悲しみは空の彼方に ★★☆
(Imitation of Life)

1959 US
監督:ダグラス・サーク
出演:ラナ・ターナー、ジョン・ギャビン、サンドラ・ディー、スーザン・コーナー



<一口プロット解説>
幼い娘と一緒に暮らし大女優になることを夢見る主人公(ラナ・ターナー)は、黒人の家政婦と一見白人のように見えるその娘と一緒に生活するようになるが、家政婦の娘は自分が黒人であることを常に隠そうと努力しているが故に、成長するに従って次第に周囲に様々なトラブルを起すようになる。
<入間洋のコメント>
 「悲しみは空の彼方に」は、少なくとも海の向こうでは最近になって再評価が著しいダグラス・サークの作品であり、その彼の最後の監督作でもある。もともとヨーロッパはデンマークの生まれで、最初は自国やドイツ映画の監督が主であったが、1940年代以降はアメリカに渡り活躍するようになり、1950年代に入るとその年代を代表するメロドラマ映画の巨匠と見なされるようになる。メロドラマと言うと、お涙頂戴昼メロソープオペラのように聞こえて随分と安っぽく響くが、彼の作品には常に状況的な不均衡を回復しようとする人々の葛藤が描かれており、自己満足ナルシスト的色合いに染まったメロドラマとは全く異なる。たとえば「心のともしび」(1954)では、金持ちのロック・ハドソンが誤って盲目にさせてしまったジェーン・ワイマンを他の一切の関心事を差し置いても回復させようとするストーリーが語られ、「大空の凱歌」(1957)では誤って孤児院を爆撃してしまったロック・ハドソンが、いかなる手段によってもその埋合わせをしようとするストーリーが語られ、「天はすべて許し給う」(1956)では、貴族階級のジェーン・ワイマンが周囲及び自分の階級的偏見をいかに乗り越えてロック・ハドソン演ずる庭師を愛せるようになるかというようなストーリーが語られる。余談になるが、サークはロック・ハドソンが気に入っていたのか、彼を起用した映画は6本程あり、またこの「悲しみは空の彼方に」の他にサーク作品にもう1本出演しているジョン・ギャビンは、ロック・ハドソンに顔がよく似ており、ロック・ハドソンからカリスマ的チャームを抜き取ったような雰囲気がある。この映画でサークがロック・ハドソンを起用しなかった理由は恐らく、この映画の性格上ジョン・ギャビンが演じている役はあくまでもサポートでなければならない為、ロック・ハドソンでは重心が彼の方に一方的に傾いてしまうことが予想されたからだろうと推測される。

 「悲しみは空の彼方に」の場合にも絶望的な不均衡状態を絶望的に是正しようとする人々が描かれており、一見すると人種問題を扱った映画であるようにも見えるが、サークの意図は明らかにそのようなところにはなかったはずである。黒人として生れた娘(スーザン・コーナー)が、常に自分を白人であるように見せかけることによって、次々に悲劇的な状況を周囲に生み出し、人種的な偏見を自らの頭の中に刷り込んでそのギャップを何とか埋めようと努力するけれども、皮肉なことにそのような基盤に立って自らの素性を偽ろうとすればする程問題の解決から遠のき逆に次々に自分の周りに混乱を生み出していく。ラストシーンでは、皮肉なことに自分が黒人であることに気付かせる唯一の存在である母親が亡くなった時に始めて、自分が黒人であることを認められるようになり、自己の存在がもたらす不均衡を回復することに成功する。彼女の場合、自己の存在がもたらす不均衡とは、社会的な偏見の内化という実は自らが自らの内に作り出したものであるが故に、そのような基盤の上に立って世の中を見ている限り絶対に回復出来ないものであるということを、母親の死というそれ自体回復不可能な峻厳な事実の持つ実存的な重みを通してようやく理解することが出来るのである。この他にも、大女優になるという野心を片時も捨てられない未亡人(ラナ・ターナー)が知らず知らずの内に周囲に不均衡を形成しており、ダグラス・サークの白鳥の歌「悲しみは空の彼方に」においても、最後までサーク色が失われることはない。

 しかしながら、このような悲劇的な人間ドラマを扱っていても、サーク作品のスタイルは、たとえばテネシー・ウイリアムズの戯曲に基づいた「熱いトタン屋根の猫」(1958)などのような、登場人物の間でエゴとエゴがぶつかり合うことによって発生する相克、葛藤をテーマとしたアクの強い人間描写が前面に突出するスタイルとはかなり異なる。その理由は、サークの作品には人間の意志を超越した何らかの要因が悲劇的な状況の原因として必ず存在するからであり、たとえば「悲しみは空の彼方に」のスーザン・コーナー演ずる娘の場合にも彼女は自分の意思で黒人として生まれたわけではなく、だからこそ彼女にとってはそれが大きな重みになっているのである。いわばギリシャ悲劇的な運命というテーマが常に見え隠れしているのがサーク作品の特徴だと言えよう。しかるに、文芸評論家のテリー・イーグルトンもどこかで同様なことを述べていたように覚えているが、能動的に自分の力で困難を克服し成功することが美徳とされるアメリカでは、困難ですら己の能動的な行為の結果であると見なされる傾向があるが故に運命のような受動的なモチーフは軽視されがちであったのではなかろうか。運命を1つのモチーフとして多くの作品を製作したダグラス・サークがヨーロッパ出身者であるのも単なる偶然ではなかろう。今日アメリカでサークが再評価されているのも、サバイバルには実力第一主義が必須要件となる未開のフロンティアがあらゆる側面から消失し、必ずしもアメリカンドリームを実現したセルフメイドマンのみを美徳とするわけにはいかなくなった今日において、人間の本性をむき出しにしたエゴイスティックな人物の悲劇性を描写しようとしたのではなく、それが社会的なものであれ自ら誤ってクリエートしてしまったものであれ、ある一定の社会的な文脈の中で生成された不均衡に否応なく巻き込まれた人々が、何とかそこから回復しようと抗う中に発生する悲劇性を描いてきたサーク作品の持つ価値が再評価されるようになってきたからではなかろうか。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2000/05/27 by 雷小僧
(2008/10/15 revised by Hiroshi Iruma)
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