あとがき
 ぼくの朝は忙しい。やることが一杯あるからだ。会社は九時出勤なのだが、七時三十分には大手町に着き、九時ぎりぎりまでコーヒーショップで過ごしている。これは時差通勤になる。すし詰めでない電車で読書ができて、精神衛生上とてもいい。毎朝コーヒー一杯で一時間三十分も居座るなんて、店側にはいい迷惑だろう。だがとても空いているので、あまり気にしていないと思う。たぶん。
 一時間三十分のうち、最初の三十分をペン字練習に充てている。
 国学院大学での授業で教わったことの一つが、
「書くというのは、原稿用紙に万年筆で書くこと」
 だった。
 今はプロの作家でもワープロがほとんどらしいので、これは海老沢泰久個人の哲学ということになる。だがぼくは教わったとおりにしたかった。そして、どうせ書くならきれいな字で書きたいと思い立ったのだ。ただし、子供のころにさぼっていたツケは大きく、いくら練習してもなかなかうまくならずに困っている。
 あとの一時間は小説を書くことに費やしている。むろん、原稿用紙に万年筆で書いている。しかしこちらもなかなかうまくいかない。文学賞に応募しても、最終選考まで残ったこともない。その拙さは、ここまで読んでこられた方なら説明するまでもないだろう。

 授業は生徒の作品の合評だった。「窓」とか「時計」といったいくつかのテーマが与えられ、生徒が原稿用紙三枚以内の作品を書いて提出する。一回の授業で、そのうちの三作が取り上げられるというやり方だった。
 授業で海老沢泰久が語る言葉を、ぼくはひと言も聞き逃すまいと、必死にメモを取った。当時のノートを開いていくつか例を挙げてみる。
「書くときは、読み手は書き手ほど真剣に読んでくれないことを頭に入れて置いたほうがいい」
「日記は書く訓練にはならない。相手に伝えることを目的にしていないから」
「体言止めは効果的に使わないと新聞記事のようになってしまう。品格みたいなものがなくなって、味わいがなくなる。文章というのは、『である』でも『だった』でも、最後が難しい。そこを一生懸命考えなければならない」
「風景描写をするときは、実例がないとリアリティが出ない。『広葉樹』ではなく、『銀杏』とか『ケヤキ』と書くのがいい」
「よく分らないこと、疑問を持っていること、確信を持っていないことを書くと、文章に表れる。よく分っていることを書くと、文章も力強い。運転だって、知っている道は人と話しながらでもできるが、知らない道では、そんなことはできない。だから、よく知っていることを増やすこと、自分を作ることが重要。自分を作れれば、テクニック、技術は後からついてくる」
 その半年間は、ぼくの宝である。しかし「本人から教わっている」という意識があまりにも強く、常に「極度の緊張」と「ゆるやかな緊張」を行ったり来たりしていた。そのため情けないことに、あこがれの作家と挨拶程度しか交わせなかった。
 目次チェックは今も続けている。完全な目次が公開されている雑誌が少ないという事情はぜんぜん変わっていないからだ。今は雑誌が売れない時代のようで、いくつかが廃刊された。おかげでチェックする雑誌が減って楽になっている。しかしぼくは、雑誌が減って楽になるより、楽にならなくてもいいからたくさんの海老沢作品に出会いたい。

 まえがきで、タイトルを『このサイトができるまで』にした理由を述べたが、実はこのタイトルも正確ではない。「その後」がかなり長いからだ。本当に正確なタイトルをつけるなら、『ぼくのサイト運営体験記』ということになろう。
 しかしそれでは平凡すぎて誰の気も引かない気がした。ぼくだってネット・サーフィン中にそんなタイトルを発見しても「あ、そう、がんばってね」と、かなり冷淡にスルーしてしまうだろう。
 それでは悲しい。ぼくなりに一生懸命書いたものなので少しは人の目にとまりたい。それには『ファンサイトのつくり方』が断然いい。だがそれはまえがきに書いたとおりの理由で無理である。
 つまり『このサイトができるまで』というタイトルは、『ぼくのサイト運営体験記』以上『ファンサイトのつくり方』以下の、中間に位置していることになる。人の気は引きたいが、大ボラを吹くことなく、「こっちも見てみない?」と誘う気分で書いた。松坂牛のステーキはごちそうできないけど、ドゥリエールのミルクレープと紅茶を用意した心境だ。

