明日香亮のつぶやき日記 2000年1月
1月3日(月) 青春との邂逅(岡山大学弁論部同窓会)
プロローグ
昨年の9月28日
梅田の古本屋さん「梁山泊」を訪ねた。店主は大学のサークル「弁論部」の同級生「島元君」。 数年前の訪問以来の久々の再会。口の回りに髭をたくわえた旧友は古本屋のオヤジに見事に浸っている風だった。互いの近況やら共通の知人たちの消息の交換。かって一度だけ催したサークルの同窓会が話題に。「もう一度是非やろう」とは共通の思い。重ねてきた星霜が学生時代の思い出をかけがえのないものにしている。岡山在住の先輩に連絡をとってみることを約して別れた。
9月28日の夜
その日の夜、さっそく岡山在住の1年先輩の「岡本さん」に電話。コール音の後、独特のイントネーションを帯びたバリトンの響きが伝わる。島元君との邂逅と会話のあらましを伝え、弁論部同窓会の岡山での開催手配をお願い。「そんなら平井と連絡をとってみらー」との反応。「よろしくお願いします」
11月2日
一通の封書が届く。差出人の「副島冨士禧」さんに心当たりはない。開封してみると「コスモス会会員名簿」なる数枚の書類と以下のメッセージ。
『拝啓 やっと秋らしくなりましたがお元気でお過ごしのこととお喜び申し上げます。
さて、私は先日奈良で実施しました
岡大弁論部OB(コスモス)会の幹事を努めました8期の者ですが、貴兄の出欠連絡でその存在を御存じなかったことを知り誠に残念で以後このような事態をなくしたいと決意した次第です。
当会は今まで1年か2年に一度の割合で岡山、大阪、東京などで実施して参りました。しかしご案内先が整理不徹底の名簿であったため貴兄にご案内が届かなかったものと思います。そこで今回極力各種資料から会員名簿を再整理しましたのでお送りします。この名簿は全部ご案内が到着した現時点では正確なものです。皆様相当によい年齢になられたことでもあり今後は従来ほどに転居は生じないものと推察しています。会員は今後、減少の一途を辿る宿命にあり、それだけに個々会員に限りなく懐かしさを感じています。どうぞ今後ともよろしくお願いします。敬具』
会員は今後、減少の一途を辿る宿命にあり』の一節は、私の心にズシッと響くものがある。岡山大学弁論部は私が幹事(部長)をしていた昭和42年をもって消滅した。当時の学園紛争の嵐の中で、ひとつには「弁論部」という反動的響きのある名称への反発から、ひとつには弁論大会等の活動は全くやっておらず、実態は「現代思想の研究活動」であったことがその背景にあった。サークルでの大論争の末「弁論部」から「現代思想研究会」への名称変更が決定された。学友会に届出た張本人が私であった。私たちの世代以降、後輩のいない減少の一途を辿る宿命を生みだしたことへの慙愧の念がよぎる。
11月11日
逡巡の後、副島氏に対し以下の返信。
『前略 コスモス会会員名簿をありがとうございました。あわせましてご返事が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。拝見致しました名簿には、消息を知らなかった先輩諸氏の懐かしい名前があり、私にとっても貴重なものでした。14期から17期の名簿の方々はほぼ在学中に交流のあった方々ですし数名の方とは今も時折の交遊が続いております。「消息不明」の森福さんは残念ながら20数年前に亡くなられました。
次回のコスモス会には日程調整がつけば参加させて頂きたいと思っております。ほんとにありがとうございました。
草々』
12月11日
往復はがきが届く。返信用の宛先は「岡本裕行」。待っていた「弁論部同窓会」の案内状だった。
いかにも岡本さんといった感じの案内文が添えられていた。
『56歳になればイスパニアの青い空の下で家内とフィッシングしながら、ゆっくりした時の流れに身をまかせながら生活するつもりでしたが、ふとスペイン語が話せないことに気づき、取りやめました。世相は今までの社会システムのほころびが目立ち、カオスを一層深めていますので、スペインどころか穏やかな老後を送ることもなかなか難しいと認識しています。木造のBOXで、或いは本島の合宿で、口角泡を飛ばし、お互いに傷つけあった青春のエナジーを久しぶりに再開することで蘇らせ、この世相の中をヨタヨタしながらでも、前へ前へ歩いて行きたいものです。つきましては、下記の通り同窓会を開きますので万障繰り合わせてご出席して下さることを心からお待ちしています。」
