灰色の服を着た男 ★☆☆
(The Man in the Gray Flannel Suit)

1956 US
監督:ナナリー・ジョンソン
出演:グレゴリー・ペック、ジェニファー・ジョーンズ、フレデリック・マーチ、マリッサ・パヴァン


<一口プロット解説>
グレゴリー・ペック演ずるサラリーマンは、現在よりもよい地位を求めて大都会にある広告会社に再就職する。
<入間洋のコメント>
バラの肌着」(1957)のレビューなどでも書きましたが、「灰色の服を着た男」の主演グレゴリー・ペックは芸幅が広いとは必ずしも言えない俳優さんでした。彼には極めて朴訥な印象があり、たとえばあまり多くを語らないけれども部下に信頼される指揮官などのような役には極めてよくマッチしていたとしても、口八丁手八丁で社交界を遊弋するプレイボーイなどという役には全く似つかわしくないタイプの人でした。言い換えると、彼はバックグラウンドとなる舞台に大きく左右される方の俳優さんだったのであり、前者の戦場の指揮官のようなケースでは彼の持つキャラクターが大きなプラスになったのに対して、瀟洒な都会が舞台になる後者のようなケースでは彼のキャラクターは全く逆にマイナス或いは凡庸に見えてしまう傾向がありました。確かに「紳士協定」(1947)のような都会を舞台とするポピュラーな作品もあるにはありますが、この作品が製作されたのはまだ彼のキャリアが始まって間もない頃であり、ペックのパーソナリティはまだ本当には確立されてはいない頃の作品でした。いずれにしても都会が舞台となった作品での彼の唯一の成功例が初期の「紳士協定」であるというのは、彼のパーソナリティがあまり華やかな都会向けのものではなかったということを示しているようにも思われます。反論がある人も多いかもしれませんが、その意味では「大いなる西部」(1958)での東部のエスタブリッシュ階級出身の主人公役もイマイチイメージが違うような印象を個人的には持っています。では、「大いなる西部」はよしとしても少なくとも日本では絶大な人気を誇るあの「ローマの休日」はどうしたのかという疑問が湧くかもしれないので付け加えておくと、「ローマの休日」も確かに都会が舞台ではありますが、

1)アメリカから見れば異国の地であるローマが舞台である
2)ローマは近代的な都市というイメージで表象されているわけではない
3)「ローマの休日」ではペックはオードリー・ヘップバーンの引き立て役であり、華麗なヘップバーンとの比較項としてペックの朴訥さがうまく活かされていた

という理由で都会が舞台となった作品での成功例とは単純に言い切れない面があります。要するに、彼は全くケーリー・グラント的なチャームとは無縁であったということですね。「ローマの休日」は本来ケーリー・グラントが主演することが意図されていた作品でしたが、本当に彼が主演していたならば映画の焦点がオードリー・ヘップバーンではなくケーリー・グラントに置かざれざるを得なかったはずであり、そうであれば「ローマの休日」の名声はおろかオードリー・ヘップバーンの経歴自体全く違ったものになっていて現在に至るまでの彼女の名声はなかったかもしれません。上記3)で「ペックはオードリー・ヘップバーンの引き立て役であり」と書きましたが、実際のスターバリューから言えば当時彼女はまだ駆け出しに過ぎなかったことが忘れられてはなりません。朴訥なグレゴリー・ペックが相手であったからこそ「ローマの休日」は成功したとも言えるでしょう。ところが何故か彼は(もしかして芸域を拡げようとしたのか)1950年代後半まったく彼の持つパーソナリティには合いそうもない役を数本連続して演じており(に挑戦している?)、その中の一本がこの「灰色の服を着た男」です。この映画での彼の役どころは、大都会の広告会社で働く灰色のスーツを着たいわゆるエリートビジネスマンです。但し、第二次世界大戦中にイタリアで知り合った娘との間に実は隠し子がいるという設定(自分でも後になってキーナン・ウイン演ずるかつての部下から知る)で、まあこのことは必ずしも自分の奥さん(ジェニファー・ジョーンズ)との関係が必ずしも順風満帆ではないことをも意味し、ラストではこの点が1つのポイントにもなります。けれども、このような大都会の中産階級に属するサラリーマンを彼が演ずると、どうにも凡庸に見えてしまうのですね。勿論そもそも中産階級のサラリーマンというのは凡庸な存在でありその意味では極めてリアルではないかと無理矢理こじつけられないこともありませんが、第一にこの作品は1950年代に製作されたのであり、映画によって凡庸さが描かれることが当然のことのように肯定されていた頃に製作された作品ではないのです。またたとえそれが肯定され得たとしても、グレゴリー・ペックのようなビッグネームをパーソナリティにマッチしているとも思えない作品で起用すること以上のおゼゼの無駄使いもないわけです。

