母が逝った
母が逝った。半年近くの入院生活の果ての死ではあった。天寿をまっとうしたともいえる85歳の死ではあった。それでも、いつの時にも誰にとっても肉親の死は「突然」訪れる。
忘れ難い出来事になる筈の「母の死」を、真正面から受け止め、冷静に綴っておこうと思う。
2月26日(土) 訃報
死亡連絡
午前8時20分。いつもより寝坊した土曜日の朝、地下鉄「我孫子駅」を下車して職場に向かった直後だった。突然響くケイタイの着メロ。妻の緊張した声が耳に飛び込む。「今、病院から連絡があった。
お母さんの容体が急変したのですぐに来て欲しいとのこと。先に英里と一緒に行ってるのですぐに来て!」 来た道を折り返し、地下鉄、JRを乗り継いで病院の最寄駅「JR新三田駅」に向かう。土曜運転で各駅停車しかない。間延びした運転がもどかしい。9時10分、再びJR車中でのケイタイ着信音。娘の涙声が響く。「病院に着いたらおばあちゃんが8時30分頃に亡くなっていた」。一瞬、寒気が背中を駆け抜ける。目頭が熱くなり、言葉がでない。病院に向かっている筈の弟のケイタイに連絡。
10時頃、ようやく「新三田駅」に到着。タクシーに乗り換え「三田高原病院」に急ぐ。10時15分、病院着。いつもの病室に母の姿は既にない。看護婦詰所隣の重体者用の病室「観察室」に入る。3台のベッドの真ん中がカーテンで仕切られている。カーテンをくぐると、弟夫婦がベッドを囲んでいる。
枕元の席を替わった弟が、婦長さんとの懇談の模様を伝える。「今朝8時頃、容体が悪化。蘇生の措置を講じたが8時36分に亡くなった。苦しんだ様子はなく眠るような最後だった。」 死亡診断書には「鬱血性心不全」の文字。「老衰」という文字に置き換えても間違いではないとのこと。寝たきり生活の筋肉の衰えが内臓の機能をも徐々に衰えさせたのだ。眠っているかのような母の額に手を当てる。死亡直後の体温のぬくもりが永年の母のぬくもりに重なって伝わってくる
通夜、告別式は、母が永年住み慣れ、親戚、知人も多い郷里の姫路で執り行なう事にし、ひとまず西宮の私の自宅に連れてかえる事に。妻と娘は先に帰り、支度をしているという。
10時35分、病院手配の寝台車が到着。母共々寝台車に乗り込む。裏口玄関からの帰宅が哀しいサイドミラー越しに整列して見送る看護婦さんたちの姿が見える。車を降りて答礼。
晩年の闘病生活
母の遺体を挟んでの自宅までの30分の車中である。晩年の母の闘病生活が偲ばれる。一昨年の9月にリハビリに努めるべく三田シルバーステイに入所した。パーキンソン病の進行が母の日常生活の自由を奪い、既に車椅子生活を余儀なくさせていた。とはいえ、昨年6月のお誕生会ではまだまだ元気な姿で記念写真に笑顔でおさまっていた。(左画像)
昨年夏頃から病状が進行した。車椅子への乗り降り等の自力の生活の苦痛を訴え、夜間の妄想を口走るようになる。平行してリハビリへの意欲も衰え、寝たままの病棟生活の希望を口にする。9月17日、隣接する三田高原病院に入院した。
入院後の寝たきり生活による外観の衰えは予想を超えたものだった。反面、パーキンソン病の発作は治まり肉体的な苦痛を訴える事もなくなった。「リハビリという苦痛を伴う生への執着」と「苦痛から逃れた安らかな日々への安住」。結局、母は最後に後者を選択した。
我が家への最後の帰宅となった今年の正月2日は、母にとってそして私たち家族にとって思い出深い1日だった。娘や帰省中の息子との久々の対面だった。「結婚する時はくれぐれも両親の意見を聞くように」。両親の心配を察したかのような孫たちへの母の「説教」だった。そして
祖母は孫たちの結婚をみることなく逝った
祭式の打合わせ
11時、弟のマイカーと前後して自宅に到着。仏壇のある1階和室の母の居間に遺体を運ぶ。晩年の5年半を過ごした部屋への1年半ぶりの物言わぬ身となっての帰宅である。
母の姫路での生活の中心となったのは地域の婦人会の活動だった。校区の婦人会長も務めた母は冠婚葬祭の互助会活動にも積極的だった。母が自ら加入した互助会組織に葬儀の打合わせのための来訪依頼。父の跡を継ぐ形で僧籍を取得した弟が、師と仰ぐ寺院に連絡し、通夜・告別式の日程を相談。
14時、葬儀社の担当者が来訪。白木の教机に白い陶器の蝋燭立て、花瓶、焼香炉、巻線香立て等が整えられる。担当者との祭式の打合わせ。祭壇、遺影、棺、お返し、湯灌・納棺、貸衣装、着付け等々の確認。

