ある日どこかで ★★☆
(Somewhere in Time)
1980 US
監督:ジーンノット・シュワルク
出演:クリストファー・リーブ、ジェーン・シーモア、クリストファー・プラマー、テレサ・ライト
<一口プロット解説>
劇作家のクリストファー・リーブの元に見知らぬ老女がやって来て、古い懐中時計を手渡し意味ありげな言葉を残して去ってゆく。
<雷小僧のコメント>
このそれ程知られてはいない映画に結構ファンがいることは承知していますし(あちらではこの映画のファンクラブのメンバーが映画配給会社に圧力をかけてコレクターズエディションDVDを発売させたなどという話もあるようです)、私目自身もいわゆる珠玉の名編(gem)と呼ばれる映画におそらくはなれるであろう多くの要素を有しているように思います。但し、あの賛否両論あるであろうラストシーンを除けばです。まずいきなりこのラストシーンについての私目の見解を述べておきますと、やはりやり過ぎではないかと思いますね。何故ならばこのシーンがなければ私目はきっと今まで見た回数の3倍はこの映画を見ているはずであろうと思うからです。確かに主人公のクリストファー・リーブが天国に召されるのはこの映画のロマンス的な展開からすれば唯一のソリューションなのかもしれませんが、もう少し違った呈示のされ方があってもよかったような気がします。というのもラストシーンだけが妙にヘビーになって全体的な古典的様式による統一感が一挙に崩れ去ってしまっているように思えるからです。要するに次節で言及するように均整の取れたこの映画の構成が、急にエモーショナルなサイドに傾いてしまうような印象が私目にはあります。想像するにこの映画の製作者は、この色々な要素が融合して調和のとれた映画に最後の一滴すなわち悲劇的要素(tragedy)を加えたかったのかもしれないのですが、それまでの他の要素の調和を一挙に破壊してしまう程に不釣り合いな仕方でそれが呈示されているように思えるのです。勿論人によってそのあたりの捉え方は異なるのかもしれませんが、最初にこの映画を見た時、ラストシーンにさしかかるまでは何という傑作かと思っていたのが、一挙に頭に?マークのキノコが生えてきたのをよく覚えています。
けれども、わざわざこの映画をレビューとしてここに取り上げたのは、やはりラストシーンを除くとすればこの映画は近年(と言ってももう20年も前の映画ですか)稀に見る珠玉の名編なのではないかと思えるからです。まず、ストーリー展開が見事であることが挙げられるでしょう。この映画はたとえばロマンス、タイムトラベル、ミステリー、コスチューム劇、ノスタルジア等の様々な要素が全体的なトーンとしては非常にクラシックなセンスを持って(前節で述べたラストシーン迄は)うまく統一されています。たとえば、この映画はタイムトラベルを扱った映画ではあるのですが、それがSF的に全面に突出することなくロマンス等の他の要素にうまく溶け込んでいるあたりは見事ととしか言いようがないように思います。そもそもタイムトラベル物というとストーリーが次のような3パターンに陥りそうな気がいつもするのですが、この映画はその陥穽からうまく逃れることに成功しているのですね。その3パターンというのは、1つはバック・トウ・ザ・フューチャーシリーズや「ファイナル・カウントダウン」(1980)或は「フィラデルフィア・エクスペリメント」(1984)のように所謂SFで言うところのタイムパラドックスを扱って、見ているこっちまで頭が混乱してきそうなものや、タイムパラドックスに付き物のモラル的側面を強調するものが挙げられます。次にテレビのタイムトンネルシリーズのように過去にカタストロフが発生したその現場、たとえば氷山と衝突して沈没する直前のタイタニック上であるとか、ベスビオ火山やクラカタウ島が大噴火する直前にその火山の麓などへ何故か吹っ飛ばされて命からがら危機を脱出するという筋書きのものが挙げられます。そういうばマイケル・クライトンの「Timeline」という最新小説もそういう筋書きでした(これもひょっとして映画化されるかな?)。最後に「タイム・マシン」(1960)のように希望を抱いて未来へ行って見たらそこは人間の自由意志が全く尊重されない管理社会だったというようなパターンが挙げられます(猿の惑星シリーズなどはこれのバリエーションでしょう)。まあ尤も、特にタイムトラベルものでなくとも未来が舞台になっているとそこは高度管理社会であったというのがいわばSFの定石のようなものであることは確かですね。というわけでこういうパターンにはまると、おおむねそれがその映画の雰囲気を決定してしまうことになるのですが、この「ある日どこかで」はそういうことがないのです。見終わった後で、この映画が単なるSF映画であったななどと思う人はそれ程いないのではないでしょうか。