明日香亮のつぶやき日記

1998年9月
9月23日(水) 見知らぬ訪問者
帰宅後のメールチェック。千葉の宇都宮さんという方からのメール。小生のHPを見たとのこと。嬉しくなって日記に記す。
『語り口調に涙』と題するメールである。『初めまして。コルトレーンで検索していたら明日香亮氏のHPにぶつかりました。なにか妙な落ち着きと春闘って文字が心を離しません。(笑い) 個人のHPとしてはなかなか優秀なものですね。まとまりがある。また訪問させていただきます。』
早速、返信メール。題して『出合い頭のコルトレーン』『メールありがとうございます。ある日、突然、見ず知らずの方からメールが届く。HP家主のたまらない醍醐味です。宇都宮さん?どんな人だろ?HPでもあれば・・・そんな気持です。』
見ず知らずの人からの二度目のHP感想メールだった。初めての感想メールは東京の女性だった。
『明日香亮様。西宮市をたずねて偶然”明日香亮の世界”に舞い込みました。なんだかうきうきしてきそうな導入でひきこまれました。パソコン暦数年でこのようなホームページを・・・すごいと思いました。絵もとてもかわいらしくてよかったです。この絵はご自身で描かれたものですか?とても絵が気に入ってしまいました。』
こんなメールをもらっては、うきうきしないではいられない。早速返信メール。するとそのまた返信メールが届いた。驚き!彼女は、東京都調布市の防災関係の商品を扱う某企画会社勤務。防災関連の情報を求めて阪神大震災の被災地・西宮市のHP「情報倉庫にしのみや」を訪問。そこでリンクしている私のHPに出合ったとの由。4才の娘のお母さんでもある。ちなみにメール交換は返信の返信をもって(無事というか残念ながらというか)オシマイ。
世代を超えて、空間を超えて、時間を超えて、ある日突然、様々な『出合い』がサイバースペースを駆け巡る。
9月17日(木) 直木賞作家を巡るその後のドラマ
級友・車谷君の直木賞受賞を巡って、私の周辺で小さなドラマが展開している。1年ほど前、高校の級友G君が、車谷君の三島由紀夫賞受賞を私に連絡してくれた。ドラマの始まりだった。受賞作の1部にはG君が指摘したように私らしき人物が、腑抜けの見本の如く登場していた。-----『生島、俺な、この学校へ来たこと好かったと思とんや・・・、な、な、お前も自分のこと土亀でええ思うやろ、思う言うて呉れ』 演劇部の主役、三宅はこう言って私に同意を求めるのだった。自分で自分を受止められない腑抜けが洩らす切ない泣き言だった。』-----。何を隠そう「演劇部の主役、三宅」とは私のことなのだ。 なんともひどい登場のさせかたではあった。
その車谷君がナント直木賞を受賞してしまったのだ。そのニュースは、ひどい登場のさせかたではあっても、彼の作品にそれらしく登場したことにまんざらでもない気分に浸らせた。直木賞作家の胸中に何がしかの自分の印象が残っていたのかなどと勝手な解釈をしたものだ。そんな気分の中で、もし氏に会えたら『腑抜けが洩らす切ない泣き言』を言ってやろう。『車谷、俺な、お前と級友だったこと好かったと思とんや・・・、な、な、お前もええ思うやろ、思う言うて呉れ』
な どと思ったりしたものだ。
その後、G君からのメールが届いた。「出版社を通じて彼の作品の感想と共に、『土亀仲間による祝杯の機会があれば』とのメッセージを託した。」とのこと。そして再びG君からのメール。「メーッセージに対する冷やかな返事が『文芸春秋10月号』に載っていた」とのこと。そして今日、「立ち読みで充分」というG君の意に逆らい早速購入して読んでみる。
車谷長吉(くるまたにちょうきつ)氏の題して「私の月間日記---直木賞受賞修羅日乗---」の1部。『8月20日・木曜日。---(略)---手紙が3通。高等学校時代の同級生G氏からの手紙は不快だった。「親しくすること」と「狎れ狎れしくすること」とを履き違えている。親しくするとは、持続することだ。35年間1度も逢ったことがないのにどうしていっしょに酒など呑めるものか。こちらが困惑するだけだ。』 実は文中のG君のところはフルネームの実名である。文芸春秋に活字となって発表されている作家・車谷氏の日記である。インターネットのホームページにチマチマと書いているマイナーな「明日香亮のつぶやき日記」とはわけが違う。
作家・辻井喬(堤清二)氏はじめ著名人を含めた多くの知人・友人が実名で登場する。作家・車谷氏の『修羅日乗』とは受賞後、一躍有名人に仲間入りし、一変して超多忙を極める得意絶頂の日常の様(さま)のことであるようだ。
タイトルの小見出しが語っている。「これまで多くの人に小馬鹿にされてきたが、これで私も男になれた」。日記の底流に一貫して流れる氏の心情か。「男子の本懐というか、男の花道というか。兎も角、これで私も男になれたのだ。これ迄、随分多くの人に小馬鹿にされて来て、悔しい、癪に障る思いをして来たが、そういう人達がTVや新聞を見て、どう思ったか。私が捨てた女たち、私を捨てた女たち、あるいはすでに絶交した友たち、私としては、見たかッ、という思いである。これも私の劣等感のなせる業である。」
