SVA東京市民ネットワークNEWS LETTER「里程標」第9号
滝沢直子
インドネシアでホームステイメイトのヌンキーとダブルベッドで眠ったとき、そういえばヌンキー、なんかごほごほいってたっけ…
薄手のカーディガンをはおってちょうどいいくらいの船内(エアコンで強力に冷却・乾燥加工されている)と、パンプスの底が溶けてゆくほどの地上(灼熱の太陽に湿気たっぷりの気候)という激しいギャップ、そして休みなしのハードなスケジュールの中で、既に体調を崩す人が増え始めていた。船がシンガポールに着く頃には、私もヌンキーから風邪をもらってしまったようだった。
そうはいうものの、ブルネイ、インドネシアと旅をしてきた私たちの前に「ここは都会だ!」という迫力とともにキラキラ姿を見せたシンガポールに、皆なんだか浮き足立っている。日本人参加者の間からは「なんかほっとするよー」という声も聞こえてくる。私たちは昼間はセントーサ島できゃぴきゃぴ遊び、夜はシャングリラホテルでウェルカムパーティに出席した(そこで日本人参加者が披露した「太鼓」のパフォーマンスが大喝采を浴び、後日船の中でアセアン参加者向けに行われた講習会ではあまりの人気に参加できない人も続出した)。
そしてここでのホームステイの楽しかったこと!ホストファミリーは26歳の女の子スージーとその彼氏のロック。スージーの家は超高層団地の一室で、お母さんと妹さんと暮らしている。お父さんは離婚してしまったので家にはいず、お母さんも仕事で帰りが遅く、残念ながらお話する機会はなかった。ホームステイメイトのタダムと(18歳のタイ人の女の子。なかなかキュートでおしゃれ)並んで寝て、朝になって起き出すとスージーが言った。
「妹を紹介するわね」瞬間わたしは固まってしまった。紹介されたその時、妹さん(多分わたしと同じかもっと下だよね)はベッドの中にいて、何も着てなかった。そして隣にはその彼氏がやっぱり何も着てなかった。わたしは思った。「シンガポールってけっこうオープンなとこなんだわ、きっと。」
そんな明るい?雰囲気の中、スージーやロック、さらにその友だちの男の子ピーターも交えてたくさん話してたくさん笑った。特に日本とシンガポール、どっちが暮らしやすいかという話は盛り上がった。わたしとロックはそれぞれ自分が月々かかる金額を紙に書きだし、お互いの収支を細かく見ていった。その結果、大変なのはどちらも同じで、でもどちらもそれなりにはやっていけてるということがよく分かった。ただしシンガポールの方が住居に関しては日本より恵まれているかもしれない。同じ家賃レベルでも広いし、若い人でも自分の家(一軒家という意味ではないが)を持つことが難しくないからだ。
シンガポールと東京は違うけれど少し似ている。「都市」という範疇の中だけかもしれないけれど。きれいで便利でテンポが速く、モノが溢れ、人が泳ぐ。違うのは気候と、人種構成と、言葉と…そうそう、ここの食べ物は安くておいしい。シンガポール、“つくられた”都市の島。人種のるつぼに入り込めば、同じ英語でも全く違って聞こえる。宗教を聞くと、けっこう無宗教だという人が多い。シンガポールのアイデンティティってなんだろう。
きゃぴきゃぴ遊んだセントーサ島で、わたしを真顔にさせたものがある。かつてこの国を日本が占領したときの資料の数々…日本語の教科書や紙幣が語っているのはまぎれもない史実である。なぜだかわたしたちが教えられることも目にすることもなかったたくさんのものがここにはあった。
シンガポールからタイのバンコクに着く頃、わたしの風邪はかなり悪化していて声は既に自分のものではなくなっていた。ときどき1オクターブくらい上がったり、裏がえったり、かと思えばハスキーな少年のようになったりするわたしの声は、みんなのからかいの的となり、大人げない参加者の多くがわたしの声まねをしていた。しかしわたしにとって、この状況は笑えないものがあった。だってタイのホームステイではちょっとは話せる!タイ語を駆使して楽しいコミュニケーション…の予定だったのだから。声が出ない(全く出ないときもままあった)なんて、タイ語どころか意思の疎通にも支障が出てしまう。そのひどい声と止まらない咳のため、ホストファミリーはわたしを救急病院に連れていくこととなった。わたしは急性の扁桃炎と診断された。
