第六章 その後
 サイトを開設してもっとも期待していたのは、ぼくの知らない情報を誰かがメールで教えてくれることだった。
 期待は叶えられた。開設して一年ばかりのあいだに、ある方から「週刊ベースボール」の連載エッセイを、別の方から「東京中日スポーツ」の連載エッセイを教えていただいた。「週刊ベースボール」のほうは隔週での連載、「東京中日スポーツ」のほうは週に一度の連載だった。
 二つとも実に貴重な情報で、ていねいに御礼の返信メールを送った。
「週刊ベースボール」は連載開始からほんの二カ月ほどしか経っていないときにもたらされた情報だったので、図書館にもバックナンバーがあった。しかし「東京中日スポーツ」は簡単ではなかった。教えていただいた時点で、連載開始から四年も経過していた。そして「東京中日スポーツ」は朝日新聞や読売新聞と違って縮刷版もなく、浦安の図書館では購読もしていなかった。カウンターで近隣で購読している図書館を探してもらったが、長くても二年のバックナンバーしか保存されていなかった。それは小平市の図書館で、二年分はそこに出向いてコピーした。だが、まだあと二年分が残っていた。
 永田町の国会図書館を訪ねた。コピー一枚百二十円という高さだったが、他にないのだから仕方がない。
 だが、それでも全部は揃わなかった。エッセイが載る火曜日(現在は木曜日)が祝日だった分だった。そういう日は図書館へは配達されないが、駅では売っているのだ。それが十一回分あった。それに加えて、国会図書館でも紛失のために保存されていない分が一つあった。ぼくはがくぜんと立ち尽くしてしまった。ジグソーパズルの最後の数ピースが足りない絶望感だった。その様子に、カウンターの人も申し訳なさそうにしていた。
「ここになきゃ、もう駄目だ」
 と全身から力が抜けた。何といっても国会図書館である。そこにないのだ。
 だが、ひらめいた。そのときぼくの目はキラリと光ったと思う。
「いや、もう一カ所ある」
 東京中日スポーツの本社である。ぼくは次の土曜日、品川にある本社に予め電話で目的を告げて訪問し、揃っていない分をコピーしてもらった。一枚百十円で、それは「東京中日スポーツ」一紙分と同額だった(現在では一紙百二十円)。ジグソーパズルは完成した。
 その後も今日まで、さらに二人の方にメールで情報をいただいた。ありがたいことである。

 サイト開設十年が経ったとき、来訪者数は約三万九百だった。年に三千ちょっとという計算である。一日八人か九人。人気サイトとは言えない。ぜんぜん言えない。
 しかしぼくは、これぐらいがちょうどいい気がしている。ここ二年ぐらいは一日五人か六人に減ったが、一日に千人に訪問されるよりよっぽど気楽だ。テレビで見たのだが、サイトを持っていても、ヤフーやグーグルで上位でヒットしないと来訪者はほとんどいないらしい。その点、このサイトはいつも三位以内だ。上等じゃないか。
 傾向として、新刊が出て二カ月ほどするとカウンターの数字が伸びはじめる。一日に三十以上伸びることもある。それがだいたい三週間ほど続き、それからゆるやかに下降する。しかし『青い空』のときは発売後一カ月ほどで伸びはじめ、五カ月ぐらい続いた。改めて、時代小説の人気の高さを認識した。
 もっとも、このサイトを一番利用しているのは、おそらくぼく自身だ。最近は図書館でもインターネットが利用できるので、館内で気になる情報をつかんだときはすぐにこのサイトにアクセスして確認する。図書館にいないときだって、今やいたるところにネットカフェもある。もう、ノートを持ち歩く必要はない。手ぶらだ。
 ノートをいつもバッグに入れていたころ、
「なくしたら大変だぞ」
 という不安を抱き続けていた。そこから開放されたことは、サイト開設によってもたらされた唯一の変化である。

 これだけ熱狂的なファンだと、海老沢作品からまったく影響を受けないということは不可能だ。
『美味礼讃』に魅了され、辻調理師専門学校の東京校であるエコールキュリネール国立の学園祭に二年続けて行ったり、神社で参拝するときはわずかなさい銭で願いごとをいくつも並べるようなことはやめて、「こんちには」と挨拶するだけになったことなどは序の口である。ゴルフを始めないのが不思議なぐらいだ。
 ぼくは一九九六年から十年間、テニススクールに通っていた。こんなに長く続いた習い事は他にない。そのころ、レッスンではうまいのに試合になるとなかなか勝てない友人にこう言ったものだ。
「たとえ追いつけそうもないボールでもあきらめちゃ駄目だ。そのうち、甘いボールなら追いつき、ラケットに当てることだって可能になる。すると相手は、もっと厳しいコースを狙わなければならない。ミスも増える。そして相手は、こんどはこっちが何をしてくるだろうと考える。そう思わせたとき、勝負はその分こちらへ傾くんだよ」
 最後の一文は『監督』で広岡達朗が高原という選手にチームプレーの重要性を説いたときの言葉から借りた。あまりに鮮烈なシーンなので、脳裏に焼きついてしまったのだ。
『イン・ザ・ホール』(『スーパースター』収録)ではとても重要なことを教わった。少なくともぼくはそう感じている。主人公のプロ野球選手が別れた妻を訪ねる場面。彼女は父親が経営する中古車販売店で経理の仕事をしている。

