2位の鳩山の85万票、3位の舛添の83万票をはるかに上回る166万票を取って石原慎太郎が当選した。「国民がはっきりしたメッセージを求めたからだ」というのが石原自身の勝因分析だ。「都民」をあえて「国民」と呼び替えている部分に目をつぶれば、字面は正しい。しかし、彼が発したはずの「はっきりしたメッセージ」とやらの中味について、明確に述べられる人は一人もいないだろう。石原自身、説明する言葉を持っていないはずだ。

 この選挙戦において彼が言い続けたことは「ノーというのだ」という決意表明だけで、それ以上のメッセージは、荒唐無稽な話以外、まったく発せられなかった。このことは「都市博ノー・二信組救済ノー」が公約であった青島現都知事の選挙メッセージとなんら変わらない。党派で候補者を選ばなかったいわゆる無党派の有権者の多くは、濃淡はあっても、このことに気づいていたと思う。その中で青島に似た不毛性を感じとった人は石原を避け、「ノー」という言葉の威勢よさに再度の期待をかけた人は石原に票を投じた。そういう鈍感さとも付き合わなくてはならないのが民主主義というもの、やむを得まい。

 「はっきりしたメッセージ」とか「強いリーダシップ」とか、そういうものが良い結果を生むためには、強靭な「知恵」に支えられなくてはならない。ことの成否はいつに石原がどれほどのブレーンを集められるかにかかっているのだが、彼には難しいことだろう。なぜなら、彼にはバランスの取れたブレーンを呼ぶための「徳」と「センス」が欠けていると思われるからだ。「石原軍団」を集めて裕次郎の墓前で鏡割りをするというセンスを洗練されたものと呼ぶ人はそうそういるものではない。所詮、石原は色眼鏡の人に過ぎない。(4/12/1999)

 都知事はどうやら石原慎太郎になるようだ。自分に投票する人々のほとんどに対してなにほどの敬意も抱いていないということをあまり隠さない人間、それが石原だ。にもかかわらず彼が当選してしまうということは、時代がそれだけ病んでいるということの現れであろう。

 今回の選挙で一番知りたいことは、4年前青島に投票した人と今回石原に投票した人の間にどれほどの相関があるかということだ。前回青島に投票した人のほとんどすべては裏切られたという思いでいるはずだ。その人たちのいったい何割が今回石原に票を投じたのだろう。その比率こそがこの国がこれから進む方向を示している。

 いずれにしても、選挙の結果はひとつの現実だ。石原がやはりただのデマゴーグに過ぎないのか、それとも「なにものか」であるのかは、さして時を要すことなく知れることだ。次の知事選までの間に横田基地が返還されているか否か、隷属的な基地が存在しているか否か、これを見ればわかるのだから。

 4年後のための記録をひとつ。「幕府でも開く口振り都知事選」(4/7 朝日川柳から)(4/11/1999)

 今日の夕刊から。「石原慎太郎、都知事戦に出馬」。舛添と野末の野合で5人になった有力候補が、これでまた6人に。もったいぶった演出が功を奏するか、チック慎太郎。

 沢木耕太郎の「馬車は走る」の中に石原が美濃部と戦った都知事選の顛末を書いたものがある。その時の彼の立候補宣言「勝ち目は薄いが大義のために余儀なく潔く立った」にふれて、沢木は、第一に潔よい出馬の仕方ではなかったこと、第二に必ずしも余儀なく立ったわけではなかったこと、第三に勝算がまったくなかったわけではなく民社党の抱き込みに失敗した結果であったこと、第四に大義は石原にもその取り巻き連中にとってもなかったことを書いている。「そこに東京都知事選があったから、としか答えられない」とも。

 石原慎太郎という男のスケッチ。

 彼は相変わらず「東京は苦しんでいます」という話をする。せっかくの個人演説会だから、もっとくだけた話をすべきなのに、いつもの話だ。話の途中で、酔っ払いが「おーい、慎ちゃんよ!」と二度ほど呼びかけた。確かに酔ってはいたが、悪意ではなかった。三度目に「慎ちゃーん」と呼んだ時、いかにも不快そうに石原は会場係に命じた
 「酔っ払いだろ、それ、早く連れ出せよっ」

 ある日、石原と参謀グループがステーキを食べに行った。飛び石づたいに離れて向かう庭で、石原とボーイがハチ合わせをしてしまった。二人は一瞬、棒立ちになったが、どちらも譲ろうとしない。石原が言った。
 「おまえ、ボーイだろ、どけよ!」
 理は石原にあったかもしれない。だが、そのときボーイの眼に浮かんだ憎悪には、かなり激しいものがあった、という。

――沢木耕太郎 「馬車は走る シジフォスの四十日」――

 沢木はこの部分の少し後に、石原慎太郎という男が政治家としてあるいは人間として、けっして信用できない人物であることを伺わせるエピソードをあげている。そこにはミニヒトラーが見える。きっと今回の選挙戦でも、彼は同じ語り口で同じ顔を見せることだろう。

 さて、都民はどの程度、賢明であるか。他の顔ぶれが貧弱だから案外これがもってしまうのではないかという不幸な予感。もう「無党派」もおしまいだね。(3/9/1999)

 10時からのスーパーナイトを見ていて知った話。去年の12月飯田市で催された落語鑑賞会で、会場で居眠りをしている客にハラをたてた立川談志が話を中断、主催者がくだんの客を退場させたところ、この客が今週になって主催者を提訴したという話。

 居眠りをしておいて、聞く権利を奪われたと訴える方もおかしいが、居眠りを誘うような芸を披露して、態度が悪い客がいるから帰るぞとふんぞりかえる落語家も情けない。

 談志がまだ現職議員なのかどうかは知らないが、一度でも議員バッジをつけるとなにか自分を格別の人間と思い込むようになるのだろうか。仮に議員様だとしても、高座で落語を語る時の談志は落語家以外のなにものでもあるまい。落語家は落語で客席をうかがう芸人。拍手も観客の反応ならば、居眠りも観客の反応だろう。客の反応をありがたくいただくのが芸人というものではないのか。

 本来「落語」という芸は眠気を誘うようなたぐいのものではなかろう。それとも談志の落語は「立川流」ということで、なにやら小難しくエリを正して聞かぬと眠くなるというような一風かわった「落語」なのかしらん。(・・・立川流なら、ムクムクとバイアグラしてもいいはずだが・・・)

 訳の分からぬ権利を主張して「訴えてやる」と騒ぐ輩といい、聞かせてやるからありがたく聞けという風情の噺家といい、時代を象徴するような寒々とした風景だ。(1/24/1999)