくはない」と思い込んだ精神と、「ものつくりは儲かる、だから儲からない農業・漁業・林業は儲けたカネを補助金にして死なないていどにやれば良い」とコンクリート国家の建設に励んだ精神は、最善と信じた一点の効率改善しか眼中に入れないという、いかにも子どもっぽい偏頗な考え方において共通している。部分最適しか考えられぬいかにも官僚的な発想。

 政権交代が実現するまで、愚かしい政治の元凶は頭の不自由な自民党にあると思っていたが、それは間違いだった。自民党の知恵袋であった霞が関に源はあったようだ。自民党の政治家のほとんどは意地汚いカネの亡者だったが、逆にそのことが部分最適の弊害を緩和していた。つまり相反する族議員の利害調整機能がブレーキ役を果たしたというわけだ。

 民主党にもカネに汚い自民党型の政治屋さんはいる。しかし理念型の政治家が自民党より多く存在し、小沢一郎が「政治とカネ」問題で不自由になっている現在、この頭ばっかりという連中が権力を握っている。その中心がマネシタ政経塾出身者だ。彼らはカネにこだわる下心が乏しい分だけ、一見美しい政策に対する懐疑心も警戒心もないから始末が悪い。マネシタ電器会長が作っただけあって、マネシタ政経塾出身者には創造的能力が致命的に乏しい。体裁のいい財務省や経産省のプレゼンに野田とその仲間たちが手もなく引っかかるのはさほど不思議なことではない。

 いまや霞が関官僚というエイリアンに頭脳を乗っ取られた民主党は霞が関のマインド・コントロールのもと、消費税率アップ、ゴーゴー、原発再稼働、ゴーゴー、何でもござれの状況にある。部分最適しか眼中になく、中期的な未来も構想できない絶望的場当たり主義の中で、コイズミ時代以上の中産階級いじめが進行して行く。そして、それに窒息しそうになっている人びとの多くが橋下のような、より中味のない政治屋に期待をかけるという「デフレ・スパイラル」が起きているのだから救いがない。(4/4/2012)

 ステップボードの昇降を繰返しながら「男はつらいよ」を見続けている。

 出演者も既に亡くなっている人が多い。寅さんを演ずる渥美清に始まって、おいちゃん(初代の森川信、松村達雄、一番長く演じた下條正巳)、おばちゃん(三崎千恵子)、帝釈天の御前様(笠智衆)、タコ社長(太宰久雄)、実母(ミヤコ蝶々)、博の父(志村喬)、テキ屋仲間のボンシュウ(関敬六)。マドンナにしても、新珠三千代や池内淳子はそういう歳だったとしても、太地喜和子と大原麗子も既にいない。

 カラス声でどこか太宰治の「グッドバイ」を連想させる(怪力の持ち主とは思えぬが)大原麗子は全48作中2作に出ている。これがどちらもなんともいえぬ雰囲気があって惹きつける。映画の演技で気を惹かれるだけではなく、大原麗子という女優の最期を思い合わせるから余計に胸に迫ってきたりする。

 あたりまえの話だが、みんな若い。さくらなどは早々と人妻になるが、可憐な匂いさえする。ジーパン姿でとらやの手伝いをするのだが、そのほっそりした腰つきには若さが溢れている。歳をとっても腰回りに贅肉をつけない女性はいるが、若い女性のそれは明らかに違う。どこが違うのかは分からないが、年齢がためてしまう疲れのようなものは、どのように鍛錬してもどうしようもないものなのかもしれない。こちらが男だから、そんなふうに見えるが、同様の事情は男にもあるのだろう。

 ここまで書いて、突然、「虹へ続く道」のメロディーが浮かんだ。名古屋で河合塾に通った年、NHKが夕方オンエアしていた連続ドラマの主題歌だ。倍賞千恵子のその歌はかなりホルモンのバランスを狂わせてくれた。

ふるさとの優しい音色で/汽笛が鳴ってるわ でもわたしは行く
いつかしら夢打ち明けた/あの人に続く道を歩いて行こう
太陽が背中を通り過ぎないうちに/友だちと歌って歩いて行こう

 よくまあこんな昔のドラマの主題歌など憶えているものだ。自分を誉めてやりたい気持ちでインターネット検索をして、いささかガッカリした。

 まず、タイトルは「虹へ続く道」ではなく「虹につづく道」だった。そして憶えていたのは二番の歌詞で、一番の歌詞は「ふるさとの優しい言葉で/誰かが呼んでるわ でもわたしは行く/いつかしら空に見つけた/あの虹に続く道を歩いて行こう・・・」となっていた。

 なぜ、二番の歌詞のみが記憶の海に沈んだのか。それは想像がつく。実際、「夢打ち明けたあの人」がいたし、あのころはどのような挫折も乗り切る力が自分にはあり、屈折などというものは想像もしたことがなかったからだ。(4/3/2012)