のっけからネガティブなことばかり書いてしまいました。しかし勿論レビューとしてここに取り上げたからには、それなりに興味深い点もあります。1つは、主演にペックを起用することが適当であったかどうかは別として、タイトルにあるように灰色のスーツを着たサラリーマンが主人公であり、しかもわざわざそれが邦題原題ともタイトルになっていることです。灰色のスーツを着たサラリーマンというとどうしても思い出さざるを得ないのが、ミヒャエル・エンデの「モモ」に登場する町の人々から時間を奪いに来る灰色のスーツをきた謎の男達です(「モモ」はその昔、ドイツ語勉強中に同じくエンデの「ネバーエンディング・ストーリー」などとともに手ごろなマテリアルとして原文のドイツ語で読んだ記憶がありますが、残念ながら詳細は忘れてしまいました)。やや難し目の言い方をすると、時間を奪う人々とはカイロス的時間をクロノス的時間に還元してしまう人々、或いはベルグソン的な言い方をすれば時熟した時間を空間表象的な等質的時間に変えてしまう人々と言い換えることができるでしょう。まさしくこれは現代のサラリーマンの病理であり、勿論その基底には全ての事象を均一的な尺度から見たアスペクトに魔術的に転換してしまうマネーの存在があることはいうまでもなく、「モモ」に登場する灰色のスーツを着た輩どもも確か未来の銀行員か何かだったはずです。本来は質的であるはずの時間をビジネスが扱う対象である量的な資本に換算するには、時間を客観的且つ等価に処理することができるものとして扱う必要がありますが、マネーが介在することによってそれが一段と加速されるわけであり、時は金なりとはよく言ったものです。「灰色の服を着た男」の登場人物の中でまさしくこのような時は金なり的な生き方を徹底して体現しているのが、自分の娘に金のことばかりしか考えていないと罵られてしまうフレデリック・マーチ演ずる広告会社の重役です。何しろ、この世が繁栄するのは、家族を大事にして毎日9時に会社に来て5時には帰ってしまう9時5時人間のおかげなどでは全くなく俺達のような人種がいるからであるとグレゴリー・ペック演ずる主人公に豪語する程です。勿論ペックも現在以上のおゼゼを稼ぎ現在以上の名声を得たいからこそ大都会の大きな会社に再就職するのであり少なからず野心は持っているわけですが、結局最後は自分はやはり9時5時人間であり家族を犠牲にすることなどできないことを悟るようになります。しかし実を言えば、彼が自分の家庭を犠牲にしてまでもビジネスの世界で成功することを目指せるフレデリック・マーチ演ずる重役のようなタイプの人種ではないことは前半から明らかになります。というのも第二次世界大戦中のトラウマ的な体験(子供のようなドイツ兵を殺した体験や自分が投げた手榴弾によって親友が誤爆し死んでしまった体験)を彼がしばしば思い出すフラッシュバックシーンが前半挿入されますが、このことは彼の持つキャラクターがビジネスの世界でサバイバルするに相応しい程の冷酷非常な強靭さを持ち合わせてはいないことを示しているからです。それような彼の性格を示す具体例を挙げると、何しろ彼は自分の意見にイマイチ自身がなくジェニファー・ジョーンズ演ずる奥さんに相談し煽られた挙句、自分が本当に考えていることをフレデリック・マーチに面と向かって意見することができるようになる程なのですね。しかしながらフラッシュバックシーンが示唆することはそれだけではなく、過去の記憶に翻弄され過去の時間に絶えず立ち戻されることによってビジネスマンとして彼が成功する為の大きな条件の1つ(前述の通りビジネスマンとして成功する為には時間を等価に扱ってそれをうまく切り売りする技術に長けていなければなりません)が阻害されていることも指摘しておくべきでしょう。すなわち、過去を含めた「時間」をいかに客観的な対象として手なずけることができるかがビジネスの世界で成功する為の1つの大きな条件であるならば、彼にはその条件を充たす能力が全く欠けていることがフラッシュバックシーンで明確に示されているということです。彼とは対照的に過去を強引に手なずけることに成功してきたのがフレデリック・マーチ演ずる重役であり、しかしながらその大きな代償として彼の家族は四散状態にあるわけです。