12月30日
大学卒業後、家族ぐるみのお付き合いで今尚交流のあるお二人の先輩がいる。今回の同窓会の仕掛け人のひとりとしては何としても多くの人に出席してもらいたい。
京都府庁勤務の竹内さん宅に連絡。久々に奥さんの声を聞く。子供たちの近況にしばし花が咲く。ご本人は実家に帰省中とのことで実家に連絡。「その日のうちに帰宅するが出席する」とのこと。ヨカッタ。
次いでグリーンスタンプ勤務の森元さん宅に連絡。こちらも奥さんの「まだ帰っていない」との情報。ついでに森元さんの骨折事故による1ヶ月自宅療養の顛末記の近況報告も。(事故の原因等の詳細はご本人の名誉の為に割愛。) 翌日、森元さんから連絡。「出席できない」旨返信したとのこと。「そこをなんとか・・・」と説得を試みるも「イヤ、やっぱりやめとくワ」と断固たる口調。断念。
同窓会本番
1月3日
いよいよ同窓会である。会場はJR岡山駅から徒歩5分。国際観光旅館「山佐本陣」。玄関前の『本日の御一行様』案内を確認。アッタアッタ「岡山大学弁論部」様。その他、看板には近隣の中学、高校、大学の校名がズラリ。さすがにお正月、同窓会が目白押し。
予定時間をかなり早く到着したので幹事役のお二人の姿も見えない。仲居さんの案内で一足先に会場に。
しばらくすると二人目の出席者が到着。失礼ながらお顔に覚えがないがどう見ても外見は先輩(もっとも最後の部員に後輩はいないのだから見知らぬ人は先輩に決まっている)。
ここは一番丁重に名刺交換でお名前確認の手か。頂いた名刺は「JA三次 代表理事組合長・村上光雄」。持参の副島氏作のコスモス会会員名簿と照合。5年先輩の12期にお名前がある。知らない筈。しばし名簿をネタに雑談。
予定時間を過ぎても次の出席者の姿が見えない。5分ほど過ぎた頃、どかどかと入室。玄関口で雑談しながら待っていたとのこと。幹事役の岡本さんの司会でようやく宴の開始。最長老の村上先輩の乾杯の後の自由懇親。適度にアルコールが入り、肩の力が抜け舌の回転が滑らかになった頃を見計らって座席順に出席者の近況報告
トップは島元健作(16期)さん。学園紛争の真っ只中で全共闘運動を最も戦闘的に戦ったメンバー。家業を継いだ古書籍販売業。今や大阪・梅田に2店舗を構えている。とはいえ、今尚心情的には学生時代の思いを堅持している模様。(左画像)
次いで1年先輩の哲夫(15期)さん。名古屋の大手メーカー勤務後、早い時期にUターン。今は徳山市の和泉産業の経理部長さん。家業の農業にも全力投球とか。(右画像)
3番手は学生時代の活動をそのまま実生活に活かしている岡田信之(14期)さん。今や貫禄の日本共産党岡山県議会議員である。岡田さんからは茨城県つくば市議会議員の塚本(旧姓:田中武士(14期)さんの消息が伝えられる。(左画像)
村上光雄(12期)さんからは持参の地元のワインが振る舞われ、農業再生のメッセージの後、弁論部にかけがえのない先輩である甲田 斉(11期)さんの闘病の情報が伝えられた。(右画像)
もうひとりの同窓会幹事役の平井昭夫(15期)さんは岡山市内で弁護士開業。法文学部法学科在籍の誰もが一度は夢見た司法試験を見事にパス。会場の山佐本陣の顧問もしているとかで、コスモス会会員名簿の仲居さんへのコピー依頼も手慣れたもの。(左画像)
今回の同窓会にはお二人の女性陣が参加。見満(旧姓:今脇かおる(13期)さんは現在は藤沢市在住の主婦。とはいえそこは岡大弁論部出身、只の主婦では納まらない。色んなボランティア活動の中心的役割を担っているご様子。サスガ。(右画像)
もうひとりの女性陣の三宅(旧姓:山下美智子(13期)さん。今は大阪府堺市の高校教師とか。今尚かっての思想的立場を堅持し意気軒昂なメッセージ。(左画像)
竹内賢樹(15期)さんは京都府企業局長。蜷川革新府政のもとで頭角をあらわし、その後の保守府政のもとでも着々と足場を固めて今日の地位に。そのバランス感覚は見事。丹後半島での風力発電に意欲を燃やし、退職後の帰農を夢見る心情を披露。(右画像)
そして小生・日高昭夫(16期)の出番。卒業後、某大手スーパーに。20年近い労組専従活動の後、今は関係会社の管理部署でリストラ実行部隊に身を置く立場。インターネットのホームページ開設を武器にデジカメ持参で同窓会報道班をアピール。(左画像)
