防衛問題について

 憲法の防衛論議をする際に、よく使われる言葉に「空想的平和主義」という用語があります。

 これは、いわゆる「護憲派」の主張のウィークポイントを的確についたもので、護憲派に多い左翼の思想史に登場する「空想的共産主義」をあてこすってもいるわけで、なかなかうまいネーミングです。

 たしかに我が国が高い理想を掲げれば、相手もその理想性を尊重して侵略などしてこない、あるいはそういう侵略国は世界的非難を受け国際社会での孤立を余儀なくされるだろうからめったなことでは侵略されないなどという考え方は、まさに手前勝手な思い込みにすぎないわけで、それは十分に「空想的平和主義」だとわたしも思います。

 なんといったって、漢字を教えてもらい、仏教を中継してもらい、いろいろなものの生産技術を伝授してもらい、そのほかにも非常に多くの文化的恩恵をもたらしてくれた大恩のある中国や朝鮮を侵略したのが、他ならぬこの日本という国なのですから、「文化性」だとか「高い理想」など、侵略の野望の前には何の障害にもならないことは、わたしたち日本人なら、すぐに理解できなくてはならないでしょう。

 「護憲派」の多くが侵略戦争という歴史事実の前に比較的謙虚であるのに対して、声高な「改憲派」ほど侵略戦争という歴史的事実を認めたがらなかったり、不誠実な傾向が見られるのは、まことに不思議な話ですが、これは、余談。

 でも、わたしなどには、多くの改憲派は「空想的平和主義」を罵倒する範囲でしか、防衛問題を考えていないように見えてなりません。その証拠に、改憲派の改正案文も、自衛権や交戦権の明示したり、最近の国際貢献ブームに影響されて安直に国連軍編入をうたう程度にとどまっているのが実態です。その意味では、改憲派も「空想性」においては、護憲派といい勝負、立派に「空想的国防主義」のレベルなのではないかというのが、わたしの印象です。

 なぜ、軍事力の自己増殖的な膨張に対するチェックの仕組みだとか、他の条項との調整事項に関する条文が案文の中に出てこないのでしょうね。まあ、それは予想できないことではありませんが、防衛組織の構成、財政処置についてさえも、根本法たる憲法に盛り込もうとしないのは、これまた不思議な話です。

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 いったい何から何を防衛しようというのでしょう。

 ほんの少しだけ考えてみましょうか。

 国土が侵略されないようにといいますね。侵略者が侵略の実益をあげるためには、我が国土を占領しなくてはならないでしょう。ある拡がりを持ったエリアを軍事的に制圧し、維持するためには、十分な兵員と武器とそれらを有効ならしめるにたる物資を持ち込まなければなりません。しかし、国土のすべてを海に囲まれた我が国の場合、これらの兵員と武器、物資は、海または空から的確に投入しなければならないわけです。

 物資を空から投下するのも難しいでしょうが、相当数の兵員を戦闘能力を保ったまま空から送り込むことはもっと困難でしょうから、侵略国が侵略に要する費用に見合うだけの規模を有効に占領するとなれば、海から上陸するほかはないでしょう。海からどれほどの兵員と武器と物資を狙った地域に上陸させることができるか、この能力が問題になるわけです。ある本によれば、各国の揚陸能力は、下表のようになっています。

国名
上陸用艦艇の満載時の
排水量トン数
兵員の輸送能力
アメリカ
942,000
85,636
*旧ソ連
182,000
16,545
中国
180,000
16,364
台湾
122,000
11,091
イギリス
61,000
5,545
フランス
51,000
4,636

これは、ダニガン「戦争のテクノロジー」(河出書房新社)に載っていたものの一部です。わたしの手もとの本は、昔読んだもので、1984年発行のものです。(書籍も、ソフトのようにバージョンアップしてくれる制度があるとよいのですが・・・)
この本は最近改訂版が出たはずなのですが、高い本なのでいまは買えません。 どこか新しいデータが出ているホームページがあったら、教えてください。

 いささか古いデータではありますが、ここから読み取ることができるのは、単純に考えると、さまざまの戦略的制約をフリーにして、日本を侵略し、なんらかの利益が上げられる占領ができそうなのは、アメリカくらいのものだということです。アメリカの圧倒的軍事力から我が国を完璧に守るために、防衛費を倍々ゲームで増やすという考え方は現実的なことでしょうか?

 もうひとつの話。なるほど我が国は貿易立国の国ではあります。しかし、地理的に恵まれた条件のもと、自国の安全維持に見合った規模で、装備された軍事力以上の力を「国際貢献」に発揮しなければ、国際的に孤立するなどということは本当なのでしょうか?

 「家には鍵が必要だ」などいう素朴な防衛論はもともと「空想的国防主義」そのものですが、彼我の状況も考慮しない防衛論もその空想性においては他人を嗤うことはできますまい。暮らし向きに見合わぬ鍵を買うのも愚かな話でしょう。

 自衛力の保持は当然として、何から何をどれくらいのコストで防衛するか、このことに対する広い範囲の合意が形成されてから、第9条の改正を検討するのが筋道だと、わたしは、考えます。

<この項終わり>