仮通夜
夕方、弟夫婦が加古川に帰宅。母は祭式の前の最後の夜を自分の居間で過ごすことになった。蝋燭と巻線香の火を絶やさぬように私と妻と娘が仮眠しながら交替で見守る。時折、母の顔を覆う白布をめくって寝顔を見つめる。額に手を当ててみる。母の周囲を巡らすドライアイスが、体温の冷却を加速し、氷のように冷たくなった額の固さが否応なくその死を告げる。母への様々の思いが呟きとなる。「長いことありがとう」「これで楽になったんか?」「十分世話できんかったけど、ゴメンな」「お父ちゃんによろしくナ」・・・・・。
告別式での喪主挨拶の草稿を考える。明日からは忙しくなる。今しかない。インターネットの助けを借りる。「喪主挨拶」のキーワード検索。いくつかの挨拶文の事例集から基本型を借用し、母の思い出を中心にまとめる。
2月27日(日) 湯灌と納棺式。 通夜。
セレモニーホール
リビングのホームコタツでの束の間のまどろみの後、夜明けが訪れた。10時半には袈裟衣の僧服姿の弟が奥さん共々姿を見せる。昨日の平服での読経に悔いを残したとのこと。母の枕元でのあらためての経文
12時前に葬儀社の二人の担当者が寝台車で来訪。寝台車に納まる母の傍らに私が侍る。寝台車は弟夫婦のデミオと妻と娘を乗せたカローラを従えて一路、告別式会場のある姫路へ向かう。

セレモニーホール「しらさぎ大和会館」は、世界遺産でもある国宝・姫路城を間近に望む所にあった。
会館2階を2日間借切りになるとのこと。2階には140人収容のホールと80畳位の親族控室、40畳程の寺院控室がある。親族控室に準備された簡単な祭壇の前に棺が安置される。
湯灌と納棺
14時、3階控室で「湯灌と納棺」
が始まる。弟の長男も合流し、遺族6名が立ち会う。
20代後半の女性と同年輩の男性が待受ける。遺体をシャワーで清め、化粧を施し白衣に着せ替え納棺するという一連の務めを時折、解説を交えて淡々と進める。過酷とも思える仕事を若い男女がこなしていく様にある種の畏怖を覚える。死化粧を施した母の寝顔は死の直前の顔立ちから数才若返って見える。遺品のいくつかを遺体の周辺に収めた棺は再び親族控室に。
通夜
通夜の準備が整った頃、予期せぬ賓客があった。母は晩年、姫路の「亀山・本徳寺」の婦人会のお世話を生きがいにしていた。浄土真宗西本願寺派の別格別院でもある
本徳寺の大谷昭世前住職の突然の来訪だった。少し不自由になった足を杖を頼りに、かっての本徳寺仏教婦人会長の最後の見送りに駆けつけていただいた。感謝。
18時、定刻通りに通夜が始まる。僧職にあった父と僧籍を取得した弟がともにお世話になった姫路の光源寺住職の導師のもとに粛々と進行する。小雨模様のひときわ寒さの残る中を親戚、母の知人、私たち兄弟の職場の方々など大勢の弔問を頂いた。1時間足らずの通夜が無事終了し、ホール入口で弔問客のお見送り。
通夜ぶるまい
19時過ぎからは親族控室でいわゆる「通夜ぶるまい」。親戚の皆さんを囲んで故人を偲びながらの会食。1男3女の4人兄弟の末っ子だった母の兄姉は既に誰もいない。母の甥、姪(私の年上のいとこの皆さん)とその子供たちを中心に母の思い出話に花が咲く。葬儀の焼香順位の参考にと思い我が家の家系図を持参していた。母が元気だった頃、聞取っていた内容を整理したものだ。長老挌のおじさん、おばさんに母の記憶の空白部分を埋めてもらう。ついでに親族の焼香順位の指導も仰ぐ。
部屋の傍らでは、私と弟の子供たち4人の数年ぶりの再会シーン。オバアチャンの死が、めったに会うこともない従姉弟たちを
引き合わせる。