トリは今回の幹事でもある岡本裕行(15期)さん。学生時代からの内面世界へのこだわりを今尚堅持しているかのような生き方。リストラ旋風の中でいち早く早期退職を選択し今はトラック運転手とか。「大江健三郎」を彷彿とさせるその風貌とあいまっての独自の存在感は学生時代も今も変ることはない。(右画像)
しばしば脱線しながらも参加者全員の近況報告が無事終了。
名簿を見ながら不参加者の近況についての情報交換。卒業まもなく夭折された森福猷弐(14期)さんや10年程前に逝去された志部昭平(14期)さんの思い出話。
思いついて小生は同期の牛山(旧姓:片山佐智恵さんに電話。名簿の連絡先は松本市の「なずな子供の家」とある。こんな時携帯はありがたい。なんと一発で直接ご本人に繋がる。30年ぶりの懐かしい声が耳に届く。岡本さんから今回の連絡があったこともあり、突然の電話にもさほど違和感はなかった模様。小生の記憶も確か。ヨカッタ。
ところで出席予定の筈の清水谷さんの姿が今尚見えない。日頃から付き合いのある岡田さんが携帯から連絡。数度のかけ直しの末、ようやく繋がる。「開始時間を間違えていた。今から駆けつける」とのこと。
そこへ竹下(旧姓:高畑光枝(13期)さんが登場。幹事役の別の同窓会に重なったとかで出席が不確かとのことだったが何とか都合をつけてもらったようだ。今は芳井町の小学校の校長先生とのこと。笑みをたたえたふくよかな顔立ち。近況報告は貫禄十分。(左画像)
散会間近に清水谷巌(15期)さんがようやく姿を見せた。小生にとっても思いで深い先輩のひとり。弁論部機関誌「カオス」に掲載された氏の作品『お話王女様』はロマンチスト清水谷のメルヘンの世界を描いた秀作だった。ロマンチストが祟ってかその結婚生活は「バツ2」の実力派? 今は病院の専務理事として看護婦さんたちとの団交の矢面に立つ身とか。(右画像)
今日中に三次まで帰らなければということで村上先輩が退席とのこと。広報担当としては何としても本日の記念写真が欲しいところ。仲居さんを呼んで早速デジカメのシャッター係りを依頼。かくして無事11名のオジサン、オバサンの笑顔が揃った(残念ながら清水谷さんの到着はこの後で記念写真いはおさまらず)。(左画像)
次いで西脇の実家に帰宅の竹内さん、徳山に帰宅の林さんが退席。午後7時30分。3時間30分に及ぶ10年ぶりの弁論部同窓会のお開きの時間が来た。小生は宝塚まで帰る島元君と同行。残された7人の男女は二次会のご様子。
新幹線車内での島元君との雑談。『そういえば竹内さん、オウムの上祐史浩に感じが似てないか。』とは島元君。『似てる似てる。アア言えばジョウユウの会話の巧みさもピッタシ?』
エピローグ
私とって青春の思い出の貴重な部分は大学時代の、とりわけ弁論部というサークル活動に重なっている。教養部構内の端っこにあったサークルの木造長屋のBOX。BOX内にデンと居座っていた年代物の傷だらけの木のテーブル。それを囲んでの激論。BOX前の馬場では、我々の独り善がりの激論とおよそかけ離れた日常の中で、乗馬クラブのメンバーたちの、優雅な練習風景があった。
学園紛争のあおりの中で遂に提出することのなかった「卒論」。私にとっては弁論部機関誌への投稿論文「誰もが変る時」がそれに替わるものだった。今思えば奇妙な集団だった。思想的には、右翼、左翼、新左翼が同居していた。司法試験を目指すマジメ一筋のタイプ、文学にのめり込む人、デカダンを気取りアウトローの生活に流れる者等、様々な人種の寄り合い世帯だった。多様な価値観が火花を散らし、それでいて奇妙に共存していた。機関誌の名称「カオス」はそうしたサークルの伝統を象徴していたのかもしれない。
「弁論部」の名称が「現代思想研究会」に変わった昭和42年以降、サークルは、「カオス(混沌)」をそのものだった。3年目を迎えた私自身の学生生活も荒廃を極めていた。学生運動の虚しさと退廃が無為の生活の口実になっていた。それは多かれ少なかれ全国の大学に蔓延していた当時の気分でもあった。私にとって忘れることのできない極限状況ともいうべきできごとに直面したのもこの頃だった。それまでの平坦な人生しか知らなかった私にとって、弁論部でのこうした多面的でそしてドラスティックな体験がその後の人生に与えた影響ははかり知れない。多くの先輩方にとっても同じ思いではないだろうか。
ミレニアムの年の正月早々の岡大弁論部同窓会は、30数年ぶりの「青春との邂逅」ともいうべきひとときであった。

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