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歌と思い出 1

 1936〜1945年 0歳〜9歳

1997.01.03. 掲載
2008.05.05. 改訂
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ある歌を聞けば、反射的にある情景が瞼に浮かんでくるという経験を、多くの人が持っていることだろう。その反対に、過去のある時を思い起こすと、決って頭の中に流れ出てくるメロディーがあるという人も多いと思う。歌好きな人間の場合、その数はかぞえきれないほどかも知れない。

歌好きにもいろいろある。聞くのが好きな人、聞かせるのが好きな人、唄うのが好きな人。私も歌は好きだが、そういう分けかたをすれば、間違いなく最後である。もの心がついてから、唄わずにいた時はなかったように思う。時に声を張り上げることもあるが、ほとんどが鼻歌、そして時と所を選ばないことが多い。と言っても、カラオケは苦手だ。テンポを規制されるので、気持ち良くなれないからである。

大学を出て35年、大阪の北西にある交野市で内科を開業して23年が過ぎ、60歳になった。その間に聞き親しんできた歌はどれほどあるのか、それは自分の生きてきた道のりを教えてくれるものだろう。いま、その歌をしるべに、思い出を書き綴っていこうと思う。これは、私の一番軟派で感覚的な部分だが、気に入っている部分でもある。


青い目の幻想

昭和11年4月、私は神戸で生まれた。その頃の記憶にあるのは、断片的なことがらばかりだ。その中で、渦巻く濁流と橋桁にぶつけられ流されていく牛の姿を、母の背中で見たことだけは鮮明に残っている。しかし1歳のこどもが、そのようなことを果して記憶していたのか、あるいは、大人が話しているのを聞いているうちに、頭の中に作られていったのかもしれない。この水害の被害は非常に大きかったのは確かなようで、実際神戸の町のあちこちにその時流されてきた巨石が残っていた。と言っても、ずっと昔の話だが。

もう一つ思い出すのは、3〜4歳の頃、両親と乗っていた電車の中で、「ドイチュラン、ドイチュラン、イ−バ−ア−レス...」と歌っているのを、中年の紳士が微笑みながら眺めている情景だ。当時、日本とドイツは同盟を結び、ドイツは我が国で高く評価されていたはずで、「ドイツ、ドイツ、世界中で一番優れた国...」という、なんとも傲慢極まりないナチスドイツの国歌を、幼児が歌う状況だったようである。



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1.野薔薇 Heidenroeslein

  Sah ein Knab' ein Roeslein steh'n EEEEGFFED      データ・ベース(洋楽歌曲)

同じ頃、シューベルトの野薔薇も聞き覚え、「ザ アイン クナープ アイン レースライン シュテーン...」と、この歌の一番の歌詞を、ドイツ語で最後まで唱うことができるようになっていた。大学に入ってドイツ語を習ってから、原語でこの歌を唱うようになった時、ほとんど間違いなく覚えていたことに驚いた。どちらも、父が歌って教えてくれたものだった。

私は余り両親に叱られた記憶がない。小さい頃から、ものを壊すのが好きだったらしく、おもちゃはもちろん、家具とか品物をずいぶん壊したようだが、それでも叱られた記憶は全く無いのである。

しかし、一つだけ、母から厳しく叱られたことがある。それは、財布からお金を、たしか五厘だったと思うのだが、盗んで近くの駄菓子屋で飴か何かを買った時のことだ。母は私を叱り、父の黒い太い帯で柱にしばりつけて、買物にいってしまった。独りぼっちの心細さ、「青い目」が来たらどうしようという恐怖で気が狂うほどで、大声で泣きわめいていると、隣のおばさんが、何事かと家の中に入ってきて、帯をはずしてくれた。その時の恐ろしかったことを、今、懐かしく思い出している。

この「青い目」が、この4歳頃から8歳頃まで、ときおり私の目の前に現れ、私を困惑させた。それも、どう言うわけか、ほとんど私が独りの時に現れる。そのたびに恐れおののき、「青い目が来た!」と言って布団の中、机の下、押入の内側へと逃げ込む。しかし、「青い目」は何処までも追いかけてくる。それは、例えようもなく、恐ろしく長い時間だった。

今、振り返ってみて、あの「青い目」は一体何だったのだろうか? 青い目と言っているが、実際は黄緑と青の混じり合った塊のようなもので、眼球を手で強く圧迫していると見えてくる像に似ている。その「青い目」は、なにも私に危害を加えようとする訳ではない。しかし、とにかく恐しく、気持ちが悪いのだ。その恐しさは、例えてみれば、蛇やとかげ等の爬虫類の薄気味悪さである。近くのおにいちゃん達が、面白がって恐い話をした、それが記憶に残っていて時々出てくるのだ、と母に言い聞かされてきたが、それが何故青い目なのか、今だに合点がいかない。