 東大の秋入学について、朝刊の「私の視点」に、まさに「目から鱗」の「あったりまえの指摘」が載っている。以下、核心部分を書き写しておく。

 そもそも、海外の優秀な学生が日本の大学に来ないのは入学時期が春だからだという認識は、根本的に誤っている。理系の大学院であれば、研究環境が優れていればおのずと優秀な学生が集まってくる。言葉の壁があろうと春入学であろうと、「ここで研究したい」と学生に思わせる魅力をその大学や大学院が備えていれば、必ず人は集まってくる。現に日本の学生は春に卒業しても秋まで待って、海外の優れた大学に留学しているではないか。
 東大は英国の教育専門誌が昨年発表した世界大学ランキングで30位だった。優秀な外国人を受け入れ、大学を国際化したいというのであれば、東大がまずやるべきは、国際社会における自校の評価の低さを反省し、世界が認める優秀な大学を目指して自己研さんに励むことだろう。教授陣は斬新なテーマを発掘し、独自の研究手法を編み出し、世界の多くの人から引用される優れた論文を継続的に発信し続けなければならない。
 こうした本質的なところに目を向けないで入学時期の変更という小手先だけの改革をやっても、あえて言えば、増えるのは海外の二流の人材であり、一流の人材が東大を目指すことはないだろう。
(柴田治呂 日本発明振興協会専務理事・元東京農工大教授)

 この国の中では、東京大学の方策だから「バカなことを」と言われないだけのことで、これが三流大学の方策ならば嗤って黙殺されるか、「人が犬に噛みついた」ニュースとして報ぜられるはずのことだ。つまり「東大バイアス」のない外国から見れば、この東大の決定結果は「そうですか」、その理由は「・・・フフフ、何をまたそんなバカなことを・・・」と小さく嗤うだけのことだろう。

 要するにこういうことだ。東大は自らの学問研究水準をこの国という鏡に映して「優秀だ」と自己評価している。なのに海外からの留学生が少ないのはひとえに入学時期が春であることに起因していると思い込んでいる。だから秋入学にしさえすれば海外からの留学生は増加するという論理的結論に達した。その検討結果を出すにあたって、「東大が(日本国内における評価どおり)優秀なのか?」と自問することはなかった、ないしは、自問した結果、「学問研究水準において、海外の著名大学に比べて遜色がない」と判断したのだろう。どこか夜郎自大の匂いがするが、まあ、やむを得まい。いまのこの国の気分を反映した結果と思えば、得心がゆく。ああ、恐い話だ。「東大話法」という毒、「東大思考」という毒。

 調べてみれば、柴田治呂は東大原子力工学科卒の由。原子力村の住民ではなさそう(科技庁出身故、正確には不明)だ。真っ当な論理を主張しすぎて村八分になったのかしらね。(4/2/2012)

 先週から相棒の再放送が始まった。相変わらず花粉が怖くてウォーキングを中止してステップボード。前日に録画したものを翌日の午前中に観る。土・日は再放送がないので、日・月はそういうわけにはゆかない。必然的に「寅さん」シリーズ。

 朝刊、首都圏版には毎週日曜日に「寅さんの伝言」が載る。共演者たちが「寅さん」と「渥美清」について語るという趣向のコラム。今回から2年目に入る。1年目の終わりとなった先週は山田洋次が語っていた。

 「寅さんだったらこの場面どうするだろう、といまでもよく考えます」。そう話す山田監督の表情は実に明るい。この1年、被災地からは寅さん映画を上映してほしいという声が多く寄せられた。女性ファッション誌や若者向け雑誌にも企画記事が載った。
 「あんな風に、進歩や発展とはまったく無縁な男がいたら、いまの私たちに何を語ってくれるだろうね」

 技術企画統括にいたころのことだった。まわり当番の朝礼で野茂の言葉を紹介した。「メジャーではね、去年と同じようにじゃダメなんです。それではやられてしまう。今年は今年で去年通りではない何かにチャレンジしないとね」。人事考課をよくしてもらってナンボのサラリーマンとして「ウケ」を狙っての朝礼スピーチだった。狙いは違わず、黒岩部長などは大きく頷きながら聞いてくれたっけ。

 悪い言葉ではない。カネを稼ぐ場面では重要なことには違いない。しかし、新機軸に囚われて肝心要の「本来の用」を忘れ去ったり、おろそかにしたりするようでは何の意味もない。もともとたいして頭の切れるわけでもない奴が、毎年毎年、目新しいものにチャレンジしたりなどしたら、あちらこちらに忘れ物をするのは無理からぬことなのだ。大震災の惨状の随所に「ちゃちな目新しさ」が無惨な姿を晒しているのがよく見られた。モノにも、ヒトにも、仕組みにも、いろいろなものに。チマチマした「カイゼン」なんぞは、哀しいことに精神主義以外の何物でもない。

 逆に確かに人びとを支えてくれたのはちゃちな「進歩や発展とはまったく無縁な」モノや精神だった。ほとんどの人は日常生活においては身につかぬチャレンジなどはしないからその分だけ災害には強いのだ。

 精神がちゃちにできている連中は、さっそく、裏の土蔵から使い慣れない言葉を引っ張り出し連呼し始めた。「自己責任」という言葉で人と人の関係をばっさり切ってまわったような連中が、こんどは「絆」などと言い始めたのだから嗤わせる。

 引き受け不可能なリスクがそのまま顕在化し、「事故の責任」が独りでは背負いきれないと思い知らされたらすぐにも「安全神話の崩壊」などと言い始めた。そもそも「安全神話」などを信じていた奴がいるとしたら、そんな連中は端から「頭が不自由」だったのだ。

 そういう手合いに限って、本来「自己責任」で引き受けるのはおまえたちだろうというものまで「絆」による「連帯責任」に話をすり替えてしまってノウノウとしている。どこまで精神が腐っているのかと思う。そういう連中が大嫌いだ。(4/1/2012)

直前の滴水録へ


 玄関へ戻る