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中国のシェイクスピア受容略史
                                  瀬戸宏
 

                  (一)
 シェイクスピアは、中国語では莎士比亜と表記する。中国に最初にシェイクスピアの名が伝わったのは、西洋人のキリスト教伝導師によってで、一八五六年に上海で出版されたイギリス人の伝導師訳の『大英国志』に“舌克斯畢”の表記で紹介されたのが最初とされている。これは、日本よりも早い。その後も、欧米人のキリスト教関係者が中国で出版した著述の中に、シェイクスピアの名が断続的に現れている。しかし、キリスト教関係者による紹介は、閉鎖的な中国文化風土にあっては、ほとんど影響力を持ちえなかった。
 中国人の精神世界に影響を与えるシェイクスピア紹介は、やはり中国人自身の手で行なわれなければならなかった。それが開始されるのは、一八九四年から九五年の日清戦争(中国側の呼称は甲午戦争)敗北の衝撃により、外国の思想・文化を学び中国の改革の必要性を主張する人々が層として出現して以後であった。
 梁啓超は、明治維新にならって清朝を立憲君主制国家にすることをめざした変法運動の代表的人物として知られている。変法運動は西太后ら保守派の容認するところとならず、梁啓超らは横浜に亡命して運動を継続し、中国新文化運動の先駆けとなった。梁啓超はシェイクスピア導入史の上でも大きな足跡を残した。莎士比亜という表記は彼から始まったのである。厳復、魯迅も、二十世紀初頭にシェイクスピアについて言及している。
 
 しかし、これらはシェイクスピアを簡単に紹介しただけにすぎなかった。中国で実質的に最初にシェイクスピア作品の内容を具体的に紹介したのは、一九〇四年出版の林ジョ(糸予)・魏易『吟辺燕語』であった(注1)。『吟辺燕語』は、ラム『シェイクイスピア物語』の翻訳である。訳者の林ジョは外国語が読めなかったが、彼は古文の名手で他の人が口訳した内容を文言文に直して出版したのである。彼の一連の翻訳は林訳小説と呼ばれ、大きな歓迎を受けた。林ジョは『シェイクイスピア物語』二十編を全訳し、各編に中国古典小説風の題名をつけた。たとえば、『ベニスの商人』は『肉券』、『ハムレット』は『鬼詔』となっている。
 『吟辺燕語』出版から七年後、一九一一年の辛亥革命によって清朝は倒れ中華民国が生まれた。辛亥革命前後から十年代前半には、文明戯または早期話劇と呼ばれる演劇が上海を中心に栄えた。この演劇は、台詞劇という点では後の話劇と同じであるが、多くの伝統演劇の遺留物を残していたので、今日では話劇と区別して早期話劇と呼ばれる。文明戯は完全な上演台本を持たず幕表と呼ばれる粗筋を即興で肉付けして日替わりで演目を上演していくところに特色があった。今日残っている文明戯の梗概集をみると『吟辺燕語』の二十編はすべて上演されている。中国の観客は、『吟辺燕語』の脚色でまずシェイクスピアを知ったのである。このうち最も歓迎されたのは『肉券』であったようで、この作品については詳細な梗概が残されている。
 
 ただし、この文明戯の一連の上演は『吟辺燕語』が翻訳としては問題があったうえに、それ自体がラムの要約の脚色であり完備した上演台本による上演ではなかったため、厳密な意味でのシェイクスピア上演とはとても呼べないものであった。彼らはシェイクスピアを外国の伝奇的な物語とのみとらえ、それを中国の伝統的な思考様式に基づいて脚色したのである。
 林ジョはさらに、『ヘンリー四世』などを翻訳したが、これらもイギリスで小説化されたものの翻訳で(注2)、シェイクスピア作品の翻訳とは認められてはいない。
 