高松にて

官吏であった父の転勤のため、幼稚園に入る前に高松に移った。そして、昭和16年12月8日、大東亜戦争が始まった。世の中は戦争の興奮に酔っていた。華々しい戦果が次々と伝えられ、世界地図に占領した場所を赤く塗りつぶしていくのが、私達の楽しみだった。「勝ってくるぞと勇ましく...」、「若い血潮の予科練の...」、軍歌、軍歌、軍歌、の時代だった。しかし、近くの大きな屋敷に住んでいる元貿易商のおじいさんは、「アメリカには負ける、あんな持てる国に勝てるわけがない」と言っている、と母が聞いてきて、ひそひそ父に話していたことも覚えている。

昭和18年4月、栗林公園のそばにある栗林国民学校に入学した頃には、戦局は日増しに悪くなり始めていた。私たち子供は小国民と呼ばれ、お国のためにしっかり頑張るよう、絶えず教えられてきた。そのお蔭だろうか、入学式の日に母と別れて泣きだしてしまった泣き虫の私が、一年も経たない内に学校で怪我をして、眉の辺りにザクロが裂けたような大きな傷を作っても、泣きもせず、手当も受けず、数時間もの間じっと我慢することができるようになっていた。



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2.椰子の実

  なもしらぬ とおきしまより G,CEDG,z G,DFEFDG            邦楽歌曲

この頃、ラジオから「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実ひとつ...」という曲がよく放送されていた。私はこの歌が好きで歌詞を覚えたくて、一生懸命書き取ろうとするのだが、国民学校1年か2年の力では歯が立たない。母に頼んで書いてもらい、歌詞の意味もあまり分からないまま、よく歌っていた。

新聞の連載漫画、ススメフクチャンを見ながらこの放送を聞いていたのだろう、この曲を聞くと、フクチャンが飛行機に扇風機をのせて空を飛んでいる、漫画の場面を思い出す。「飛行機の原理なんか簡単だ、扇風機をグライダーに乗せたらいいんだ、僕にだって作れるぞ!」と本気で信じていた。考えてみれば、複雑な問題に対して自分が理解できる単純な原理を当てはめ、それで全てが分かったと錯覚する傾向は、もうこの頃から出てきていたようだ。

...見よ、落下傘空にあり、見よ。落下傘空をゆく、見よ、落下傘空をゆく

この歌から、たちまち、パレンバンに降下するパラシュートの白い群れ、目の醒めるような青い空、高松の三越で見た従軍画家の絵が浮かんでくる。たくさんの戦争の絵の中で私はこの絵を欲しがり、複製画を買ってもらった。これは鶴田吾郎の「神兵パレンバンに降下す」という作品であることを最近知った。

いくつもの軍歌の中で、私はこの「空の新兵」という曲がいちばん好きだ。心に残る佳い歌だと思っている。その後、作曲は高木東六氏と知り、この人だからあの様な美しい旋律が書けたのだ、と納得がいった。少年期に抱いた憧れが、いまも心の片隅に潜んでいるのを知ることは、心地良いものである。

しかし夢を見ている時間は束の間だった。鬼畜米英と叫ばれ、欧米のあらゆるものが排斥されて行き、従わないものは非国民、スパイと非難されるようになった。

パーマネントをかけ過ぎて、みるみるうちに、禿頭、禿げた頭に毛が三本、ああ恥しや恥しや、パーマネントをやめましょう。

こんな歌を私たち子供に唄わせていたのだ。非国民、何と嫌なことばだろう。今、思い出しても虫酸が走る。

学校から帰ると、よく高松の築港へ遊びに出かけた。当時、宇高連絡船の一部は旧式の外輪船で、水車のような輪が、船の両わきで回転して進むのが物珍しく、飽きもせず何時間も見つめていた。

築港に行くもう一つの理由は、そこで、外国の捕虜が強制労働させられているのを、盗み見るためでもあった。鬼畜といわれ、毛唐と呼ばれている外人を、鉄状網の外からおそるおそる眺め、警備の兵隊さんに叱られては逃げる。そこで見た捕虜の人達は、赤い肌をして、腕が毛むじゃくらで、黙々とシャベルを使っていた。