 あとがきでは編集者や関係者への謝辞をよく見かけるが、ぼくにも謝辞を捧げたい人物はいる。
 ぼくの知らない情報をメールで教えてくれた人たちだ。それは四人ほどいる。
「このサイトにはあったほうがいい情報が入ってないなあ。ずいぶん熱心なファンみたいだから教えてあげるとするか」
 そんな、面倒見のいいペットの飼い主のような気分で教えてくれたのではないだろうか。
 そしてそのとき、ぼくがどんなに喜ぶかを想像してくれていたとしたら、その想像はまったく正しい。ぼくは青空が広がる公園でボールを追いかける豆柴のように、ちぎれんばかりに尻尾を振ってその情報を追いかけた。情報をいただいたときに感謝の返信メールは送っているが、この場を借りて改めて御礼を言いたい。
 それから、これは当然すぎるほど当然なのだが、海老沢泰久氏に感謝したい。サイト開設以来十年間、というよりファンになってから二十年以上のあいだ、海老沢作品を読みたいという情熱が低下することはなかった。「面倒だけどサイト運営のためにやらなきゃ」などという義務感で雑誌の目次チャックをしたことは一度たりともない。いつだって「新作が発表されているかもしれない」とワクワクしながらチェックした。テンションは上がりっぱなしだった。そして実際に新作を見つけると、一瞬にして体温が上がるほどの興奮につつまれた。
 それはつまり、海老沢泰久氏がそういう気持にさせる作品を書き続けてくれているおかげなのである。それ以外にない。
2009年7月30日 ヒサ


「このサイトができるまで」を書き終えてちょうど二週間後、海老沢泰久氏が急逝した。朝刊で知り、愕然とした。『レイテ戦記』を読みはじめて五日目のことである。
 一九九四年に短編集『帰郷』で直木賞を受賞したとき、『小説を書くということ』というエッセイで、自分の文体のヒントになった作品として『レイテ戦記』を挙げていた。そのときからずっと読みたいと思っていた。しかし文庫三巻の大作なので、まとまった時間がとれるまで手を出せずにいた。それが十五年も経ってやっと読みはじめたとたん、こういうことが起こる。何というめぐり合わせだろう。
 めぐり合わせと言えばもう一つ。このサイトは八月十三日が誕生日で、毎年ぼくは心の中で祝っていた。それが命日と重なることになった。深く深く冥福を祈る。

 最後に海老沢泰久氏を見たのはJT主催の講演会に行ったときだ。テーマは「日本人とルール」で、イギリス人と日本人の、ルールというものに対する認識の違いを駐車場やゴルフを例にした話が中心だった。
 講演の最後に強く印象に残ることがあった。話が終わって「ご清聴ありがとうございました」と言ったあとのことである。
 原稿を揃えて壇から下がるとき、聴衆に向かって、原稿を持った右手を突き上げるしぐさをしたのだ。
 この動作を、単なる挨拶と捉えることはもちろんできる。「じゃあ、失礼するね」という意味に受けとめることはできる。だがぼくは、そのときそうは思わなかった。
「あ、気分がいいんだな」
 と思った。
 講演の最後は、
「年を取ると人間は頑固になる。これは大事なことだと思う。自分を保つために。つらいこともあるが、喜びも大きい。頑固になるのは消極的なことではない。他人の目を気にすると苦しくなる。気にしなければ楽になる」
 という話だった。
 ぼくには右手を突き上げたときの感じが、
「俺はますます頑固にやっていくぞ」
 と宣言しているように映った。
 そして、そのことをそういう態度で示したのは、きっと今の気分がいいからなのだと思ったのだ。
 むろん、なぜ気分がよかったのかは分らない。聴衆の反応がよかったからかも知れないし、控室での主催者との話が楽しかったからかも知れない。あるいは講演とは無関係なのかも知れない。ただ、そのときの海老沢泰久氏の気分がよかったことだけは伝わってきた。
 それがぼくが見た最後の姿である。

 このサイトについてだが、今のところ閉鎖するつもりはない。少しは資料としての価値があるんじゃないかと思っているし、一番の利用者であるぼく自身がまだまだ必要としているからだ。もしかしたら今後、埋もれていた作品を発掘するかも知れないし、まだ本になっていない作品が出版されるかも知れない。更新頻度は著しく低下するだろうが、ゼロではないのだ。作品は残る。
2009年8月24日 ヒサ