ロード・ジム ★☆☆
(Lord Jim)

1965 UK
監督:リチャード・ブルックス
出演:ピーター・オトゥール、ジェームズ・メイソン、イーライ・ウォラック、クルト・ユルゲンス

<一口プロット解説>
沈没寸前の船から乗客を見捨てて救命ボートで脱出した主人公のロード・ジムは、アジアの人ごみの中に逃げ込みながら名誉の回復を図ろうとする。
<入間洋のコメント>
 ご存知のように、ポーランド生まれのイギリスの小説家ジョセフ・コンラッドの同名小説が原作の映画です。個人的に最初に読んだコンラッドの作品は「ロード・ジム」でしたが、なぜ読んだかといえば、「オリエンタリズム」という有名な著書で知られるエドワード・サイードの著書(「オリエンタリズム」であったかその他の著書であったかよく覚えていません)の中で、コロニアリズム(植民地主義)の典型的な文学として言及されていたからです。また、他のコンラッドの作品、たとえば「ノストロモ」や「闇の奥」などにも、植民地的なテーマが顕著に現れていることは周知の通りです。殊に「闇の奥(Heart of Darkness)」は、かのフランシス・フォード・コッポラの「地獄の黙示録」(1979)をインスパイアしたと言われている作品でもあります。

 サイードの「オリエンタリズム」については、「サヨナラ」(1957)のレビューの中で、「この本には西洋の東洋に対する見方とは、西洋が自分達自身をどのように見るかという視点から切り離すことはできないということが述べられている。つまり、西洋人が西洋人としてのアイデンティティを確立するために必要とされる、自分達が「何ではないか」という否定を通した定義が彼らの東洋に対する見方に色濃く反映されているということである。一言で言えば、西洋人が東洋を見る眼差しは、真っ直ぐ純粋に東洋に向けられているのではなく、東洋という否定的なミラーイメージを通して西洋そのものに向けられていると言う方が正しい」と述べました。しかしながら今では、必ずしもそれは間違いではないとしても、事はそれ程単純ではないと考えるようになりました。というのも、最近ポストモダニスト或いはポストコロニアリストとして位置付けられる著者の本をいくつか読んでみたからです。1つはフレドリック・ジェームソンの「政治的無意識」ですが、これについては、「2001年宇宙の旅」(1968)のレビューの中で、彼が「ロード・ジム」を含むいくつかのコンラッド作品に言及していることを述べたのでそちらを参照して下さい。

 もう1つは、ガヤトリ・スピヴァクというインド人女性の書いた、その名もずばり「ポストコロニアル理性批判(A Critique of Postclonial Reason)」(Harvard University Press)という本です。同書に限らずスピヴァクの著書は相当に難解なことで有名であり、この本についても1/10も理解できませんでしたが、ただコロニアリズムとは、単純な西洋/東洋の二分割的な構造で割り切れるものではないことが少しは分かりました。つまり、たとえば西洋/東洋、男性/女性、資本家/労働者(分割線の左側/右側の関係は支配/被支配の関係とイコールだと考えられます)などのいくつもの対立関係がコロニアリズムの基底には錯綜して存在するのであり、そのような複合的な対立関係の束においては、1つの対立関係の縺れた糸をほどくソリューションであるように見えるものが、実は別の対立関係が存続する為のアリバイになっているのです。たとえば、ポストモダニズムやポストコロニアリズムという武器によって西洋/東洋という対立関係が解体されたかに見えても、実はその裏で「男性/女性」などの別の対立関係が強化されていたりするのです。だからこそ、ポストコロニアリズムやフェミニズムは共同戦線を張って同期する必要があるのです。しかも現在は「グローバリゼーション」と呼ばれる時代であり、たとえば「西洋/東洋」という対立関係は単純に地理的なロケーションの分割の問題に過ぎないなどとは言えなくなっています。インドの上野千鶴子(これは世界的知名度からいえば逆にすべきかな?)とも言うべきポストコロニアリスト/フェミニスト/マルキストのガヤトリ・スピヴァクは、多分このような対立関係の隠蔽操作に対して警鐘を鳴らしているのではないかと思われますが、1/10しか理解できないとあってはあまり自信はないところです。