築港に行くのにはその他にも理由があった。同級生の可愛い女の子が、築港の近くの学校に転校して行ったので、もしかしたら、会うことができるかも知れないという、淡い期待があったのだ。栴檀は双葉よりかんばしなのか、それとも幼い心にありがちな感情なのだろうか? もちろん会うことはなかったのだが、7歳くらいの子供にも、異性に惹かれる気持があったことを思い出している。

次第に戦局が厳しくなったためだろうか、全ての家庭に、防火用水槽を置くことが義務づけられ、水を貯めておくとボウフラが湧くので、たいていの家では、金魚をその中に放していた。中には、小さなプールほどもある防火用水槽もあり、少年達は手作りの潜水艦の競技場に使った。全長30センチぐらいの木製の潜水艦を作り、底には鉛のおもりをつけ、スクリュウとゴム紐を動力とし、両側面に潜水用と浮上用のブリキの翼をつける。この潜水艦を使って、どれだけ遠くまで潜航できるかを競うのだ。これは、かなり高度のテクニックを必要とし、国民学校2年生の私が作った代物では、上級生のそれに、とうてい太刀打ちできないのだが、諦めることなく、いろいろ手を加えて挑戦した。

ちょうどその頃、アッツ島で山崎大佐率いる守備隊全員が玉砕した。この行為を称える歌「...山崎大佐指揮を取る、山崎大佐指揮を取る」の曲が流れていた。全滅と言わず玉砕と言い、敗退と言わず転進、敗戦と言わず終戦と言い換える、我が国の伝統的な修辞法を、その頃はもちろん知らなかった。そして、子供心にも悲しく、いつの日か敵をとってやるぞと思っていた。

昭和19年に入ると、食糧事情が極端に悪くなり、母は遠くに買い出しに出かけ、3歳年下の妹の順と、40ワットの電灯の下で、心細い思いで、帰りを待ちわびる日が多くなった。そんな時、べそをかくのは決って私の方で、妹はいつもしっかりしていた。どちらが年上か分からないような情けないお兄ちゃんだった。

高松は讃岐うどんが有名だが、その頃はうどんを1杯分食べさせてもらうのに、50メートル以上並んで順番を待たねばならず、腹を空かしやすい私は、もう一杯のお替わりのために、もう一度列の最後に付き、食券を買って食べさせてもらうのだった。

どんなに美味しいものが食べられるとしても、並んで待たねばならないのなら、キッパリとあきらめ、待たずに食べることのできる店に入る私のことを、家の者は呆れたり非難したりするが、家長の拒否権として、これだけは頑として守り通してきた。それは、自分に忍耐力がないのではなくて、あの頃の哀れな姿に対する拒絶反応だと思っている。経験のない者には、理解できない行動と映るようだが、それもいたし方ない。


再び神戸へ

昭和19年9月、父の転勤のため神戸に戻ることになった。その頃になると、本土空襲の噂が広がっていて、近くの親しい人達は、「今神戸に行くことは空襲を受けにいくようなものだ」と心配し、無事を祈ってくれた。確かに、翌年3月から空襲が始まり、神戸の町は焼け野原となっていった。しかし、幸いなことに、わが家は被災を免れ、皮肉なことに、私たちの無事を祈ってくれた方たちの家が全焼してしまったと聞く。しかし、高松を離れる時には、そのような結果になることを知る由もなかった。

今度の神戸の家は、六甲山の麓にある兵庫県の公舎で、家の前に運動場があった。その上を、赤とんぼ群れをなして飛んでいたのが、強く印象に残っている。高松では、これほどたくさんの赤とんぼを見たことがない。都会で、しかも空襲間近と聞いてきた神戸で、こんなのどかな風景にお目にかかれるとは、思ってもいなかったので、特に印象深かったのだろう。



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3.赤とんぼ

  ゆうやけ こやけの あかとんぼ G,CCDEGcAGACCDE           邦楽歌曲

夕焼けこやけの赤とんぼ、おわれてみたのはいつの日か

この歌を聞くと、あの頃の赤とんぼの飛んでいた光景が目に浮かぶ。この歌の中の、「負われて見たのは」を、長い間「追われてみたのは」と誤って覚えていた。それは聞き覚えのせいもあるが、もっと大きな原因は、私が歌を歌詞でなくメロディーとして楽しむためだ、と思っている。それから後も、同じ様な間違いをして、人に指摘されたことがかなりある。私にとって曲の方が大事で、歌詞は二義、三義的なものだ。だから歌詞を少々間違えても気に掛けず、そのかわり、自分で適当な歌詞をつけて、その場を切り抜けるのが得意だった。