                  (二)
 『新青年』誌を舞台に胡適、陳独秀らによって一九一七年に起こされた新文化運動は、中国の文化状況に革命的な変化をもたらした。これ以後、中国には今日的な意味での近代文化が生まれることになったのである。この新文化運動は、一九一九年の五四運動と結びついて全国に広まった。中国の近代劇である話劇も、この五四新文化運動の影響下から生まれ、二十年代中期に確立するのである。
 シェイクスピアの抜粋や小説体ではない完全な翻訳が現れたのも、五四運動の後のことであった。一九二一年の田漢訳『ハムレット』がそれである。五四新文化運動を経て、中国は初めて西洋文化を本質的に理解し受容することが可能になったのである。この田漢訳は散文体による訳で、その後の中国でのシェイクスピアの翻訳の多くが散文訳でおこなわれる先駆けとなった。その後、二十年代を通して中国では散発的にシェイクスピアの作品が翻訳されていくことになる。『ロミオとジュリエット』『ジュリアス・シーザー』『お気に召すまま』『ベニスの商人』などである。二十年代の中国でのシェイクスピア理解の多くは、シェイクスピアをロマン主義の劇詩人ととらえるものであった。
 
 上演について言えば、誕生したばかりの中国話劇はシェイクスピアを翻訳上演するのは荷が重かった。舞台でのほぼ完全なシェイクスピア上演は、一九三〇年五月の上海戯劇協社『ベニスの商人』(顧仲彝訳、応雲衛演出)を待たなければならなかった。
 中国の三十年代は、一九二八年の蒋介石による北伐の完成により相対的に平和が訪れた時代であった。上海など沿海部の大都市を中心に、現代文化が栄えた。中国のシェイクスピア受容にも大きな変化が現れた。系統的、計画的なシェイクスピア紹介が始まったのである。これは、シェイクスピア翻訳全集刊行の試みとして現れた。この三十年代は、同時に左翼芸術運動が大きな影響力をもった時代でもあった。この中で、直接的なメッセージ性をもたないシェイクスピアの紹介、翻訳にあたる者は、左翼芸術運動と距離を置いたり、あるいは敵対さえしたりすることが起こりがちであった。
 
 その代表者が梁実秋である。アメリカ留学生であった彼は、帰国後に芸術至上主義を標榜する文学結社『新月』派の代表的人物となり、魯迅や左翼作家たちと激しく論争した。彼は一九三〇年からシェイクスピアの翻訳に従事した。そのきっかけは、胡適が中華教育文化基金編訳委員会主任の職に就いたのを機に、梁実秋ら五人に呼びかけてシェイクスピア全集翻訳委員会を作ったことであった。しかし、他の者は死亡したりシェイクスピア翻訳に関心をしめさなかったりしたたため、結果的に梁実秋が一人で体系的シェイクスピア翻訳をおこなうことになった。梁実秋は一九三九年までに『ベニスの商人』『オセロ』『お気に召すまま』『リア王』『マクベス』『あらし』『ハムレット』の翻訳を刊行した。彼は、これと平行して、多くのシェイクスピア研究を『新月』その他に発表している。梁実秋のシェイクスピア翻訳は日中戦争(抗日戦争)勃発で一時中絶したが、抗戦勝利後翻訳を再開した。一九四九年の中国革命に際しては、彼は台湾へ移る道を選び、省立師範学院(まもなく大学)教授などの職に就きながらシェイクピア翻訳を続け、一九六七年にはシェイクスピア三十七作を彼個人が訳した『シェイクスピア戯劇全集』を台湾で刊行した。中国語圏でシェイクスピア全作品を個人で全訳したのは、梁実秋だけである。だが、梁実秋の訳は彼が台湾に逃れたため、中国大陸では長い間影響力を発揮できなかった。
 中国でのシェイクスピア翻訳史に次に名前があがるのは、曹未風である。彼は抗日戦争の厳しい条件の中で翻訳を続け、一九四四年に中国奥地の貴陽・文通出版社から『あらし』『ベニスの商人』『ベロナの二紳士』『『お気に召すまま』『真夏の夜の夢』『ロミオとジュリエット』『リア王』『ハムレット』『マクベス』『間違い続き』の十一種を、『シェイクスピア全集』の名で刊行した。曹未風は抗日戦争勝利後の一九四六年にも、このうちの十種を『曹訳シェイクスピア全集』の名で上海で出版している。しかし、曹未風の訳は、後に彼自身が「もともと学生の勉強の参考のためと考え、体系および文学上はすべて原文の格式に依拠したので、多くの晦渋・難解な個所が生まれた。もし舞台で使用するなら、かなり大きな修正が必要である。」と述べたような欠陥があり、実際の上演に用いられることはほとんどなかった。
 