けれども、たとえばラストシーンの直前でクリストファー・リーブが自分の住む時代に否応なく連れ戻されるシーンなどはSF的な趣向としても非常に面白いアイデアであるように思われるのですが、かくしてSF的要素が完全に消え去っているわけでもないのです。それからたとえばこの映画は、自作の劇を上演しているクリストファー・リーブに見知らぬ老女が古い懐中時計を渡して「私のところに戻ってきてね」などと言うところから始まるのですが、そこからのミステリー的な展開は、見る者をこの映画に導入する要素としては非常に巧みであるように思われます。けれどもこの映画はそういうミステリー的な要素を強引に最後迄引きずることはなく、この映画の流れに見る者をうまく誘導した後は、他の要素に席を譲っていくのですね。それから、この映画は過去の時代が持っていたビューティをコスチューム劇的な要素や次節で述べる豪華ホテルという舞台設定を通して際立たせ、見る者をノスタルジックな憧憬で充たされた情景に勧誘し、それを非常にバランスよくロマンス的要素に融合させています。このように、この映画はバランス感覚が図抜けているように思われるだけに、尚一層その全てを一瞬にして帳消しにしてしまうかのような(これはちょっとオーバーかな)ラストシーンにはどうも合点がいかないのですね。
さてそれからこの映画のクラシックとも言えるビューティについて触れざるを得ないでしょう。恐らく意図的なのだと思いますが、映画自体に非常にクラシック的な美に対するセンスが感じられるのですね。そもそも主演のクラストファー・リーブもジェーン・シーモアも現代的なというよりも古典的な二枚目でありビューティであると言えるのではないでしょうか。後者はまあボンドガールであったこともあるのですが、この映画では殊にクラシック且つ典雅な美しさが強調されているように思われます。また脇役のクリストファー・プラマーもこの頃から悪役が増えてきたとは言えども、どちらかと言えば高貴な印象を与える人でありました。それから舞台を高級ホテルに設定したのも素晴らしいアイデアであるように思われます。昔から屡々ホテルを舞台にした映画が製作されていますが、見知らぬ客達が集いまた時に生活を共にするホテルという舞台は何か妙に憧憬に充ちたノスタルジックな期待をそそるものがあるのですね。たとえば私目の好きな映画「旅路」(1958)がほとんどあるホテルのロビー内で進行する、そこで知り合った者同士の会話でのみから構成されるに過ぎないにも関わらず魅惑的であることの1つの理由には、同語反復的に聞こえるかもしれませんがまさにそれがホテルの中で進行するからであるということが挙げられるように思います。この「ある日どこかで」においても舞踏会場であるとかホテル内の小劇場であるとかあずま屋であるとかいうようなアセットがうまく取り込まれていて、それが全体的なクラシックな雰囲気と見事にマッチしていると同時に、見ず知らずの人々がそこに集い大袈裟な言い方をすれば僅かの間でも運命を共にすることから発生する独特且つ魅惑的な雰囲気を伝えることに成功しているように思われます。もう1つ重要な要素として音楽が挙げられるでしょう。ジョン・バリーのオリジナルの曲も素晴らしいのですが、ここでは何と行ってもラフマニノフでしょう。ラフマニノフは、恐らく映画史上最も映画の中でかかった回数の多いクラシック作曲家であると言えますが(何と言っても「七年目の浮気」(1955)でトム・イーウエルがマリリン・モンローを誑かそうとしたのもラフマニノフによってです。でもモンローちゃんは「チョップスティック」にしか関心を示しませんでしたね)、クラシックと言ってもソフトな曲が多く(ジャズピアニスト->映画音楽作曲家->バリバリのクラシック指揮者という変わったコースを歩んだアンドレ・プレビン(ミア・ファローの旦那であったこともあります)も指揮者になった当初はラフマニノフを無闇矢鱈と得意にしていました)この映画のような雰囲気にはよくマッチするのですね。また前節でも述べたようにこの映画のコスチューム劇的な要素は(衣装のことだけを指すわけではなく、豪華ホテルの内部インテリア等を含めてです)、この映画が持つクラシック且つノスタルジックな印象に大きく寄与していると言って間違いはないでしょう。このようにこの映画は色々なアセットが利用され尽くして全体的なクラシックな統一感がうまく維持されていると言うことが出来ます。というわけで、この映画は色々な側面において傑作となりうる映画であったように思われますが、それにつけてもラストシーンはちょっと勢い余ったか(だんだんしつこくなってきましたね)・・・・・。あ、それからこの映画にはウイリアム・ワイラーの「我等の生涯の最良の年」(1946)等に出演していたあのテレサ・ライトが顔を見せています(お年を召された)。