ここで「過去の記憶に翻弄され過去の時間に絶えず立ち戻される」とはどういうことかについてもう少し詳しく考えてみましょう。英語には現在完了という日本語には基本的には存在しない時制がありますが(多分英語学習者の初期の躓きの石の1つがこの現在完了の意味合いの把握であり、かく言う私めも中高校生の頃は現在完了形と過去形の違いが体験的意味合いとしてどのように違うのかが全く理解できませんでした)、ペックの思い出す過去の体験とはまさに現在においても現在完了的な主観モードの体験として彼の心の中に巣食っているのであり、彼がビジネスで成功する為にはこれを客観モードの純粋な過去形に転換する能力を有している必要があります。ところが彼にはそのような能力が欠如しているのですね。彼が第二次世界大戦の経験を過去形に転換することができないことを示唆するかのごとく、イタリアに住む彼の隠し子に対して毎月100ドルを送る手続きを完了するところでこの映画がエンドになるのはまさに象徴的だと言えるでしょう。要するに、主観的で現在完了形的な体験を客観的で過去形的な体験に切り替えていく能力の欠如はビジネスの世界で成功することに対して大きなハンディキャップとなるということです。何故ならば、ビジネスで成功する為に時間を自己に有利なアセットとして利用しそれを資本に転換していくためには、時間は全て等価なものとして表象されねばならず特定のモーメントが大きな意味を帯びて立ち現れてこないような防御機制を身に付ける必要があるからです。「あの頃は良かった」などと言い出すようになった瞬間、ビジネスマンとしては終わったということですね。言うまでもなくミヒャエル・エンデの「モモ」が批判の対象としているのも、このような体験的時間の量化という現代の病理に関してであり、人間存在の本来的なあり方はどこに行ったのかということです。「モモ」に出てくる灰色のスーツを着た輩とは、実は時熟したカイロス的な本来的時間のあり方から自らを自己疎外してその事実にすら気付かなくなった鈍感な我々サラリーマン一人一人のことなのです(げげげ!私めも灰色のスーツを着ているではないか!!!!)。ベルグソンやハイデッガーのような近代の哲学者達が問題にした点の1つもこのような人間存在のあり方に関してではなかったでしょうか。さらに追い討ちをかけるように陰惨なことを言えば、ドイツ文学者の池内紀氏がどこかで黒でも白でもない灰色とは体制順応の色であるというようなことを述べていましたが、体制順応とはまさに自己の本来的な時間を匿名的な権威や制度に明け渡すことであり、そこから全体主義への道はもう一歩だということです。社会学的傾向を持つ精神分析学者のエーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」などの著書で、また政治学的傾向を持つ経済学者のF.A.ハイエクが「隷従への道」などの著書で警告しているポイントの1つもそのような点にあったのではなかったでしょうか。しかしそのような問題性が提起されていながらも、残念ながらこの作品のウイークな点は、9時5時の生活を送るサラリーマンになったところで、結局それだけではそれが人間本来の姿であるとはとても思えないどころか結局田舎のサラリーマンであった出発点に戻っただけのことではないかという印象を与えることです。要するにグレゴリー・ペック演ずる主人公は単にマイホームパパになる道を最後に選択しただけではないのかという疑問が湧かざるを得ないということです。確かにストーリー展開としては、イタリアの隠し子に対する責任を全うすることを決意する辺りに単なるマイホームパパを越えた含蓄が込められているようにも考えられますが、どうもグレゴリー・ペックという役者さんには葛藤を克服して1つの決意をするというようなダイナミックな展開をうまく体現する程のシャープさには欠けている印象があり、従って余計に冒頭で述べたようにミスキャストのように思えてしまうわけです。