「面白い仕事なのかい?」
 と彼はいった。
「面白くないわ」
 と彼女はいった。「でも働いてるってことは、いいことよ」

 さりげなく交わされる会話なのだが、ぼくは、
「そうだよな。嫌なこともたくさんあるけど、働くということはいいことだよな」
 としみじみと思い、心の支えにしている。
 海老沢泰久が書評やエッセイで取り上げた本もずいぶん読んだ。『料理人』、『香水』、『悪童日記』、『ケインとアベル』、『英雄ベーブ・ルースの内幕』、『ひまわり娘』、『用心棒日月抄』、『行きつけの店』、『昭和キャバレー秘史』、『万葉秀歌探訪』、『愛しの座敷わらし』などである。書評やエッセイが面白いので期待して読むのだが、実際にどれも面白く、『ひまわり娘』を読んで、ぼくはすっかり源氏鶏太のファンになってしまい、その後も別の作品を折につけ読んでいる。
 同じことが山口瞳にも言える。『行きつけの店』が面白かったので他の作品も読んでいるうちに、すっかり山口瞳を信用するようになったのだ。『礼儀作法入門』と『続礼儀作法入門』は、ぼくの実生活上の教科書と言っても過言ではないぐらいである。ネクタイの選び方から近所づき合いの心得まで書いてあり、それに従っている。
 ネクタイは、それまでぼくは「量より質」という方針を取っており、あまり数は持っていなかった。しかし『礼儀作法入門』の「ネクタイ・ワイシャツ・靴下」の項に、こう書かれていた。
「ネクタイは、値段の高低、色の良し悪し、幅がどうのこうの、柄がどうのこうのということは、いっさい関係がない」
 それ以来、方針を転換し、ネクタイの数はずいぶん増えた。『続礼儀作法入門』の「家探し・引越し」の項には、
「隣り近所との交際ということになれば、これはもう、絶対に、『浅くつきあう』ということだけを心がけなければならない。けっして深入りしてはいけない」
 と書いてあったので、肝に命じて実行している。
 そのように、直接に海老沢作品だけでなく、そこから派生してさまざまな影響を受けている。
 そして、さらにぼくの生活に変化を及ぼすことが起こった。

 ぼくは本になるような文章というのは、特別な才能に恵まれた人間だけが書けるものだと思っていた。才能がなければ書けないものだと決めつけていたと言い換えてもいい。そして自分に才能があるなどとは一瞬たりとも考えたこともないので、ぼくにまともな文章なんて書けるわけがないと信じ込んでいた。
 ところが海老沢泰久がある対談の中で、うまいへたは訓練次第だと言った。
「じゃあ、訓練すれば書けるようになるということじゃないか」
 と思った。はじめて、書くという行為を強く意識した。
 ぼくは子供のころから書くことが大の苦手だった。そのころ書くものと言えば、読書感想文や授業で見た教育番組の感想文だった。それを書かされるのが嫌でたまらなかった。感想と言われても「面白かった」とか「つまらなかった」ぐらいしか浮かばず、教師に原稿用紙三枚以上書きなさいと言われると、どうやって三枚のマスを埋めようかと悩み、知っている漢字をひらがなで書いたり、改行を多用してごまかした。
 海老沢泰久の言う通りなら、訓練すればまともな文章が書けるようになるはずである。ぼくは小説が書きたくなった。
 そう思ったとき、ぼくはすでに海老沢作品から、どういう文章を目指せばいいかの答を持っていることに気づいた。
「書くというのは、書くこと自体が目的なのではない。小説にかぎらず、それが手紙であれ何であれ、書かれたものというのは、それを読んだ第三者がそこに書かれた内容を誤りなく理解してはじめて意味が生じるので、そのことを考えれば、何が書かれていようと、それを読んだ第三者が理解できなければ、最終的には何を書いたことにもならないということである」
 これはある文学賞での選評の一節だが、海老沢泰久はどの選評でも一貫してこのことを言っている。これまではこういう選評を読んだときは、海老沢作品が頭にスッキリと入ってくる秘密が分った気がして、そのことしか考えなかった。
「海老沢泰久は、第三者が誤りなく理解できるように、徹底的に考え抜いて書いていたのだ。その結果、必要なことは余すことなく語られ、不要なことは省かれていたのだ」
 そうとしか考えなかった。それが、書くという行為を強く意識したとき、その言葉が自分への課題として迫ってきた。
 さらにぼくは、やはり海老沢作品から、どのように訓練すべきかも知っていた。ある雑誌でこう言っている。
「書いたら絶対に、人に読んでもらうべき。Aというものを見て、独自の解釈で書かれているか、文章に説得力はあるか、そういったことを的確に判断してくれる人を探すこと」
 二〇〇〇年春、ぼくは地元で、同人誌を発行する文章サークルに入った。