 中国でのシェイクスピア翻訳で最も影響力があったのは、朱生豪である。彼は上海・世界書局の編集者であったが、編集主任からシェイクスピア翻訳を勧められたことから翻訳に従事し始めた。朱生豪は抗日戦争勃発直前の一九三七年上半期には『十二夜』など九つの喜劇の翻訳を終え、引続き他の作品に取り組んでいたが、戦争で「長年苦心して収集した各種のシェイクスピアの版本や諸家の注釈、考証、批評など二百冊を下らないものが悉く砲火の中で失われ、慌ただしい中でオックスフォード版全集一冊と訳稿数本を取り出せただけであった。」(『シェイクスピア戯劇全集』訳者自序 世界書局 一九四七)。日本が欧米諸国と全面戦争し上海の租界も消滅して失業した一九四二年からは、上海郊外の実家に引きこもって苦しい生活の中でシェイクスピア翻訳に専念し、驚くべき集中力で一九四四年暮れまでに三一種の翻訳を完成させた。未訳の六種は、『リチャード三世』『ヘンリー五世』『ヘンリー六世』(上中下)『ヘンリー八世』で、すべて歴史劇であった。苛酷な生活は朱生豪の健康を蝕み、一九四四年一二月にわずか三二歳で病没した。
 朱生豪は中国古文の素養の豊かな人で、彼の訳文は「典雅で、中国の気風に富み民族の鑑賞習慣に合致した適切な語句が多く、原作の精神を的確に伝え、流暢で生き生きとしており、強い感染力があり、美の享受を与えさせる」(中国大百科全書・戯劇巻の朱生豪の項)と評されている。朱生豪の翻訳は、抗戦後の一九四七、八年に上海・世界書局から三巻本の『シェイクスピア戯劇全集』として出版されたほか、中華人民共和国建国後の一九五四年にも作家出版社から十二冊本の『シェイクスピア戯劇集』として刊行され、広く普及した。文革後の一九七八年に人民文学出版社から刊行された『シェイクスピア全集』も、基本的に朱生豪の翻訳に基づいている。ただし、彼の訳文は翻訳時の各種の制約により、誤訳や遺漏が多いことも指摘されており、七八年版の全集では補正されている。
 
 このほか、抗戦期から戦後にかけて、中国では十数種のさまざまな訳者によるシェイクスピア作品が出版された。楊晦訳『アテネのタイモン』、曹禺訳『ロミオとジュリエット』が、今日でも記憶されている。
 三十年代から抗日戦争期の中国話劇は創作劇の上演が多く、外国演劇を上演する場合も多くは翻案であった。そのため、シェイクスピア上演は多くはないが、一般劇団の上演では、一九三七年四月の上海業余実験劇団『ロミオとジュリエット』(田漢訳、章泯演出)、一九四四年の成都・神鷹劇団『ロミオとジュリエット』(曹禺訳、張駿祥演出)が記録されている。上海業余実験劇団の上演は演出家の章泯がスタニスラフスキー・システムに基づき生き生きとした舞台を作りだすことに成功したこと、神鷹劇団の上演は曹禺の流麗な訳文で、それぞれ知られている。
 