直木賞作家のプライドをかなぐり捨てたかのような、その余りにも赤裸々で見事なまでに俗な心情の吐露に、ある種の狂気を垣間見る。私(ワタクシ)を鬻ぐことをもって小説を為すとはこういうことか。私に関わる他人は、所詮「私」が語る他人でしかないのか。他人が眺める「私」についての彼の想像力は希薄であるかに見える。いくつかの文学賞の受賞に至るまでの彼の余りにも長かった日常は、まさしく『修羅日乗』であっただろうことは想像に難くない。血みどろの日常を這いずり回って獲得した今日の『修羅日乗』である。私信を公のメディアで実名をもって切って捨てようがなにほどのことか。「無邪気に35年ぶりの祝杯などを酌み交わせる相手ではない。
思わず漏れるつぶやき。『車谷、俺な、お前と級友だったことあんまり好かったと思てへんのや・・・、お前かてそう思てんのやろ』
9月11日(金) 母のこと
9月2日朝、出勤直後の職場に弟から電話。10日ほど前から母は弟宅に。突然の連絡は母のことか?一瞬の不安。『2日前に母が転倒。歩けない。食事、トイレもひとりでは無理。昨日、今日と仕事を休んで世話をしているがこれ以上は休めない。母とも相談し入院先を探している。』とのこと。
84才になる母は、5年前から我が家に同居している。それまでの弟宅での生活から、弟の単身赴任を機に居を移した。父は22年前にこの世を去った。6年間の姫路の自宅でのひとり暮らしの後、加古川の弟宅に身を寄せた。その間、2〜3週間を定期的に我が家で過ごす生活でもあった。我が家に同居後は、同様に定期的に弟宅に滞在している。その弟宅での滞在中の出来事だった。
共稼ぎである弟夫婦には付っきりの介護には限界がある。私の妻にとっても、子供が手を離れた後のパート仲間との付合いはかけがえのないものになりつつある。母の入浴、食事等の身の回りの世話を託してきた妻に、これ以上の負担を強いるわけにはいかない。
難病である「パーキンソン病」を患う母である。数年前から、自分自身の身の回りのことだけをかろうじてこなす程度にまで身体機能が低下した。伝い歩きをしながらの家の中だけの日常生活。時々襲ってくる発作は、その日常生活すら中断させる。深夜、トイレに行くための介助を求める叫びが息子夫婦の眠りをさます。日を追うごとに日常生活での介助の必要が高まるようだ。妻への負担が比例する。「介護戦争」の言葉が身に迫る。
9月2日夜、弟より電話。『知合いの病院長のつてで三田市の病院に入院手配ができた。明日にでも手続をしに訪問してほしい。』
9月3日午前中、かかりつけの病院で転院の紹介状を受領。午後、妻ともども三田市の病院へ。自宅から車で30分。事務長とおぼしき人の説明。病院の案内パンフには『特例許可老人病院』とある。病棟を案内された。寝たきりのお年寄りたちの無表情な視線がつきささる。限られた空間にいくつものベッドが並ぶ。物言わぬ身じろぎの少ない多くの老人たちが身を寄せ合う。病棟を包む重苦しい雰囲気に打ちひしがれそうになる。圧倒的な衝撃が五感を覆う。(「これはチガウ!母の入院先はここではない。」)
隣接するシルバーステイなる老人保健施設に案内される。同じ医療法人の経営である。事務長の説明。『こちらは生活しながらリハビリを実施する施設。いわば医療j行為中心の病院と家庭での生活・介護の中間機能を果たすもの。閉じこもり、運動不足、老化・寝たきり進行からの脱皮訓練の場。残存機能を向上させ、日常生活復帰の意欲回復と在宅復帰が目標。』 機能の衰えに対してはなすすべがないのところに家庭介護の限界がある。寝たきりになるのを手をこまねいて見守る他はない。事務長の説明はこうした家族の悩みに応えるものがある。居住空間の広さと明るさ、家庭介護では望むべくもない充実したリハビリ設備、温泉の出る浴室、ナースステーション等々・・・。(「これだッ。こちらにしよう」)
帰途、弟に電話。シルバーステイへの入所に変更。『母の気持ちの切り替え期間必要。来週明けの8日頃送っていく。』とのこと。年老いて住みなれた生活を一変させねばならない母の辛さに胸が痛む。
9月8日夜、弟に電話。『無事、入所。とはいえ母の不安感と寂しさはひとしお。帰り際は予想通り泣きながらの見送り。』
9月10日午後、偶然休みとなった娘ともども夫婦でシルバーステイに。未了だった保護者の手続を済ませ、療養室へ。急な入所で個室しか空いていなかった。ナースステーションで婦長らしき人に挨拶。個室であることが話好きの母の寂しさを一層募らせているようだ。談話室にヘルパーさんの指導で車椅子の仲間たちに混じって折り紙を折る母の姿。自室に戻り、久々の会話。「話し相手がいない」「車椅子が思うように動かない」「食事がまずい」。母の口から次々ついて出る愚痴が「帰りたい」との思いを滲ませる。「早く家で生活できるように頑張ってリハビリせんとアカンで」 いろんな励ましの言葉も結局この一点に尽きてしまう。帰り際、トイレに行くという母の車椅子を押す。「トイレに入っている間に帰っといて!」 母のせいいっぱいの強がりなのか思いやりなのか。
慣れない生活に必死で耐えているだろう母の気持ちに胸が痛む。とはいえ当面の「介護戦争」から解放されたことの安堵感に、後ろめたさとやりきれなさが募る。
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