 いずれにせよ、このような複雑な隠蔽関係を、「ロード・ジム」という作品の中に見出すことができるのです。「ロード・ジム」の後半では、イーライ・ウォラック、クルト・ユルゲンス、ジェームズ・メーソン、アキム・タミロフが演ずる白人達に虐げられている東洋の地元民を、ピーター・オトゥール演ずる白人のロード・ジムが解放するというストーリーが展開され、ここにはまず西洋/東洋の対立関係を見て取ることができます。面白いことに、演じている面子を見ていると、英(ピーター・オトゥール、ジェームズ・メーソン)、独(クルト・ユルゲンス)、露(アキム・タミロフ)という植民地時代の列強諸国出身の俳優が揃っていることに気が付きます。「フランスはどうしたのか?」と思われるかもしれないので付け加えておくと、個人的にはジェームズ・メイソンが演じている悪漢ブラウンを見た時、「フレンチ・コネクション」(1971)のフェルナンド・レイが演じているキャラクター(ひょっとして彼はスペイン人?でも逆オリエンタリズムでラテン系ということで同じということにしましょう)が思い浮かび、「ほれフランスがいたぞ!」と思ったものです。そうなるとイギリスがいなくなりますが、これから述べるように悪漢ではなく地元民に味方するとはいえ、ピーター・オトゥールが演じている主人公のロード・ジムは、結局植民地主義の図式から逃れられない人物なのであり、従って立派にイギリスは残ります。ところで、「西洋/東洋」という対立関係のみに従えば、確かにロード・ジムは地元民解放の英雄であることになります。ところが、内実は全く違うのです。なぜならば、ロード・ジム本人の意識の奥底は、「西洋/東洋」という対立関係にではなく、イギリス社会の「上流階級(貴族)/下流階級(非貴族)」という対立関係に絡みとられており、それを「西洋/東洋」という対立関係に焼き直して地元民に味方をして闘っているからです。ロード・ジムは、パトナ号事件により(彼は沈みかかった船を乗客もろとも見捨てて救命ボートに脱出しますが、実際には船は沈まず裁判になる)、一度被れば永遠に回復不能な不名誉を、自分自身に対してのみではなくイギリスの貴族階級にも与えてしまい、「上流階級(貴族)/下流階級(非貴族)」という対立関係の左側(すなわち貴族階級)から右側(すなわち非貴族階級)に永遠に追放されてしまいます。従って、この時点で既に、彼は「貴族/非貴族」という対立関係における支配者の項(すなわち貴族階級)には永遠に戻れないことを意味し、「貴族/非貴族」という図式そのものを捨て去らない限り、自らの死によって以外にそれを克服することはできないのです。

 それにも関わらず、また後述するラストシーンがいみじくも示すように「上流階級(貴族)/下流階級(非貴族)」という対立関係を自らの心の奥深くに刻印したまま、彼はもう一度この対立関係を克服しようとします。それは何によってかというと、「西洋/東洋」という対立関係によってです。しかも彼はこれを、「西洋/東洋」ではなく(そうであれば他の植民地主義者がやっていることと何の違いもないことになります)、「東洋/西洋」という「支配/被支配」の関係を左右逆転させた対立関係に変容させ、これを「貴族/非貴族」という対立関係の1つの代理図式として利用します。この時、彼の真の目的は、「東洋/西洋」という逆転した図式を成立させることにではなく、それを「貴族/非貴族」という対立関係の代理にすることに置かれているのです。すなわち、彼の真の目的は「支配/被支配」の関係を逆転させる革命にあるのではなく、クラウゼビッツ流にいえば「貴族/非貴族」という対立関係を別の手段で実現することにあるということです。勿論、現地民に勝たせる意図などさらさら持っていなかったということではなく、それは単なる手段の1つに過ぎなかったということです。このことは、ある現地民がロード・ジムに「あなたは私達の為に自分の命を危険に晒している(You are risking your life for us)」と言ったところ、間髪を入れず「No」と返答することからも分かります。この返答は勿論謙遜などではなく、彼は「No, I'm not risking my life for you, but for me」と言明しているのです。