 人民共和国建国以前のシェイクスピア上演で欠かすことができないのは、国立戯劇専科学校(国立劇専)である。この学校は一九三五年に当時の中華民国首都の南京で創立された国立の演劇学校で、抗日戦争中は奥地に教師・学生とも移って活動を続け多くの演劇人を養成した。校長は創設から閉鎖まで余上ゲン(シ元)であった。中華人民共和国建国後に、中央戯劇学院に吸収された。
 余上ゲンはアメリカ留学生で、『新月』派のメンバーでもあった。彼はシェイクスピアを上演によって中国に紹介することを試み、国立劇専の第一回卒業公演として一九三七年六月に『ベニスの商人』(梁実秋訳)を上演し、自ら演出したのである。採算を考慮にいれなくてよい演劇教育機関の上演のため、稽古期間も充分とることができ、上演と同時にパンフレット『シェイクスピア特刊』を発行したり、シェイクスピア公開講座を開催したりするなど、学術研究とも結合させた。五回の上演はすべて満席となり、当時の新聞等は公演の成果を高く評価したという。余上ゲンは国立劇専の卒業公演ではすべてシェイクスピアを演じる構想を持っていたという。これは抗戦勃発などで実現しなかったが、国立劇専はその後も、一九三八年七月に『オセロ』(梁実秋訳、余上ゲン演出)を、一九四二年六月に『ハムレット』(梁実秋訳、焦菊隠演出)を、一九四八年に再び『ベニスの商人』(梁実秋訳、余上ゲン演出)を上演している。抗日戦争という開校時には予期できなかった原因により、国立劇専のシェイクスピア上演は四回に留まったが、シェイクスピアが散発的に上演されるに過ぎなかった民国期中国にあっては、四回という上演回数は群を抜くものであった。
 
                  (三)
 一九四九年の中国革命成功による中華人民共和国建国は、文化の面でも新しい状況をもたらした。中国には久しぶりに平和が訪れたが、中国革命成功により中国共産党は自己の路線を絶対化し、一九六六年からの文化大革命に至る一七年間は絶え間なく大規模な思想キャンペーンが繰り広げられ、階級闘争が強調された。中国演劇においても、「階級闘争」と社会主義建設の現実を描く創作劇上演が奨励され、「階級闘争」と直接には関わらないシェイクスピア上演には関心が余り寄せられなかった。「一七年」の時期に上演されたシェイクスピア作品は、『間違いの喜劇』『十二夜』『ロミオとジュリエット』の三作だけで、上演主体も中央戯劇学院(『ロミオとジュリエット』)、上海戯劇学院(『間違いの喜劇』)、北京電影学院(『十二夜』)など演劇教育機関がほとんどであった。北京人民芸術劇院など著名な劇団は、「一七年」の期間にシェイクスピアをまったく上演していないのである。この中では、上海青年話劇団が一九六一年に『間違いの喜劇』を上演したのが目立っている。
 一九六六年から始まる文化大革命は、「資本主義の復活を防ぐ」ために文化面での闘争を重視し封建的・資本主義的要素を厳しく批判したため、シェイクスピアの上演は問題にもならなかった。シェイクスピアを読むことすら、激しい批判を覚悟しなければならなかったのである。
 
 文革は一九七六年に終結し、まもなく思想の解放が強調され、中国でのシェイクスピア紹介も新しい段階に達した。一九七八年には、上述したように『シェイクスピア全集』が出版された。この全集は一三巻本で、朱生豪訳に欠けていた六種の歴史劇を補ったほか、長詩やソネットも含む完全な中国語訳全集であった。この全集は文革以前に紙型が出来上がっていたが、一九七八年にようやく出版が可能になったのである。第一刷の発行部数は三万近かった。続いて、『シェイクスピア喜劇五種』(方平訳)や各種単行本など新訳によるシェイクスピア作品の刊行も始まった。中央戯劇学院にシェイクスピア研究センターが、上海戯劇学院に中国シェイクスピア研究会が置かれるなど、専門的シェイクスピア研究の体制も整備され始めた。
 上演においても、一九七九年一月の上海青年話劇団『間違いの喜劇』を皮切りに、さまざまな作品が続々と上演されるようになった。中央、上海両戯劇学院だけでなく上海人芸『ロミオとジュリエット』(一九八〇)、北京人芸『尺には尺を』(一九八一)など一般劇団もシェイクスピアを積極的に取り上げるようになった。一九八六年四月には、上海戯劇学院・中央戯劇学院などの主催により、上海・北京で同時に大規模なシェイクスピア演劇祭が開催されている。中国で翻訳劇の演劇祭が開催されるのはこれが最初であった。上海では、上海青話『アントニーとクレオパトラ』、上海人芸『じゃじゃ馬慣らし』、遼寧人芸『リア王』、上海戯劇学院『タイタス・アンドロニカス』、武漢話劇院『ウィンザーの陽気な女房たち』など十四の演目が、北京では中国青年芸術劇院『ベニスの商人』、中央戯劇学院『リア王』、鉄路話劇団『オセロー』など十二の演目が参加している。規模の大きさが理解できるであろう。演劇祭では、このほかに学術討論や演目に関する合評会もあった。
 