2時間程の通夜ぶるまいがお開きとなる。母の遺体を挟んでの私たち兄弟の家族の最後の夜。母の姪に当たるお二人にお付合いを頂く。遺体を安置する祭壇の蝋燭と線香の火を絶やさぬよう私と弟の交替の見守り。
2月28日(月)告別式。 火葬。骨あげ。還骨法要。
告別式
明けて28日、告別式
の日である。
祭壇の遺影
は死の数年前のものを選んだ。亀山・本徳寺に参拝時の写真である。本徳寺の仏教婦人会長時代の幸せだった頃の面影を偲ばせるものだ。病魔との戦いに疲れ果てていた晩年の面影を伝えることは母の本意ではないと思われた。それは在りし日の自信に満ちた母を知る多くの会葬者に落差の大きさを与え、その悲しみを倍加させるだけだろうから・・・。

10時、140人収容のホールをほぼ埋め尽くすほどの会葬者を得て、開式。祭壇に向かって右側最前列の遺族席に着席。導師の光源寺住職をはじめ弟を含む5人の僧侶の読経が始まる。前日までに届いた数多くの弔電のいくつかの紹介の後、喪主、遺族、親族の焼香。会葬者の代表焼香と一般焼香へと続く。この間、遺族は焼香台の左手で立礼。読経が終わり、僧侶の退席後、司会者からの喪主挨拶を促すアナウンス。
事前にまとめておいた挨拶文を思い出しながら、ひとことひとこと噛み締めるように以下の挨拶。

本日は、母の葬儀に際しまして、皆様には大変お忙しいところを、ご会葬いただきまして誠にありがとうございました。遺族を代表致しましてひとことご挨拶をさせていただきます。
若い頃の母は、私たち兄弟が一卵性双生児として生まれましたこともあり、子育てで大変苦労をしたのではないかと思います。
私が小学生の頃のことです。弟がお菓子の抽選でセスナ機で大阪上空を遊覧飛行できるクイズに当選しました。弟だけを行かせる訳にはいかないと考えた母は、八方手を尽くしてとうとう兄弟二人が一緒に飛行機に乗れるようにしてくれました。
ことほどさように双子の兄弟を分け隔てなく育てるために母は人一倍気遣いをし、苦労をかけました。今あらためて感謝を込めてそのことをかみ締めております。
子育てを終える頃からは、地域の婦人会の活動にやりがいを覚え積極的に参加させていただいておりました。更に、20数年前に僧侶であった父を亡くしてからは、父のゆかりの亀山本徳寺の仏教婦人会の活動にも参加させていただくようになりました。
母の生きがいにもなったこうした活動で、それなりに大切は役割を勤めさせていただけたのも、ひとえに本日ご会葬頂いた皆様方のご支援の賜物と、あらためて御礼申し上げます。
晩年の母は、10年来の「パーキンソン病」という難病との闘いの日々でした。1年半程前からは、リハビリ設備のある病院に入り、懸命に機能回復に努めました。入院中は、皆様方の心温まる励ましやお見舞いを頂き、本当にありがとうございました。
病院の関係者の皆様のご尽力や、本人の懸命の努力にもかかわらず、母は去る26日午前8時36分に永眠致しました。
生前、母に賜りました皆様方のご厚情に、心より感謝を申し上げます。
本日は誠にありがとうございました。