そんな体調にもかかわらず、タイでもあちこちに出かけた。大好きなタイ料理をたくさん食べられる幸せの効果も大きかったことだろう。料理といえば、同じ東南アジアとはいっても国によって地域によってひと味もふた味も異なる。ブルネイでは魚や野菜をあまり辛くはないけれどスパイスをきかせて料理していたし、インドネシアではえびせんべいを筆頭に割と乾いた感じのものが多かった。様々な種類の中華やインド、それらとマレー、さらにはイギリスの影響を受け各国の料理が揃うシンガポール、豊かな素材を生かしながらスパイスをハードにきかせたタイ料理、スペインやアメリカの影響を強くうけているフィリピンの料理。
ひとも違う。船の中で一番盛り上げ役だったのは多分タイ人だ。細かい規則にとらわれず、いつも楽しいイベントを企画して自分たちもめいっぱい楽しんでいた。フィリピン人も明るくフレンドリーで、歌のうまさは際だっていた。英語のうまさでフィリピン人と張り合えるのはシンガポール人だ。話し上手でリーダーシップをとれる人が多かった。インドネシア人も踊りのセンスはなかなかだ。女の子にメイクの上手な子が多かったのも印象的だった。ブルネイ人は、男の子は割合おとなしめだったけど、かたっまてる時はけっこう大きな態度?になってた。女の子は普段は皆ベールを被って黙っているだけに、それをはずしたときは顔だけでなく性格まで変わる人がけっこういて驚いた。マレーシア人は同じグループの子とは仲良くなれたんだけど、他のグループだとほとんど話す機会がなかった。ナショナルリーダー(国から派遣された指導者のような人)が非常に厳しい人で、イベントへの参加が制限されてしまうなど、皆とゆっくり話す機会があまりなくちょっとかわいそうな立場だった。
もちろん皆がそうというわけではないけれども、こんな風になんとなく違いが現れていた。その背景には歴史、文化的・社会的背景、それに宗教など、様々なからまりがあるのであろう。ある人の常識が別の人の非常識、そんな世界の中で時にはストレスも感じたり、相手が分からなくなることもある。それでも瞬間瞬間に共有できた思い、語り合った夢や悩みの何かしらの共通性が、相手との近さも感じさせてくれる。
マレーシアでは東サワラク州のコタキナバルという、大自然に抱かれたまちにステイすることができた。台風の過ぎ去った後のフィリピンは、道路脇の木々はことごとく倒れ、地域によっては水も電気も止まっていたけれど、高級住宅地にホームステイしたわたしは不便を感じないどころか、その暮らしぶりに驚かされることも多かった。
日本に近づくにつれ、船内外がエアコンを入れなくても肌寒く感じるようになる。なんとなく元気のない日本人参加者に対し、支給されたコートを試着してはしゃぐアセアン参加者は本当に嬉しそうだ。
晴海埠頭に戻り、地上に降りたってからもプログラムは続く。最も忘れがたいのは日本の各地方でのホームステイだ。わたしは北九州に行くことができた。ホストファミリーはマンションにひとり暮らしの30代の女性で、ホームステイメイトはルームメイトでもある
Aui だった。夕暮れの門司港、寒さに震える Aui がコートのポケットに缶入りのホットコーヒーを入れて体を温めていたのを思い出す。そうだ、あれから1年以上もたってしまった。船から戻って、もう一度勉強する(物事を時間をかけて考える)機会(もしくは口実)が必要になったわたしは大学院を受けることを決め、にわかに忙しくなった。そして入学。仕事に学校、それに引っ越しまで重なって、息もつけないほど忙しい日々が続いた。結果もらった手紙の返事は書かないままに月日が流れ、昨年は東南アジアに行くこともなかった。
そんななかでも、手紙を出してくれる人がいる。電話を、E-mailをくれる人がいる。それらが東南アジアから彼らの近況を乗せて届くとき、確かにつながることを感じる。近くて遠い、遠くて近い東南アジアだから、海から行けたことはわたしにとって本当に幸運だったと思っている。広くて大きな海で、でも確実につながっているわたしたち。
連載になってしまったこの文章を読んでくださりありがとうございました。
船の仲間たちに、とりわけAuiと Sofiaに愛を込めて‥‥‥
〈おわり〉