 シェイクスピア演劇祭・上海地区の参加演目の中には、注目すべきものがあった。上海昆劇団『血手記』(『マクベス』の脚色)、上海越劇院『十二夜』、杭州越劇院『冬物語』、安徽省黄梅戯劇団『間違いの喜劇』のように、伝統演劇の劇団がシェイクスピア作品を演じていたのである。伝統演劇がシェイクスピアを演じるのは人民共和国建国以前にも例はあったが、本格的になるのは文革後の八十年代からである。その最初は、一九八三年の北京実験京劇団『オセロ』とされている。中国伝統演劇は基本的に歌劇であり、シェイクスピアの作品を演じやすい筈であるが、これまでは例外的でしかなかった。伝統演劇の観層である中国庶民は、伝統演劇が外国の物語を上演するのに馴染めなかったのである。それが八十年代に入って盛んにシェイクスピアを演じ始めたのは、中国人の西洋受容が進み伝統演劇が演じるシェイクスピアに違和感がなくなったてきたからであろう。シェイクスピア演劇祭参加の伝統演劇形式の上演の中では、上海越劇院『十二夜』が最も高い評価を受けた。このほか、上海昆劇団『血手記』も注目された。『十二夜』は西洋の衣装を用いた、『血手記』は中国の伝統的衣装による上演である。
 このように、八十年に入って中国ではシェイクスピアが様々に演じられるようになったが、話劇の上演は西洋の衣装を着け額縁舞台で演じられる「伝統的」なものがほとんどで実験性は弱かった。上演の意図も、シェイクスピアを世界文化偉人とし「世界名作」を中国の観客に紹介するという姿勢が強く感じられるものが大半であった。八十年代後半から「演劇の危機」が深刻化し公演自体が減少した。シェイクスピア演劇祭は一九九四年にも上海で行なわれたが、それほどの反響を呼ばなかった。(ただし、このフェスティバルで上演されたハムレットを越劇で脚色上演した『王子復仇記』は趙志剛の好演もあり、注目を集めた。)
 
 新しい動きがなかったわけではない。一九九〇年秋の林兆華演出による『ハムレット』(戯劇工作室)である。この掛け値なしの前衛演劇は、中国でのシェイクスピア上演史に新しい段階を記すものであった。この上演の意義は、私も本誌などで何度も述べたので、繰り返さない。一九九三年の中央戯劇学院『十二夜』(何炳珠他演出)も、遊戯的かつ色彩感にあふれた小劇場形式のシェイクスピア上演として注目された。
 九十年代末になって、北京では演劇上演が再び盛んになる兆しもみえている。中国のシェイクスピア受容も、今後中国の現実に基礎を置く新しい形態が必ず現れるに違いない。(『シアターアーツ』11号 2002年1月 原載)
 
注1 実際には、前年の1903年に『シェイクスピア物語』から十編を選んで文語訳した『シ解外奇譚』(訳者不明、シ解は一字)が上海達文社から出版されている(孟憲強『中国莎学簡史』 東北師範大学出版社 1994)。しかし、その影響力は『吟辺燕語』に遙かに劣り、中国人がシェイクスピア作品の内容を広く知ったのは、実質的に『吟辺燕語』からとみなしてよい。樽本照雄「林訳シェイクスピア冤罪事件――林〓を罵る快楽 番外編」(『清末小説』第30号 2007.12.1 〓は原文)で指摘があったので、「実質的に」の四字を補う。なお樽本照雄編『新編清末民初小説目録』(1997 清末小説研究会)には『海外奇譚』とあるが、どちらが正しいか調査中(2007.12.5)。その後、表紙は『シ解外奇譚』、目次等は『海外奇譚』であることがわかった。「《シ解外奇譚》について」参照(2008.9.17)。
注2 樽本照雄「林訳シェイクスピア冤罪事件(要旨)」( 『清末小説から』85 2007.4.1)参照。
 
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