告別式が終了し一般会葬者の散会の後「最後のお別れ」がやってきた。親族はじめ生前、親交の深かった知人、友人の皆さんが寝顔を見つめながら母との最後のお別れをしていただく。遺体を白菊が埋め尽くす。
11時前、出棺。遺影を抱いて霊柩車の助手席に向かう。
霊柩車のクラクションのひときわ尾を引く哀しい響きが、会葬者に旅立ちを告げる。
火葬
斎場のある名古山霊園までは車で20分足らずである。名古山霊園にある我が家の墓には既に20数年前から父が眠っている。去年のお盆には、社会人になった子供たちも一緒に家族全員でお墓参りをした。まもなく母も久々に父と対面し、その傍らで永遠の眠りにつく。
11時20分、斎場に到着。事前に会館の担当者から預けられていた「火葬許可証」を係りの人に渡す。光源寺さんの簡単な読経。炉の前に運ばれた棺の小窓が開けられる。
実態のある母との永遠の別れの瞬間である。棺がスライドして炉の奥に滑り込む。炉の鉄製の扉がゆっくりと閉ざされる。現世と来世を隔てる冷徹な仕切りであるかのように・・・。扉をロックしたキーが渡され、そして係員の点火・・・。瞬間、目頭が熱くなりとどめようもなく涙が滲む。
12時、会館に戻り、斎場までお見送りを頂いた親族の皆さんと昼食。家系図を材料に母方の親戚関係の解明に花が咲き、あっという間に2時間が経過。会館をすべて引き払い、再び斎場に向かう。
お骨あげ
14時20分、名古山斎場入口で親族と分かれ、喪主は1人で炉の前に立つ。喪主から係員に渡されたキーが炉の扉を開き、鉄のシートが引出される。3時間前まで保たれていた母の実態が、火葬直後の無機質な物質となって現れる。鉄シートがキャスターに乗せられて「お骨あげ」の部屋に運ばれる。
待受けた親族たちを前に、係員が遺骨の解説を始める。彼は過去どれほど多くの火葬直後の遺骨を見詰め続けたのだろうか。「おばあちゃんは足が悪かったんですね。間接の骨がこんなになっています。」 遺骨の各部の状態を点検しながら、医師が患者に診断を下すかのような解説が続く。その淡々とした口調で語られる懇切な説明は、聞く者に
故人の死をウェットな感傷でなく、乾いた現実として受け止めることを要求しているかのようだ。それは遺族たちにも不思議な安らぎを覚えさせていると感じたのは私だけだっただろうか。
準備された骨壷に、親族たちが備え付けの長い箸で、思い思いにお骨を納める。係員が積み上げられたお骨の頂きに喉仏の骨を前向きに乗せて言う。「こうしておけばいつもおばあちゃんが皆さんに語り掛けられるんです。」
お骨あげを終え、親戚の皆さんの帰宅を見送る。

還骨法要
15時15分、姫路市街の中心に位置する所にある光源寺を訪問。還骨法要である。故人を送る一連の儀式の最後のシーン。
住職の読経と遺族の焼香を終え、夫人の茶菓のもてなしを受けながら父も母も懇意な間柄だった住職から法話を聴く。
光源寺での法要の後、私の長男、弟の長男、次男がそれぞれの住まいに帰っていく。母の死がもたらした家族の求心力が、儀式の終了とともに解き放たれ、それぞれの日常が再び訪れる。

帰宅
16時30分、生花や果物の整理のため加古川の弟宅に立ち寄る。仏前で家族だけの経文をあげ、西宮の自宅に向かう。
18時30分、我が家に帰宅。母の死から3日が過ぎた。慌ただしい、長い、そしてあっという間の3日間だった。


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