 しかしながら、「貴族/非貴族」という対立関係を「東洋/西洋」の対立関係によって代理させることは最初から不可能な試みだと言えます。「貴族/非貴族」という対立関係を、たとえば単に「勇敢/臆病」という対立関係に還元し得るなら、確かにジムの英雄的行動は彼の名誉を取り戻すに十分であり、彼も恐らく幾分かはそれを期待しているがゆえに現地民に味方して英雄的に行動するのでしょう。たとえ、イギリスの社会がそのような短絡的で安易な考え方を許容しなかったとしても、自己の心の中にいくばくかの平安を取り戻せるはずです。しかし、イギリス社会の奥深くに根差す「貴族/非貴族」という対立関係は、「勇敢/臆病」などの単純且つ安易な対立関係に還元し、それを通じて請戻しができるようなものでは決してないのであり、そのことには彼自身も薄々気がついているはずです。従って「貴族/非貴族」という対立関係を心のどこかに抱いている限り、決して彼の心に救いが訪れることはなく、前述したように唯一の解決策は自らの死であることになります。ストーリーは、ジムが地元民の銃弾により最後を遂げるシーンでジエンドになりますが、このような結末は、既にパトナ号事件が起きた時に刻印された運命であったのです。イギリス海軍流の正装に身をかため超然と空を眺めながら現地民の構える銃の前に立つ彼の姿(上掲画像右参照)は、「貴族/非貴族」という対立関係を彼は決して捨て去ることができなかったことを暗示しており、このような結果になるのは数学の公理証明よりも確実なのです。面白いのは、父親代わりともいえる貿易商人シュタインは彼に村から逃げるように諭すのに対し、彼に思いを寄せる娘(ダリア・ラヴィ)は、ただ一言も発せず泣くことすらせず彼の最後を見守っていることです。西洋人の両親の間に生まれてパトサンという極東の地で暮らし続けてきた彼女は、「西洋/東洋」という対立関係や「貴族/非貴族」という対立関係が心の中に何の矛盾もなく同居しているシュタインとは異なり、死によって以外には解決しようのない矛盾がジムの心の中に巣食っていることを知っているのです。

 ところで、コンラッドの原作は決して読みやすいといえる代物ではなく、ペンギンペーパーバック版の解説者も最初に読んだ時の印象は「激怒を覚える(infuriating)」であったと述べています。その原因は様々に考えられますが、主人公たるロード・ジムが常に第三者のナレーションの中で登場するのも1つの理由でしょう。従って彼が実際に心の中で何を考えているのかという彼の内面の直接の声を聞くことはできず、それは常に第三者の想像や類推によって媒介されるような構造が取られているのです。「ロード・ジム」と聞くと、何やら英雄が一人称で自分の輝かしき過去を語る冒険物語ではないかという印象を受けますが、実際はまったくその逆であり、英雄になることが不可能になった一人の水夫の物語が三人称で語られているのです。つまり、彼の心中は、ブラックボックスとして語られているということです。その意味では、真の心の中を決して読ませることのないピーター・オトゥールのパフォーマンスは、素晴らしいの一語に尽きます。「将軍たちの夜」(1967)などを見ても分かるように、彼は、真の心の中を決して見せないキャラクターを演じさせると超一流でした。また、ある意味で、そのような錯綜したナレーション様式そのものがコロニアリズム的だと言えるのかもしれません。最後に付け加えておくと、原作にもあったか覚えていませんが、「Patusanからusを除くとPatna」になるとジムが述べるくだりがありますが、これにはなるほどと思ってしまいました。そもそも、そのような言葉の遊びが狙われてそのような地名や船の名前が付けられたのでしょうから、恐らく原作にもどこかにこのセリフはあったのでしょう。

2006/07/29 by Hiroshi Iruma
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