神戸に来て、高羽国民学校第2学年に転入となった。田舎からの転校なので、学力が劣るのではないかと心配したが、戦時下では勉強どころではなかったのだろう、そういうこともなく、ほっとした。しかも、校舎は創立6年目の鉄筋コンクリート3階建で美しく、やはり、都会の学校は素晴らしいことを痛感した。それにもまして、都会と田舎の違いを感じたのは、女の子の服装で、例えば、作家の故白川渥氏のお嬢さんS.Nさんなどは、毎日違った服を着てくるのだが、その服がどれもきれいなものばかりなので、ただただ感嘆し、長い髪をしたその人を、お姫様のようだと思っていた。

その年の暮れに、弟の義が生まれた。その頃から、戦況はどんどんと悪くなり、食べ物は「コウリャン」、「 大豆の搾りかす 」(これを食べると必ず下痢をした)、「わらパン」(本当にわらが混じっている)がめぼしいものになった。そこで、食べられるものなら、「雑草」でも「いなご」でも、何でも口にせざるを得なかったのである。

そして、本土空襲が目前に迫ってきたためだろうか、それぞれの家が防空壕を作らなければならなくなり、我が家は前の運動場に、一家5人が入れる大きさのものを作った。この防空壕を、国民学校2年生の私が一人で作った。スコップで地面を掘る、階段を付ける、その上を解体された梁で覆い、土を載せるという作業である。父は、箸と鉛筆の他は持ったことがない、不器用な人間だったのと反対に、私は何かを作るのが大好きな人間で、放課後や日曜日に、防空壕を喜んで作った。それから間もなく、この防空壕の中には、「こおり」に入れた弟の義と、残りの家族4人が、空襲を避けるために何回も出入りを繰返すことになった。

その頃、子供達の間でひそかに流行った歌が二つある。それは「昨日生まれた豚の子が、蜂に刺されて名誉の戦死。豚の遺骨はいつ帰る? 4月8日の朝帰る。豚の母さん悲しそう。」という歌と、「僕は軍人大嫌い。今に小さくなったなら、お母ちゃんに抱かれて乳飲んで、お馬に乗ってはいどうど」という歌だった。始めのは、「湖畔の宿」、後のが「兵隊さん」の替え歌である。これをこっそり歌っては、「憲兵に連れていかれるぞ!」とささやき合って、スリルを楽しむのだった。

昭和20年3月13日、大阪に最初の大空襲があった。大阪湾をはさんだ向こう側のできごとを、飛び交う美しい花火のように眺めていた。しかし、それが地獄の光景であることを体験するのに、それほど時間はかからなかった。3月17日に、神戸もまた大空襲を受けた。


淡路島へ縁故疎開

都会が猛烈な空襲を受けるようになったので、都市の国民学校の学童は、田舎に疎開させられることになり、田舎に縁故のある者はそちらへ、縁故のない者は、学校単位の集団で田舎に疎開していった。私は、両親が淡路島の出身なので、父方の祖父母のところへ行き、ここで敗戦の日を迎えた。

この20年4月から、20年12月までの8ヶ月間は、私を本当に強くしてくれた。泣き虫だった私が、都会から一人で田舎に行き、さびしくつらいおもいを味わう内に、自分でも驚くほど負けん気の強い少年に変わっていた。もし、私がこの時を両親のもとで過ごしていたなら、今の私とは、ずいぶん違っていたのではないかと思う。

戦争の影は、この淡路島にもひしひしと迫ってきた。艦載機グラマンによる機銃掃射を何回か経験したし、何百機ものB29が、空を覆いつくしながら、北へ向かって飛行する光景も、数え切れないほど見た。もちろん、これが両親のいる神戸に向かうことを知っていた。そして無性に母を恋しく思った。

8月15日の正午に玉音放送があり、日本が戦争に負けたことを知った。戦争は終わったのだが、神戸は強盗が出て物騒なので、しばらく淡路島にいるようにと言われ、この年の終わりまでを、こちらで過ごした。

その頃のうたで思い出すのは、「お馬の親子は仲良しこよし、いつでも一緒にぽっくりぽっくり歩く」だけだ。思えば、歌とは縁の少ない時代だった。

<1997.1.3.>

歌と思い出1、2、3」を書いて3年以上経った2000年4月から、歌のまとめを再開した。それに先立ち、歌のデータ・ベース1000曲を作り、「歌と思い出」に取り上げる曲は、これに対応させた。歌に統一性を持たせるため、それ以前に書いた「歌と思い出1、2、3」についても、少し加筆修正を行い、これに対応させた。


<2001.1.3.>
<2008.5.5.>改訂

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