第27節 民族と宗教の揺藍地インド
〔ある本でインドが民族と宗教の揺籃の地であるとの説を読んだことがあり、われわれの交霊会でもその問題に触れた霊言を聞いたことがあった。その点を質すと(1)――〕

その通りである。今の貴殿の信仰の底流となっている宗教的概念の多くはインドにその源流を発している。インドに発し、太古の多くの民族によって受け継がれてきた。その原初において各民族が受けた啓示は単純素朴なものであったが、それにインドに由来する神話が付加されていったのである。救世主出現の伝説は太古よりある。いずれの民族も自分たちだけの救世主を想像した。キリスト教の救世主説も元を辿ればインドの初期の宗教の歴史の中にその原型を見出すことが出来る。インドの伝承文学の研究がこれまで貴殿が勉強してきた言語学的側面と大いに関わりがあるように、その遠く幽(かす)かな過去のインドの歴史の宗教的側面の研究は今の貴殿にとって必要欠くべからざるものである。関心を向けよ。援助する霊を用意してある。

インド、ペルシャ、エジプト、ギリシャ、ローマ、ユダヤ――これらの民族とその知的発達に応じた神の概念の啓示の流れについて今こそ学ぶべきである。ジャイミニー(2)とヴェーダ・ヴャーサ(3)がソクラテスとプラトンの先輩であったことを知らねばならない。そのことに関してはその時代に地上生活を送り、その事実に詳しい者がいずれ教えることになろう。が、その前に地上に残る資料を自らの手で蒐集する努力をせねばならない。指導はそれが終了した後のことである。

さらに、その資料の中に人間がいつの時代にも自分を救ってくれる者の存在の必要性を痛感して来たこと、そしてまた、そうした救世主にまつわる伝説が太古より繰り返されて来ている事実を見出さねばならない。数多くの伝説を生んだ神話の一つが、純潔の処女デーヴァキー(4)の奇跡の子クリシュナ(5)の物語であることも判るのであろうし、そうした事実がこれまでキリスト教の中で闇に包まれていた部分に光を当てることにもなろう。もっともわれらはこの事実を重大なるものとして早くから指摘して来た。貴殿の異常な精神状態がその分野に関する全くの無知と相俟って、われらをして手控えさせたのである。

このほかにもまだまだ取り除かねばならぬ夾雑物は多い。これを取り除かぬかぎり安心して正しい思想体系の構築は望めぬ。大まかな荒筋においてさえ貴殿にはまだ奇異に思えることが多い。まずそれに馴染んだ後でなければ細部へ入ることは出来ぬ。たとえば古代の四大王国、すなわちエジプト、ペルシャ、ギリシャ、ローマの哲学と宗教はその大半がインドから摂り入れたものである。インドの大革命家であり説教者であったManou(6)がエジプトではManesとなり、ギリシャではMinosとなり、ヘブライ伝説ではMosesとなった。いずれも固有名詞ではなく“人間”Manを意味する普通名詞であった。偉大なる真理の開拓者はその顕著な徳ゆえに民衆からThe Manと呼ばれた(7)。民衆にとっては人間的威力と威厳と知識の最高の具現者だったわけである。

インドのManou(マヌ)はキリストの誕生より三千年も前の博学な学識者であり、卓越せる哲学者であった。いや実は、そのマヌでさえそれよりさらに何千年も昔の、神と創造と人間の運命について説かれたバラモンの教説の改革者に過ぎなかった。

ペルシャのゾロアスター(8)の説ける真理も全てマヌから学んだものであった。神に関する崇高なる概念は元を辿ればマヌに帰する。法律、神学、哲学、科学等の分野において古代民族が受けたインドの影響は、貴殿らが使用する用語がすべてマヌ自身が使用した用語と語源が同一である事実と同様に間違いない事実であるとの得心がいくであろう。近代に至ってからの混ぜ物がその本来の姿を歪めてしまったために、貴殿には類似点を見出し得ぬかも知れないが、博学なる言語学者ならばその同一性を認めることであろう。一見したところ世界の宗教はバラモンの伝承的学識の中に類似性を見出せぬかに思われるが、実はマヌが体系づけ、マーニーManesがエジプトに摂り入れ、モーセMosesがヘブライの民に説いた原初的教説から頻繁に摂取しているのである。

哲学及び神学のあらゆる体系の中にヒンズー(インド)的思想が行き渡っている。たとえば、古代インドの寺院において絶対神への彼らなりの純粋な崇拝に生涯を捧げたデーヴァダーシー(9)と呼ばれる処女たちの観念は、古代エジプトではオシリス(10)の神殿に捧げられる処女の形を取り、古代ギリシャではデルポイ(11)の神殿における巫子(みこ)となり、古代ローマではケレース(12)神の女司祭となり、後にあのウェスターリス(13)となって引き継がれていった。

が、これはわれらが貴殿に教えたいことの一例に過ぎない。ともかく注意をその方向へ向けて貰いたい。われらは極めて大まかな概略を述べたに過ぎない。細かき点はこれより後に埋め合わせるとしよう。貴殿にはまだ概略以上のことは無理である。

――確かに私は知らないことばかりです。それにしてもあなたは人間がまるで霊の道具に過ぎないような言い方をされます。出来のいい道具、お粗末な道具、分かりのいい道具、分かりの悪い道具。

