渚にて ★★☆
(On the Beach)

1959 US
監督:スタンリー・クレイマー
出演:グレゴリー・ペック、エバ・ガードナー、アンソニー・パーキンス、フレッド・アステア



<一口プロット解説>
核戦争が勃発して地球上で生命が存続する地はただオーストラリアのみとなってしまうが、そのオーストラリアにも容赦なく放射能汚染がしのび寄ってくる。
<雷小僧のコメント>
実を言えば、この映画を初めて見るよりも遥か以前に原作を読んだことがあったのですが、その時に感じたのもいわば地球最期の日という悲劇的なイベントを扱いながらも語り口が実に淡々しているなということでした。映画の方もそのあたりの趣向をうまく残していて、こういう映画にありがちな逃げ惑う人々が右往左往して我先に逃げようとする人間のエゴここに見たり枯れ尾花といったようなシーンが一切ないところが逆に悲劇性をうまく表現しているように思えます。放射能がやってくるその日が来るまで人々は喫茶店でお茶を飲んだり、カーレースをしたりと慫慂と普通の生活を送っていたりするのですが、このような描き方の方が実にリアルに感じられて余計に悲壮感が増しているように思えます。まあ案外地球最期の日々というのはこんなものなのかなという気がしてきますね。
さてところで、この映画が反戦的なテーマを持っていることは自ずと明らかであるように思います。ついに誰もいなくなった広場にかかっている「まだ時間はある。兄弟たちよ」という横断幕が写し出されるシーンでこの映画は終るのですが、明らかにこの横断幕はこの映画を見ている観客達に対して呈示されているものと考えていいように思います。この映画が製作された当時の50年代終盤というのは東西の両極化が明瞭になり軍拡の時代がまさに到来せんとしていたような時代であったわけであり、まだ時間があるというメッセージはそういう軍拡競争が手遅れなポイントまで達するのを阻止することは今ならまだ出来ると我々観客に向かってアピールしているように思えますね。この映画の面白いのは、戦争の残虐さを残虐なシーンを見せることによって訴えるというような通常よくある手法を用いるのではなく、逆にまったくそういうシーンを描くことなく見事に戦争の無益さというテーマを表現している点です。たとえば、核戦争で世界が壊滅したのなら、TV映画の「ザ・デイ・アフター」(1983)のようなどこもかしこも廃虚になっているような舞台を想像してしまうのですが、この「渚にて」にはがらがらに崩れた廃虚などどこにも登場しないのですね。この映画においては、核戦争が発生したならば軍事施設の次にターゲットになるであろうはずのサンフランシスコのような大都市ですら無傷で残っているのです。但し、そこには誰一人生存者はいないわけであり、無傷で残った大都市にただの一人も人間が住んでいないという不思議な光景が、実に奇妙な虚無感を生み出すことに成功しているように思われます。それから放射能汚染による即時の生命の壊滅から免れた地球上で唯一の国であるオーストラリアにも徐々に放射能が迫ってくるのですが、そこで営まれている生活が最後の最後まで通常通り続いていく様を描いた後に、最後のシーンでそのオーストラリアも無人の廃虚と化したシーンが写し出されるのですが、今まであったものがなくなってしまう様子を通じて、なんとも言えない虚無感或は無為感が表現されているように思います。
こういう表現になったというのも、恐らくこの映画が製作された時代の時代的な背景も一役買っていたのかもしれません。勿論前段で述べたような東西の冷戦の初期の頃という背景もそうなのですが、この時代が第二次世界大戦及び朝鮮戦争が終った後且つベトナム戦争はまだ先であったという中間的な時代であった為、戦争をリアルな戦争シーンとしてではなくいわばwhat-if的なシナリオで描くような婉曲的な表現方法が好まれたのかもしれないということです。この映画の数年先にはキューバ危機のような事件も発生するのですが、「渚にて」という映画は戦争の無益さを描いた冷戦時代の映画の先駆だとまさに言ってもいいのではないでしょうか。いずれにしても、「渚にて」は常套的な手段に頼らない非常に変わった印象のある映画であり、カテゴリー的には時としてSFとして扱われることもあるようですが、製作意図という見地から見た場合には、時代的背景も考え合わせてみれば、SFというよりはもっとより現実感覚へのアピールという側面が強い映画だったのではないかと思います。非常に語り口のうまい印象的な映画であると言っても間違いはないでしょう。

2000/11/11 by 雷小僧
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