さて、もう1つこの作品を取り上げた理由を挙げると、当時のワイドスクリーン画像に対する扱いをこの作品に典型的に見出すことができるからです。この作品はワイドスクリーンの中でも横縦比2.55:1という最大級の横長画面で撮影されています。横縦比が2.55:1になると、第一印象はほとんど横になった短冊のようであり、ワイドテレビでも上下に大きな黒い真空地帯が生じます。私めはその内、ワイドスクリーンの映画を表示させる為に映画館のスクリーンのように横縦比が自在に伸縮するテレビがいつか販売されないかなと期待していますが、勿論現在はそんな都合のよい代物は存在しないので上下の黒い空間を見つめては「損した」とため息をつくというように貧乏根性を遺憾なく発揮しています。そもそもこうしたワイドスクリーン画像が登場するようになったのは、テレビとの差別化を図る為だったのであり、通常はTV番組を映すことが目的のテレビのブラウン管上にワイドスクリーンで撮影された映画を映すこと自体に無理があるということでしょう。ところで、当然のことながらワイドスクリーン画面用に撮影された映画と、それ以前の4:3のスタンダードサイズで撮影された映画の間には、画面構成の仕方にも大きな相違があります。一般にはワイドスクリーン用に撮影された画像は構図が極めて重要になると言われています。たとえば、2人の登場人物が会話をするシーンを考えてみましょう。スタンダード画面では、同時に2人の人間を同一画面内に収めることは、2人の間にある間隔が狭いか或いは相当遠方から撮影されるのでない限り不可能です。従って、人間が会話する際には通常は複数の人間が同時にしゃべることはないという法則を利用して、ある人物がしゃべっている間はその人物のみのアップを映し出し、別の人物がしゃべり始めた時には今度は画面を切り替えて一方の人物のアップを映し出すというように、カットが多用されます。ワイドスクリーン画面の場合は、このようなカットによる画面切替えを多用せずとも容易に複数の人物を同一画面に収めることが出来るので、どのように会話シーンを時系列に従って編集するかではなく、どのような構図でそれら複数の人物を1画面内に配置するかということが大きな焦点になります。この「灰色の服を着た男」においては、これではほとんどカリカチュアではないかと思われる程、そのような構図に対する執拗な執着が見られます。ここで下の画像に注目してみて下さい(上の3枚の小さな画像はスタンダードサイズに合わせて裁断してある為参考にはなりません)。どうですか。「そこまでせんでもええやろ!」と思わせる程、このシーンでの二人の登場人物すなわちグレゴリー・ペックとジェニファー・ジョーンズは計ったように(というよりも計算ずくで)両端ギリギリに配置されています。音声解説で解説者が、「これではまるでテレビで放映出来ないようにする為、わざわざそうしたかのようだ」というような主旨のことを述べていましたが、まさにその通りなのですね(因みにビデオバージョンはスタンダードサイズに切り詰められている為、無残にカットされどちらか一方の人物しか画面上には映っていません)。このようなシーンがこの映画には至るところにあり、要するにテレビと映画はこんなに違うのだぞと言いたいがごとくに見えます。興味深いことに、このような構図が多用されている中にあって、ときどき一方の話者にのみ焦点をあてカット、カットで画面切り替えを行う通常の編集方法が採用されている箇所もあります。別にワイドスクリーンでそのような編集がされることは稀なわけではありませんが、しかしながら下記画像のようなシーンの直後にそのような編集が行われているのを見ると如何にも奇怪に見えます。これでは、あたかもスタンダードサイズのテレビ的なアップを多用する画面構成が、いかにノーマルではないかが示唆されているのではないかと勘繰りたくなる程です。この映画の中で当時台頭し始めたテレビが小道具的にしばしば映し出されますが、いかにもスタンダードな4:3の画面でございというような調子で鎮座していて、それが映し出されるこの映画の2.55:1の横長のフレームとの対比(テレビがほとんど丸味を帯びているように見えます)が殊更強調されているのではないかとすら思えてしまうのは気のせいではないでしょう。いずれにしてもこの作品の大きな特徴の1つは、映画でしか実現可能ではないこのような映像構成技法が殊更強調されているような印象があることであり、これも1つの時代性だと言えるでしょう。現在では映画とTVの棲み分けがはっきりしているので(「ハリー・ポッター」シリーズや「ダ・ヴィンチコード」がTV番組として製作されたならば映画バージョンとは全く異なるものが出来るでしょうね)、映画がこのような手段を使ってまでTVに対抗しようとする必要はなく、であるからこそ一層「灰色の服を着た男」などを見ていると50年代という一時代の特殊性がおぼろげながら見えてきて興味深いわけです。最後に付け加えておくと、この作品の音楽担当はヒッチコック御用達のバーナード・ハーマンですか、いつもの彼の前衛的なサウンドは影を潜めていて冒頭のテーマなどむしろロマンティックな響きすらあります。

2006/12/16 by Hiroshi Iruma
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