これまでもしばしば述べて来た如く、知識はすべて霊界よりもたらされる。実質はわれらの側にあり、人間はその影に過ぎない。地上にても教えやすい者ほど学ぶことが多いのと同じく、われらの交わりにおいても素直な者ほど多くを学ぶことになる。貴殿に学ぶ心さえあれば幾らでも教える用意がある。

――人間には取り柄(え)はないということですか。

従順さと謙虚さの取り柄がある。従順にして謙虚な者ほど成長する。

――もし霊側が間違ったことを教えた場合はどうなります。

すべての真理に大なり小なりの誤りは免れない。が、その滓(かす)はいずれ取り除かれるものである。

――霊によって言うことが悉く違う場合があります。どちらが正しいのでしょう。真実とは一体何なのでしょう。

言うことが違っているわけではない。各霊が自分なりの説き方をしているまでである。故に細部においては異なるところはあっても、全体としては同じことを言っている。貴殿もそのうち悪と呼んでいるものが、実は善の裏側に過ぎぬことが判るようになるであろう。地上においては混じり気のない善というものは絶対に有り得ない。それは空しき夢想というものである。人間にとっては真理はあくまで相対的なものであり、死後にも長期間に亙って相対的であることは免れない。歩めるようになるまではハイハイで我慢しなければならない。走れるようになるまでは歩くだけで我慢しなければならない。高く跳べるようになるまでは走るだけで我慢しなければならならない。
(プルーデンス)

〔私が「霊の身元」と題する記事(14)で紹介した、例の他界したばかりの霊による不思議な影響力を受けたのはこの頃であった。ある人がベーカー通りに近い通路の舗装工事中にローラー車の下敷きとなって悲惨な死を遂げ、私がたまたまその日に現場を通りかかったのである。その時私はその事故のことは知らなかった。そしてその夜、グレゴリー夫人(15)の家でデュポテ男爵(16)による交霊会に出席したところ、その霊が出現した。二月二十三日にその件について尋ねると、その霊の述べた通りであることが確認された(17)。〕

その霊がそなたに取り憑くことが出来たこと自体が驚きである。そなたがその男の死の現場の近くを通りかかったからである。余りそのことは気にせぬほうがよい。心を乱される恐れがある。

――(最近他界した)私の友人がまだ眠りから覚めないのに、何故その男はすぐに目を覚ましたのでしょう。

非業の死を遂げた後の休眠を取っておらぬからである。本当は休眠した方がよいのである。休眠しないと、そのままいつまでも地縛の霊となる。そうした霊にとっては休息することが進歩への第一歩となる。未熟なる霊はなるべく休眠を取り、地上生活を送った汚れた場所をうろつかぬことが望ましい。

――あのような思っただけでもぞっとするような死に方をしても霊は傷つかないのでしょうか。

肉体が酷い傷を受けても、霊まで傷つくことはない。但し激しいショックは受ける。それが為に休息できず、うろつき回ることになるのである。

――あの霊は死の現場をうろつき回ったのですか。それがどんな具合で私に取り憑いたのでしょうか。

あのような死に方をした霊はよく現場をいつまでもうろつき回るものである。そこをそなたが通りかかった。そなたは極度に過敏な状態にあるから、磁石が鉄を引きつける如くに霊的影響を何でも引き寄せてしまう。この種の霊的引力はそなたにはまだ理解できぬであろう。が、それでは困る。地上では低き次元での霊的引力の作用が現実にあるからである。毎日の交わりの中で引力と斥力とが強力に作用している。大半の者は気づいておらぬが、すべての人間、とくに霊感のある者は、その作用を受けている。肉体がなくなれば一層その作用が強烈となる。五感を通して伝達されていたものが、親和力とそれと相関関係にある排斥力の直覚的作用に代わるのである。

が、この件に関しては余り気にせぬがよい。余り気にすると、再び親和力の法則が働いて、未発達霊の害毒を引き寄せることになる。彼には思慮分別の力はない。そのことは、あの気の毒な霊もそなたに取り憑いたことで何の益にもならなかったことで知れる。
(†インペレーター)

〔注〕
(1) プルーデンスが回答。三世紀のエジプト生まれの哲学者プロティノス。ギリシャ、ローマで学ぶ。
(2) Djeminy.(正確にはJaimini)
(3) Veda Vyasa.(ジャイミニーの師)
(4) Devaki.
(5) ChrishnaまたはKrishna.
(6) 原文のままであるが、インド哲学の専門家によればManuが正しくManouという綴りは有り得ないという。訳者の推測ではManuを英語読みにするとマニューとなるので、モーゼスの英語感覚の影響を受けて原文のようになったのであろう。
(7) 現在でもその年で最も活躍の目覚ましかった者を、The Man of the Yearなどと呼ぶ。
(8) Zoroaster 紀元前600年頃の宗教家。ゾロアスター教の開祖。
(9) Devadassi.
(10) Osiris.
(11) Delphi.
(12) Ceres.
(13) Vestal virgin女神ウェスタVestaに身を捧げた処女。
(14) 心霊誌Lightに連載。
(15) Mrs. Mackdougall Gregory.
(16) the Baron Dupotet.
(17) 再びインペレーターが回答。