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 山口には、山口踊り(一般に「袖下踊り」と呼ばれている)という伝統的な民踊がある。昭和49(1974)年に無形民俗文化財として市の指定となった伝統芸能である。この民踊については、「山口村誌」に詳しい。以下、村誌の「第10章 年中行事・風俗 三 民踊」から抜粋して紹介する。尚、画像は、山口町郷土資料館に陳列されている袖下踊りのジオラマである。 
 この地独特の民踊「山口踊り」は、戦前盛んに踊り伝えられていたが、長い戦争の影響と、時代の変遷によって趣味や娯楽も変り、この行事もうすらぎはじめたので、昭和24年、音頭とりの人々や、当時の村役、各種団体の代表者らその他有志の人々によって「山口袖下連中」の名のもとに協力団体を組織し、山口踊りの復興に努めたのである。
 この山口踊りは、伝説によると今から1300余年前、孝徳帝が有馬温泉へ行幸のおり、車駕をこの地に駐められたとき、村人がその喜びを手ぶり身ぶりで表現して歓迎したのがはじまりであるといわれ、ヒジから下の両手の手ぶりを主として踊ることから俗に「袖下踊り」といわれている。
 もう一つは山口はもとその特産であった扇の地紙を京都に売出していた関係から、祇園の舞妓たちがそのお礼の意味で振付けたといわれる”扇踊り”がある。この二つを総称して”山口踊り”というのであるが、前者が女性的であるのに対して後者は少し活発で、音頭は同じ節まわしで踊ることが特徴である。
 普通民踊は洋楽、三味線、尺八、つづみ、太鼓などの囃子で踊るが、この山口踊りは、大小二つの太鼓だけで、しかも音頭そのものを、浄瑠璃から引用した物語を独特の節まわしでで歌い、その歌詞も「石童丸」「壷坂霊験記」「玉藻之前」など古くからあるものや、昭和初年に作られた「山口音頭」、昭和27年西宮市との合併記念の「新山口音頭」などがあり、それをオン、メン、タタキ、ナガシと節に変化をつけ、音頭だけ聞いてもその節まわしに真価がある。(略)
 しかし一曲踊るのに20数分もかかり、手ぶり、身ぶりに表情をこめて踊るむずかしい踊りであって、普通の民踊とちがい一種独特の踊り方であるため中々容易に踊れない難点があり、音頭とりの後継者とともに、青少年層への普及と奨励が急がれている。
 平成21年10月1日に山口中学の体育大会を観戦した。13時の午後の部の開始直後に山口の伝統芸能である「袖下踊り」が演じられた。
 朝礼用の狭い演台に大太鼓と小太鼓が運ばれる。三人の音頭とりが登壇し、二つの太鼓に挟まれて唄い手がマイクを握る。太鼓のバチが弾み音頭取りの「口上が始まる。プログラムでは演目は、「音頭:阿波の重朗兵衛口の段」とある。いかにも浄瑠璃の代表的な演目である。
 グランドには山口町古文化保存会、民謡グループ、婦人会、生徒、PTA、教職員の有志が四つの踊りの輪をつくる。客席からも覚えのある保護者たちの飛び入り参加もある。100名以上の踊りの輪が15分ばかり続いた。
 山口中学校は地元の唯一の中学校である。在来の地域からも新興住宅街からも生徒たちが通学する。山口中学での新旧住民の垣根を越えた伝統行事の保存活動である。