 ぼくは本や雑誌で海老沢泰久の写真を見ていたし、NHKの報道番組でしゃべっているところも見ていた。しかし実際に会ったことはなかった。
 友人から、
「そんなに熱烈なファンなら、会ってみたいだろう」
 と何度言われたか知れない。
 夢でなら五回ほど会ったことがある。あるときは部屋に上げていただきコーヒーをご馳走になった。またあるときは公園でグローブをつけてキャッチボールをした。
 しかし、どうしても会いたいという気持はなかった。会う理由がなかったからだ。会ったところで、ぼくはあなたのファンですと言う以外、何もなかった。それでは相手だって困ってしまうだろう。また、作品は好きだが作家本人を好きになるかどうかは別問題だという考えもあった。
「会わないのがいいのだ」
 と思った。作品を通してのみつながっている距離感がふさわしい関係なのだ。ぼくは編集者でもなければ友人でもない。単なるファンなのだ。
 しかし二〇〇二年夏、いつものようにネット検索をしていると、驚くべき情報がヒットした。海老沢泰久が秋から母校の国学院大学で、書くことを教える授業を持つというニュースだった。毎週木曜日、半年間の授業だった。
 めまいがしそうなほどの衝撃的なニュースである。会っても話すことはないが、今や書く訓練をはじめたぼくにとって、海老沢泰久から直接教わるなどということは、これ以上望めるべくもない理想だった。
 おそらく授業では、書くというのは第三者が読んで誤りなく理解できなければ意味がないという話も出ることだろう。まったくそれでかまわなかった。読んで知っていることと本人の口から直接語りかけられるのでは重みが違う。
 文章サークルに入ったものの、ぼくの小説はまだぜんぜんダメだった。登山が趣味なので、山を舞台にした短編小説を書いてみたりもしたが、いい評価を得られることはあまりなかった。だがやめるつもりはまったくなかった。訓練ははじまったばかりなのだ。
 国学院大学に問い合わせてみると、学外の人間でも所定の手続きをすれば受けられる授業であることが分った。ぼくは自分の母校の卒業証明書を取ったり、国学院大学に行って何枚かの用紙に記入したり、六万円ほどの授業料を払ったりして所定の手続きを済ませた。

 二〇〇二年十月三日、午後四時。
 ぼくは国学院大学の教室にいた。八十席ほどの小さめな教室だったが、生徒は全部で二十人ほどしかいなかった。
 年齢的に完全に浮いた存在なので、ぼくは廊下側の端の列の最前列に一人でぽつんと座っていた。
 午後四時からの授業なので、ぼくはこの日から半年間、木曜日は会社は午後休むことにしていた。有給休暇は余っていたのでどうってことはなかった。
 チャイムが鳴った。
 ぼくは目の前の扉を見た。もうすぐ、海老沢泰久はあの扉を開けて入ってくるのだ。そう意識したとたん、激しい緊張がおそってきた。体がカッと熱くなり、震えた。呼吸も苦しくなった。
「落ち着け」
 と自分に言い聞かせた。黙って講義を聞いていればいいだけのことじゃないか。でも駄目だった。
 何とか自分を落ち着かせようと思った。
 この一年に発行された『巨人がプロ野球をダメにした』と『「読売巨人軍」の大罪』のことを考えた。二冊ともエッセイ集で、ほとんどが「東京中日スポーツ」と「週刊ベースボール」の連載エッセイから集められていた。十年前に『美味礼讃』を読んで、
「この人の作品をすべて読む」
 と決心したとき、図書館や大宅文庫でコピーを集めたところでいつか本になってしまえば時間と金をかけて人よりほんの少しだけ早く読んだだけということになるのだと考えたが、現実にそうなったのだ。
 損したなどとは微塵も思わなかった。純粋に、海老沢泰久と同時代に生きている幸福に感謝しただけだった。そして二冊の巻末の初出一覧に誤植を発見したときのことを思い出した。出版社に手紙で伝えると、二刷目で訂正されていた。ぼくは自分の記録の正確さに自信を持った。
 気がつくと、体の震えはとまり、呼吸も整ってきた。もう大丈夫だ。
 やがて、前の扉がガラガラと音を立てて開いた。