サンタ・ビットリアの秘密 ★★★
(The Secret of Santa Vittoria)

1969 US
監督:スタンリー・クレイマー
出演:アンソニー・クイン、アンナ・マニャーニ、ハーディ・クリューガー、ビルナ・リージ



<一口プロット解説>
第二次大戦中、ワイン製造を生業とするあるイタリアの村に、ドイツ軍が侵攻しワインを徴発しようとする。
<入間洋のコメント>
 「サンタ・ビットリアの秘密」は、第二次世界大戦中、イタリアにある小さな村の村人達が地元の特産品であるワインの何百万本というボトルをドイツ軍の手から守ろうとする話である。といっても、悲惨な話ではなくコメディ調の映画であり、出演している俳優も主演のアンソニー・クイン及びドイツ軍将校役を演ずるハーディ・クリューガーを除くとほとんどイタリア人ばかりであり、いかにもイタリア的な明るさに満ち溢れている。この映画で一番傑作なシーンは何といっても、雲をつくような大男のアンソニー・クインを、それをはるかに凌駕するド迫力でアンナ・マニャーニが追い回すシーンである。アンナ・マニャーニに尻をひっぱたかれて、アンソニー・クインが負け犬のように頭を抱えて机の下に隠れるシーンはほとんど漫画だが、これほどの俳優が演ずると妙に説得力がある。また、村はずれにある洞穴にワインを隠すシーンで、村人が一列に並んで村から洞穴までワインを一本一本手渡しでリレーするシーンは、いかにもイタリアらしい牧歌的な風景とあいまって実に壮観であり(実はこの映画はイタリアで撮影されたわけではないようだが)、この映画のビジュアルなハイライトでもある。「サンタ・ビットリアの秘密」がもう少し有名であれば、必ずや名シーンとしてその筋でも紹介され映画ファンの記憶に残ったであろうことは間違いない。

 さて、この映画の妙味はどこにあるかと言うと、アンソニー・クイン演ずるだらしない道化師村長ボンボリーニがまんまと規律高いドイツ軍を騙し通してしまうところにある。ラストシーンで、どうしてもワインのありかを吐かせることが出来ないドイツ軍将校(ハーディ・クリューガー)が、広場で彼を捕らえて、集まった村人達の前でワインのありかを教えないと彼を射殺すると言ったにも関わらず誰も口を開こうとしないので、「What kind of people are you?(お前達はどんな人々なのだ)」と捨てぜりふを残して去って行った後、ボンボリーニがドイツ軍将校の物真似をする。まさにこの時点において、規律高いドイツ軍将校が一介の道化師に騙し通され、ドイツ軍将校自身がそれによって道化師になってしまったことになる。これこそが道化師の戦術である。すなわち、最初は道化師を笑っていた人々が徐々に道化師の世界に引き込まれ、彼ら自身道化師と化してしまう、これこそが道化師の持つパワーである。

 しかしながら、道化師はコメディアンとは異なる。コメディアンは、どちらかと言えば攻撃的且つ遠心的である。ビートたけしなどを見ても分かるように、基本的には誰かの欠点を見つけて笑いとばすというのがコメディアンの姿勢であり、一見すると自らを笑いの対象としているように見える場合でも、それはむしろ自己を笑いのターゲットとすることにより、実はそれを通してそれが表象する別の対象を笑いとばそうとしているのが普通である。たとえば、ヒトラーを演じてヒトラーを茶かすチャップリンという具合である。また、漫才にはボケとツッコミという役割分化が行われているが、これは誰かの欠点をあげつらって笑いとばすコメディアンの本質が制度化されたものである。ところが、道化師は逆に自分の身体をブラックホールと化して本質的には攻撃的である笑いを全て自己の身体で吸収してしまう。一見すると、道化師はコメディアンよりも受動的である分非力であるように見えるかもしれない。しかし、そうではない。何故ならば、自己自身が対象にしなければならない外部的な参照を全く必要としない為、道化師は周囲の状況を全て吸収して自己薬籠のものにしてしまうことが出来るからである。そのような道化師の本質を体現するボンボリーニの世界に、最後は村人もドイツ軍も全て引摺り込まれてしまう。確かに、ボンボリーニは村長としての方針など全く持っておらず、常にジャンカルロ・ジャンニーニ演ずる若い村人や負傷した逃亡兵の意見を取り入れているだけである。普通であれば、無能村長と呼ばれても可笑しくはないはずだが、道化師であるボンボリーニは無能を有能に魔術的に変えることが出来る錬金術師である。全てを吸収する求心的なブラックホールに自らが化すことによって、その吸引力で周囲の状況を変えてしまう能力が、道化師村長ボンボリーニの魔術的とも言えるパワーなのである。「サンタ・ビットリアの秘密」においては、この意味において道化師の現象学が敷衍されていると言っても過言ではなかろう。

 このように道化師村長が主人公である「サンタ・ビットリアの秘密」は、喜劇的な色彩が極めて濃い映画であることは冒頭で述べた通りだが、スタンリー・クレイマーが監督しているのは少々意外に思われるかもしれない。というのも、「渚にて」(1959)、「風の遺産」(1960)、「ニュールンベルグ裁判」(1961)、「招かれざる客」(1967)など彼の主な作品にはシリアスなものが多いからである。勿論「おかしな、おかしな、おかしな世界」(1963)のようなコメディもあるにはあるが、スラップスティックと言った方が良いこの作品は、彼の作品としては完全なる番外編である。また、ビビアン・リーのラストムービーでもある「愚か者の船」(1965)にもコメディ要素を見出せるが(たとえば、誰も見ていない船内の廊下で突然ビビアン・リーが踊りだす有名なシーンなど)、穿った見方をしない限りこの作品はコメディであるとは言えない。それと同時に、「サンタ・ビットリアの秘密」は巨匠スタンリー・クレイマーの最後の傑作であると個人的には考えている(傑作とは多少誇張があるがこの映画のファンはかなり存在する)。何故ならば、映画の質が全く変わってしまう1970年代に入ると、彼はそれまでのように映画史に残る作品を残せなくなってしまうからである。単に年を取ったということかもしれないが、1913年生まれの彼は、1970年代にはまだ50才台後半から60才台であり、映画監督としてはむしろ油が乗っていた時期であったはずである。このような傾向は、他の巨匠達にも見られ、1960年代後半から1970年代はまさに巨匠達の黄昏とも言える時期であったように思われる。たとえば、オットー・プレミンジャーが典型的にそうであり、彼の1970年代の作品には、これが本当に彼の作品かと疑いたくなる程凡庸極まりない作品がある。ジョン・ヒューストンやビリー・ワイルダーは、クレイマーやプレミンジャーよりは遥かに良く、たとえば今回取り上げてはいないが後者の「フロント・ページ」(1974)は、個人的には最も好きな1970年代の映画の中の一本である。但し、「フロント・ページ」はあまり1970年代的であると言える映画ではなく、レトロな感覚によってノスタルジックな憧憬に誘われるが故にこの映画に惹かれるという方がむしろ正しい。つまり単に1970年代に製作されたという事実があるだけで、1970年代の映画とは言えないような雰囲気に充たされた作品だということである。いずれにしても、カウンターカルチャーの時代を経由した後の1970年代とそれ以前の1960年代とでは映画の表現様式が大きく変わってしまうことになる。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

1999/04/10 by 雷小僧
(2008/10/17 revised by Hiroshi Iruma)
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